2019年12月 8日 (日)

2019年9月学習会の報告

9月学習会の報告 

9月22日に予定していた「入門講座」は、台風17号の接近のために急遽学習会を中止しましたので、9月29日の「通常講座」のみの報告です。新規の参加者の方はおられませんでしたが、数か月ぶりにKUさんが参加されました。ONさんは今回も持病の脊柱管狭窄症のために、歩行がより困難な状態とのことで欠席されました。ご本人は「参加したい気持ちでいっぱいです。皆さんによろしく」と元気な声で言われていました。

                                                                            通常講座報告

 今回は、第6章「不変資本と可変資本」の第11段落(岩波文庫第2分冊49頁第2段落)~第21段落の3行目の途中(特徴づけたのである。)(岩波文庫第2分冊59頁第3段落途中)までを学習しました。

 

 「価値は、価値標章における象徴的にすぎない表示を別とすれば、一つの使用価値のうちにのみ、一つの物のうちにのみ存在する。……したがって、使用価値がなくなれば、価値もなくなる。(ところが)生産手段は、それらの使用価値とともに、同時にその価値をも失うものではない、というのは、それらが労働過程によって、それらの使用価値の元来の態(すが)容(た)を失うのは、実際に、生産物において他の使用価値の態容を獲得するためにすぎないからである。しかし、価値にとっては、何らかの使用価値のうちに存在することは重要であるが、それがいかなる使用価値のうちに存在するかは、商品の形態変化が示すように、どうでもよいのである。(すなわち)労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値とともに、その交換価値をも失うかぎりにおいてのみである。生産手段は、それが生産手段として失う価値のみを、生産物に渡す。」(49頁第2段落)

 

消費手段たる使用価値・価値が消費とともに消滅するのは個人的消費においてであるが、労働過程における生産手段(原料、機械、道具、労働用建物等々)たる使用価値・価値は、その消費とともに消滅するのではなく新たな生産物に移行(態容変化)して、新たな使用価値・価値として生きる。

「……生産手段は、それが労働過程において、それ自身の使用価値の消滅によって失う以上の価値を、決して生産物に移すものではない。それが失うべき何らの価値ももたないならば、すなわち、それ自身が人間労働の生産物でないならば、それは何らの価値をも生産物に移さないであろう。」(51頁第2段落)

 

 人間労働の生産物でないもの、天然に、人間の手が加えられずに現存するすべての生産手段 ―土地、風、水、鉱脈内の鉄、原始林の木等々― は何らの価値も持たない。故に使用価値としては役立つが交換価値は持たない。

 

「他の現象 ―機械の価値の何分の一かは日々摩耗し、機械そのものから、その日々の生産物に移行する。ある生産手段は、労働過程には全体として入るが、価値増殖過程には一部分しか入らない。というのは、同一生産過程において、同一生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては部分的にのみ数えられることによって、労働過程と価値増殖過程との区別が、それらの対象的諸因子に反射するのである。」(51頁第3段落~52頁第1段落)

 

 ここでは、生産手段の機械は労働過程においては全体的に使用されるので、全体として数えられが、価値増殖過程としては一部分しか数えられない。すなわち機械の摩耗・摩損分(機械が廃棄されるまでの使用可能日数から割り出された数)だけが価値増殖に寄与したとして数えられる。

 

 「他方では、逆に、ある生産手段は、労働過程には部分的にしか入らないのに、価値増殖過程には全体として入りうる。」(53頁第2段落)

 

綿花を紡ぐにあたって、撚糸にはならないで綿屑にしかならないものが、毎日一定量出るとする。撚糸を生産するにはこの綿屑が不可分だとすると、この綿屑は撚糸の生産の一生産条件である。それゆえに、綿屑はその価値を撚糸の価値として計算されるのである。

 

 「生産手段が労働過程で、それらのもとの使用価値の態容における価値を失うかぎりにおいてのみ、それらは生産物の新しい態容の上に、価値を移転する。生産手段が労働過程において蒙りうる価値喪失の最大限度は、それらが労働過程に入るときの元来の価値量によって、あるいはそれら自身の生産に必要とされた労働時間によって、明らかに制限されている。だから、生産手段は、それらが役立つ労働過程から独立に持っているより以上の価値を、生産物に付け加えることは、決してできない。」(53頁第3段落~54頁第1段落)

 

 「生産手段の価値は、それが生産手段として入ってゆく労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって、規定されている。」と述べられているが、ある原料、機械、生産手段がどれほど有用であっても、それらの価値より多くは生産物に付け加えることは出来ない。すなわち、労働過程において元の価値より多くの価値を生み出すことは出来ない。

 

 「一般に生産手段において消耗されるものは、それらの使用価値であって、その消費によって労働は生産物を形成する。生産手段の価値は、実際には消費されるのではなく、したがって再生産もされえない。価値は保存されるのであるが、しかし労働過程において価値そのものに、ある操作が加えられるからではなく、価値が元来そのうちに存在する使用価値が、消失はするが、しかしただ他の使用価値となってのみ消失するからである。」(57頁第2段落)

 生産手段の使用産物を形成するが、それは消費されるのではない。生産手段の価値が元来そのうちに存在する使用価値は消失するが、ただ他の使用価値となってのみ消失する。生産手段の価値は再生産されるのではなく、もとの交換価値がそのうちに再現する新しい使用価値が生産されるのである。            

                                               

 労働過程の主体的因子については、すなわち、活動しつつある労働力については、これと異なる。労働がその目的に添う形態によって、生産手段の価値を生産物に移転し、保存するあいだに、労働の運動の各瞬間は付加的な価値を、すなわち新価値を、形成する。労働者が彼自身の労働力の価値に対する等価物を生産した点で、生産過程が中断するとしよう。この価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値からくる構成部分を超えた超過分をなす。

それは、この過程の内部で成立した唯一の本源的価値であり、この過程そのものによって生産された生産物の唯一の価値部分である。(58頁第2段落)

 しかし、……労働過程は、労働力の価値にたいする単なる等価が再生産されて労働対象に付加される点を超えて、続行される。……労働力の活動によっては、単にそれ自身の価値が再生産されるのみではなく、ある超過的な価値が生産される。この剰余価値は、消耗された生産物形成者、すなわち生産手段および労働力の価値以上の、生産物価値の超過分をなすのである。(59頁第2段落)

 

 労働過程の主体的因子である労働力・労働者は彼自身の労働力の価値に対する等価物を生産した時点で、生産過程が中断するとする。この価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値からくる構成部分を超えた超過分である。これは、この過程の内部で成立した唯一の本源的価値であり、この過程によって生産された生産物の唯一の価値部分となるのであるが、実際の労働過程は、労働力の価値に対する単なる等価が再生産されて労働対象に付加される点を超えて、続行される。超過的な価値=剰余価値である。

                                            伊藤

 

 

2019年8月25日学習会

第1部「入門講座」
                                                                             今回は、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」B「総体的なまたは拡大せる価値形態」の冒頭からこのB項目の最後まで(岩波文庫第1分冊115頁~119頁、国民文庫第1分冊118頁~123頁)を学習しました。 以下は、当日の学習会の内容です。  
              亜麻布20エレ =上衣1着 
Z量の商品A =u量の商品B
             亜麻布20エレ =茶10ポンド
  Z量の商品A =v量の商品C
                            亜麻布20エレ =コーヒー40ポンド
 z量の商品A =w量の商品D            
                           亜麻布20エレ =小麦1クオーター
  z量の商品A =X量の商品E            
                           亜麻布20エレ =金2オンス
  Z量の商品A =その他                            
     図1-A                  亜麻布20エレ =鉄1/2

                           亜麻布20エレ =その他
                               図1-B
                                                                                                             このB「総体的または拡大せる価値形態」はの図Ⅰ-Aのようにある特定の商品、ここでは商品Aが、この商品世界の他のすべての商品(BC、D,E、その他)により価値が表現される形態です。それは具体的な商品、例えば亜麻布を例にとると図Ⅰ-Bのようになります。
Aの単純な価値形態の場合、例えば亜麻布の場合では、亜麻布はただ一つの他の商品上衣でしか価値が表現されていません。しかし、この拡大された形態へと進むと図Ⅰ-Bのように亜麻布は上衣とだけでなく、この商品世界の自分以外のすべての商品により価値が表現されます。つまりすべての他の商品体が「亜麻布価値の反射鏡」(岩波文庫第1分冊115頁、以下断りなきは岩波文庫の訳とします)となります
こうして亜麻布の価値自身は、「はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現れ」(115頁)ます。なぜならいまやAの形態と違って――Aの形態では亜麻布を生産する労働は、ただ上衣を生産する労働とのみ質的に等置されるだけでした――、亜麻布の価値を形成する労働(織布)は、「いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表されて」(115頁)いるのであり、図Ⅰ-Bの右辺に見られるとおり、それが上衣に対象化された労働に表されるか、お茶や小麦や金などに対象化され労働に表されるかは全く問わない形になっているからです。裁縫労働や小麦を生産する為の農家の労働、はたまた金を生産する為の採鉱・精錬労働というような具体的な形態はさまざまですが、それらの形態にはかかわらず人間労働として、亜麻布を織る労働もこれらと相等しいとされているのです。
こうして亜麻布は「もはやただ一つの個々の商品種と社会的関係にあるだけではなく、商品世界と社会的関係に立」(115頁)つことができるようになります。
亜麻布20エレ=上衣1着という第一の形態では、このような交換割合も偶然的なことであるかもしれない。なぜなら亜麻布20エレと上衣1着の交換が成立したのは、亜麻布所有者と上着所有者の間のこのときの合意でたまたま成立しただけで、実は不等価の交換であった可能性もあるからです。
しかし、第二の形態、拡大された価値形態になるとことの本質が違ってきます。なぜならこの形態では、亜麻布20エレの価値は、上衣では1着分、コーヒーでは40ポンド分、金では2オンス相当など様々に表現されていますが、しかしこれらはみな共通に亜麻布20エレの価値を表現しています。つまり亜麻布20エレの価値は、どのような商品種により表現されようともある一定の大きさであるということが明瞭になります。
ここから交換(割合)が商品の価値の大きさを規制するのではなく、逆に商品の価値の大きさが、それらの交換比率を決定するのだということが明瞭になります。
 この価値形態の右辺側、図Ⅰ-Bでの上衣1着、茶10ポンド、小麦1クオーター、鉄1/2トン等々は、それぞれ亜麻布20エレの特別な等価形態(国民文庫では、「特殊的等価形態」)です。つまりここでは、上衣、茶、小麦等様々な有用物に表されるこれらの具体的有用労働(裁縫、茶栽培、小麦栽培等)が無差別な人間労働を表す特別な現象形態として存在しているのです。
ところで第一の形態からこの第二の形態への価値形態の発展は、価値表現が個別的、偶然的なものからより社会的なものへと発展し大きく前進していいます。しかし、他方でこの形態における価値表現は、価値とは無差別な人間労働の凝結物という価値の本質的規定からするとまだ欠陥があります。
それはどういうものかと言うと、まずもってこの形態では、右辺側に新しい商品が登場するたびに、無限にその表示序列が連なっていき、これは永遠に未完成です。この商品世界に新しい商品が登場するたびに右辺の序列が長く引き延ばされていかざるをえません。
第二に、この形態での表現は、個々バラバラな形態の寄せ集めにすぎないということです。
最後に、「あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列」(118頁)とならざるをえないということです。
図Ⅰ-Bは、亜麻布の価値表現ですが、これと同様に上着や茶、小麦などその他の商品も必然的にこの形態で価値表現がなされなければなりません。つまり図Ⅰ-Bの左辺を、それぞれ亜麻布20エレを上衣1着、あるいは茶10ポンド、または小麦1クオーターに置き換えなければなりません。(当然今度は、右辺側に特別な等価形態の一つとして亜麻布20エレが登場します。


上衣1着 = 亜麻布20エレ           茶10ポンド = 亜麻布20エレ
上衣1着 = 茶10ポンド            茶10ポンド = 上衣1着
上衣1着 = コーヒー40ポンド          茶10ポンド = コーヒー40ポンド
上衣1着 = 小麦1クオーター          茶10ポンド = 小麦1クオーター
上衣1着 = 金2オンス            茶10ポンド = 金2オンス
上衣1着 = 鉄1/2トン            茶10ポンド = 鉄1/2トン
上衣1着 = その他              茶10ポンド = その他
   図Ⅱ―A                      図Ⅱ―B
                       
それぞれ図Ⅰ-Bは亜麻布、図Ⅱ-Aは上衣、図Ⅱ-Bは茶の相対的価値表現ですが、これらは各々が無限に続く価値表現の序列にならざるをえません。もちろん亜麻布、上衣、茶以外の商品コーヒー、小麦、金、鉄、その他の商品も各々これらと同様な価値表現序列をもつこととなり、当然この商品市場に新たに登場する商品も同様の無限に連なる価値形態をもって現れざるをえません。しかしこれらの価値形態は各々バラバラで何らの統一された表現は存在しません。
 またこの拡大された相対的価値形態の欠陥は、等価形態に反映されます。例えば、亜麻布の価値表現を例にとると(図Ⅰ-B)、その等価形態は、上着や茶、コーヒー、小麦等々の無数の商品体で表現される形(図Ⅰ-B全体=総体的な価値形態)ですが、この中の各々は、それぞれ亜麻布20エレ=上衣1着、亜麻布20エレ=茶10ポンド、亜麻布20エレ=コーヒー40ポンド・・・・という一つの特別な等価形態(特殊的等価形態)でもあります。例えば、これは亜麻布20エレ=上衣1着という価値表現が成り立つならば、上衣という商品体が等価形態としてあるということなので、この場合は上衣以外の商品、茶やコーヒー、小麦その他の商品が等価形態の位置につくのを排除することになります。また亜麻布20エレ=茶10ポンドという価値表現が成り立つ場合は、茶以外の商品は上衣も含めて等価形態につくことを排除されてしまいます。このように各々の特殊的等価形態が他の特殊的等価形態を排除する形になり相矛盾することになります。
 また各々の特殊的等価形態に含まれている具体的有用労働は、ここでは抽象的人間労働を体現するものとして現れていますが、しかし、その一つ一つは直接には、裁縫、茶栽培、コーヒー栽培、金の採掘等々のそれぞれ固有の具体的有用労働にすぎません。したがって、抽象的人間労働という価値の概念からすればまだ十全なものではありません。しかし、拡大された価値形態の全体としてみると、亜麻布の価値が上衣だけでなく茶、コーヒー、小麦等々で表されるということは、裁縫のみでなく茶栽培労働やコーヒー栽培労働等々により亜麻布を織る労働の価値性格が表現されます。この全体の中、「総体的拡がりの中」(118頁)に、人間労働としての表現があるのです。なぜならここでは亜麻布は第一の形態、単純な、個別的な形態とちがって、左辺に自分以外の無数の商品が来ることにより、もはや労働の種類には関係ない――価値性格は本来、労働の種類とは関係がなく、むしろ労働種を捨象したものです。――ということが示されています。しかし、ここには何らの統一性もありません。価値ということなら、人間労働としての同質性、同等性とうことが肝要なはずですから、その概念にふさわしい形はまさに統一された共通の表現ということになります。すなわちこのB総体的または拡大された価値形態からこの次のC一般的価値形態への移行が課題となります。
 C一般的価値形態への移行については、テキストでは次のように説明されています。
 「拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである」(118頁)
例えば、   亜麻布20エレ=上衣1着
       亜麻布20エレ=茶10ポンド  等々
   これらの諸方程式は、両項を逆にしても同じ方程式であるから
         上衣1着=亜麻布20エレ
       茶10ポンド=亜麻布20エレ   等々も成り立つと。
そうすると例えば図Ⅰ-Bで右辺と左辺の項目を逆にした

     上衣1着       =      
     茶10ポンド     =
     コーヒー40ポンド  =
  小麦1クオーター   = 亜麻布20エレ  
     金2オンス      =
     鉄1/2トン     =
   その他        =

 という式、すなわち左辺側の諸商品が、共通に亜麻布で価値を表現する式(=一般的価値形態)が生まれます。

質問や意見等
○テキスト117頁で「交換が商品の価値の大いさを規制するのではなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制する」ことが明瞭になるといっているがどういう意味かとの質問があり、レポーターから、「これは例えば、亜麻布20エレが上衣1着と交換されるという20エレと1着という交換比率だけに目を奪われると、この交換比率からそれぞれの商品の価値の大きさが決まってしまうように見えます。つまり交換されることによってはじめてそれぞれの商品の価値が与えられるかのように見えます。しかし、商品の価値の大きさは、その商品を生産するのに必要な労働時間により決まるはずです。例えば、亜麻布1エレ分を生産するのに1/10時間かかり、一方上衣1着には2時間かかるとすると、それぞれの必要労働時間に規定された価値の大きさから亜麻布20エレ=上衣1着というのが成り立つのであり、逆ではないということです。こうしてそれぞれの商品の価値を大きさ(それは、交換される前に決まっている!)により、それぞれの交換比率というのが決まってくるのです。このことが亜麻布20エレという同じ大きさ価値が、様々な商品の諸々の数量に示されるこの拡大された形態でははっきりとしてきます。」との説明がありました。
○テキスト118頁で「すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおののは他を排除するのである。」とありますが、ここでいっていることがどういうことか分からない。特に「その中のおのおのは他を排除する」とはどういうことか説明してほしいとの質問がありました。これについては、概ねレポーターから次のような説明がありました。「まず『すべての個々の商品種の自然形態』とは、報告の図Ⅰ-Bであれば、右辺側にある商品つまり上衣、茶、コーヒー等々のことです。この形態ではこれらの商品体が亜麻布の等価形態として存在しています。つまり亜麻布20エレの等価形態として図Ⅰ-Bの右辺側の諸商品があります。右辺の等価形態について、これらの一つ一つを見ると、各々がそれぞれ亜麻布20エレの価値を表現する特殊的等価形態(岩波訳では特別な等価形態)です。亜麻布20エレ=上衣1着という場合、これは亜麻布が自らの価値を表現する為に、上衣を自分と質的に相等しいものとして等置することによって上衣に等価形態という役割を与えることによって成り立つものです。こうしてはじめて上衣は、亜麻布の価値を表現することができる価値の形態(=等価形態)をえることができます。その為、ここでは、茶やコーヒーなど上衣以外の他の商品ではだめでまさに上衣こそが亜麻布の等価として機能しうるのです。これは茶やコーヒーなど他の商品体が等価形態の位置に来る場合も同様です。茶が等価形態として置かれる場合は、当然、コーヒーや小麦のみでなく上衣も等価の位置につくことが許されず、等価形態としては排除さることになります。つまり図Ⅰ-Bのような形態では、各々の特殊的等価形態が他の特殊的等価形態をそれぞれ排除するという相矛盾したことになります。これが『その中のおのおのは他を排除する』ということの含意ではないかと思います。』
 実は、レポーターのがこの見解に達したのは、参加者からこの質問があり答えに窮するなかで何とか質問に答えようとしばらく考えこんでから、はっと気づいてからのことです。このような参加者の方の素朴な質問がなければ、このように明瞭にはなりえなかったと思います。実は、このような経験はこれまでも度々ありました。このような素朴な質問をいただくことができるのは、大変レポーター自身の勉強にもなるのです。ここで質問をしてくださる参加者の方々に改めて謝意を表します。
檀上
 
第2部「通常講座」
前章の第5章では、価値増殖過程は労働過程において見いだされることが明らかになりました。そして、使用価値をつくる労働と価値をつくる労働とは、生産過程における異なった側面の区別としてあることが示されました。 商品生産の資本主義的形態においては、生産過程が労働過程と価値形成過程との統一としておこなわれます。そして、労働者が生産する剰余価値が資本を形成することが説明されました。
次の第6章のテーマは、「不変資本と可変資本」です。8月の学習会では、第1段落~第10段落を学習しました。ここでの課題は、生産物価値を形成するための諸要素がどのように労働過程に関わっているかです。
生産物価値を構成するものとしては、生産手段と労働力があります。労働者が労働対象に一定量の労働を付け加えることによって、労働対象に新たな価値を付け加えます。他方、この労働において消耗・消費された生産手段の価値をふたたび生産物価値の構成要素として、新たな生産物(テキストでは撚糸)の中に見出します。このようにして、生産手段の価値は、生産物への移転によって保存されるのです。この移転は、生産手段が生産物に転化するあいだに、すなわち労働過程において、労働によって媒介されます。では、どのようにしてか? (第1段落~第2段落)
労働者が労働対象の綿花に一定量の労働を付け加えることによって、労働対象に新たな撚糸価値を付け加える訳ですが、その為には労働対象である綿花とともに、加工に必要な紡錘が必要であり、綿花が撚糸に姿を変えるように、紡錘は摩耗して撚糸の構成要素の一部となります。綿花と紡錘の価値が新たな生産物である撚糸に移転され、撚糸に保存されるのです。すなわち、新たな価値を付け加えることによって、元の価値が保存されるのです。
このことは、労働対象への新たな価値の付加と、元の価値の保存とは、二つの全く異なる結果であるにもかかわらず、別々に二つの労働としておこなわれるのではなく、同一時間内に一度の労働として行われるものです。ゆえに、この結果の二面性は労働における二面性から説明されるものです。すなわち、労働者の労働は一つの属性においては、価値を創造し、他の属性においては価値を保存または移転するのです。(第3段落)
では、いかにして労働者は労働時間・価値を付け加えるのか? つねに労働者の特有の生産的労働様式の形態で価値を付け加えます。すなわち、紡績工は綿花と紡錘で糸を、織物工は撚糸と機織りで布を、鍛冶工は鉄と鉄砧で刃物をというように、生産手段は一つの生産物の一つの新しい使用価値の形成要素となります。
注(20)「労働は、破壊された創造物のかわりに、新しい創造物を与える」(『諸国民の経済学にかんする一論』)
(第4段落)
 労働者が彼の労働によって価値を付け加えるのは、彼の労働が有用的労働であるかぎりにおいてではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりにおいてであり、彼が一定の価値量を付け加えるのは、彼の労働が特別な有用的内容だからでなく、彼の労働が一定時間継続するからである。ゆえに、その抽象的一般的属性・人間労働力の支出として、彼の労働は、新価値を付け加え、労働過程での具体的な特別な有用的属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において保存するのです。それゆえに、同じ時点において労働の二面性が生ずるのです。
 労働の単に量的な付加によって、新たな価値が付け加えられ、付け加えられた労働の質によって、生産手段のもとの価値が生産物において保存されるのです。(第5段落~第6段落)
 何らかの発明によって、労働者がこれまでの6分の1の労働時間で生産したとする。彼の労働は、その力をこれまでの6倍発揮した。その生産物はこれまでの6倍量である。しかし、その生産物は以前の生産物が吸収した6分の1の労働量を吸収するにすぎない。生産物には、古い生産方法で生産する場合の6分の1の新たな労働が付け加えられたが、これは以前の価値の6分の1が付け加えられるにすぎない。しかし、いまや6倍のかつての生産物の価値が、新しい生産物のうちに存在する。(第7段落)
 逆に、労働の生産性はまったく変わらず、依然として同量の時間を要する場合。労働生産物の交換価値が変動して、労働生産物の価格が6倍に騰貴、あるいは6分の1に低落すると仮定する。いずれのばあいにも、労働者は同一定量の生産物に同一労働時間を、同一価値を付け加え、そしていずれのばあいにも、等しい時間に等しい量の生産物を生産する。にもかかわらず、労働者が生産物に移転する価値は、一方の場合には、前よりも6分の1と小さくなって、他の場合には6倍大きい。労働手段が高くなったり安くなったりはしても、そのことによる労働過程における労働生産物への変化はない。(第8段落)
 紡績過程の技術的諸条件が、もとと変わらず、そしてその生産手段にも価値変動が生じない場合、依然として紡績工は、等しい労働時間には、もとのままの価値をもつ等しい量の原料および機械装置を消費する。
この場合には、彼が生産物に保存する価値は、彼が付け加える新価値に正比例する。労働者は生産諸条件が同一の与えられたままである場合、彼がより多くの価値を付け加えるほどより多くの価値を保存する、しかし、彼がより多くの価値を保存するのは、彼がより多くの価値を付け加えるからではなく、彼がこの価値を、彼自身の労働に依存しない諸条件の下で、付け加えるからである。(第9段落) 

勿論、相対的な意味では、労働者はつねに、新価値を付け加えるのと同じ比率で、もとの価値を保存するといえる。労働者が1時間の生産物において保存するもとの価値は、いかに変動しようとも、つねに2時間の生産物の半分だけである。また、彼自身の労働の生産性が変動して、上昇、あるいは低下すれば、彼は、1労働時間の生産物に、以前よりも多いか、または少ないもとの価値を保存する。彼は2労働時間には、1労働時間におけるよりも、2倍だけ多くの価値を保存します。(第10段落)
                                           伊藤

2019年8月21日 (水)

2019年7月28日学習会の報告

第1部「入門講座」

 今回は、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」4「単純な価値形態の総体」の第3パラグラフ「商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、・・・」(訳文は岩波文庫のもの。以下断りなきは同文庫訳。岩波文庫第1分冊113頁、国民文庫第1分冊116頁)から4「単純な価値形態の総体」の最後まで「いくらでも延長されうる列に転化されるのである。」(岩波文庫115頁、国民文庫118頁)までを学習しました。

 

学習内容

 ある商品の価値表現は、その商品と等価として置かれる他の種類の商品との関係によって表されます。例えば、20エレの亜麻布が、それと等しいとされる1着の上着で表現されます。この場合、価値が表現される亜麻布の方は相対的価値形態にあり、他方のそれによって価値が表現される方、ここでは上着の方は、亜麻布の価値を表現するものとして等価形態にあります。

 このうち相対的価値形態にある側の商品の現物形態、つまりここでは亜麻布は、この価値形態の中ではただ亜麻布という使用価値の姿しか認められません。それはおそらく亜麻布が、自分自身で価値形態をもち、ただ自分自身で価値を表現できるということになればおかしなことになるからでしょう。価値とは、この商品世界で社会的に認められたものでなくてはなりません。直接には、亜麻布生産者の私的生産物でしかない亜麻布それ自体が価値という社会的な形態をもちえないのは当然ではないでしょうか?ですから亜麻布は、自分と価値物として――価値をもったものとして――質的に等しいと置かれる別の何らかの商品をもってくる必要があったのでしょう。その役割を与えられた――つまり等価形態とされた――商品がここでは上着であったのだと思います。

 ではこちらの等価形態側の商品、上着はどうかと言うと、この価値表現の中では上着そのものは、ただ亜麻布の価値のみを表現するものとして機能しています。確かに、見かけ、そのありのままの姿は、上着という使用価値物にすぎないのですが、この価値関係の中で等価形態として機能しているかぎり、それ自体が、つまり上着という現物=使用価値の姿のままで、それとは反対のただ価値としてのみ認められるもの、すなわち価値体になっています。

 つまり価値表現の中では、その価値が表現される側の商品の現物形態(例では亜麻布)は、ただ使用価値としてのみ認められ、他方、それによって価値が表現される側の商品、すなわちただ価値表現の材料としての役割が与えられ等価形態となる商品は、ただ価値の形態としてのみ認められるにすぎません。

 この価値表現における相対的価値形態と等価形態に見られる、使用価値と価値の対立は、実は一つの商品に内在する二つの相対立する契機、すなわち使用価値と価値の対立が、外的な対立としてあらわれたものにすぎないとマルクスは言います。ちなみにこの対立は、価値形態の展開とともに発展していき貨幣形態で完成します。これは今後の展開の中で明らかになりますのでここでは割愛します。

 最後にAの「単純な価値形態」の欠陥と限界が示され、次の形態への移行が必然であることが示されています。それは一つには「この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態」(124頁)にすぎないこと。価格形態とはこの価値形態の最後に出てくる形態です。この形態こそが我々が現実に目にする形態です。つまりこれこそ最終的に説明されるべき具体的な現象(形態)ですが、そこにたどり着くまではまだまだ遠く、しかもこのAの形態はその始まり(萌芽形態)にすぎないということです。

 またこの形態すなわち「なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身と違った個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性と量的比率とを示すものではない」(114頁)ということ。つまりある一つの商品をとっても、例えば、亜麻布で見た場合でも、それはただ一つの商品種で表現されるのみであれば、亜麻布の価値は、亜麻布という使用価値の姿とは異なるものであるということが示されるだけにすぎません。亜麻布商品が価値として示されるためには、ただ上着とのみでなく他のすべての商品とも価値関係に置かれ、これら種種の商品群によって示されなければならないはずです。

 したがってこの価値形態は、「おのずから、より完全な形態に移行する」(114頁)のです。それは次に見ていくBの「総体的または拡大せる価値形態」にです。これはAの形態の等価形態が上着という一特定の商品から商品世界のすべての諸商品へと展開される形態です。何故この形態への移行が必然かというとそれは商品にとっては、それによって価値が表現される第二の商品、等価形態にある商品がどんなものであるかは全くどうでもよいことだからです。亜麻布にとっても相手商品が上着であるか、小麦であるか、はたまた金であるかはどうでもよいことだからです。

 

質問等

○テキストの中で、岩波版での訳で「使用価値と価値の対立」という言葉が出てくるが、他の訳ではどうなっているのか?またその意味はどういうことか?という質問が参加者からありました。

 報告者より「大月書店、岡崎次郎訳でも基本的に対立となっている。たぶん他の訳も対立となっているものが多いと思う。誤訳ではないと思う。使用価値と価値の対立ということでその内容の理解が問題だと思うが、これは第1節で学んだ商品の二要因として使用価値と価値があるが、この二つはお互いに相いれない要素として存在している。使用価値はモノとしての商品の有用性であり、それを形成するのは労働の具体的有用的性格によるものである。他方価値は、商品の交換価値(交換比率)を決める要素であり、それは商品に対象化される労働の、人間労働としての同等性によるもの、つまり価値とは、使用価値が自然的、物的属性であるのに対して、純粋に社会的なものである。そういう意味では使用価値と価値はお互いに他方を排除する契機であり、これが商品の要素として、二つの対立した契機として内在しているともいえると思う。またテキストではこの商品に内在する使用価値と価値の対立が、価値表現における相対的価値形態と等価形態という価値表現における両極としてあらわれたものであるといっている。またさらにこの対立は、価値表現の発展の中で展開(テキストではこの後のB総体的または拡大せる価値形態以降で具体的に展開)されていき、最終的には貨幣形態を生みだすまでとどまらないということを示唆している。」と説明がありました。                   

(D)

 

第2部 通常講座

7月は、第5章第2節「価値増殖過程」(岩波Ⅱ分冊P23~43)までを学習しました。いわゆる『剰余価値は、どこから生まれるか』を考察する節です。まず、資本家の支配のもとに生産される生産物は、単なる使用価値であっては意味がなく、「交換価値をもっている使用価値を売ることに予定された品物を、すなわち商品を、生産しようと欲する」。しかも、「前貸しして得た生産手段および労働力の価値総額よりも、高い価値を持っている商品」の生産を、すなわち、「使用価値だけでなく、そして、価値だけでなく剰余価値をも生産しようと欲する」と。

 これから問題とする商品生産過程は、使用価値と価値の統一であるように、まず、労働過程と価値形成過程の統一されたものとして明らかにされる必要がある。そこで、生産過程と価値形成過程として考察された。

価値の移動

 綿花10ポンドを10シリングで価値通りに買った。綿花の加工で消耗された紡錘量に2シリングの価値を持つと仮定すると10+2=12シリングの金量が、24時間(または2日)の生産物であるとすれば、撚糸には、2労働日が対象化されていることになる。「ここで、24時間(2労働日)とは、当時1日12時間(またはそれ以上)が労働時間であった」。要は「12シリングの価格に表現された生産手段の価値は、撚糸の価値の構成部分をなす」に過ぎない、価値が移動しただけ。

労働の付加する価値

 次に問題となるのは紡績工の労働そのものが、綿花に付け加える価値部分(剰余価値)とレジメに記したところ、(?)の質問あり。「綿花から撚糸への労働過程で、労働力の価値(3シリング)に+αの付加価値を言う」。この労働を、いまや、労働過程における場合とは、全く別な見地から考察せねばならないとし「紡績工の労働は、特殊なものとして、他の生産的労働とちがったもの(使用価値を形成する具体的有用労働)」であると同時に、「紡績工の労働が価値形成であるかぎり、すなわち価値源泉であるかぎりでは・・・・、撚糸の生産手段に実現されている綿花栽培者及び防錆製造工の労働とはまったく違ったところはない」として、「労働の質、性状、及び内容が問題となるのではなく、ただその量が問題となるにすぎない」から、価値量の算定には「紡績労働が単純労働、社会的平均労働であると仮定する」と「社会的に必要な労働時間のみが、価値形成的として数えられる」。ここに、労働力の日価値を3シリング(6時間労働)で綿花10ポンドを10シリングと紡錘の消耗に2シリング(1労働時間に1ポンド3分の2の綿花を撚糸に転化)と仮定すると、生産物撚糸の総価値は15シリング(2日半分の労働日が対象化=2日分の労働は綿花と紡錘量に、半日分の労働は紡績過程中に吸収*レジメではP2の『生産物の総価値』の図中では「紡錘糧中」と記していました間違いです)になる。「資本家はびっくりする。生産物の価値は、前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されず、何らの剰余価値も生産せず、したがって貨幣は資本に転化しなかった」では、

価値増殖の謎

価値増殖はどこから発生するのかが「謎」である。「謎」は①労働力は等価交換された。「ここで肝要なのは交価値である。彼は労働者に3シリングの価値を支払った。労働者は彼に、綿花に付加された3シリングの価値をもって、精確な等価を、価値に対して価値を、返した」②労働力の交換価値と使用価値の差額※「労働力の日価値は3シリングであった。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力が遂行しうる生きた労働とは、すなわち労働力の日々の維持費と労働力の日々の支出とは、二つの全く違った大き(い)さである。前者はその交換価値を規定し、後者はその使用価値を形成する。労働者を24時間生かしておくため、半労働日が必要であるということは、決して、彼が丸一日間労働することを妨げない。したがって、労働力の価値と、労働過程における価値増殖とは、二つのことなる大き(い)さである。資本家が労働力を買ったとき、彼はこの価値差額に着目していたのである」。また、「労働力一日間の使用で作り出された価値が、労働力自身の日価値の二倍であるという事情は、買い手にとっては、特別な幸運であるが、売り手に対する不法では決してない」。

資本家は、この事情が、前からをわかっていた。それゆえに、労働者は、6時間に止まらず、12時間の労働過程に必要な生産手段を、作業場に見出すのである。10ポンドの綿花が、6労働時間を吸収して10ポンドの撚糸に転化したとすれば、20ポンドの綿花は、12労働時間を吸収して20ポンドの撚糸に転化されるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察。20ポンドの撚糸には、5労働日が対象化されている。4労働日には、消耗された綿花量及び紡錘量に対象化され、1労働日は紡績過程中に綿花によって吸収されている。しかして、5労働日の金表現は、30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。したがって、これが20ポンドの撚糸の価格である。1ポンドの撚糸は、依然として1シリング6ペンスの値である。しかし、この過程に投ぜられた商品の価値総額は、27シリング(労働力の価値3シリング、綿花は倍の20シリング、紡錘の消費も倍の4シリング)であった。27→30=3シリングの剰余価値がうまれた。(ここは、詳しく説明していません)。詐欺にあったのか?※「問題の条件はすべて解決された。しかも、商品交換の法則は、少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された」のである。

 

価値形成過程と価値増殖過程低程

最後に労働過程・価値形成過程・価値増殖過程の関係や比較をみます。『労働過程』=使用価値を生産する具体的有用労働、『価値形成過程』=価値を形成する抽象的人間労働、『価値増殖過程』=ある一定の点を越えて延長された価値形成過程にほかならない。労働過程と価値形成過程の統一=商品の生産過程、労働過程と価値増殖過程の統一=資本主義的生産過程という。[価値形成過程においては、その量的な側面からのみ示される]。「労働は、もはやその時間尺度にしたがって、数えられるにすぎない」としています。                                                 

 (S)

 

 

2019年7月29日 (月)

2019年4月28日学習会の報告

①第1部入門講座

 今回は、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」3「等価形態」の第12パラグラフ「しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別に人間労働の単なる表現として働くことによって、・・・」(岩波文庫第1分冊108頁、国民文庫第1分冊112頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこの3項目「等価形態」の最後までと、次の4「単純な価値形態の総体」の第2パラグラフまで「・・・迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめあげている。」(岩波文庫第1分冊113頁、国民文庫第1分冊116頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

学習内容(報告)

 3 等価形態の続き

ここではまず等価形態の第3の特色として、等価形態となる商品を生産する生産者の私的労働がその反対物である直接的に社会的な形態の労働となるということが言われています。それは、ここでの例では上着が等価形態となっていますが、上着は亜麻布との価値関係において等価形態として置かれることによって、それを生産する仕立て職人の私的労働(裁縫労働)は、ここでは直接的に社会的な形態の労働になるということです。

 本来、上着を作る裁縫労働は、他の商品を生産する労働、例えば亜麻布を織る織布労働と同様、個別の商品生産者の私的労働にすぎません。ですがそれらがある商品の等価物として置かれるとそれらの私的労働が、社会的な労働として認められるものになります。これが、等価形態の第3の特色、私的労働がその反対の形態、すなわち、直接に社会的な形態の労働となるということです。

 最後にマルクスは、価値形態について最初に分析した偉大な人物としてアリストテレスを取り上げ、彼の価値形態の分析の意義と限界について触れています。

 アリストテレスは、「しとね5個=家1軒」という形態と「しとね5個=貨幣一定額」という形態が少しも区別がない、つまり本質的に同じものであるということを見抜いています。つまり後者の形態、つまり商品の価格形態(貨幣形態)の本質が、前者の形態の中にあるということを洞察しています。そこで前者の形態をさらに分析して「しとね5個=家1軒」とい価値表現は、「家」が「しとね」に質的に等置されているということであり、つまりこの両者は、その本質において共通なもの(=「等一性」)があり、その共通な本質のものとして通約しうる大きさとして相互に関係しているのだということまでたどり着いています。ここまでがアリストテレスの先見性であり、彼の価値形態の分析の意義です。ですが彼はここから先には進めませんでした。つまりこの共通なものが何かということまでは分析できませんでした。これまでテキストを学んできた私たちには、この共通なものとは商品の価値であり、その実体は抽象的な人間労働であるということを知っています。

 つまりアリストテレスの限界は、商品の価値概念の欠如にあります。

 しかし、これは彼個人の限界というよりも、何よりも彼の生きた時代、古代ギリシャの社会が奴隷制を基礎に置く社会であり、商品の価値という形で現れる近代以降の社会の人間労働の同等性ではなくむしろ人間労働の不等性にこそ、その基礎があったところから来るものです。

 

 4 単純な価値形態の総体(1、2パラグラフ)

 どんな商品も、自分自身の価値を表現しなければなりませんが、その表現の仕方がここ第3節で問題にされている価値形態といえます。その価値の表現様式のうち、最も単純な――つまり価値形態として最も未発展な――

形態が、ここA単純な価値形態で分析されているものです。これは基本的にある商品が他の異種の商品にその価値が表現される形態です。等式でいえば x量の商品A = y量の商品B というような形態です。

これは質的には、商品Aの価値が商品Bの自然形態で表されている形です。これを、資本論を学ぶ以前の我々の通俗的な認識で表現すると、x量の商品Aの交換価値が、y量の商品B――商品Bで価値を表すとするとそのy量分に相当するということ――という形で表されているといえます。

しかし、ここで交換価値として言われたものは、商品Aの価値形態、具体的にいえば商品Bの姿で表された商品Aの価値形態ということです。

資本論の冒頭で、商品は使用価値と交換価値をもつものといわれましたが、正確には商品は使用価値と価値をもつものであり、我々の目に交換価値として映ったものは、価値の現象形態にすぎないものなのです。しかし、この点を理解するならば、商品は交換価値をもつものであるという言い方も無害であるとマルクスは言っています。

 これまで見てきたように、商品の価値形態や価値表現の様式については、商品価値の本質から出てくるものです。しかし、多くの経済学者達はこれとは逆に、価値概念、価値とは何かということや価値量を規定するものを、商品の交換価値としてのその表現様式、つまり価値形態から導き出そうとしました。重商学派は価値表現の質的側面に、つまり等価形態としての完成態である貨幣の姿にとらわれ、これとは反対に近代的な自由貿易商人たちは、むしろ相対的価値形態の量的側面にとらわれました。

 

質問等

○テキストでは「『しとね?』(109頁)とあるが、意味は?との質問がありました。

これについては、国民文庫では、「寝台」となっていますが、参加者の方から寝具とかの意味だと教えていただきました。あとで調べてみると「敷物。座布団・敷布団の類」(三省堂国語辞典)とありました。

 

○「古代ギリシャが労働の不等性に基礎を置く社会」とあるがどういう意味か?

報告者より「古代ギリシャは、奴隷制を土台にした社会で、支配階級である市民が奴隷に労働をさせて成り立っている社会です。ここでは、社会を生産する為の基本的な生産活動(物質的な生産活動)は、ほとんど奴隷が行っており、市民は奴隷を搾取して生活していました。市民はむしろ自ら労働するより、全般的な奴隷労働を搾取することにより生産的な労働からはほとんど解放されていたのだと思います。市民がする“労働”とは、生産現場においても管理監督労働やあるいは都市国家の行政機構や統治機構などでの労働であったと思います。このように古代ギリシャの社会では、奴隷の労働と市民の労働ははじめから全く違ったものとして、まさに不等なものとして認識されていたと思います。」

 

○報告者自身より「アリストテレスの分析が等価形態の2番目と3番目の特色をより分かりやすくするといっているが、いま一つピンと来ない?」と疑問が出されました。「またこれに関連して等価形態の3つの特色について簡単に説明してほしい」との要望もありました。

 まず報告者より等価形態の3つの特色として説明がありました。「第1に、等価形態として置かれる商品の現物形態、いうならば使用価値の姿がそのまま使用価値とは反対の価値そのものを表すもの、すなわち価値の現象形態となっているということ。テキストの例で上着が等価形態となっている場合は、上着という使用価値がそのまま価値(ここでは亜麻布の価値)そのものを表すもの(=価値体)となっていることです。

 第2は、等価形態を生産する労働は、上着の場合がそうであるように具体的な有用労働ですが、等価形態として他の商品との価値関係に置かれると抽象的人間労働の現象形態となります。つまり具体的労働がその反対物である抽象的な人間労働の現象形態となるということです。

 第3には、等価形態にある商品を生産する労働、テキストでは上着を作る裁縫労働が、これ自体本来は、上着を作る職人等の私的な労働にすぎませんが、他の商品との関係で等価形態として置かれるとこの労働が直接に社会的に認められる形態のものとなるということです。つまり私的労働がその反対物である直接に社会的な形態の労働となるということです。」

 これに対して参加者から「2番目と3番目は労働についてのことだからアリストテレスの例はそういう意味で出されているのではないか?」との意見がありました。

 「確かに労働の問題、価値としてあらわれるものの実体が抽象的な人間労働にあるということを確認するには意義があると思うが、アリストテレスの例が、等価形態の第2と第3の特色がもっと分かりやすくなるということがいま一つ分からない。」と再度疑問が出されましたがこれ以上議論になりませんでした。これにつては次会再度検討するということになりました。

(D)

②第2部 通常講座

 今回は、第5章「労働過程と価値増殖過程」の第1節「労働過程」の後半部分、第7パラグラフ「この全過程を、その結果なる生産物の立場から見れば、・・・」(岩波文庫第2分冊15頁、国民文庫版第1分冊317頁、訳文は岩波文庫のもの。)から第1節の終わり(岩波文庫第2分冊22頁、国民文庫第1分冊325頁)までを学習しました。

この間でタイトルをつけるなら、(1)「生産的消費」と(2)「一切の社会形態に等しく共通な労働過程」であること(3)「再び、生成中の資本の問題」と言うことになろうかと思います。(1)(2)を要約すると「大部分の生産手段は、労働の生産物よりなるから、生産物は労働過程の結果であるのみではなく同時にその条件になります。そしてある使用価値が完成された生産物として現れるか、生産手段として現れるかは、労働過程においてそれが占める位置によってきまります。石炭は、一般家庭の燃料に使用されれば完成生産物ですが、蒸気機関の燃料になったり、化学産業の原料に使用されれば生産手段となります。

労働は、これら生産手段を消費し、食い尽くしつつ、労働対象をあらたな生産物に変える。そしてその労働は生産的労働であるから、この過程は生産的消費の過程である。これにたいして、個人的消費は生産物を生きた個人の生活手段として消費しるのであって、このばあいの生産物は、消費者それ自身ということになる。」と生産的消費と個人的消費の違いを記しています。

「以上に見てきた(本文では「その単純にして抽象的な諸要素において叙述したような┉┉」19頁・14行~)労働過程は、人間生活があるかぎり常に見られる一般的自然条件ですが」それが資本主義のもとでは、次回『価値増殖過程』へ。

そして、(3)の「再び、生成中の資本の問題」として、「彼(資本家)が、労働過程に必要なすべての要素を、対象的要素または生産手段、人的要素または労働力を、市場で買ったのちに、┉┉彼は労働力の担い手、労働者をして、その労働によって生産手段を消費せしめる」そして「資本家は、労働が整然と進捗し、生産手段が目的に合致して使用され、かくして原料は浪費されることなく、労働用具は大切にされるように、すなわち、労働によるその使用で、止むを得ない損傷に限られるように、注意する」そして「生産物は資本家の所有物。労働者に日価値を支払う」と賃労働過程で二つの特有な現象を述べています。さらに労働者は「彼が資本家の作業場に入った瞬間から、彼の労働力の使用は、したがってその使用、労働は、資本家に属したのである」(21頁・17行)。資本家は「資本家は、労働力の購買によって、労働そのものを生きた酵母として、同じく彼に属する死んだ(過去の)生産物形成要素に、合体させたのである」(22頁・1行)とそれぞれの位置を表現しています。  

(S)

 

2019年4月15日 (月)

2019年3月24日学習会の報告

①第1部  入門講座

第一章「商品」第三節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」三「等価形態」のテキスト第4パラグラフ「等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、・・・」(岩波文庫第1分冊104頁、以下同文庫からの引用ページ数のみ記載)から同11パラグラフ「・・・、等価形態の第二の特性である。」(108頁)までを学習しました。

前回、直接交換可能性の形態として、「商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身に対して独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押し付けると言う事である」。そして、「一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。」(103頁)ということを学びました。そして、今回は、その『等価形態』の特性(三つの内一と二)について説明しました。

 まず特性とは(=そのものだけが有する他と異なった特別の性質≪広辞苑≫)とあります。

等価形態の[第一]の特性は、「使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となること」(104頁)いうことです。亜麻布の価値を表すのに、上衣という使用価値の姿で表現しているのです。また、「いかなる商品も自分自身にたいして等価として関係することはなく、┅┅自分自身の価値の表現となすことは出来ない」(105頁)のであって、「他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ」(105頁)としています。この「皮膚」と言う表現をする場合、皮膚は、身体を包む外皮で、商品と商品の関係として現れるものは、人と人との関係なのであって、前者はいわば後者を包んでいる外皮なのです。ここでは、商品に包まれている労働を言っているとおもいます。では、「価値量」はどうなるのでしょうか。「一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である」(104頁)として「度量衡」で例えています。「鉄の物体形態も、砂糖のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量容態、すなわち、重さの現象形態を代表する。」(105頁)、さらに、「鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布に対して、ただ価値を代表するだけである。」(106頁)と、ここで、なんとなく、貨幣である『金』○○オンスと見えてくるようです。

等価形態の謎は、「まさに、一商品体、例えば上着が、あるがままの物として価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にある」(106頁)のであり、それは「・・・その等価形態を、すなわち直接的な交換可能性という属性を、同じように天然にもっているかのように・・・見える」(106頁)ことから生じるとテキストにあります。そして、等価形態の謎を貨幣の中にしか見ないブルジョア経済学者を批判しています。彼らは、完成された価値形態、すなわち貨幣形態(商品Aの価値=金△オンス等々)の形態しか見ないのです。ですから「彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というような最も簡単な価値表現が、すでに価値形態の謎を解くように与えられていることを、想像しても見ない」(107頁)のです。

[第二]の特性は、「(上衣の布地を裁断したり、縫ったりする)具体的労働がその反対物、すなわち、(価値の実体である)抽象的に人間的な労働の現象形態(となって、亜麻布の価値を表しているということである)となる」(108頁)ということです。

 

②第2部   通常講座

今回から第三篇「絶対的剰余価値の生産」に入り、この日は第五章「労働過程と価値増殖過程」の第一節「労働過程」の冒頭(岩波文庫第2分冊9、国民文庫第1分冊311頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこの節の第7パラグラフ注記(七)「・・・資本主義的生産過程については決して充分ではない。」(岩波文庫第2分冊15頁、国民文庫第1分冊317頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

学習内容(報告)

 この第三編から具体的に資本主義的生産過程の分析に入り、この中で剰余価値の生産の秘密、そのメカニズムが具体的に明らかにされます。

 しかし、こうした資本主義的搾取、剰余価値生産の過程は、他方では商品の生産過程でもあります。商品とは人間の生活に有用な労働生産物(使用価値)がとる歴史的な形態です。これを有用物(使用価値)の生産として普遍的に考察するならば、それは労働過程ということになります。

 我々が考察するのは、資本主義的な過程、つまり剰余価値の生産過程(価値増殖過程)ですが、その資本主義的特徴を掴む為にはまず、普遍的な労働過程がどういうものかをしっかり掴む必要があります。その上で資本主義的過程(剰余価値の生産過程、価値増殖過程)を考察することにより、資本主義的過程の特徴と本質がより明瞭になります。このことがこの第一節「労働過程」の考察の意義だと思います。

 

 資本の生産過程を人間にとっての有用物(使用価値)を生産する過程としてみれば、非資本主義的な生産方法とも共通かつ普遍的な労働過程として考察可能です。それ故「労働過程は、最終はまずいかなる特定の社会形態からも、独立に考察されるべきもの」(9頁)です。

 では労働過程について見てみましょう。

 労働過程は、次の3つの要素から成り立っています。

 ①労働そのもの②労働対象③労働手段です。

 ①の労働そのものはテキストでは次のように規定されています。「労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち、人間がその自然との物質代謝を、彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である。」(10頁)と。これは人間も他の動物と同様自然界に存在する栄養物やその他の必要なものを摂取することなしには個々の人間は愚か種としての人間つまり社会を維持再生産する為には絶対的に不可欠なことです。しかしその自然界から有用物をとりいれる方法(ここで言われている物質代謝)の仕方が、他の動物とは異なっています。人間は、自然をそのままの形で取り入れるのではなく、人間に有用な形態に自然物を変化させとりいれるのですがそれが労働だということです。つまり労働とは、自然との物質代謝を行う上での人間特有の仕方だともいえます。

 この労働ですが自然そのものを人間に有用な形に変化させるのみではなく、それを通じて人間自身も変化させるということもその特徴としてあります。

自然に働きかけてそれを自分たちに役立つように変化させるということはある種の動物も行うように見えます。例えば蜘蛛は、自分の獲者をつかまえるための精緻な巣をつくり、蜜蜂も精巧な巣をつくり、それぞれ人間の建築家に劣らないような複雑・精緻なものを作ります。しかし蜘蛛や蜜蜂のそれは本能的なものでしかなく、あらかじめ人間のように作業の前に、どのようなものを作るのかを頭の中に思い浮かべて、その通りものを作るということはできません。その意味で人間労働は、目的が最初にあり、その目的を実現するためにどのように働きかけるかを考え、それが実現するように彼自身の意識を調整コントロールして行う活動です。その意味で労働は合目的的活動といえます。

次に労働対象ですが、これは主に二つあります。一つは、人間自身の手が全く加えられていない「天然に存在する労働対象」ともう一つはすでに人間自身の手が加えられてそれ自身が労働の産物である原料です。

前者は、「完成生活手段を用意している土地」(11頁)や「労働によって、大地から直接の関連から引き離されるにすぎない物」(11頁)などです。例えば、天然の海――海でも人間自身が漁場として改良されているものはこれに該当しない――から取れる魚、原始林から伐られる木――すでに林業により手が加えられている山林はこれに該当しない――等々などがそうです。これに反してすでに何らかの人間労働が加えられているものは全て原料ということになります。

次に労働手段は「労働者が自己と対象のあいだに置き、この対象にたいする彼の活動の導体として彼に役立つ物または諸物の複合体」(12頁)であり、「物の機会的、物理的、化学的諸属性を利用して、それを彼の目的に応じて、他の物におよぼす力の手段として作用させる」(12頁)ものとテキストにあります。

人間は労働対象に働きかける際に、通常彼自身の手や足などの諸器官で直接に対象に働き環けるのではなく

何かものを媒介にして働きかけます。例えば、畑を耕すのにも鍬や鋤であるかあるいはもっと発達した労働手段であるトラクターであるかは問わず何らかの労働手段をつかって行います。こうした物が労働手段です。

 労働手段の使用と創造とは、人間の労働過程を他の動物のそれと区別するものだとテキストにあります。確かに萌芽的な状態ではある種の動物も道具を用いるようなことがあります。例えば、チンパンジーが木の枝を活用して蟻をとるなど。しかし、道具を使ってさらにより複雑な道具を考案し作成するなどということは人間以外には見られません。

 またどのような労働手段が使われるかは、その社会がどのような生産様式の社会かを判別する上で重要だといいます。「何が作られるかではなく、いかにして、いかなる労働手段をもって作られるかが、経済上の諸時代を区別する」(15頁)のです。

 これまで見てきた労働過程の全過程を「その結果なる生産物の立場から見れば、労働手段と労働対象との二つは、生産手段として、労働そのものは生産的労働として、現れ」(15頁)ます。

 

質問等

○「テキスト15頁の『労働者の側に不安定な形態において現れたものが、いまや安定的な性質として、存在の形態において、生産物の側に現れる。』という文章があるがこの意味がよくわからない。不安定な形態云々とは何をさしているのか分からないので説明してほしい。」という質問がありました。

 これについては、報告者より「この直前の文章が『労働はその対象と結合した、労働は対象化され、対象は加工される。』(15頁)とあるので『不安定な形態において現れたもの』とは労働そのものだと思う。つまり現在進行形の労働(生きた労働)は、それ自体人間の活動であるからそれを手にとってつかむことはできないが、対象に働きかけ、対象を加工し、つまり生産物に対象化された労働は、生産物の形態で手で触ったりつかんだりできる形態に変わったということではないかと思う。ちなみに国民文庫訳ではその部分は『労働者の側に不静止の形態で現れたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現れる。』(国民文庫第1分冊317頁)とあります。」

 

2019年3月26日 (火)

2019年2月24日学習会

福山『資本論』を読む会は、今年の1月から毎月第4日曜日の月一回となり、今回から当面第1部入門講座と第2部通常講座を並行して行います。


 


以下は、2月24日(日)の学習会の報告です。


 


①第1部 入門講座


  第一章第三節A-三「.等価形態」(岩波文庫第1分冊103~104頁第1段落~第3段落、国民文庫第1分冊106~108頁第1段落~第3段落)


 「商品A(亜麻布)は、その価値を異種の一商品B(上衣)の使用価値で表わすことで、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける」(岩波文庫)


 亜麻布の価値が上衣という使用価値で表わされるということは、亜麻布に対して上衣が、上衣という肉体形態とは異なった価値形態をとることなしに、亜麻布に等しいものとして置かれるということです。亜麻布は、自分自身が価値あるものであることを、直接に上衣と交換することによって表現するのです。


 上衣が亜麻布のために等価物として役立ち、亜麻布と直接に交換される形態にあるとしても、それによっては、上衣と亜麻布とが交換される割合までは決して与えられていません。この割合は、亜麻布の価値量が与えられているのだから、上衣の価値量によって定まります。


 しかし、上衣が価値表現において、等価物の位置にあるということは、この商品種類・上衣の価値量としての表現ではありません。この商品種類・上衣は、価値等式のなかでは、むしろただ或る物(ここでは亜麻布)の一定量として現われるだけなのです。すなわち、それ自身の価値量、上衣の価値量を表現することは決してできないのです。一商品の等価形態は決して量的な価値規定を含んでいないのです。


 


 ②第2部 通常講座


今回は、第四章「貨幣の資本への転化」の第三節「労働力の買いと売り」(岩波文庫第1分冊290~307頁、国民文庫第1分冊293~309頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)を学習しました。


学習内容(報告)


 前節では、剰余価値の発生は流通から生じるわけにはいかない――なぜなら流通は、単なる交換の場であり、これまで見てきた商品交換の原則から等価交換が原則であり、そこでは商品から貨幣、あるいは貨幣から商品へと転化しようともそれは単なる形態転換であるに過ぎず、価値量の変化は伴わないから――、しかし他方でそれは流通から生じないわけにもいかない―― なぜなら流通の外では、商品生産者らは自分の商品に対し自分が行う労働を価値として対象化するのみであり、それは自分の行った労働時間分が価値として対象化されるだけであり、決して剰余価値をその商品に付け加えるものではないから――、という矛盾した結論にたどり着きました。


 ここ第三節では、この矛盾が解決されます。


 資本の一般式は、次のように与えられています。すなわちG――W――G(G´)。ここでは貨幣所有者は、貨幣により商品を買い、それを再度売り貨幣に変えることにより剰余価値⊿Gをえることになります。


しかし、この過程のどこに剰余価値を生む秘密があるのでしょうか?


 最初に貨幣Gを見てみましょう。貨幣自体は、ただ商品の価値を価格という形で実現するのみで、貨幣自身から剰余価値が生まれるということはありません。つまり前半の流通G――Wから剰余価値が生まれることはありません。


 では第二番目の流通行為、W――G商品の再販売から生じるでしょうか?


もちろんここでも剰余価値は発生しません。なぜならこれは、ただ商品Wがその商品としての姿から貨幣の姿へと形態を変化させるのみであり、当然ここでは価値変化は生じないからです。


 とすると、剰余価値発生の秘密は貨幣所有者が買う商品Wにこそあるということになります。 


 しかし、問題はこの商品の何にその秘密が隠されているのかが問題です。         


 それはこの商品の価値にあるのではありません!なぜなら価値物としてはただ等価物のみが交換されるのですから。


 ですからこの価値変化、価値増殖の秘密はこの商品の使用価値そのものから生じるものなのです。


 つまり、その使用価値の実現(消費)が価値の源泉であるという特殊な商品を貨幣所有者は市場で見つけ出さなければならないのです。


 実際にそのようなものは労働能力または労働力なのです。


 しかし、いつでもそのようなものが商品として市場に見出すことができるかというとそうではありません。その為には条件があります。


 まず労働力の所有者が彼自身の労働を自由に処分できることがひとつの条件としてあります。例えば、封建社会の農民などは、身分と強制力により土地に縛られて自由に労働力を売るということなど不可能でした。


 また労働力の所有者がみずからの労働力を売るようになる為には、そうする以外に自らの生活手段を得る手段がないということが必要です。もし彼ら自身が生産手段(原料や労働用具等)を所有していれば、彼は自らの労働力を売るのではなく、自らの労働を対象化した商品を売ることによりその手段を得るでしょう。つまり彼らが生産手段を所有しておらず、したがって自らの労働を対象化した商品を売ることが不可能であることがその条件となります。


 以上のことから貨幣が資本へ転化するためには、貨幣所有者は市場で二重な意味での自由な労働者を見いださなければなりません。それは自らの労働力を自由に処分できるという意味で自由であり、かつ一切の生産手段から切り離されて自由――生産手段の所有から自由=非所有――というように二重の意味において自由な労働者ということです。


 実はこのような条件=労働力の商品化の条件は決して自然的な条件ではありません。それは歴史的に生み出される条件です。これは封建社会が掘り崩されて資本主義が登場する時代、いわゆる資本の本源的蓄積の時代(テキストではこの後の第二十四章「いわゆる本源的蓄積」で扱われます)に急速に生み出されて登場してきたものです。


 すなわちこうした条件、労働力の商品化そのものが資本主義という一時代を特徴づけるものだといえます。


 ところで労働力という商品の価値はどのように規定されるのでしょうか?


 労働力という商品も他の商品と同様にそれの生産(または再生産)に要する社会的平均的な労働時間により決まります。労働力は、生きた人間に内在する力である為に、その再生産の為にはその人間が生きてその能力を維持再生産することが必要となってきます。その為には一定程度の衣食住の生活物資が必要となります。


 つまり、この為の必要な生活手段の総量を生産するのに必要な労働時間の総計が労働力の価値を規定します。この必要な生活手段の中にはまず労働者自身を正常な状態で維持するに必要なものが含まれます。何を正常とするか、労働者の欲望等とも関わりますが、その国や地域によりほぼ与えられています。


 また労働力は世代を超えて再生産される必要がありますので、次世代の労働力として労働者のこども達の養育費等もこれらのものに入ります。


 さらに特定の労働部門に適応した労働力を養成しようとすれば、そのための教育や訓練等に必要な費用も考慮されなければなりません。こうした部分も当然労働力の価値規定に入ります。


 次の章(第五章)からは、具体的な資本の生産過程が展開されます。それは資本家が労働者から買った労働力商品を消費する過程、つまりその使用価値を実現する過程です。この過程は同時に、資本にとっては商品と剰余価値の生産過程でもあります。この中で剰余価値創造の秘密と資本主義的搾取のメカニズムが具体的に明かされます。


 しかし、この節で見てきた労働力の売買の過程はそれ自体は流通部面に属するものです。この限りにおいては資本家と労働者はあくまでも対等な商品所有者同士の関係として現れます。


 しかし、この形式的な自由で平等な契約関係の背後には、それと相対立する敵対的な関係が隠されているのです。それがどんなものであるかは次章から学んでいきましょう。


 

2019年1月27日学習会の報告

今回は、第四章「貨幣の資本への転化」の第二節「一般定式の矛盾」(岩波文庫第1分冊271~290頁、国民文庫第1分冊273~292頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)を学習しました。


 以下は、当日の学習会の報告内容です。


 


学習内容(報告)


 商品流通(W――G――W)と資本流通(G――W――G)の形態的な違いは、売り(W――G)と買い(G――W)の順番が異なっているということです。しかし、果たして売り(W――G)と買い(G――W)の順序が転倒するだけで、貨幣は資本に転化するのでしょうか。それが問題です。


 W――G――W、G――W――Gどちらとも3人の取引者が介在し、この点ではどちらも同じです。


 そこで、後者の取り引きについて、私が貨幣所有者として登場するものとします。


 まず私は貨幣でもってAさんから商品を買います(G――W)。これを取引①とします。そして次に私は、その買った商品をBさんに売ります(W――G)。これを取引②とします。①の取り引きは私から見れば買い(G――W)ですが、Bさんからみれば売り(W――G)です。この取引自体は、私が資本家としてBさんに相対するものではありません。ただお互いに普通の商品所有者同士の対等な取引にすぎません。他方、②の取り引きもこれ自体は、特別私が資本家としてAさんに相対する取り引きでもなく、これもお互いに対等な商品所有者同士の取り引きにすぎません。つまり売りと買いの順序の転倒から単純な商品流通の域を超えることはできません。


 しかし、前節ではG――W――Gという流通は、最後のGが増殖してG´になり、最初に投じられたG貨幣は、資本に転化するということが説明されました。


では、果たして流通そのものから剰余価値が発生し、貨幣は資本に転化するのか?ということが問われなければなりません。今度は、このことについて見ていきます。


まず貨幣を媒介にするのではなく、直接に商品と商品が交換される場合を見てみます。この場合、剰余価値は生まれるでしょうか?


 葡萄酒生産者と穀物生産者が取り引きすると仮定します。この場合、使用価値の面においはお互いに利益を得ることになります。なぜならこの交換(葡萄酒と穀物)において葡萄酒生産者は、彼自身が穀物を作るより多くの穀物を得ることができるし、穀物生産者も彼自身が葡萄酒を作るよりも多くの葡萄酒をこの交換により得ることができるからです。


 他方、交換価値の面では事情が異なります。なぜなら対等な商品所有者同士の取り引きとしては、両者の間で例えば50の価値の小麦が、葡萄酒で50の価値と交換されるのみだからです。つまり交換価値の面では、取引の前と後ではその大きさは変わらないからです。つまりこの場合価値の増殖はありません。


 では次に貨幣が媒介する場合ですが、これも先の場合と何ら変わりません。それはW――G――Wと貨幣が媒介しても、これは最初のW商品自身が、G貨幣の姿に転化し、最後に再びW商品の姿に戻るという商品の変態にすぎず、ここには量的な変化は含まれていないからです。ここでも等価交換が前提ですので、剰余価値の発生の余地はありません。


 それでは等価交換でない場合はどうでしょうか?


 最初に売り手に特権があり、価値以上の価格で売ることができる場合。


 ここで売り手は10%高く売ることができる、すなわち100の価値の商品を110で売れるとします。この場合、売り手は10の剰余価値を取得できます。しかし、彼は次に買い手として10の価値を失うことになります。どんな売り手も、別の場面では必ず買い手として現れないわけにはいきません。


 結局、この場合は名目的に10%価格が上昇する場合と同じであり、結局は誰も剰余価値を取得することはできません。


 次に逆に買い手に商品を価値以下で買う特権がある場合を考えると、これも「彼はすでに買い手として10%利得するまえに、10%だけ失っている」(280頁)。すなわち差し引きゼロであり、ここでも剰余価値は発生しえません。


 つまり剰余価値の形成は「売り手が商品を価値以上に売るということによっても、買い手がこれを価値以下で買うということによっても、説明しえ」(281頁)ません。


 売り手に特権がある場合も、反対に買い手に特権がある場合も、誰も一方的に売るだけや一方的に買うだけのものは存在しません。売り手も売る為の商品をどこかで買わなければなりません、仮に自分が生産した商品を売るのだとしてもそれを生産する為に必要な生産要素をやはり商品として買わなければならないでしょう。それに一方的に売るだけの人を想定するなら、そもそも彼はどうやって自分が生きていく為の生活資材を手に入れるのかが問われます。だからこれらの場合は、一方で得をしても他方でそれを失い、社会的に剰余価値の発生がないのは言うまでもないですが、個別の取引者ごとにみても剰余価値は生み出されません。


 そこで今度は個別的な取り引きにおいて非等価の取り引きがある場合を考えてみます。


 Aという人がいて彼は狡猾な人間だとします。他方、彼と取り引きするBやC等らは実直な人だとします。


 Aは、葡萄酒生産者で40ポンドの価値の葡萄酒をBに50ポンドで売るとする(非等価交換)。Aは、40ポンドの葡萄酒とひきかえにBから50ポンドの貨幣を手にします。そしてAは手に入れた50ポンドの貨幣でCから50ポンド相当の穀物を手に入れます(等価交換)。結局Aは、40ポンドの葡萄酒で50ポンドの価値の穀物を手に入れたことになります。この場合、確かにAは10ポンドの剰余価値を手に入れたことになります。


 しかし、総価値で見ればこの一連の取り引きの前と後では価値量に何ら違いがありません。40ポンドの葡萄酒と50ポンドの穀物ですから計90ポンドと。すなわち「流通する価値は、ほんの一分子も増えていない」(284頁)ということです。これはテキストでも書かれているようにAとBの間の価値の分配が変わっただけであり、何か流通の過程で剰余価値が生み出されたと言うわけではありません。Aにとって“剰余価値”として現れたものはBにとっての損失であり、これも結局プラマイゼロで社会的には何らの剰余価値は生まれてはいません。


 以上、これまで見てきたことから結論的に、等価交換でも非等価交換でも流通からは剰余価値は生まれえないということが明らかになりました。


 しかし、では剰余価値はどこから生まれるのでしょうか?流通から生まれないとするなら、流通の外で剰余価値が生まれるのでしょうか?これこそが問題です。


 流通の外では、商品所有者は他の商品所有者との関わりをもつことはできません。ただ自分自身の商品に対して自分自身が関わるのみです。自身の商品との関わりでいえば、自分自身が労働してその商品を生産するというようなことだけです。それ故、商品の価値との関係でいえば、ただ生産者自身の労働の社会的に規定された一定量が、彼自身の商品に対象化されるだけです。確かにここでは価値を生みだすことはできますが、決して剰余価値を生むことはできません。


 つまり、「商品生産者が流通部面の外部で、他の商品所有者と接触することなくして価値を増殖し、したがって、貨幣または商品を資本に転化するということは、不可能」(286頁)なのです。


 それ故「資本は流通から発生しない。そして同時に、流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない。」(289頁)という矛盾した結論にたどり着きます。これがこの第二節での結論です。


 ですからこの次の第三節では、この矛盾した命題を解くことが課題となります。


 すなわち、上記の矛盾した命題を、商品交換の内在的法則の基礎の上――つまり等価交換を前提にして――に解くことが課題となります。


 


 


主な質問・意見等


○「非等価交換ということが報告でもいわれテキストでも書かれているが、通常は不等価交換というようにいわれると思うが、違いはあるのか?」との質問がありました。


これにつては報告者から「岩波版だけでなく大月書店版もここでは非等価という訳になっている。たぶん訳の間違いというよりマルクスの表現がここでは非等価というようになっているのだと思う。非等価と不等価で内容的に違いはないと思うが、ここで非等価と言う表現を採用している細かいニュアンスははからない。内容的には同じことと考えてもらって言いのではないか?」と説明がありましたが、ここではこれ以上は議論になりませんでした。


○「葡萄酒生産者が40ポンドの自分の葡萄酒を50ポンドで売っても社会的に剰余価値は生まれていないということはどういうことか。商人などは自分が仕入れた商品を仕入れ価格より高く売ることよって利潤をえているが、それでは剰余価値の説明にはならないのか?」との質問が出ました。


 これについては「これではただ葡萄酒生産者Aただひとりが得をしただけで、彼がここで10ポンドの個別的剰余価値を取得したとしても、それは葡萄酒を50ポンドで買わされた人の10ポンドの損失の上になり立っているだけにすぎない。結局葡萄酒生産者のプラス10の剰余価値は、それは買った人のマイナス10の価値と相殺される。実際にこれは40ポンドと50ポンドの価値が非等価で交換されたわけで、交換前と交換後ではトータルの価値は90で変わらない。ただ分配がかわっただけで、テキストでいわれているように葡萄酒生産者Aが自分の商品を売るのでなくて直接に10ポンドBから盗んだのとかわらない。しかし資本というのは、どんどん価値増殖していくわけです。それは資本が非等価で誰かから“不正に”収奪しているというのと違うわけです。(もちろん内容的に資本と労働者の関係は、実質的に非等価?不等価交換で搾取が存在しているというのはその通りですが。しかしこれも単純な流通の問題ではないのです。)


流通過程で、流通の操作で仕入れた価格にマージンをプラスし転売することにより剰余価値を説明するとは不可能です。商品の売り手が価値より高い価格で売ることができても、それは名目的な物価上昇につながるだけで全体の価値関係では元の場合と変わりません。ここから剰余価値を説明しようと思えば、自らは全く消費せず商品を一切買わないでただ売り続けることができる階級を想定しなければなりません。


 第四章ではまだ扱われるべき内容ではありませんが、あえて言うと剰余価値というのは本質的に不払い労働であり、資本の労働者に対する搾取の結果です。ですがこうした資本主義的搾取のメカニズムは、それ以前の社会の暴力的支配関係に依存した直接的な搾取とは本質的に違うものです。私たちがこれから学ぶ資本主義的搾取のメカニズムは、あくまでも商品交換の等価交換の原則のもとに行われるものです。資本家と労働者の関係も、このブルジョア社会の原則の下、形式的には自由で対等な契約関係にすぎず、封建社会の農奴のように強制された関係ではありません。尚、労働こそが価値の源泉であるという労働価値説の立場からすれば、必然的に剰余価値の形成は、生産過程での労働者の生産的労働の搾取に求める以外ありませんが、先の例(葡萄酒生産者が40ポンド葡萄酒を50ポンドで売りつける例)や商業資本の立場からする商業利潤の根源を流通操作に求める場合は、流通から剰余価値を説明することになり、労働価値説とも矛盾することとなるばかりか、資本主義的搾取のメカニズムの秘密は完全に覆い隠されてしまいます。なぜなら流通過程から剰余価値を説明できるなら『資本論』のこの後の章から展開される資本の生産過程においてなされる資本主義的搾取のメカニズムは否定されることになります。


 直接に流通過程から剰余価値が説明しえないからこそ、やはりその秘密は資本の生産過程にあるわけで、労働価値説からもそうした説明が唯一正しいものということになるのだと思います。


 尚、商業利潤が商業資本などの商品の販売操作等(これらすべては流通過程上のもの)から発生するように見えます。しかし、これは資本家的分業関係から産業資本が生み出す剰余価値の一部が分配されているのです。生産的労働のみが価値の源泉だとすると剰余価値の創造もこれに求める以外ありません。そうなると産業資本のみが剰余価値を取得するということになりますが。しかし価値の創造、従って剰余価値の創造自体は生産にありますが、しかし、それを実現する為には商品を売ることが必要です。価値を生産してもそれを商品として売って実現しなければすれは無に帰します。ここに資本家的分業関係による産業資本と商業資本の分配関係の必然性があります。ここに商業利潤の発生の根源があります。つまり商業利潤という形での剰余価値の分配があるのです。


 それが、産業資本が生産した剰余価値の一部分であるという証拠は、仮にある商業資本が年間一億円商業利潤をあげたとしますこれが利潤として、(社会的)富として意味があるのは、この一億円で買うことができる物質的現物形態の富(社会的使用価値)がこの社会のどこかに生産されて存在している限りです。この一億円はこうした現物形態の富と交換可能な限りでそう言えるからです。人は誰も札束や金で空腹をしのぐことも衣食住の足しにすることもできません。おカネ、貨幣がカチだとか富だとか言えるのは、あくまでもそれにより生産された物質的な富をそれで買うことができるからであり、でなければそれを社会的な“富”だということは誰もできないでしょう。従って商業資本が生み出した一億円という貨幣額が社会的富を表しているといえるのは、それが表している現物形態の富があってのことなのです。商業利潤も産業資本が生み出した“富”の一部(剰余価値の一部分)にすぎないのです。」と説明がありました。

2019年1月22日 (火)

2018年12月23日学習会の報告

今回から、第四章「貨幣の資本への転化」に入ります。この日はそのうちの第一節「資本の一般定式」の冒頭(岩波文庫第1分冊252頁、国民文庫第1分冊257頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこの節の最後(岩波文庫第1分冊271頁、国民文庫第1分冊273頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

学習内容(報告)

 今回から、第二編「貨幣の資本への転化」に入ります。第二篇は、同名の短い章、第四章「貨幣の資本への転化」の一章のみで構成されています。これは、第一篇「商品と貨幣」の考察を受けて、第三篇「絶対的剰余価値の生産」以降から具体的に資本の生産過程が明らかにされますが、そのつなぎとして、その前段としての章構成になっています。

 この第二篇、つまり第四章の課題は、第一節で明らかにされた商品と貨幣の概念から資本という概念を論理的に導き出すことが課題とされています。テキストの中でもこの章の冒頭で「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。」(255頁)といっていますが、労働生産物が一般的に商品として現れるような社会と貨幣の存在は、資本が成立する上での論理的な条件でもあります。ここでの課題は、歴史的な条件ではなく、むしろ商品と貨幣の中から資本が生み出される論理的な必然性を明らかにすることにあります。

 私たちは、商品の流通式としてW――G――Wというものを既に知っています。これはある商品を売り貨幣に転化して、その貨幣をまた別の商品に変えるという商品の交換式です。いうならばこの式は買う為に売るということです。

 他方、貨幣で始まり、それを商品に転化し、最後のその商品をまた売り渡すという流通の形態G――W――Gという流通式があります。これは言うならば売る為に買うという行為です。これは貨幣に始まり、最後に再び貨幣を得る(すなわち目的が貨幣の取得)の為、この流通式は既に資本の流通式であるといわれています。

 しかしこの二つの流通式は、ともにW――G(売り)とG――W(買い)の二つから構成されており、どちらの取引も三人の取引者が介在するという点では同じです。ここで形態からわかる違いといえば、売りと買いの順番が違うということと、それぞれの目的が商品流通では異なる使用価値の交換が目的で、いうならばこの交換の目的は、目的の商品(流通式では後ろの方のW)を所得し消費することにあります。つまり最終的な目的はこの流通の外の過程(消費過程)にあるといえます。しかし資本の流通の方は、出発点も貨幣ですが終点も貨幣であり、つまりこの流通の目的は、貨幣の入手にこそあるということです。これは商品流通のように目的が流通の外にあるのではなく、まさにこの流通そのものが目的だといえます。

 流通W――G――Wでは、異なる使用価値の交換が目的ですから当然最初のWと後ろのWは、質的にことなるものです。しかし流通G――W――Gでは、運動の始点も終点も貨幣です。当然のことですが、交換価値としての貨幣は、質的には寸分も違いがありません。そうするとこの交換が意味をもつとしたら量的に差異がある場合のみです。それは、最後に還流して戻ってくる貨幣が最初に投じた貨幣よりもより増大した価値額の貨幣である場合のみです。すなわち資本の流通式では、後の方のGが最初のGよりも増大していなければならないのです。誰も投じた貨幣が、もし増大して戻ってこないなら自分の貨幣をわざわざ流通に投じる人はいないでしょう。少なくともここで貨幣所有者が貨幣を投じるのは、自分が買った商品を再び売ることにより、より大きな貨幣額として彼の手元に戻ってくるだろうという展望があるからでしょう。

 資本の流通では終点で戻ってくる貨幣は、最初に投じた貨幣より価値量が増大していなければなりません。故に先の資本の流通式は、正確にはG――W――G´(G´=G+⊿G、⊿Gは最初に前貸しされた貨幣の増加分、すなわち剰余価値)ということになります。

 このように資本に転化される貨幣とは、最初に前貸しされた価値額を流通の中で保存するだけでなく、その中で剰余価値を生み出しそれに付け加えるものです。こうして生み出される価値の増殖運動が、貨幣を資本に転化させるものです。

 そして特徴的なことは、この運動には終わりがないということです。なぜなら終点である貨幣は、同時にこの運動の新たな出発点(貨幣形態)でもあるからです。もしここで貨幣が引き上げられるとしたらそれは資本としての貨幣(資本に転化する貨幣)ではなく、ただの貨幣(退蔵貨幣等)になってしまいます。

 資本としての貨幣とは、この価値増殖の循環運動を続ける貨幣ということです。

 ところでこのG――W――G´は、一見商人資本に特有の形態に見えますが果たしてそうでしょうか?

 ここでは商人資本だけでなく一般的な資本の定式が問題になっているハズです。

 G――W――G´は、それは商人資本だけでなく産業資本にも当てはまります。自動車や鉄鋼などの産業資本も、資本として生産を始めるには、貨幣でもって生産手段等のあらゆる生産要素を商品として買うことから始まります。すなわち出発点は貨幣であり、その貨幣で生産要素を買い、新しく生産した商品を売り剰余価値を得るのです。そういう意味では産業資本もG――W――G´なのです。

 では銀行等の利子生み資本はどうでしょうか?

 マルクスは「利子付資本においては、流通G――W――G´は、簡略化されて、媒介のない流通の結果として、いわば簡潔文体で、G――G´として表される。」(271頁)といっています。これは別に言葉遊びではありません。利子生み資本は、その形態からみればおカネを貸して、そして貸した相手から元本に利子をつけて返してもらうわけだから貨幣が直接により増大した貨幣となって還流するという意味でまさにG――G´という形態なのです。しかしではこの利子の源泉は、どこから発生するのかというと根源は産業資本の生み出す剰余価値以外ではないのです。その意味で近代の利子生み資本は、それ自体が産業資本から派生してきたものでしかないのです(詳細はテキスト第三巻「資本主義的生産の総過程」第五篇「利子と企業者利得とへの利潤への分裂 利子生み資本」を参照)。

したがってG――W――G´は資本の一般定式なのです。

 

主な質問・意見等

「金が貨幣として機能するという内容だと思うが、それは金が価値をもっているということが前提になっていると思う。その場合に金の価値とは、それを産出するのに必要な労働量によってだけ決まるものなのか。例えば、金の希少性とか金をほしいと思う人の欲望とかは無関係なのか?」という質問がありました。

 これについては「基本的に金の価値の大きさは、他の商品と同じでそれを生産するのに必要な平均的な労働量の大きさで決まります。希少性については、いくら希少でもそれを獲得するのに労働が必要ないものはそもそも価値もありません。また欲望については、確かに使用価値として何らかの欲望の対象にならないと商品にはなりえませんし、そうした欲望の対象にならいものは、いくらそれを作り出すのに労働が支出されていても、価値物とはなりえません。そういう意味では無関係とはいえないかもしれませんが、だからといってそのものに対する欲望の大きさとかがその商品の価値の大きさに関わるということはないと思います。それは価値と使用価値の混同にすぎません。」とレポーターから説明があり了承されました。

○「ここでのテキストの説明は、金や銀あるいは金銀との兌換制の下という前提だが、これは現代の金との兌換が停止された現代にも当てはまるのか疑問がある。テキストで書かれている内容は、金との兌換がなされていた時代のことであり、歴史的な内容ではないかと思うがどうか?」という疑問が出されました。

 これについては「確かに現代では金との兌換が停止されていて、テキストでいわれていることを直接にはあてはめることはできない。そういう意味ではテキストの内容が歴史的なものだとも言えなくもない。しかし、現代の通貨のことや金融的な問題を考えるのにも、やはり資本論で展開されている内容は、貨幣論や金融論の最も基礎的な理論的土台であり、この理論的前提・理解なしには現代の問題も正しく理解することは不可能だと思う。例えば、現代に極めてありふれている通貨のインフレの問題なども、資本論でのように金であれば流通する貨幣量はきまっている。仮に金ではなく紙幣などの代理物であってもそれが流通する量は、その紙幣が代理している金量によって制約されるという流通法則を理解できなければインフレの問題は理解できないと思う。逆にこの関係を理解していれば、流通必要量に無関係に金融政策や財政事情で国家が紙幣を流通に人為的に無理やり押し込めば、流通必要金量を超えた分だけ紙幣価値が減価し、必然的にインフレにつながることが理解できる。だからテキストの内容もそれだけで直接現代の問題の答えになるわけではないが、しかし、そうした理解なしには現代の問題に正しく答えることは不可能だと思う。そういう意味で資本論は、古い時代の古典ではなく、現代の問題を考える上での土台、不朽の理論的原典だと思う。」と説明がありました。

2018年12月9日学習会の報告

第三節 価値形態または交換価値

A 「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の 二「相対的価値形態」の b「相対的価値形態の量的規定性」(岩波文庫第1分冊101頁~102頁、国民文庫104頁~106頁)

これまで価値形態を考察するにあたっては、量的な面からは離れて考察してきました。商品Aは自らでは自分自身の価値を表現できないので、他の商品BによってAの価値を表現するということを学びました。しかし、今回からは量的な側面にも入っていきます。商品は量的な面なしには取引はありえません。ある量の商品がどれだけの量の商品と交換されるのかは、重要な問題です。そして、お互いの商品の分量を決めるのは何でもって決められるのかという点に入っていきました。亜麻布20エレ=上衣1着 の等式で考察していきます。なお、ⅠとⅡは前回の学習箇所です。

.亜麻布の価値は変化するが、上衣価値は不変である場合

 例Ⅰ. 亜麻布の生産に必要な労働時間が2倍になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣2着

 例2.亜麻布の生産に必要な労働時間が二分の一になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣1/2着

亜麻布の相対的価値、すなわち上衣で表現された価値は、上衣の価値を同一としても、亜麻布の価値に正比例して上昇したり低下したりする。

.亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化する場合

 例Ⅰ.上衣の生産に必要な労働時間が2倍になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣1/2着

 例2.上衣の価値が半分に低下した場合

    亜麻布20エレ=上衣2着

亜麻布の価値を不変としても、上衣で表現されるその相対的価値は、上衣の価値変化と反比例で、低下したり上昇したりします。

Ⅰ及びⅡの項における各項の場合を比較すると、次の様な結果となります。

 相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てきます。

それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または上着の価値が1/2にていかしたのかによります。さらには(2)亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てきます。これは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからです。

.亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもあります。この場合には、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着です。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上昇または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまります。

.亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、それらの価値は同時に同一の方向に変化するとしても、同じでない程度でとか、または反対の方向にとか、その他様々な仕方で変化する場合があります。一商品の相対的価値に対する、この種のあらゆる可能なる組み合わせの影響は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの場合の応用によって明らかとなります。

2018年12月 6日 (木)

2018年11月25日学習会の報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」c「世界貨幣」の第4パラグラフ「その国内流通にたいすると同じように、・・・」(岩波文庫第1分冊252頁、国民文庫第1分冊243頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からc「世界貨幣」の最後まで「・・・または商品変態の流れの中断を示すものである。」(岩波文庫第1分冊254頁、国民文庫第1分冊255頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

c「世界貨幣」第4パラグラフ~最終パラグラフ学習内容

 貨幣は、世界市場においては、金や銀の地金(じがね)形態、すなわち現物の形態という形で機能します。ここでは、国内流通におけるように、鋳貨や価値標章(紙幣等)などの金や銀の代理物では機能しません。ではこうした世界貨幣として流通に出ていく金や銀はどこから供給されるのでしょうか。それはそれぞれの国内で蓄積された退蔵貨幣(の貯水池)から出ていきます。そういう意味では、各国は常に世界市場の為の準備基金を用意しておく必要がありますが、これはそれぞれの国内に蓄積された退蔵貨幣(貯水池)がその機能を果たします。この退蔵貨幣は、一国内においては、その国の国内流通における流通手段および支払手段の量を供給調整するプールとして機能するものであり、またこれが国際的取引においての債権・債務額の決済手段や国際間の富の移転等の為の世界貨幣の供給プールとしても機能するものです。

 こうして世界貨幣として機能する金銀の流れを見ると二つの流れがあります。一つはその源泉、つまり金銀の原産国から世界市場に入っていき、非産出国の国内流通にも入っていくという流れです。この場合、金銀の源泉、例えば鉱山から金銀が、その国の国内流通に入っていくところから始まりますが、それはまず金銀が一つの商品(生産物)として他の生産物と交換されることから始まります。この段階では金銀もあまたある商品の一つとして交換されるのです。もう一つは、「為替相場の不断の振動につづく運動」(253頁)において各国間を流れていく動きです。世界貨幣は国際的な貿易等の決済の支払手段として機能するとこれまでいってきました。しかし、これは取引ごとにその都度その都度で差額を決済し貨幣を支払うということではありません。基本的には国際的取引においては、それぞれの国の貨幣の代理物である為替で取引されます。例えば、日本とアメリカの間では円為替とドル為替での取引きとなります。ここで貿易に差額が生じても、すぐに世界貨幣である金で差額が決済されるかというとそうではありません。基本的には、円とドルの為替相場が金平価――これは円とドルのそれぞれの金との交換比率によって決まるものです。金との兌換が保障されていれば、それらは国内法により規定されています。例えば、戦前の日本では1円=金0.75gなど。――から金現送点(直接金を送金すればそのコストがかかりますのでそのコストを考慮して、その範囲内を超える場合にはじめて金の現送がなされます。)の範囲内であれば引き続き為替での取引が行われますが、これを超える場合には、債務国から債権国側へ金が現送されるという仕組みで行われていました。為替相場も売りと買いの関係で相対的に変動するものですが、この相場が金平価プラスマイナス金現送点の範囲内であれば、金は出動せず、それを超えれば当該国間の貸借を決済するものとして金(世界貨幣)が出動していたのです。逆にいえば、こうして世界貨幣としての金による機能は、国際的な為替相場を一定の範囲内に収めるメカニズムを内在しており、為替相場の安定に寄与していたということです。――このあたりの説明は、テキストでは全く触れられていません。また当日のレポーターの説明もここまで詳しくは説明していなかったものですが、世界市場における金銀の動きと「為替相場の不断の振動につづく運動」との関係が具体的にどういうことか分かりにくい為に捕捉して説明を行いました。

 発達した資本主義的諸国においては、大量の退蔵貨幣はその多くは銀行の金庫内に各種の準備金として存在していますが、それは結局、国内において供給される支払手段や流通手段を過不足なく供給するためやあるいは国際的な債務の決済としての準備金としての必要とされる最小限度の量に制限されています。それゆえ、例外はあるが、必要以上に退蔵貨幣が目だってあふれているということは通常はありえません。もしそういうことがあれば、それは「商品流通の梗塞」または「商品変態の流れの中断」すなわち流通面において何らかの問題が起きているということを示しています。

 

主な質問・意見等

「金が貨幣として機能するという内容だと思うが、それは金が価値をもっているということが前提になっていると思う。その場合に金の価値とは、それを産出するのに必要な労働量によってだけ決まるものなのか。例えば、金の希少性とか金をほしいと思う人の欲望とかは無関係なのか?」という質問がありました。

 これについては「基本的に金の価値の大きさは、他の商品と同じでそれを生産するのに必要な平均的な労働量の大きさで決まります。希少性については、いくら希少でもそれを獲得するのに労働が必要ないものはそもそも価値もありません。また欲望については、確かに使用価値として何らかの欲望の対象にならないと商品にはなりえませんし、そうした欲望の対象にならいものは、いくらそれを作り出すのに労働が支出されていても、価値物とはなりえません。そういう意味では無関係とはいえないかもしれませんが、だからといってそのものに対する欲望の大きさとかがその商品の価値の大きさに関わるということはないと思います。それは価値と使用価値の混同にすぎません。」とレポーターから説明があり了承されました。

○「ここでのテキストの説明は、金や銀あるいは金銀との兌換制の下という前提だが、これは現代の金との兌換が停止された現代にも当てはまるのか疑問がある。テキストで書かれている内容は、金との兌換がなされていた時代のことであり、歴史的な内容ではないかと思うがどうか?」という疑問が出されました。

 これについては「確かに現代では金との兌換が停止されていて、テキストでいわれていることを直接にはあてはめることはできない。そういう意味ではテキストの内容が歴史的なものだとも言えなくもない。しかし、現代の通貨のことや金融的な問題を考えるのにも、やはり資本論で展開されている内容は、貨幣論や金融論の最も基礎的な理論的土台であり、この理論的前提・理解なしには現代の問題も正しく理解することは不可能だと思う。例えば、現代に極めてありふれている通貨のインフレの問題なども、資本論でのように金であれば流通する貨幣量はきまっている。仮に金ではなく紙幣などの代理物であってもそれが流通する量は、その紙幣が代理している金量によって制約されるという流通法則を理解できなければインフレの問題は理解できないと思う。逆にこの関係を理解していれば、流通必要量に無関係に金融政策や財政事情で国家が紙幣を流通に人為的に無理やり押し込めば、流通必要金量を超えた分だけ紙幣価値が減価し、必然的にインフレにつながることが理解できる。だからテキストの内容もそれだけで直接現代の問題の答えになるわけではないが、しかし、そうした理解なしには現代の問題に正しく答えることは不可能だと思う。そういう意味で資本論は、古い時代の古典ではなく、現代の問題を考える上での土台、不朽の理論的原典だと思う。」と説明がありました。

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