2017年6月15日 (木)

5月28日の学習会の報告

今回は、第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度」の第16パラグラフ(国民文庫版第1分冊p181)「こうして、価格、または、商品の価値が観念的に転化されている金量は、・・・」からこの説の最後まで(国民文庫版第1分冊p187)「・・・それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」の箇所を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

○前回の報告内容の訂正

 前回の学習会の中で報告者の報告の中で謝った説明があったので学習会の冒頭で説明がなされました。

「いま学んでいるところでは、貨幣商品である金の価値尺度機能について触れられていますが、果たして現代でも金が価値尺度機能として機能しているかということが問題になりました。前回報告者は、現代では金と貨幣(おカネ)の結びつきは一切断たれています。現在では、各国通貨は金との兌換を保障していませんし、戦後かろうじて米ドルを通じて結びついていたものも1971年のニクソンショック以降完全に断たれています。ですが、現代でも価値尺度機能としては金がバックグラウンドで機能しているのではないかと発言しました。

 しかし、現実の現代の経済現象等を見ると、激しインフレやあるいは長期にわたる慢性的なインフレが生じたり、他方で株や土地が途方もない価格がついてバブルが生じたりとといことが頻繁に起こるようになってきています。こうした現象は、金が価値尺度といて機能していれば説明がつかないことです。やはり現代においては、金は価値尺度としても機能していないだろうというのが正しい評価だと思います。前回の報告を訂正します。」

 

学習会の内容

 商品の価格とは、前回の学習で学んだように、商品の価値表現の一つの形態です。貨幣が登場してからはあらゆる商品が貨幣によりその価値を統一的に表現します。ここでは、貨幣商品以外の全ての商品が、貨幣である金の数量で価値の大きさが表現されるようになります。具体的には、諸商品の価値が、貨幣商品である金の重量によって表されます。例えば、a量のA商品=金ⅹg、b量のB商品=金yg、c量のC商品=金zg等々。

このまさに貨幣諸品である金の量で表現された価値の表現形態(=金○○gまたは△△ポンド等々)が商品の価格ということです。しかし、こういう形で金の重量で諸々の商品の価値が表現されるにしても、これらの金量を計る基準がないと比較のしようがありません。イギリスではポンドという形で、貨幣名と金属重量名が同じになっていますが、それは貨幣の単位であるポンドがもともとは物の重量示すポンドに由来しているからです。

たとえば、この基準はイギリスでは1ポンドであり、戦前の日本では金750ミリグラムでした。ですから日本では、この金750mgを1として様々な金量――諸々の商品の価値が表現された金量――が計られたのです。これが貨幣法で定められた1円=金750mgということです。ですが実際には、金750mgより小さい価値の商品もあり、また当然金750mgを1(円)としてもそれ以下の端数も出てくるわけです。ということでさらに1円の単位をさらに100分割してその一つ分を1銭とすることになります。これはイギリスでは、ポンドの20分の1を1シリングとし、さらに1シリングは12分割されその可除部分は1ペンスと名付けられました。

 こうして1クオーターの小麦は1オンスの金に等しいというような価値表現から我々になじみのある三ポンド・スターリング十七シリング十1/2ペンスであるという表現になります。つまり諸商品の価値がこうした貨幣名で表現されるようになります。

 しかし、こうした貨幣名となるとそれがもともと何であったか不明になり、価値関係の痕跡が消すっかり消えてしまいます。それは単に物の名称を知るだけではそのものがどんなものであるかを知ることにはならないのと同様です。我々はポンドや円などの貨幣名を知っていてもそれにより表現されているものが何なのかは理解できません。この商品は○○ポンドだ、△△円だと知っていても、それが何をあらわしているかは理解できないでしょう。しかし商品の価値表現は、「このなんだか分からない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態」(=価格形態)に到達するまで発展し続けざるをえないのです。

 

 価格が、商品価値の現象形態であり、すなわち商品に対象化された労働(量)を貨幣で表現したものであるとすると、価値と価格の関係はどうでしょうか?

 マルクスは「価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である」(国民文庫版1分冊p183)といっていますが、この意味では価格は、本来的にはその商品の価値量に一致します。すなわち価値(量)=価格の関係にあります。しかし、我々もよく知っている通り、一つの商品をとっても価格というのはかなり変動します。これが価値そのものの変動に伴う場合もありますが、全く価値が変動していないにもかかわらず、変動することもしばしば見受けられます。

 このような価値と価格の乖離の可能性はどこから出てくるのでしょうか?

 価格が、商品に対象化されている労働の貨幣名であるということは、一定量のある商品に与えられた価格という形で表現されている貨幣量には、その商品に含まれている労働と同じだけの労働が含まれているということを意味します。例えば、1クオーターの小麦と2ポンドスターリング(金)が同じ労働量だとします。この場合、2ポンドスターリングが1クオーターの小麦の価格ということになります。

 しかし、事情によりこの1クオーターの小麦が1ポンドに下がったり、逆に3ポンド上昇するとします。ここではこの1ポンドは1クオーターの小麦価格としては過小であり、他方3ポンドでは過大ということになります。しかし、この1ポンドも3ポンドも小麦の価格であることには違いがありません。

 このように価値量と価格は乖離する可能性がありますが、それ(価値と価格の乖離の可能性)はまさにこの価格形態そのもののうちにあるのです。

 こういうと価値表現としての価格形態そのものの欠陥であるかに思われますが、むしろ価格形態はこの資本主義のもとでは、支出された社会的労働量により価値が規定されるという価値法則が、無政府的な資本による生産の下で、競争により盲目的に作用し貫徹される形態として最も相応しい形態だといえるでしょう。

 価格形態においては、単に価値量と価格の乖離ということにとどまらず、そもそもそれが価値表現ではなくなってしまうことも生じえます。

例えば、少しも価値をもっていないものに価格がつく場合があります。この場合どんな意味でも価値表現ではありません。それ自体商品でない物でも、貨幣所持者が買うことができるものであれば、その価格を通じてそれが商品となります。この場合の価格は、根底に価値関係がありませんので想像的なものということになります。しかしこうしたもののうちでも、未開墾地のように背景に何らかの現実の価値関係が潜在している場合もあります。

 

これまで商品の価値を表現するものとしての貨幣の機能=価値尺度機能を見てきました。この価値尺度機能においては、貨幣は現実の金である必要はありません。これは価値を金量で表現した価格形態においても同様です。商品は、価格を与えられ、それを表現するためには、現実の金は必要とはならず観念的な貨幣で充分です。しかし、商品が価値をあらわすところから現実に交換価値として機能するためにはそうはいきません。商品は、交換価値として働くためには、それはやはり現実の金に代わらなければならないのです。「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」(国民文庫版1分冊p187)というゆえんです。

 

参加者からの質問や意見

○報告者自身より「価値量と価格の乖離の可能性が価格形態そのもののうちにあるということがいま一つすっきりしない。誰かうまく説明できないか。」と問題提起がありました。これについては参加者の方から「価格は、価値から乖離することもあるが、こうした乖離した価格も需給関係や資本の競争関係を通じて,調整されて均衡した価格に落ち着いていく。無政府的な生産の根底で価値法則は貫徹されて、平均的には価値によって規定された価格に落ち着いていくのではないか」等の意見が出されました。

 しかし、それはその通りですが、価値と価格の乖離の可能性が価格というもののうちにあるという説明にはなっていないのであらためて報告者自身考えてみました。「価格とのいうのは価値表現であるとしても、それはあくまでも価値の相対的な表現にすぎない。価値表現といっても直接に労働時間で表現しているわけではない。それはある意味で当たり前で、直接に労働時間で表現することは不可能だろう。商品の価値表現は、結局、他の商品により価値を表現する以外にないのであり、それはいうならば他の商品の使用価値の姿、現物の姿で表す以外にないのです。例えば、20エレのリンネルが1着の上着に等しいというように。ここでは20エレという一定量のリンネルの価値が上着という使用価値により表現され価値の大きさとしてはその1着分であるという形で表されています。ここで上着の代わりに金をもってきても同じことです。ただ上着に代わり今度は金という別のモノで表現されるだけです。こうした物的な形態での価値表現には本質的な限界があるのでしょう。それに上着であろうと金であろうとそれ自体も価値量が変化するわけでこの点でも限界があるように思う。このような価値表現としては限界性のある価格形態そのもののうちに価値と価格の乖離の可能性はあるのでないでしょうか?」

 

○「『観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている』とはどういう意味か?金は柔らかいというイメージがあるがここでの堅い貨幣とは金ではないということか?」という質問が出されました。

これについては報告者より「ここで“堅い貨幣”とは、価値尺度としては観念的な金(頭の中で想像した金)で大丈夫だが、例えば現実の商品流通過程に出ていけば、頭で想像した金ではだめで、現物の金等の堅い貨幣でなければならないということだろう。」との説明がありました。

5月14日学習会の報告

「資本論入門講座」は 第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」の第6段落(岩波文庫版第1分冊70頁)「一定の商品、一クォーターの小麦は、…」(国民文庫版第1分冊71頁)「ある一つの商品、たとえば一クォーターの小麦は、…」から第18段落(岩波文庫78頁)「…労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値を形成しない。(一一a)注釈」(国民文庫82頁)「…労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。一一a注釈」までを学習しました。

 

○前回は、商品の二要素の一つである使用価値は、物の属性という質的なものであることを学びました。今回からは、商品のもう一つの要素である価値について学びます。交換は異なった使用価値であるからこそ成立します。そして異なった使用価値の交換の成立はその商品への欲望がまずあることは自明です。ところが、使用価値への欲望があるだけでは、その交換はたまたま欲望が一致したもの、偶然的なものでしかありません。対して、交換価値は使用価値の欲望を確定的なものにします。交換価値は量的なもの、量的な比率として現われます。それは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率であり、時と所によって、たえず変化する関係として現われます。そのことが、交換価値は、何か偶然的なもので純粋に相対的なものであるかに見えます。商品には内在的な、固有の交換価値といったものがあるにもかかわらず、そのようなものなど無いかに思われています。そこで、このことが詳細に考察されています。

 

○商品がある比率・量で交換されるのはどういう事か。その量とは何かが問題となります。それは使用価値を捨象したもの、使用価値とは異なった、両者に共通な第三のあるものなのです。使用価値を無視すれば、そこに残るものは労働生産物であると言う属性だけであり、この第三のものが、両者に共通な同じ人間労働なのです。この共通な人間労働は、労働生産物の異なった有用性と同様に、労働の異なった有用性も捨象したものです。ただ、同じ人間労働が支出されている労働生産物であるということで、お互いに共通な社会的労働の結晶としてこの労働生産物は、価値―商品価値なのです。すなわち、一つの使用価値が価値をもっているのは、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されている、物質化されているからに他なりません。

 

○それでは、使用価値・財貨の価値の大いさはどのように測定されるのでしょうか?それは、その中に含まれている価値を形成する実体である労働の量によって測定されます。その労働の量自身は、その継続時間によって測られます。そして労働時間は時、日などの尺度標準があります。

 

○ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、社会的に必要な労働の定量、この使用価値を生産するのに社会的に必要な労働時間にほかなりません。この場合、個々の使用価値の異なる商品も、同一の大いさの労働量を含む商品であれば、同一の価値の大いさをもっているとみなされます。すなわち、ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、その商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間に対する比に等しいのです。価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎないのです。

 

○物は、価値でなくても使用価値である場合がある。それは、その物の効用が人間の労働を媒介にしていない場合がそうである。空気、自然の草地、野生の樹木等々である。また、人間労働によって有用な物を作っても、それが商品としてでなく自己の為だけに使われる場合もそうである。すなわち、使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値を生産しなければ価値とはならない。そして、封建領主のために農民が作った生産物は、他人の為ではあっても商品とはならなかった。商品となるためには、それが使用価値として役立つ他の人に対して、交換によって移譲されるのでなければなりません。

 

参加者からの質問や意見

 

○使用価値は分かるが交換価値と価値の違いは?

 交換価値は現実に交換されている商品と商品の量であるが、価値はその内実で社会的な人間労働だと言える。前者は目に見えるものであるが、後者は目には見えないが交換割合を決める中心的なものであると言える。と言った意見が出されました。

2017年5月14日 (日)

4月23日学習会の報告

商品の価格形態とは、商品の価値表現の形態ですが、それは商品の価値を、貨幣商品である金の重量で現したものです。例えば、お茶が商品としてあるなら、お茶○○㎏=x量の金。あるいはコーヒー△△㎏=y量の金。ボールペン××ダース=z量の金等々という形であらわされます。これはいろいろな商品の価値が、金というモノ(=使用価値)の量で表現されている形態です。商品の価格とは、本質的には貨幣商品金の重量により商品価値の大きさを表現したものです。

 ここで諸商品は、全て金により、その重量により価値が表現されるわけですが、これらを相互に価値として比較するためには、ある固定して金量を定め、この固定した金量をこれら商品の価値を尺度するものとして、これらの度量単位とすることが技術上必要となってきます。

 この度量単位とは、例えば長さや重さを計るにしても、それぞれ基準が必要です。長さでは1m、重さでは1㎏とそれぞれ度量単位が決まれば、それの何倍分の長さか、あるいは何倍の重さかという形で、今度はいろいろなモノの長さや重さが計られて相互にその大きさが比較可能となります。

 重さで重量単位は、㎏とポンドでは違います。1㎏と1ポンドは異なった度量単位です。

 貨幣の場合でも同じで、地域や国が違えば度量単位も異なります。

 戦前の日本では、この度量単位として金750mg(=1円)として法的に定められていました。つまり戦前の日本では金750mgが貨幣の度量単位とされたのです。この金750mgを1(1円)として他の金量を計るのです。

 またこの度量単位は、技術上の必要等から可除部分に分割されたりします。戦前の日本の例では、1円の下に1円の100分の1として1銭という単位が設けられました。金量であらわせば7.5mgということになります。

 こうした金750mg等が基準の金量となり、この金量で様々な商品の価値が尺度され現されるようになりますが、これが価格の度量標準としての貨幣の機能です。

 これまで見てきた貨幣の価値尺度機能とこの価格の度量標準としての貨幣の機能の違いについてみてみます。

価値尺度機能としては、貨幣は人間労働の社会的化身として働きます。しかし、価格の度量標準としては、ただ固定した金量として役立つだけであり、この固定した金量で各々の商品価値があらわされた各々の金量を計るのです。

ところで金そのものは、価値変動しますが、それが価格の度量標準として機能することに対して何らの妨げにはなりません。なぜなら価格の度量標準としては、問題になるのは基準とされるある固定した金量とその他の金量の関係ですから、これはどんなに金自体の価値が変化しようとこの関係に変化がないのはいうまでもありません。例えば、金の価値がどんなに上昇しても金1gと金12gの関係は、相変わらず1対12で変わらないでしょう。

 このように価格の度量標準としては、問題になるのは価値の絶対的大きさではなく、その相対的な大きさ――基準となる固定した金量とその他の金量との関係――にすぎません。だからいくら金価値が変動しようとも、価格の度量標準としての機能には差しさわりがないのです。

 

 次に商品価格の運動を見てみましょう。商品価格は上昇したり下落したりしますが、それと貨幣価値の関係はどのようなものでしょうか?

 商品価格の運動には、基本的に商品の側の価値の変動と貨幣の側の価値の変動と二つの要因により規定されます。

 一般に商品価格が上昇するケースは、二つのケースが考えられます。一つは貨幣の価値が不変の場合、この場合、商品自体の価値が上昇すれば商品価格は上昇します。もう一つは商品の価値自体は変化がない場合ですが、この場合も貨幣の方が価値が下落すれば、商品価格は上昇します。

 逆に商品価格が下落するケースは、これも二つのケースが考えられます。一つは貨幣の価値が不変の場合、この場合では、商品価値自体が下落すれば、価格は下がります。もう一つは商品自体の価値は変わらない場合ですが、この場合でも貨幣価値が上昇すれば、価格はやはり下がります。

 実際は、どちらか片方だけ変化するのではなく貨幣の側も商品の側もそれぞれ価値変動していくものです。ですから一般的な物価上昇という現象があってもそれが商品の価値変動によるものか、あるいは貨幣価値の下落によるものかは物価現象だけ見るのでは分からないということです。

 

   金や銀などの金属貨幣の名称は、歴史的な経過の中でそのもともともの金属重量名から乖離していきます。   例えばイギリスの貨幣1ポンドは、当初は銀1ポンドを現していました。このときには貨幣1ポンドが貨幣である銀の1ポンドの重量と一致していました。

   しかし、歴史的な過程の中で貨幣が銀から金へと移って行きましたが、貨幣の名称は、依然と同じポンドが使われました。しかし、銀1ポンドと金1ポンドは全く異なる価値です。当時、銀1ポンドの価値は金1ポンドの価値の15分の1程度でした。そこで新たな金貨幣の1ポンド(名称)は、実歳は15分の1ポンド分の価値しかないものでした。

   このような乖離は、様々な要因から生じますが決定的な要因として大きなものは、①発展した諸国に発展程度が低い諸国地域からの輸入商品としての貴金属=外国貨幣の流入により、これらの外国貨幣の名称と国内の重量名称の違いにより生じる場合。②先のイギリスのポンドの例のように高級でない金属がより高級な金属によって貨幣の地位がとって変わられる場合。③何世紀にもわたって引き続き行われた王侯らによる貨幣変造。日本でも江戸時代に幕府が財政難から金1両の金含有量を減らして、金貨1両がその何分の一の重量分の価値しか持たなくなっていきました。

   このように貨幣名称とその金属の実際の重量とは歴史的に乖離していきます。本来、商品の価格(形態)とは、商品の価値を貨幣である金で、その使用価値の姿で、すなわち金の重量で現したものです。ですからもともとはその物質としての重量単位、つまりポンドや両などがそのまま貨幣名称にもなっていました。

 

 

参加者からの質問や意見

○日本の通貨単位である円も、もともとは重量単位だったのでしょうか?

これについては、レポーターも分からず、あとで調べたところでは、円はもともとは圓でありこれは中国に由来しているということです。これがおおもとは重量単位であったかはどうかまでは分かりませんでした。ちなみに中国の人民元は正確には人民圓だということです。

○また学習会にはじめて参加された男性の方から、学習会の中で説明もあったと思うが、まだ商品(と商品の価値)と貨幣と価格の3つの事柄の関連と違いがうまく整理できないとの感想が出されました。

 これはなかなか難しい問題で重要なことですのであらためてレポーターなりに整理してみました。「貨幣とはそもそも本来は商品であり、商品の価値関係の発展の中から必然的に出てきたものです。商品は、同一な人間労働の対象化としてそれぞれ価値をもっています。商品の価値は、結局、同じ人間労働の対象化物としての他の商品によってでしか価値を表現できません。ですから商品の関係の発展の中から商品は、一般の商品と貨幣商品へと分かれていくことになります。ここである商品が貨幣になるということは、ここではこの商品が価値一般を現すもの、価値そのものを現すもの――価値姿態――としての社会的役割が与えられるということでしょう。商品世界において、そうした価値一般として妥当するものが貨幣だといえるでしょう。こうして貨幣は、商品世界の他のすべての商品の価値を現すものとして登場し、このことにより諸商品がはじめて相互に価値として比較されうるものとなります。なぜなら貨幣登場以前は、価値として一般的に妥当なものとして通用する商品はなかったからです。貨幣は、商品世界において一般的でありかつ統一的に価値を表現するものですから貨幣の登場により、貨幣以外の他のすべての商品は貨幣によりその価値を表現することにより、相互に価値として関わり合い、その大きさも比較可能なものとなります。

 貨幣の本質が、諸商品の価値を表現するものであり、まさにその表現材料として機能することだと考えられます。それゆえに貨幣の第1の機能は、諸商品の価値を表現し、その価値の大きさを尺度することです。商品の価値は、貨幣により表現されますが、それは結局貨幣商品としての金という形で表現されます。それは商品の価値が貨幣商品である金の使用価値(現物形態)であらわされる形態ですが、それはつまるところ金○○g(金重量による表現)ということです。

 様々な商品の価値が貨幣である金の様々な量によって表現される形態、まさにこれが価格(形態)です。それは例えば、お茶○○㎏=x量の金。あるいはコーヒー△△㎏=y量の金。ボールペン××ダース=z量の金等々という形態です。このように価格とは、商品価値の一つの表現形態ですが、それはあくまでも貨幣である金の現物形態で、その量で表現したものにすぎず、価値の相対的な表現にすぎないのです。」

 

4月16日学習会の報告

「資本論入門講座」は今回から『資本論』テキストに入りました。

 第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」の第1段落(岩波文庫版第1分冊67頁)「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、…」、(国民文庫版第1分冊71頁)「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、…」から第5段落(岩波文庫70頁)「われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。…(七)注釈」(国民文庫74頁)「このことをもっと詳しく考察してみよう。…(七)注釈」までを学習しました。

 

○第1節の最初で、なぜ「商品」の分析から始めたのかを次のように説明しています。『資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。』短い文章ですが、資本主義社会の特徴をよく表現しています。資本主義社会では、自給自足の社会とは違って、社会的生産物のすべては分業で生産されます。すなわち、社会的生産物は商品として生産され商品として売られます。消費する衣食住すべては商品を買う以外にはありません。資本主義社会における社会の富は、膨大な商品が集まって積み重なっている「巨大な商品集積」として現われるとは、資本主義社会をよく言い表しています。まずはその「巨大な商品集積」の細胞である商品を分析することから始めているのです。

 

○商品は「その属性によって人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つの物である。…直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。」商品は直接に生活手段として役立つのかそれとも生産手段として役立つのかは問題ではないのです。何に役立つのかということが問題ではなく、人間の何らかの種類の欲望を満たすもの―有用性があればよいのです。

 

○鉄や紙のようなすべての有用物は、質と量の二重の観点から考察されるべきものです。これらのすべての有用物は、多くの属性をもっており、様々な用途があります。物の多くの属性とそれにともなう多様な使用方法を発見することは、これまでも歴史的に行われてきた事です。そして、有用な物の量をはかる社会的尺度を見いだすことも行われてきました。商品尺度は、測定される対象の性質の相違から、或いは伝習から生じました。

 

○一つの物の有用性(いかなる種類かの人間の欲望を充足させる物の属性)があるということは、この物を使用価値にします。使用価値は、商品体の属性によって限定されていて、商品体と一体のものです。ゆえに、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨なのです。このような商品体の性格は、その有効属性を取得するのに多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものかによって決まるのではありません。

 使用価値を考察するにあたっては、つねに、一ダースの時計、一エレの亜麻布、一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされます。商品の使用価値は商品学の材料となります。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現されます。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしています。どのような社会的形態であろうと、富の素材的内容は使用価値です。しかし、これから考察する社会形態―資本主義的生産様式の社会形態においては、使用価値は同時に―交換価値の素材的担い手でもあります。

 

○前段落までは、使用価値の説明がなされていましたが、ここでは商品の二つの側面である使用価値とは異なる、交換価値に入るにあたっての説明がなされています。

 使用価値が物の属性という質的なものであったのに対して、交換価値はあくまでも量的なもの、量的な比率として現われます。それは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、時と所によって、たえず変化する関係として現われます。そのことが、交換価値は、何か偶然的なもの、純粋に相対的なものであって、商品に内在的な、固有の交換価値といったものは無いかに思われています。そこで、このことを詳細に考察していきます。

2017年4月16日 (日)

3月26日学習会の報告

月26日学習会の内容

今回から、第三章「貨幣または商品流通」に入り、第一節「価値の尺度」の第1段落(岩波文庫168頁)(国民文庫171頁)~第6段落(岩波文庫173頁)(国民文庫176頁)を学習しました。以下は学習会の内容です。

 

以前の学習会での議論になった点について

 122日の学習会で議論になり課題として残っていた点についてレポーターから報告がありました。

 テキストの中で「人間はしばしば人間そのものを奴隷の形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現れることができなかった。それが現れたのは、一七世紀の最後の三分の一期のことであり、その実行が国家的規模で試みられたのは、やっと一世紀後にフランスのブルジョア革命のさいちゅうのことだった。」(国民文庫163頁)とある中のこのような思いつきの内容が、奴隷を貨幣材料にするという考えのことなのか、土地を貨幣材料にするという考えなのか、どちらなのかということが以前の学習会で議論になりました。

レポーターよりこの件については、「17世紀の後半にイギリスで活躍した経済学者の中で、土地を担保にした貨幣を提案するものが出てきており、またフランス革命のさなかで実際に土地を担保にした証券であるアッシニアが当時のフランス政府の財政事情等から強制通用力を持たされて“貨幣”として流通するようになり、それが激しいインフレを起こしフランスの経済社会に大きな混乱をもたらしたという史実があり、まさにこのことだろう。だからここの「このような思いつき」は、土地を貨幣材料にしようとの思想をさしていると思う。」との報告がなされました。

 

第三章をはじめるにあたって

 今回から第三章に入りますが、それにあたって第一章、第二章の復習を簡単に行いました。

 

第三章では貨幣の問題が本格的に論じられ、貨幣の様々な重要な機能について触れています。第一章、第二章でも貨幣の問題が論じられてきました。

 第一章では、資本主義的富の基礎形態として商品が分析され、主に第一節において、商品の本質的契機としての価値の側面が分析され、価値の実体が抽象的な人間労働であることが明らかにされました。また第三節では価値形態の分析により、いかにして商品が他の商品により価値が表現されるかが解明され、商品は必然的に一般の商品と貨幣商品へと分裂していくことが明らかにされました。つまり商品の中から、商品の価値表現の中から貨幣が生成する必然性が示されました。

 第二章では、交換過程の問題が扱われ、商品の交換過程においてはじめて露わになる商品の使用価値としての実現と価値としての実現の矛盾により、そうした矛盾を媒介するものとしての貨幣の必要性が明らかにされました。

 ここでは、参加者より交換過程で現れる商品の矛盾として、商品の使用価値としての実現と価値としての実現ということをもう少し説明してほしいとの要望が出されましたのでその点について説明します。

 「リンネル商品所有者が聖書を欲して、自分のリンネルを聖書と交換しようとしているとします。もし貨幣が存在していれば、リンネル所有者は、リンネルを必要としている人に貨幣との交換でリンネルを譲渡します。これは、リンネルが使用価値として欲している人の手にわたることです。つまりリンネルが社会的使用価値として実現されることであり、これがいわゆる商品が使用価値として実現することです。この使用価値としての実現はこのように貨幣が媒介した形であれば、リンネル所有者の欲望――聖書を手にしれたい――に全く関わりなく実現できます。しかし、もしまだ貨幣が登場しておらず直接的な生産物と生産物との交換であるならば、リンネル所有者は、自分のリンネルを聖書と直接交換しようとします。しかし、この交換が成立するためには聖書所有者もリンネルを欲しているのでなければ不可能です。このような相互の商品所有者の欲望が一致しなければ商品交換が成立しないというのは大きな矛盾ということになり、これでは一般的な商品生産は成り立ちようがありません。

また話を元に戻して、貨幣が媒介の場合、リンネルが貨幣との交換でそれを使用価値として必要としている人の手にわたり、リンネル商品は、まず使用価値として実現されたわけです。

そこで今度は、リンネル所有者は手に入れた貨幣で自分がほしかった聖書を手に入れます。これは、リンネル所有者にとって自分の商品を貨幣を媒介にしてですが、まさに自分が欲していた聖書との交換を実現することです。これは、商品の価値としての実現ということです。貨幣が媒介するのであれば、これは容易に実現されます。商品が価値として実現されるということは、ある商品が直接に任意の商品――ここでのリンネル所有者の立場からすれば、他のどんな商品でもないまさに聖書と交換されること――と交換されるということです。なぜなら価値としては、商品は他のどんな商品とも、人間労働の対象化として同質でありどんな違いもないからです。ですから商品は価値としては、他のどんな商品とも交換可能なものであるはずです。ここでは直接にリンネルが聖書と交換可能であるということです。

しかし、貨幣を媒介にしない場合を考えると、そう簡単にはいきません。ここでの場合、リンネル所有者が、リンネルとの交換で聖書を手に入れる為には、聖書所有者の方もリンネルを欲していなければ実現しようがありません。

リンネルの場合、それが使用価値として実現されるということは、それを欲している人に交換を通じてわたることです。しかし、肝心の聖書所有者はリンネルを欲していない。リンネルをほしいと思っているのは小麦の所有者だとすると使用価値として実現するためには、リンネルは聖書ではなくむしろ小麦と交換される必要があります。ですが小麦との交換では、リンネル所有者の目的は果たせません。

このように貨幣が介在しない直接的な生産物交換では、商品を使用価値として実現させようとすれば、価値としては実現できず、他方価値として実現させようとすれば使用価値としては実現しえないという二律背反ということになります。ところが貨幣が成立し、商品交換を媒介にするようになると、商品交換が二つの過程に分離されることにより、この盾を克服することができます。それは、リンネルを欲している人に貨幣との交換で譲渡し(使用価値としての実現)、次に手に入れた貨幣でリンネル所有者が欲していた聖書を手にいれる(価値としての実現)ということです。

このように貨幣を媒介にすれば、使用価値としての実現と価値としての実現は分離されて相互に矛盾することはありません。しかし、直説的な生産物どうしの交換ではこの二つの契機は相対立するものとなるということです。」

 

第三章 貨幣または商品流通 

第一節 価値の尺度

123パラグラフ

 貨幣(=金)の第一の機能は価値尺度機能です。それはまず、貨幣商品以外のあらゆる商品の価値を表現することです。それは質的には、価値としては、人間労働の対象化であり、この人間労働という同等性において諸商品は全く違いがない同様なものとして示されるということです。諸商品の価値が貨幣(=金)により共通に価値が表現され、このことにより諸商品は、相互に価値として相対することができます。そして次に、価値の大きさが相互に比較されます。これが価値尺度機能です。全ての商品がその価値の大きさを、貨幣である金の重量で表現されます。このことにより全ての商品の価値の大きさが相互に比較可能な形で表現がなされます。例えば小麦1㎏=金0.2g、鉄1㎏=金1.0g、お茶1㎏=金0.4gと価値が表現されるなら、鉄は小麦の5倍の価値があり、お茶は小麦の2倍の価値がある。鉄はお茶との比較では2.5倍の価値があるということになります。

 しかし、貨幣(金)が他のすべての商品の価値を表現できるのは、他のすべての商品も価値をもっているからです。すなわち貨幣が登場することではじめて諸商品は価値として相対するのではないのです。それは貨幣が登場する以前から、はじめから価値を持ったものとしてあるのです。

 

ここではテキストの脚注50の中のオーエンの労働貨幣とはどういうものかという質問がありました。「ここでいう労働貨幣は、マルクスも言うように貨幣ではなく、共同体で個人が何時間働いたということを証明する証書のようなものです。この証書の記載労働時間によって個人は分配を受けます。マルクスの批判は、そもそも直接に社会的な労働としてなされるような共同体では、貨幣(もちろん商品も)は存在しようがないということでしょう。」とレポーターより報告がありました。

 

4パラグラフ

 商品の価格とは何でしょう?それはまさに商品価値を貨幣(金)で表現したものであり、商品の価値の大きさを貨幣の量で表現したものです。金が貨幣として機能する場合は、つまるところそれは金の重量での表現ということになります。先の例では小麦1㎏=0.2g、鉄1㎏=1.0g、お茶1㎏=0.4gという形です。これは小麦、鉄、お茶の1㎏の価値が金の重量で表現されていますが、まさにこれが価格(形態)です。金何gというとまだピンと来ないかもしれませんが金1g=〇〇ポンドという形にすれば、現在我々が知っている価格形態になります。

 現在のポンドとかドルとか円とかは、昔と違い金との兌換が全く保障されていません。つまり金との結びつきが一切断たれています。というわけで価格とは何であり、その本質はどういったものかということが完全に痕跡が断たれていて掴みようがありません。

 しかし、もともとはポンドとかドルとか円などの各国の貨幣は、貨幣としての金や銀での価値表現であり、それらはそれぞれイギリス、アメリカ、日本での貨幣名にすぎないのです。

 

56パラグラフ

 貨幣(=金)による価値表現は、観念的なものです。ここで観念的というのは、商品の価値そのものは各々の商品に内在する、実在的なものです。しかし、貨幣が商品の価値を表現するという機能を考えると、例えば一定量の金が価値を表現し、ある商品は、金の〇〇gに相当するという場合、現物の金は必要ありません。

 あくまでも価値を表現し、その大きさを測り、それを表現する――価値尺度――場合には、その場に現物の金がある必要はないのです。すなわち価値尺度機能においては、貨幣は観念的なものであってもかまわないのです。この機能においては、貨幣は現物の金である必要はありません。

 

 もし仮に金や銀というように二つのものが価値尺度として機能するとそれは価値表現も二重のものとなるということになります。それは同じ商品が二つの価格をもつということ、金価格と銀価格をもつということになります。しかし、この場合、金と銀との間での価値比率が変化すると、価値尺度機能に支障が生じてしまいます。

3月12日学習会報告

3月12日の学習会の内容

「資本論入門講座」の第3回目は『資本論』ガイダンス3回目として、「資本主義経済社会より前の経済社会の特徴」というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

資本主義社会より前の社会と言えば、原始共同体社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と続き、資本主義社会によって人類の前史は終わると言われています。そして、資本主義社会を止揚した後の社会体制である社会主義の下、急速に発展する生産力の利用と労働の効率的な組織化の結果、労働時間も二分の一、三分の一に短縮され得ます。

さらに生産力が豊かになるにつれて、人々は階級社会による強制労働だけでなく、生活の必要による強制労働からも徐々に解放され、自己の能力をあらゆる方向に、全面的に発達させることができるようになります。人々は能力に応じて働き、必要に応じて消費手段を社会から受け取るという高次の共産主義に接近していきます。

 

翻って、我々が生きている資本主義社会の特徴は、私的所有の下で無政府的な生産が行われています。社会の富の生産、分配、消費は、社会全体として事前の計画が立てられるのではなく、後からそれらを追認するといったことでしかありません。過剰生産や恐慌なども資本主義社会のもとで表われる現象です。あらゆる労働生産物が商品と言う形態をとる資本主義社会では、人間の労働力もが商品として売買されます。人間そのものでなく、労働力のみが商品であるというのは、自由や平等と言ったブルジョア憲法に謳われている概念と一致していると、ブルジョア階級は主張しますが、資本家の下で搾取労働に苦しむ労働者階級は、真の自由や平等ではない事を良く知っています。それでは、資本主義社会より前の経済社会の特徴はどのようなものであったかを見てみます。

 

人間は生きていくために、自然に働きかけて自己の都合の良いように自然を変えていきます。この自然を変えていくためには、道具や機械と言った生産手段を使うわけですが、この生産手段の変化・発達が、生産物の増大と労働時間の短縮に結果します。そして、このことが社会経済体制を特徴づけ、変化させる根底と言えます。

○原始共同体社会

 

 何よりも生産力が低いということです。共同体の成員に必要な物を獲得するだけが精いっぱいで、余剰と言ったものは殆どありませんでした。人間が働きかける対象も自然そのままの森や川や海であり、収穫物を採りつくせば移動するといった生活が主でした。自然が主で、人間が自然を計画的に変えていくと言ったことには未だなりません。

 しかし、道具の改良と共に、わずかながらも社会的分業がおこなわれ余剰収穫物ができ、さらに家畜を飼育するようになると、定住と土地での食糧生産が行われるようになります。そして、ある程度まで生産力が増大すると、共同体どうしの余剰生産物の交換が行われるようになり、それは、共同体の内部でも行われるようになります。余剰生産物の交易は、共同体の代表者たちのあいだで行われ、やがて彼らが交易される生産物を私有するようになります。

 

○奴隷制社会

 

 他の共同体との戦争による捕虜や共同体内の犯罪者などが、共同体の生産手段の所有者の労働力として利用されるようになります。そして、生産物は生産手段の所有者のものとなり、成員間の不平等な関係が発生して共同体は崩壊し、奴隷主と奴隷という階級社会が出現します。支配階級の存立は、主として奴隷労働によって維持されるようになります。

 しかし、奴隷の極端な酷使は、社会を維持する労働力のはなはだしい乱費ということであり、奴隷自身の生殖による労働力の再生産が行われなくなり、戦争や奴隷狩りや奴隷買い入れなどの外的な補給に依存するようになりますが、この補給が不足し途絶するとともにこの体制も崩壊します。

 

○農奴制(封建制)社会

 

 奴隷制の崩壊の後に成立した農奴制では、土地の領有が支配者の地位にとって決定的な意義を持っていましたが、それは土地が主要な生産手段だったからです。主要な生産が、採取や遊牧を主とする段階から、牧畜や農耕を主とする段階に移っていたということを意味します。土地は、一部分が領主直属地として、残りを農民の分割貸与地として与えられました。直接的生産者である農民は、領主直属地での夫役労働と自分の保有地の生産物の年貢で搾取されました。この搾取を行うために、領主は裁判権や警察権の行使といった事を行いました。農民が土地を分配されて保有する為には、彼らは土地の付属物として束縛され、自由に移転することを許されませんでした。それは、権力的強制によって剰余労働、剰余生産物を地代の形態で搾取されるということを意味しました。

 封建領地での農奴労働は基本的には自給自足ですが、一方では農業と手工業との分離に始まる社会的分業が進み、商品経済の拡大が見られるようになります。しかし、一方では領主による農奴労働の搾取や手工業者同職組合による厳格な生産規制が生産の増大を妨げたり、領主の封建的割拠も商品流通拡大の妨げになりました。このように社会的分業の発展やそ生産力の上昇は封建的な諸制度と衝突せざるをえなくなります。

 農村での生産物の余剰を商品として売ることによって、農民のあいだにも貧富の差が生じ、自分の保有地を失って他人の土地を耕作してその労賃で生活する人々が現れます。他方、商人や金貸しの手のなかでは貨幣の蓄積が進み、彼らによる農民や手工業者からの収奪が行われます。農民は貨幣を必要とするようになり、自分の生産物を商品として売ることを余儀なくされます。こうして、一方では生産手段と生活資料またはこれらの物を買うための貨幣が諸個人の手のなかにあつまるにつれて、他方では生産手段を失って独立に生産を営むことができなくなり、生産手段の所有者に雇われて労働するよりほかはない無産者がつくりだされます。つまり、産業資本家と賃金労働者とが現れます。政治的には近代的統一国家への過渡形態としての絶対主義国家が成立して、一連の政策を強行して、いわゆる資本の本源的蓄積の過程を推進すると同時に、商品流通のために封建的な障壁を破って統一的な国内市場の形成を促すという役割を果たします。こうして、産業資本家階級と賃金労働者階級とが形成され始め、封建社会の解体を経て資本主義的生産様式の萌芽が成長し、ブルジョア革命によって封建制は上部構造とも転覆され、資本主義に適した法律や制度が作り上げられます。

2017年3月 3日 (金)

2月26日学習会の報告

今回は、第2章交換過程の第10パラグラフから第2章の終りまで(国民文庫版第一分冊163170頁、岩波文庫版第一分冊160167頁)を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

前回の質問点について

 前回8,9パラグラフの学習を行いました。

前回出された質問で「物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活での商品になる」(国民文庫161頁)とはどういうことか?これにつては参加者の方より岡崎次郎著『資本論入門』(国民文庫)62頁で共同体においても「対外的な交換が繰り返されるうちにそれが共同体の内部に逆作用して、生産物の一部分ははじめから交換を目的として生産されるようになり」とあり、生産物が商品として繰り返し交換されることが要因となり、共同体内部でも商品を生産するようになっていくということではないかとの意見があり、概ね了承がえられました。

また「人間はしばしば人間そのものを奴隷に形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現れることができなかった。」(国民文庫163頁)の「このような思いつき」とは、何をさしているのか?奴隷を貨幣材料にするということか、土地をそれにするということか議論がありました。これについては、報告者も調べたがいま一つはっきりさせることができず、議論は並行線でした。次回事実関係を調べて再度報告するということになりました。

 

10,11パラグラフ

 貨幣は、歴史的に金や銀がその地位についてきました。しかし、金や銀はそれ自体生まれつき貨幣なのではありません。ですが貨幣材料としては、金や銀等の貴金属が最も適しています。それは金や銀は同じ純度であれば、その重量で価値が表現できます。また金や銀は任意に分割することやあるいはとかして塊として合成することもできますが、そうしても同じ重量当たりの価値には何ら変化はありません。このように金や銀は物資的に最も貨幣材料に適した商品なのです。

 こうしたことが「金銀は生来貨幣なのではないが、貨幣は生来金銀である」理由なのです。

 

ここでは、金は貨幣になるがダイヤモンドが貨幣にならないのはなぜか?という質問が出ました。「ダイヤモンドは、金や銀のように分割することもできないし、またとかして塊にすることもできない。金や銀は純度が同じであれば、純粋に重量で価値量が表現できる。貨幣材料としては、金や銀の方が適している。またダイヤモンドは、金や銀ほど一般的に商品としても流通していないのではないか。」と報告者からの説明があり了承されました。

 

12,13パラグラフ

 貨幣商品の使用価値は、例えば金が虫歯の充填材料として役立つというような具体的有用性から生じるものですが、もう一つ独特な使用価値をもつようになります。それは、貨幣として諸商品の価値を表現し、商品交換を媒介するという機能における特殊な使用価値です。

 ここで貨幣は、他のすべての商品にとって一般的等価物として存在します。他方、他のすべての商品は、貨幣にとっては、その特殊的な等価物として存在するということになります。

 

14パラグラフ

 貨幣は交換過程における矛盾の媒介の必要性から生じるものですが、しかしそれは決して貨幣の価値が交換過程から生じる、あるいは交換過程により決まるということを意味しません。

 交換過程が、貨幣に転化する商品に与えるのは、その価値ではなく、その独特の価値形態なのです。それはつまり諸商品に共通な価値の形態、すなわち貨幣形態なのです。このような独特の価値形態を貨幣となる商品に与えるのです。

 貨幣は交換過程に入る以前から労働生産物として価値をもっています。その価値の大きさは、他のすべての商品と同様その生産に必要な労働時間により規定されています。決して交換により価値量が規定されるわけではありません。

 この交換により価値が規定される、また価値の大きさも交換過程により決まるという観念は価値と価値形態の混同から来ています。この二つを混同すると交換により価値量が決まるように見えてしまいます。

 また価値と価値形態の混同は、他方で貨幣は単なる章標にすぎないという誤った考えも生みました。(章標とは、現物の金や銀などの価値をもった貨幣の代理として通用するもので、それ自体はほとんど価値がないものです。)実際に、流通手段として商品交換を媒介するだけであれば、現実の貨幣(金や銀の現物等)は必要なく、現実の貨幣の章標でも代理できます。

 しかし貨幣が、諸商品の価値を表現し、また商品交換を媒介しうるのは、本来はそれ自体価値のあるものであり、貨幣の生産に人間労働が対象化されているからに他なりません。決して、貨幣は単なる章標ではないのです。

 

ここでは本文の脚注で引用されている学者とかは有名な学者のものなのかという主旨の質問がありました。報告者から「スミスとかリカードとか有名な人のものもあるがまったく無名な人の学説などもマルクスは紹介している。それは有名であろうとなかろうとマルクス自身の見解を確立するに際して、少しでも影響を受けたもの、示唆を受けたものは、自分に先行する学説として紹介している。」と説明すると「マルクスは、随分謙虚な人なんですね」との感嘆の声もありました。

また章標について「それは現代の貨幣、ドルとか円とかと関わりがあるのですね」と質問?がありました。「まさに、その通りだろう。現在のドルとか円とかは章標とさえいえるか疑問があるが、例えば金との兌換が保障されている場合、普段は現物の金は貨幣とし登場せず、その代理としてその章標が貨幣として流通する。それが商品交換を媒介し貨幣として機能しうるのは、現物の貨幣がバックグラウンドとして存在していて、必要あらば現物の貨幣に代わりうるからだと思う。」との説明がありました。章標については、次の第三章の中ででてくるのでその時に譲るということになりました。

 

15パラグラフ

 貨幣での価値量の表現は、決して絶対的な大きさを表すものではありません。貨幣での価値の表現は相対的のものです。例えば、10ポンドの金が貨幣として機能するとしても、その価値がどれくらいであるかは分かりません。また金10ポンドの価値自体、金の生産性が変われば当然変化しうるものです。同じ金10ポンドでも国や地域や時代によっても様々に異なるものです。ただ同じ純度であれば、金100ポンドは金10ポンドの10倍に価値があるはずですし、金1ポンドであれば110の価値ということになります。この比例関係は、金自体の価値が変わろうと全く変わりません。このことが貨幣としての価値量の表現に必要な条件なのです。

 また、貨幣が商品であるということを理解すことは比較的たやすいが、貨幣の本質的理解として商品が貨幣であることを理解することは容易ではありません。商品がまさに貨幣であるということを理解することが肝要です。第一章から見てきたように貨幣とは、商品に内在し、その本質的な契機である価値というものが、商品の価値関係の発展のなかから一つの自立した形態として表れ、諸商品の価値を共通に表現する社会的な価値形態として表れたものです。そういう意味において、貨幣とはまさに商品の価値関係の発展のなかから出てきたものであり、商品の、一般の商品と貨幣商品への分裂から生じたものにほかなりません。貨幣とは、そもそも商品なのであり、商品を生みだすこの社会の生産関係は必然的に貨幣をも生み出すということなのです。

 

16パラグラフ

 金、銀すなわち貨幣は、その生まれつきから、あたかもすべての商品の価値を一般的に表現しうるもの、マルクスの言葉でいえば「一切の人間労働の直接の化身」であるかのように見えます。まるで物質としての金、銀にそのような性格が存在するかのようです。しかし、金、銀が貨幣であるのは、これらが商品世界の共同行為により、金、銀以外のあらゆる商品の共通の価値表現の為に、これらを社会的等価形態、すなわち貨幣として排除したからに他なりません。金、銀は歴史的に貨幣の地位を独占しましたが、それはこうした商品世界の共同行為によりこうした地位を与えられたにすぎません。

 しかし、金、銀は生まれつき貨幣であるかのように見えますし、また貨幣は、他のすべての諸商品との関係により、その貨幣としての地位、機能――すべての諸商品の共通の価値表現、価値尺度等々――が与えられるのではなく、それ自体はじめからそのようの社会的自然属性を有しているかのように見えます。

 これは貨幣についての間違った外観であり、貨幣が、金、銀があらゆる商品の価値を表現し、その価値尺度として機能する、つまり貨幣のみがそうした社会的“力”をもっているという観念は貨幣についての物神性であるといえます。

 こうした間違った外観は、実は貨幣のみに特有のことであはりません。それは、単純な商品の関係にもその萌芽があるのです。

 単純な商品の価値関係、x量の商品A=y量の商品Bにおいても、すでにこのような間違った外観が生じます。それは、この関係のなかでは商品Bは、商品Aの等価形態になっているのですが、この商品Bの等価形態としての性格が、あたかもこの価値関係とは関わりなく、商品B自体がはじめからそのような性格を社会的な自然属性としてもっているかのように見えます。またこの価値関係の主役はあくまでも商品Aの方ですが、どうしても等価形態側の商品が主役であり積極的な役割を果たしているかのように見えます(主客転倒!)。

 このように単純な商品の関係に既に、間違った外観を生じさせるものがあるのです(商品の物神性)。

 貨幣の物神性は、こうした商品の物神性が発展して、完成されたものだといえるのです。

2017年2月23日 (木)

2月12日学習会の報告

 

『資本論』ガイダンスとして始めた「入門講座」の2回目は“マルクスは『資本論』を「資本」の分析からではなく、なぜ「商品(価値)」の分析から始めたのか?”というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

 

 

 まず報告者から、今回のテーマに入る前に、「資本とは何か?」について説明がありました。

 

一般的には、「資本」とはある一定額の貨幣が投下後に初期の投入分より多くの貨幣となって還流してくる“自己増殖する価値(貨幣)”である、と表面的に捉えられている。しかし、流通段階での商品や貨幣、あるいは生産段階にある生産手段が「資本」であると言われるにしても、自らヨリ大なる価値として膨れ上がっていくためには、それらが歴史的にある特定の社会的な生産関係のもとにある限りのことである(勿論、翻れば、商品や貨幣も “モノ”のように現象していますが、それは資本と同様に人々の社会関係を表わしています)。

 

 

 

 こうした報告を受けて、参加者からも発言がありました。

 

商品や貨幣はそれ自体として決して「資本」ではないが、しかし資本は商品であり貨幣である。最近イオンなどの流通関係の企業や地場の建設企業などが農業生産法人を設立し資金を出資して人を雇い野菜などの生産を行っている例が報道されているが、ここで生産されている商品は多くの“利潤”を含んだ資本主義的商品であって、ここでの商品や貨幣、そしてそこで働いている労働者は賃金労働者としてそれに支配されている生産手段などは「資本」に転化していると言える。

 

ここでのまとめとして、「資本」とは“モノ”ではなく、商品や貨幣、生産手段が人々の生産における特定の社会的な関係のもとでのみ初めて「資本」になるのであって、資本-賃労働、搾取-被搾取という関係を含んだ歴史的な概念である、ということを確認しました。

 

 

 

続いて、報告者から“なぜ『資本論』は「商品」の分析から始まるのか?”の説明がありました。

 

 私たちは商品経済の社会の中で生れ落ち、それ以来、全生活をその中で生きてきており、それを自然なものと思っていて、なぜ商品社会なのか、なぜ労働生産物が商品になっているのか、どういったメカニズムがそこに働いているのか、という疑問を持たない。しかし人類が商品経済が支配的になった社会の中で生活し生きてきたのは、せいぜいこの300年くらいのものである。ミカンを作って生計を立てている農業専業者である報告者としては、ミカンやネーブルなどの農産物がすべて商品にはならない、つまり欲している多くの人がいる(使用価値を持っている生産物である)にもかかわらず、他の商品と交換される「価値」を持っているものとして売られる(お金に換えられる)わけではない、という経験を日頃からしており、「商品とはいったいどういうものなのか」ということを『資本論』から学んでいる。この社会では、「商品」とはどんな時代にでも人々の諸種の欲望の対象である「使用価値」と資本主義的生産様式特有の社会的な富の形態(姿)である「交換価値(価値)」からなっていて、両者は分かち難い相即不離の関係ように思われるが、実はそうではない。つまり、今日のように労働生産物が商品という形態をしていること、つまり「使用価値」と「交換価値」の二面的なものとして現われるようになったのは資本主義社会特有のことであり、これによってこの生産様式は、社会的生産の特殊な一種類として歴史的に特徴づけられている。

 

 「商品」の分析は、直接「資本」(資本主義)の分析とは別であるが、しかし深く関係しており、「資本」の理解の出発点・基礎でもあって、商品価値の理解なくして資本主義の理解もまたあり得ない、だからこそ『資本論』では「商品」の分析から始まっている。こうして、まず「商品とは何であって、その価値とは何であり、それはどのように表現されるのか」の分析を通して「貨幣(価値が自立し目に見える姿になったもの)」を検討し、その貨幣が“自己増殖する貨幣”である「資本」に転化していく過程を叙述していくことになる。

 

労働生産物が商品形態(価値形態)をとるのは資本主義社会特有のことであり、「なぜそうなっているのか」ということを詳述している『資本論』の第一章「商品」は最も抽象的で難解な部分であるけれどもみんなでしっかり学習していこうと参加者に話した。

 

 

 

当日の学習会の終わり近くに報告者から、「商品生産と資本主義的生産の関係について」というテーマで、商品生産と資本主義的生産とは別物であり両者を切り離して、1952年のスターリンの論文『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』以来、商品経済(貨幣経済)を利用した市場経済的社会主義を唱える論者(中国共産党など)がいるが、それは『資本論』の叙述がなぜ「商品」から始まっているのかということの無理解に所以している、そもそも“商品生産は、資本主義的生産の基礎であり出発点であり、資本主義的経済は商品経済(市場経済)をその基礎としており、商品経済そのものである”という説明がありました。

 

これについて、「商品生産と資本主義的生産との違いは何なのか?」、「商品や貨幣は古くからあり資本主義に特有のものではないと言われたが、資本主義に特有のものは何か?」という質問があり、少し議論になりました。

 

 

 

報告者や他の参加者からも次のような説明がありました。

 

ここでいう「商品生産」とはいわゆる単純商品生産であり、そこでは「(商品になっている生活物資を)買うために(自己労力で生産した商品を)売る」、つまり、W(商品)― G(貨幣)― W(商品)である。

 

一方、資本主義的生産の流通部面に現れる一般定式は「(利潤を含んだ商品を)売るために(貨幣によって最初に商品を)買う」、つまり、G(貨幣)― W(商品)― G’(貨幣、G+Δg)であり、流通過程を離れて資本の生産過程を見ると、以下のようになる。

 

 

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

 

 

   

 

 Pm(生産手段)

 

 G(貨幣)― W(商品)             ・・P(生産過程)・・W’(利潤を含んだ商品)― G

 

 A(労働力)

 

 

つまり、利潤を含んだ商品W’を売って初期に投下した貨幣Gより多くの貨幣G’を手に入れるために、まず初めに、商品である機械や原材料などの生産手段Pmと労働者の労働(能)力Aを貨幣Gによって買うということである。

 

資本主義は最高に発展した商品生産社会であって、すべてのものが商品化されている社会であるが、「資本主義に特有のものは何か?」と問われれば結局のところ、その使用が新たな価値(特に、剰余価値Δg)を生み出す特殊な商品である労働力商品Aが登場してきたことではないかとの意見が数人からありました。 

 

 

 

また、「『資本論』の日本語訳によっては同じ用語を“抽象”と言い“捨象”とも言っているが、これはどういうことなのか」という質問がありました。“抽象”とは多くの物や事柄に共通なものを取り出すことであり、それは反面、そういった共通なもの以外を捨て去ることにもなるので、それを強調して“捨象”という表現が用いられており、含意はまったく同じであるという説明がありました。これとよく似たものに、「肯定は否定である」という言い方があります。例えば、“これは犬である”という肯定表現には、“これは犬でないもの(非犬)ではない”という否定的な表現をも含んでいます。 

 

『資本論』での用語は私たちが普段使っている言葉ではないものが多くあって理解しづらい箇所がありますが、みんなで討論し深め合い、言葉の意味を一つ一つ確認しながら学んでいきたいと思います。

 

 

今回、報告者としては、アレもコレもと一度に多くのことを言おうとしてしまい、かえって分かり難くしてしまったのではないか、“なぜ「商品」の分析から始めたのか”という最も重要だと思う部分に的を絞って説明した方が参加者に親切ではなかったかと反省しきりです。

2017年2月16日 (木)

1月22日学習会の報告

今回は、『資本論』第二章 交換過程 の冒頭から8パラグラフ目「直接的な生産物の交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、・・・」(岩波文庫158頁)から11パラグラフの終わり「・・・しかして、金と銀とは、このような属性を本来もっている。」(岩波文庫161頁)を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

8パラグラフ

 これまでのパラグラフでは、商品交換はなぜ一般的等価物――これが発展すれば貨幣になります――を生みださざるをえないのか、その必然性と、ではそれは何によって、どのような過程によって生み出されるのかということが論理的に明らかにされてきました。

 少し振り返るとそれは、一般的等価物や貨幣が媒介にしない無媒介な商品交換、直接的な生産物交換の形では、商品のそれ自身の使用価値としての性格や交換者の欲望に制約されてしまい、商品交換が成り立ちえなくなります。この矛盾を解決するためには、こうした無媒介な商品交換を媒介するものが必要となります。これは、どんなものでもよいわけではなくやはり諸商品の価値を表現しうるものとしてそれ自体価値をもった商品である必要があります。これは第三節で示されているように諸商品の価値を客観的に表現できる妥当なものとしては、一般的等価物ということになります。商品交換の矛盾を媒介するものとしては、このような一般的等価物の成立は必然なのです。

 ではこの一般的等価物は、何によって生み出されるのかという問題ですが、これは商品世界の共同作業であり、ある特定の商品を排除し、その商品を一般的等価物とすることによってです。これは商品の交換過程の問題であり、まさに現実の交換過程により、特定の商品が一般的等価物として登場するのです。

 

 ここ8パラグラフからは、こうした一般的等価物の成立、そしてそれが貨幣になっていく歴史的な過程について展開されています。

 

 まず貨幣や一般的等価物を媒介にしない直接的に生産物交換はどのようなものでしょうか?

 それは交換以前には商品として存在してない場合、交換によってはじめて生産物が商品となる場合です。これは、共同体の中で余剰生産物が生まれ、この余剰生産物どうしが共同体間で交換されるような場合です。

 こうした最初の商品交換では、交換は偶然的でした。しかし、それは繰り返される中で規則的なものとなっていき、社会的な過程となっていきます。やがて労働生産物の一部分は最初から交換を目的に生産されるようになっていきます。

 交換の割合も偶然的なものから、生産そのものによって決まるようになり、徐々にそれらの生産物の価値量として固定されるようになっていきます。

 

9パラグラフ

 商品交換が発展し、商品の数と多様性が増大するにつれて、やはり7パラグラフまでで見てきたように、商品交換を媒介する、より一般的で社会的な等価物の必要性、必然性も大きくなっていきます。

 多くの生産物が商品として取り引きされるためには、やはり各々の商品が共通の第三の物で価値が表現され、それと交換がなされるということが必要になります。こうして商品交換は、この第三の商品種類により媒介されることになります。こうしてはじめて商品交換は、一般的なものになります。

 この第三の商品は一般的、社会的な等価形態となりますが、これもこの第三の商品をこうした等価形態とする社会的な接触が終われば、消滅します。つまり一般的等価形態となる商品も様々であり、時代や場所により様々な商品がこの形態についてきたのです。

 しかし、やがて排他的にある特定の商品種類だけがこの形態をとるようになります。こうなるとその特定商品=貨幣であるということになります。貨幣の成立です。

 しかし、何がこの貨幣となる商品であるかは、最初は偶然的でした。つまりまだ貨幣=金、銀ではないのです。

2017年1月15日 (日)

1月8日学習会の報告

今年から「資本論入門講座」を新たに設け毎月第2日曜日に開催することになり、その第1回目の学習は『資本論』ガイダンスとして、“マルクスはなぜ経済学研究(資本主義批判)をしなければならないと思うようになったのか?”というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

まず初めに、マルクスの経済学と「エコノミクス」と呼ばれている経済学との違いについて報告者から説明がありました。

「マルクスの「経済学」は社会の物質的富の生産や分配にしめされている社会法則(人間社会の物質的生活条件)を研究するが、その研究対象は商品や貨幣、資本という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係です。他方、近年流行の「エコノミクス」は単に資本主義社会の表面的な経済現象(為替相場や株価、投機的な金融商品や商品先物相場、金利などの動き)だけを分析し、そこでの数量的法則と因果関係を純粋に捉えることをもって“科学的だ”と主張する、労働者にはまったく縁のないマネーゲームに興ずる退廃した経済学なのです。

ここでは、マルクス経済学の研究対象が「貨幣という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係である」とはどういうことなのかという質問がありました。これに対して報告者から、例えば、働いてミカンを作り商品として売ってお金(貨幣)を手に入れそのお金で諸々の生活物資を得るが、その物資も他の多くの人々の労働の生産物であるわけで、貨幣という“モノ”の関係をとおしているけれども、そこには私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れているという説明がありました。

 

以下、当日のレジュメに即して項目ごとにその学習内容を報告します。

 

1.『資本論(副題:経済学批判)』の目的と出版当時(1867年)の世界

 『資本論』の目的は「資本主義的生産様式を分析し、近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」によって、この生産様式の(労働が個人的なものではなく社会的なものになったという)歴史的意義と(人々の労働が商品の価値・貨幣という“モノ”になって倒錯して現れる)限界を明らかにすることにあります。

 『資本論』が出版されて今年で150年になります。当時、資本主義的生産様式の典型的な場所は唯一イギリスだけでしたが、その後の世界は圧倒的にこの資本主義的生産のもとにあります。従って、この資本主義とはどのような社会システムであり、どのようなメカニズムで動いているのかというその本質的な諸関係を暴露している『資本論』は決して古い書物ではなく、人類史上聖書と並ぶベストセラーであって、出版以来多くの労働者たちを引き付け読み継がれてきました。

 また、『資本論』の叙述では人間は脇役で、経済関係の能動的主体・主役は商品・貨幣・資本ですが、それはこの資本主義社会では人と人との関係がモノとモノとの転倒した関係として現れているからなのです。

 

2.マルクスが経済学研究の“導きの糸”とした唯物論的歴史観

「法律諸関係ならびに国家諸形態というものは、それ自体によっても、またいわゆる人間精神の一般的発展からも、理解されるものではなく、むしろそれらは、物質的な生活諸関係(市民社会)に根底をもっている。しかし、この市民社会の解剖は経済学のうちにもとめるべきである」というのがマルクスの考えです。

 資本主義社会を歴史的・経過的なものとして見る視点

資本主義そのものが人間社会の発展の過程から見て、1つの歴史的に過程的なものに過ぎず、この資本主義的秩序を社会的生産の絶対的で最終的な姿としてではなく、社会的生産の一種として歴史的に過ぎ去る発展段階として考える必要があります。

 

例えば、現在のような「王権(王朝)国家」ではない“法の支配(憲法体制)”という「独立主権国家(国民国家)」という形が成立したのは、数万年におよぶ人類史上、せいぜいこの200年くらい前のことにすぎません。私たちはマルクスと同じ視点を持って、現在の「国民国家」を人間社会の唯一の姿、絶対的で最終的な姿としてではなく、人類共同体の歴史的に過ぎ去る1つの発展段階として考える必要があります。

 唯物論的歴史観について

唯物論的歴史観は、「経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論だ」と死んだ教条のように誤解する人がいるが、人類の歴史を研究する際にはその時代の思想や理念(観念論的歴史観)とかある人物の業績(英雄史観)などから行うのではなく、人間が生きていくのに必要な衣食住の生産と再生産をどんな生産手段を使いどのような社会的なつながりのもとで人々が行ってきたのかということから始めなければならないという歴史観(歴史の見方)です。

マルクスは『経済学批判序言』の中で唯物論的歴史観について次のように定式化しています。

「人間はその生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、生産関係にはいる。この生産関係は、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する。これらの生産関係の総体は社会の経済的構造を形づくる。これが現実の土台であり、そしてそのうえに法律的および政治的な上部構造がたち、そしてそれに一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。」(『経済学批判序言』より)

 

 これはつまり、ある歴史時代の政治的・法律的な諸関係やその性格は基本的に経済的土台(その社会の生産諸関係の総体)によって規定されており、またその時代の人々の様々な支配的なイデオロギー(観念・意識内容)も基本的にはその社会の土台により制約を受けています。つまり見方を変えれば、どのような社会的な問題であろうと本当の解決を考えるためにはその社会の経済的土台との関連を見なければならないということだと思います。

 

ここで、レジュメでは「唯物論的歴史観は“経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論だと死んだ教条のように誤解する人がいる”と書かれているが、唯物論的歴史観はある意味で“は経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論”ではないか」という意見が出され議論になりました。「唯物論的歴史観の一般的定式を述べている『経済学批判序言』には“物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける”と言われており、“決める”と“条件づける”という表現上の微妙な違いではないか」という意見もありました。

報告者の意図としては、ここで言う「すべてを決める」という言い回しを強調して“死んだ教条のように誤解する人がいる”とレジュメに書いたのですが、もう少し慎重な表現をするべきだったと反省しています。この問題(一般的な唯物論的歴史観の誤解)についての参考として、当日のレジュメの以下の文章を挙げておきます。

★ エンゲルスからブロッホへの手紙(1890)

唯物史観によれば、歴史における究極の規定的要因は、現実の生産および再生産です。それ以上のことは、マルクスも私もかつて主張したことはありません。いまこれを、経済的要因が唯一の規定的要因である、というふうにねじまげる人があるならば、その人は、あの命題を無味乾燥な抽象的不合理な空語にかえてしまうのです。・・われわれが社会の歴史の規定的土台とみなす経済的諸関係とは、一定の社会の人々が彼らの生活資料を生産し、また(分業があるかぎりは)生産物を相互に交換する、その仕方を言うのです。・・われわれはわれわれの歴史を自分でつくりますが、しかしそれは、第一に、まったく特定の諸前提と諸条件とのもとでのことです。それらのなかでは経済的な前提と条件が終局的に決定的なものです。しかし政治的・等々の前提や条件も、いな人間の頭につきまとっている伝統でさえも、決定的な役割でこそないが、ある役割を演じるのです。」(全集37P.401

 

3.社会の基礎は働く者の労働にあるという視点

人間社会の最深の基礎は、人間が自然とのあいだで行う物質代謝である労働によって生存に必要な衣食住などの物質的富を生産することであって、この生産活動は社会活動の基礎をなしており、生産活動の原動力は労働です。そして私たちは、労働を通して生み出された富を消費することによって生活しています。ここでは、物質的富を生産する労働者の「生産的労働」の意義を強調しました。

 

人間の生存と社会の存続とを支えている社会の富は労働によって生産された生産物であることは自明です。労働なしには人間の生存も社会の存続もあり得ず、人間は労働によって自然に働きかけそれを人間生活に役立つものに変化させていくこと、どのような社会でも人間はそういう物質的な富を自然から獲得するのに必要な労働について思いめぐらさなければならなかったということ、これらのことは誰にでもわかる当たり前の事実であって、経済学によってはじめて明らかにされるようなことではありません。歴史上人間はあらゆる動物のなかで最も群居的な集団生活を行ってきたのであって、そうである限り、この共同体にとって必要な富を生み出す生産的労働こそが人類の歴史と文化およびその発展の物質的な必然的条件、その契機であり、一切の歴史と人間社会の基礎過程であると言えるはずです。

 

ここでは、人間の生存と社会の存続とを支えている生産的労働の重要性を参加者の皆さんと確認しましたが、「教育労働や医療労働などは生産的労働でないかもしれないが社会的には有用で必要不可欠な労働ではないか」という疑問が出され、議論になりました。これについては当日のレジュメで次のように書かれていました。

「人間社会の物質的な富を生産および再生産する生産的労働の意味は、その概念が社会の一切の寄生的な人々(他人の労働によって生活する人々・寄食者)を拒否するだけでなく、生産的労働と不生産的労働に区別を設ける点にもある。この概念は不生産的労働がすべて人間社会にとって無用であるというわけではないが、しかし少なくとも、何が社会の存立と発展のための基礎であるかを明らかにし、不生産的労働が認められうる限界を確定する。つまり、生産的労働は社会の物質的な富を増やすが、不生産的労働はそれがどんなに有用であり社会的に必要なもの(例えば、教育労働や医療・介護労働など)であろうと、それは生産的労働のたまものである物質的な富の豊かさによってのみ可能となるということである。」

 また、「教育の費用は労働力の価値(生産費)の一部を構成するので、教育労働は不生産的労働とはいえないのではないか」という質問も出ました。報告者からは“マルクスのいう本来的な規定での「生産的労働」とは、人間と自然との代謝と関連した意味での物質的な富を生産する社会的な労働である”という説明がされたが、この問題についてはこれ以上深められた議論は行われませんでした。

 現在では、物質的な富を生み出す労働を軽視し、お金が得られればセックス産業なども含めてどんなものであろうと、それが「働いていること」なのだという考えが蔓延しており、「農業社会から産業革命による工業化社会へ、さらに現代の情報化・サービス産業社会(脱工業化社会)へと産業の高度化が進んでいる」と喧伝されています。しかし、こうしたサービス産業の肥大化(経済のサービス化)は、農業を含めた製造業での労働生産性上昇は社会に必要な物資的な富を以前と比べて少ない人数で生産できるようになった成果であるにしても、それは寄生人口を膨大な数に増やすという現代資本主義の寄生化と頽廃の現れであり、その理論的反映でもあります。これに関連して参加者からは、その典型的な事例である昨年12月に成立した「カジノ解禁法」に対して激しい批判がされました。

 また、「最近の情報通信技術(IT)や人工知能(AI)による生産の効率化についてはどのように捉えるのか」という質問が出され、これに対しては報告者を含め他の参加者からも次のような説明がありました。「最近の技術革新はより一層労働生産性を向上させるだろうが、問題はそれが資本主義生産に利用されることにある。利潤獲得を目的としているこの社会では、労働者のためになる労働時間の短縮や労働の軽減・省力化にはつながらないで、労働強化や失業問題を引き起こすようになるだろう。経済学者のケインズは“生産のオートメ化によって20世紀末には週5時間労働になるだろう”と予言したが現実にはそのようにならなかったことがその証左である。19世紀初頭にイギリスでラッダイツ運動という機械の導入によって雇用を奪われた労働者たちの“機械打ちこわし”があった。やはり、機械や技術そのものとその資本主義的な利用を区別するべきであると思う。」

 

この他にもいろいろ多岐にわたった議論が行われました。例えば、エンゲルスの『猿が人間になるにあたっての労働の役割』のなかで、「労働は人間生活全体の第一の基本条件であって、しかもある意味では、労働が人間そのものをつくり出した、と言わなければならないくらいそうなのである」と述べており、現在の労働は虐げられ疎外された搾取労働であって、人間そのものをつくり出してきた本来の労働ではない、と報告者から話があり、参加者みんなで意見を出し合いました。

 

次回の2月12日の2回目の「資本論入門講座」は、“マルクスはなぜ『資本論』を商品の分析から始めたのか?”というテーマで行います。

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