2018年12月 6日 (木)

2018年11月25日学習会の報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」c「世界貨幣」の第4パラグラフ「その国内流通にたいすると同じように、・・・」(岩波文庫第1分冊252頁、国民文庫第1分冊243頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からc「世界貨幣」の最後まで「・・・または商品変態の流れの中断を示すものである。」(岩波文庫第1分冊254頁、国民文庫第1分冊255頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

c「世界貨幣」第4パラグラフ~最終パラグラフ学習内容

 貨幣は、世界市場においては、金や銀の地金(じがね)形態、すなわち現物の形態という形で機能します。ここでは、国内流通におけるように、鋳貨や価値標章(紙幣等)などの金や銀の代理物では機能しません。ではこうした世界貨幣として流通に出ていく金や銀はどこから供給されるのでしょうか。それはそれぞれの国内で蓄積された退蔵貨幣(の貯水池)から出ていきます。そういう意味では、各国は常に世界市場の為の準備基金を用意しておく必要がありますが、これはそれぞれの国内に蓄積された退蔵貨幣(貯水池)がその機能を果たします。この退蔵貨幣は、一国内においては、その国の国内流通における流通手段および支払手段の量を供給調整するプールとして機能するものであり、またこれが国際的取引においての債権・債務額の決済手段や国際間の富の移転等の為の世界貨幣の供給プールとしても機能するものです。

 こうして世界貨幣として機能する金銀の流れを見ると二つの流れがあります。一つはその源泉、つまり金銀の原産国から世界市場に入っていき、非産出国の国内流通にも入っていくという流れです。この場合、金銀の源泉、例えば鉱山から金銀が、その国の国内流通に入っていくところから始まりますが、それはまず金銀が一つの商品(生産物)として他の生産物と交換されることから始まります。この段階では金銀もあまたある商品の一つとして交換されるのです。もう一つは、「為替相場の不断の振動につづく運動」(253頁)において各国間を流れていく動きです。世界貨幣は国際的な貿易等の決済の支払手段として機能するとこれまでいってきました。しかし、これは取引ごとにその都度その都度で差額を決済し貨幣を支払うということではありません。基本的には国際的取引においては、それぞれの国の貨幣の代理物である為替で取引されます。例えば、日本とアメリカの間では円為替とドル為替での取引きとなります。ここで貿易に差額が生じても、すぐに世界貨幣である金で差額が決済されるかというとそうではありません。基本的には、円とドルの為替相場が金平価――これは円とドルのそれぞれの金との交換比率によって決まるものです。金との兌換が保障されていれば、それらは国内法により規定されています。例えば、戦前の日本では1円=金0.75gなど。――から金現送点(直接金を送金すればそのコストがかかりますのでそのコストを考慮して、その範囲内を超える場合にはじめて金の現送がなされます。)の範囲内であれば引き続き為替での取引が行われますが、これを超える場合には、債務国から債権国側へ金が現送されるという仕組みで行われていました。為替相場も売りと買いの関係で相対的に変動するものですが、この相場が金平価プラスマイナス金現送点の範囲内であれば、金は出動せず、それを超えれば当該国間の貸借を決済するものとして金(世界貨幣)が出動していたのです。逆にいえば、こうして世界貨幣としての金による機能は、国際的な為替相場を一定の範囲内に収めるメカニズムを内在しており、為替相場の安定に寄与していたということです。――このあたりの説明は、テキストでは全く触れられていません。また当日のレポーターの説明もここまで詳しくは説明していなかったものですが、世界市場における金銀の動きと「為替相場の不断の振動につづく運動」との関係が具体的にどういうことか分かりにくい為に捕捉して説明を行いました。

 発達した資本主義的諸国においては、大量の退蔵貨幣はその多くは銀行の金庫内に各種の準備金として存在していますが、それは結局、国内において供給される支払手段や流通手段を過不足なく供給するためやあるいは国際的な債務の決済としての準備金としての必要とされる最小限度の量に制限されています。それゆえ、例外はあるが、必要以上に退蔵貨幣が目だってあふれているということは通常はありえません。もしそういうことがあれば、それは「商品流通の梗塞」または「商品変態の流れの中断」すなわち流通面において何らかの問題が起きているということを示しています。

 

主な質問・意見等

「金が貨幣として機能するという内容だと思うが、それは金が価値をもっているということが前提になっていると思う。その場合に金の価値とは、それを産出するのに必要な労働量によってだけ決まるものなのか。例えば、金の希少性とか金をほしいと思う人の欲望とかは無関係なのか?」という質問がありました。

 これについては「基本的に金の価値の大きさは、他の商品と同じでそれを生産するのに必要な平均的な労働量の大きさで決まります。希少性については、いくら希少でもそれを獲得するのに労働が必要ないものはそもそも価値もありません。また欲望については、確かに使用価値として何らかの欲望の対象にならないと商品にはなりえませんし、そうした欲望の対象にならいものは、いくらそれを作り出すのに労働が支出されていても、価値物とはなりえません。そういう意味では無関係とはいえないかもしれませんが、だからといってそのものに対する欲望の大きさとかがその商品の価値の大きさに関わるということはないと思います。それは価値と使用価値の混同にすぎません。」とレポーターから説明があり了承されました。

○「ここでのテキストの説明は、金や銀あるいは金銀との兌換制の下という前提だが、これは現代の金との兌換が停止された現代にも当てはまるのか疑問がある。テキストで書かれている内容は、金との兌換がなされていた時代のことであり、歴史的な内容ではないかと思うがどうか?」という疑問が出されました。

 これについては「確かに現代では金との兌換が停止されていて、テキストでいわれていることを直接にはあてはめることはできない。そういう意味ではテキストの内容が歴史的なものだとも言えなくもない。しかし、現代の通貨のことや金融的な問題を考えるのにも、やはり資本論で展開されている内容は、貨幣論や金融論の最も基礎的な理論的土台であり、この理論的前提・理解なしには現代の問題も正しく理解することは不可能だと思う。例えば、現代に極めてありふれている通貨のインフレの問題なども、資本論でのように金であれば流通する貨幣量はきまっている。仮に金ではなく紙幣などの代理物であってもそれが流通する量は、その紙幣が代理している金量によって制約されるという流通法則を理解できなければインフレの問題は理解できないと思う。逆にこの関係を理解していれば、流通必要量に無関係に金融政策や財政事情で国家が紙幣を流通に人為的に無理やり押し込めば、流通必要金量を超えた分だけ紙幣価値が減価し、必然的にインフレにつながることが理解できる。だからテキストの内容もそれだけで直接現代の問題の答えになるわけではないが、しかし、そうした理解なしには現代の問題に正しく答えることは不可能だと思う。そういう意味で資本論は、古い時代の古典ではなく、現代の問題を考える上での土台、不朽の理論的原典だと思う。」と説明がありました。

2018年11月4日学習会の報告

今回は、第3節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の2「相対的価値形態」のa「相対的価値形態の内実」の第6段落「だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。…」~第11段落「商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。」(岩波文庫第1分冊97頁~98頁。国民文庫第1分冊101頁~102頁)とb「相対的価値形態の量的規定性」1段落「価値の表現せらるべきあらゆる商品は、…」~第5段落「それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上着の価値が二倍にのぼったからである」(岩波文庫第1分冊98頁~101頁第5段落。国民文庫第1分冊102頁~104頁)。までを学習しました。

 

 商品価値が抽象的な人間労働一般という特殊な性質であるというだけでなく、商品を生産する人間労働は価値を形成するものの、価値ではないと言われています。しかし、価値を形成するのに価値ではないとはどういうことなのでしょうか? では、いつ価値となるのでしょうか? 10月の学習で、ある商品が自らの商品価値を自らでいくら表現しても、誰からも認めて貰えないので、自らとは異なる相手商品の力を借りるしかありませんでした。すなわち、相手商品によって自らの価値を表現して貰うということでした。結局、価値・価値量の表現=価値であるという表現は、自らと同量の労働時間によって生産されている他の商品によって表現して貰うしかないということです。ですから「人間労働は価値を形成するが、価値ではない。対象的な形態で価値となる。」と言われているのです。すなわち、亜麻布は亜麻布と同量の労働が費やされている上衣を同等のものとすることによって、自らの価値を上衣で表現させました。このような価値関係によって、商品上衣の自然形態は、商品亜麻布の価値形態となります。つまり商品上衣が商品亜麻布を映し出している、価値鏡となるのです。商品亜麻布が商品上衣を価値体・人間労働の体化物として、関係することによって、商品亜麻布は、商品上衣を自らの価値表現の材料とするのです。そして、商品亜麻布の価値は、このように商品上衣の使用価値で表現されて、相対的価値の形態を得るのです。

二つの商品で表わされる価値形態には、価値の大いさをも表現しなければなりません。価値を表現するすべての商品には、亜麻布20エレ=上衣1着というようにその商品の量があります。この亜麻布20エレ=上衣1着といった方程式には、1着の上衣の中にまさに20エレの亜麻布の中と同じだけの量の価値実体・人間労働が加えられている、あるいは同一の大いさの労働時間がかけられていることを前提としています。

亜麻布や上衣の生産に必要な労働時間は、全く変化しないものではありません。機械や裁縫の生産力における一切の変化とともに変化します。次にこのような変化の影響が、相対的表現にどのように影響するかを見てみます。

.亜麻布の価値は変化するが、上衣の価値は不変であるばあい。

 亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊土の減退の結果、二倍となった場合、その価値は二倍となります。亜麻布20エレ=上着1着のかわりに、亜麻布20エレ=上衣2着となります。これは、1着の上衣は、今では20エレの亜麻布の半分だけの量の労働時間を含むにすぎないからです。

これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下します。こんどは、亜麻布20エレ=上着二分の1着となります。亜麻布の相対的価値、すなわち上着に表現された価値は、このように、上衣の価値が同一としても、亜麻布の価値に正比例して上騰したり、低下したりします。

 Ⅱ.亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化する場合。上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截が不便となったために、二倍になったとすれば、亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣二分の1着という式を得ます。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上着2着という式を得ることになります。したがって亜麻布価値を不変としても、上衣で表現されるその相対的価値は、上衣の価値変化と反比例で、低下したり上騰したりします。

   ⅠおよびⅡの項における各種の場合を比較すると、次の様な結果が生じます。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、まったく相反した原因から発生しうるということです。すなわち、亜麻布20エレ=上着1着という式から(1)亜麻布20エレ=上着2着という方程式が出てきます。それは亜麻布の価値が二倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによります。さらに、(2)亜麻布20エレ=上衣二分の1着という方程式も出てきます。それは亜麻布の価値が半分に半分に低下したのか、または上着の価値が二倍にのぼったからです。

2018年11月 6日 (火)

2018年10月14日学習会の報告

第3節「価値形態または交換価値」の第1段落「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。…」~第4段落「したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品に対してもっとも単純な価値表現を与えている。」(岩波文庫第1分冊88頁~90頁)(国民文庫第1分冊92頁~94頁)とA「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の1「価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態」の第1段落「一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。…」~第5段落「…それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。」(岩波文庫90頁~92頁)(国民文庫94頁~96頁)と2「相対的価値形態」のa「相対的価値形態の内実」の第1段落「どういうふうに一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出してくるためには、…」~第5段落「…すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。」(岩波文庫第1分冊92頁~95頁。国民文庫第1分冊96頁~99頁)を学習しました。

 

以下は学習会の報告です。

 

 第1節と第2節では、個別の商品の使用価値と価値、商品を生産する労働について学習してきました。第3節からは、資本主義社会における商品と商品の交換について学んでいきます。ここでは二つの商品の価値関係(価値形態)とそれぞれの商品(相対的価値形態と等価形態)が果たす役割について述べられています。

 

自然形態の使用価値が商品であるのは、ひとえに使用対象であると同時に価値保有者であるからです。これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつ限りにおいてのみ、商品として現われます。諸商品が価値保有者であるかどうかは、見ても触れても分かりません。しかし、商品価値が人間労働一般の支出を表わしているということであるなら、それは何らかの方法で表現され、確認されることになります。ところが商品は自分自身では、価値保有者であり、どれだけの価値をもっているかを表現できないのですから、第三者によって表現されるしかありません。それは自身と交換される相手商品によって表現されることになります。このことによって、初めて商品Aは商品Bによって、価値鏡によって自身を表現できるのです。

 

では、商品Aと商品Bの価値関係における価値表現を見ていきます。 

 

X量商品A=Y量商品B (亜麻布20エレ=上衣1着) の等式において、商品Aと商品Bにはそれぞれに違った役割があります。自身の価値を表現したい左辺にある商品Aの価値は、相対的(相手によって)に表わされているので、相対的価値形態にあると言われます。一方、右辺にある商品Bは、ただ商品Aの価値を表現するための材料としてあるだけで、商品B自身そのものの価値は表現していません。このような方程式においては、同一の商品は同時に両形態に現われることはできません。二つの異なった商品によって、価値表現が成されるということです。このことをもう少し詳しく見ていきます。

 

まず、二つの異なった商品を同一単位の表現としなければなりません。それには二つの商品が固有にもつ使用価値、有用労働を捨象して、残った同じ性質のもの、すなわち抽象的人間労働という性格に整約します。そして、一商品の価値表現を行うために、二つの商品には異なった役割を与えます。

 

ここでは、左辺の商品A・亜麻布の価値のみが表現されます。それは、亜麻布と等しい、亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣と関係することによってです。この関係において、上衣は価値の存在形態、価値物となります。なぜなら、このような関係においてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからです。そして、亜麻布自身が価値あるものであると表現されます。

 

商品にその自然形態と違った価値形態を与えるには、一つの商品そのものからでは価値形態を与えることはできません。二つの商品のうち、価値を表現したい商品と価値を表現する材料となるもう一方の商品があってこそです。

 

2018年9月23日学習会報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第8パラグラフ「今、与えられた期間に流通している貨幣の総額を考察すると・・・」(岩波文庫第1分冊242頁、国民文庫第1分冊244頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第10パラグラフ「・・・。その狭い経済的存立諸条件は解消されるであろう。」(岩波文庫第1分冊245頁、国民文庫第1分冊247頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

b「支払手段」8パラグラフ~10パラグラフ

 商品流通に際して、ある一定期間に流通する貨幣量はどれくらい必要となるのでしょうか?

テキストでは「流通手段と支払手段の流通速度が与えられているばあいには、それは、実現されるべき商品価格の総和プラス期限のきた支払いの総和マイナスお互いに相殺される支払、最後に、マイナス同一個貨が交互に、あるときは流通手段として、あるときは支払手段として機能する流通量」(岩波文庫242頁)となるといっています。

 以前「流通手段」の項目の際には、流通手段の流通量は、基本的に実現されるべき商品価格の総和(総額)により規定され、それは流通手段の流通速度により変化しうるものだから、結局、実現されるべき商品総額を流通手段の流通速度――一定期間内で同じ貨幣片(岩波訳で同一個貨と同義)が何度商品交換を媒介するか、その回数、回数が多ければそれだけ流通速度が速いということになります――で割った商が、実際に流通する流通手段量ということになるというのを学習しました。

 実際の商品取引は、取引ごとにその等価として貨幣が支払われるものではありあません。資本主義的商品流通を考えれば、小口の取引はともかく、ここでのように取引ごとに貨幣が支払われるよりも、ここでのような掛け売り・掛買いの取引が登場してきて、こちらの方が支配的になってきます。

 ですから現実に商品流通の中で必要となる貨幣量を考えるには、流通手段のみではなく、支払手段も含めて考えなければなりません。

 基本は、与えられた期間内に実歳に取引される商品価格の総額――①とする――やはり規定的な要素ですが、しかし、今度は現在(この期間内に)取引される商品のみではなく、過去、すなわち当該の期間以前に取引されて、貨幣での決済が済んでおらず、この同じ期間内に支払い期限が来る支払総額――②とする――をプラスして、かつ支払手段の場合には相互の債権・債務が互いに相殺されるものもありますのでこの相殺分を考慮する必要があります。すなわち先の合計額からこの相殺される金額――③とする――を引かなければなりません。そしてこうしてえられた金額を最後に、同一個貨=同一の貨幣片が、時には流通手段として、時には支払手段として機能する回数分の金額――④する――を引いたものが、現実の貨幣の流通量となります。すなわち貨幣流通量=[①の商品総額]+[②の支払総額]-[③の債権相殺額][④の同一貨幣片が機能し、商品価格実現する総額]ということになります。

 こうしてみると一見流通する貨幣量は現実の商品取引総額に無関係に見えますが、やはり実際に流通する貨幣量の第一の規定的要因は、取引される商品量とその総額であるということだと思います。

 テキストも言うとおり「一期間の中に通用する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致し」(242頁)ません。なぜならそれは商品流通が商品取引と貨幣の支払いが対になった素朴な状態から発達してこの二つが時間的に分離された形態が必然となるにつれて「流通からとっくに脱却している商品を代表する貨幣」もあればその逆にまだ支払いわれていないために「その貨幣等価」が「将来になってやっと現れてくる商品も、流通通している」からです。

 

 これまで支払手段の機能を見てきました。ここでは商品の譲渡とその貨幣での支払いが時間的に分離されています。つまり貨幣は、商品の譲渡の際にはただ買い手の支払約束としてあるだけです。ここで単なる支払い約束ではなく債権・債務関係とその履行を確約させる書面が買い手から売り手に一種の債務証券が渡されるとします。この債務証券自身が再び債権の移転の為に流通するようになると、これは広義での信用貨幣――マルクスは狭義の信用貨幣は銀行券だといっていますので、ここでは区別しています――となります。こうした商業手形の登場が、ここでいう広い意味での信用貨幣の誕生ということになります。こういう意味において「信用貨幣は、直接に支払手段としての機能から生ずる」(243頁)ものだといえます。

 また商品生産が発展してくると、貨幣の支払手段としての機能も商品流通部面を越えて浸透していき、それまで現物納付だった地代や租税の支払いについても貨幣支払いへと転化させていきます。こうした地代や租税等の現物形態から貨幣形態への転化は、それまでの封建社会やそれ以前の遅れた社会の生産諸関係を織り崩していくものとなっていきました。

 

主な質問・意見等

「第8パラグラフでマルクスが貨幣の流通量について考察して述べていることの意義がわからない。ここで述べられていることがどういう意味を持ってくるのか?」という意見が出されました。

これについては報告者より「貨幣数量説的な見解、貨幣の流通量(数量)が商品の価格を決めるのだという俗流観念を批判する意義があると思う。貨幣の量が価格を決めるという考えは、商品の価格を純粋に相対化する観念だと思う。結局、商品価格を根底で規定する労働価値説、労働時間による価値規定を否定するものにつながると思う。マルクスの立場では、この根底(労働による価値の規定)から貨幣の問題にも接近していて、それこそが正しい立場だと思う。

 貨幣の量の問題でも、貨幣数量説のように貨幣の量と商品の量により価格が決まるというような純粋に相対的な関係に還元してしまい、商品も貨幣も価値を持たないというような考えだと貨幣の数量が価格を決めるというような転倒した考えになると思う。

 すべての商品の価値が、それを生産するのに必要な労働時間により、流通に入る前に与えられている。そして貨幣の価値も、金や銀としては、それを生産する労働時間により、流通に入る前に与えられている。そして価格とは、商品の価値を、貨幣(金、銀等)のどれくらいの量に相当するかという形、すなわち貨幣量で表現したものだとしたら、当然流通する貨幣の量というのは、商品の価格総額によって第一に決まってくる――もちろん他の要因、貨幣の流通速度等もあるが、第一の規定的要因は実現されるべき商品格総額だということ――のではないかと思う。こうした労働価値説の根底から実際に流通する貨幣の量の問題も考えることができる、というよりそうことこそ正しい方法だということを示しているのがここでの意義ではないか。」との回答がありました。

 

○第10パラフラフに関して「地代や租税等の現物形態から貨幣形態への転換が、近代以前の社会に対して作用し、その生産諸関係をも掘り崩していったというが、それは具体的にどういった形の生産関係が、貨幣形態での支払いによりどのように堀崩されていったのか説明してほしい」との要望がありました。

 これにつては、報告者から「あまり細かいことは分からない。私の知識の範囲では、日本では幕末になると農村部内で経済的な格差ができて貧しい層は、土地を失い豊な上層農民の小作のような地位に没落していった。ここで農村内部において階級分解が生じ、封建領主と農民という封建社会にこうした生産関係を掘り崩す新たな生産関係が徐々に形成されていったということがあったが、この下層農民の没落の要因の一つとして地代の貨幣形態への転換があったように記憶している。これに似たようなことは西洋でもあったともうが、あまり具体的には分からない。次回まで調べてあらためて説明したい。」とありました。

 

2018年9月11日 (火)

2018年8月26日学習会の報告

 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第5パラグラフ「流通過程の一定の期間を見ると、・・・」(岩波文庫第1分冊239頁、国民文庫第1分冊241頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第7パラグラフ「・・・。貨幣飢饉は、金で支払われようと、信用貨幣で支払われようと、かまってはいない。」(岩波文庫第1分冊241頁、国民文庫第1分冊243頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

前回からの課題第4パラグラフの解釈について

 4パラグラフで問題になっている取引は、このb支払手段で扱われている商品の譲渡と支払いが時間的に分離されている、つまり貨幣は後から支払われる形のものです。一般的な商品の流通で考えると,第一節商品の変態で述べられているようにW――G――Wという形です。ここでは前半のW――Gが商品の第一の変態であり、それに続く後半のG――Wが第二の変態ということになります。

 しかし、ここでの場合、まず商品の買いが、商品の譲渡の際にはただ買い手の支払い約束としてあるだけで実際の貨幣での支払いはありません。すなわち本来なら彼は、買う前に、まず自分の商品を売って貨幣を入手していなければならない――通常はそうでないと買うことができない――のですが、売る(第一の変態)ことなしに、あるいはその前に買う(つまり第二の変態)を行っているのです。

 ここの冒頭の「買い手は貨幣を商品に再転化させる」(238頁)というところのここでの貨幣は、買い手の支払い約束ということです。単なる支払い約束といえども、ここでは観念的に計算貨幣として機能し商品価格が決められ、すなわち買い手の債務額、つまり売り手にとっての「貨幣に対する私法的な請求権」(238頁)=債権額が決定しているのです。つまりここでは買い手は将来の貨幣により、それを商品に転化していということです。

すなわち、買い手は、第二の変態をたちまち彼に支払い約束の下、いうならば将来の貨幣により、まず行うのであり、そしてそのあとに彼は自分の商品を売ることにより貨幣を手に入れ、それを先に買った商品の代金として支払う――「第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く」――のです。

 第一の変態の前に第二の変態を行っているというのは、一見奇異に見えます。しかし、ここでの商品の買い手にとっても、結局自分の持っている商品を、自分が欲しいあるいは必要とする商品、使用価値へと交換したのであり、本質はW――W商品と商品の交換、相異なる使用価値どうしの交換です。ここでは流通手段として貨幣が登場することはありませんが、やはり貨幣は、ここでもこの商品交換を成り立たせる必須の条件として存在しているのだと思います。ですから支払手段の場合も、W――G――Wという関係が本質的なものなのであり、これが土台としてあるということではないでしょうか。

 

主な質問・意見等

○参加者より「これと逆の場合、商品の譲渡の前に支払いがなされる場合はどうなのか?その場合、貨幣は支払手段といえるのか?」との質問があり、これをめぐって議論がありました。他の参加者からも「それは、ここでのような信用取引とは違うのではないか?」「いや、先物取引のようなものはかなり古くからあるがそのようなものではないか」との意見がありましたが、結論的には「ここでの注八九に書かれてあることが、まさにこのことだろう。ここでは商品の譲渡の前に貨幣が支払われても、それは信用ということではなく、単なる購買手段として機能したということだといっている。」という発言があり解決されました。

 

◎b「支払い手段」第5パラグラフから第7パラグラフ

 商品の取引が発達してくる中で、商品の取引と貨幣での支払いが時間的に分離され、支払いが後からなされるようになってくると貨幣は、支払い手段として機能します。ではこうした取引に対してそれを決済する支払手段の量は、どのようになるのでしょうか?

 まず支払われなければならない総額は、期限がきた債務の総額ということになります。しかし、実際に支払われる貨幣は、この金額と同じではありません。なぜなら例えばAからBへ100の取引があり、またさらにBからCへと同じく100の取引が連鎖していく場合、この場合取引額の合計は200ですが、それを支払う貨幣は100で済むからです。この場合は、流通手段の場合と同じです。

支払い手段の場合、流通手段のときと異なる要素は、支払期限の問題です。この支払い期限の長さが支払い手段としての貨幣の流通のスピードに影響してきます。

つまり支払い手段の量は、支払期限のきた取引総額によってまず第1に規定されますが、その他にもその流通速度により必要となる支払い手段の量が決まってきます。基本的に取引の連鎖が、多くなればなるほど支払い手段の流通速度も速くなり、それだけ節約されることになります。ただ支払い手段の場合、支払期日が来れば、それは貨幣が支払い手段として実際に支払われなければなりませんから、支払手段としての流通速度にはこの支払期限の長さが影響してきます。

あとこのほかに、支払い手段の場合は、取引が連鎖していない場合、同時並行的な取引においてもそれらの債権と債務が相殺されることによって貨幣が節約されます。これは流通手段の場合では、商品の取引が連鎖していない場合――連鎖している場合は、同一貨幣片がそれらの取引を何度も媒介します――は、取引ごとに貨幣が必要となり、貨幣の節約は不可能です。

 例えば、それぞれ同時並行的な取引で相互に連鎖していない場合でもAのBに対する,BのCに対する、CのAに対する等々の債権は支払時期と取引所が同じであれば、相互に相殺することができます。こうして実際に、支払い手段として支払われなければならない貨幣の量は節約されます。この点は、流通手段の場合と大きく異なる点であり、流通手段の場合は、こうした同時並行的な取引では、取引の連鎖がない為、貨幣は取引のその都度必要となりますが、支払手段の場合はむしろその節約の新しい槓杆となります。

 またここでマルクスは「支払手段としての貨幣の機能は、媒介なき矛盾を含んでいる」(240頁)といっていますがこれはどういうことでしょうか?

 流通手段としての貨幣の場合は、それは直接に商品流通を媒介するものであり、またそうした機能を果たす限りで流通手段です。しかし、支払い手段としての貨幣は、それ自体は商品流通を媒介せず、むしろ最後に支払われる形で商品流通全体を閉じて終わらせる役割を担っていますこうした貨幣が支払い手段として最後に出動する際には、それは「絶対的商品」すなわち直接に価値一般として通用するものとして現れなければなりません。このことは、経済が順調に進み、商品流通が順調な場合には、諸支払いも相殺され問題なく進行します。しかし、ひとたび貨幣恐慌が起こるとこれらの諸支払いは、相殺不可能となり、むしろ即時の貨幣での支払が求められるようになります。こうした貨幣恐慌場面での、貨幣支払いの要求は絶対的なものとなり、ここでの矛盾は何ら媒介されえない――つまり現物の貨幣を支払うこと以外に何らの代替手段もないものとなります。

商品生産が発達し、こうした一種の信用取引も活発に行われようになると、現実の貨幣での支払が求められることは少なくなってきます。こうした取引では、むしろ貨幣より、商品の取引の方が社会的に重要視――「商品こそ貨幣だ」(240頁)――されます。しかし、貨幣恐慌の場面では、貨幣こそが求められるようになります。すなわち今度は、「貨幣こそ商品となった!」(240頁)ということです。

 

 

主な質問・意見等

○第7パラグラフに関連して注九九で「一般的な生産および商業恐慌の特別の段階として規定されている貨幣恐慌」と「同じように貨幣恐慌と名付けられている特殊な種類の恐慌」を区別すべきといっているが、この二つの違いはどういうものか?との質問がありました。これについては、報告者より後者の特殊な恐慌としての貨幣恐慌は、通常の恐慌のように産業面の恐慌を土台としてそれが流通に波及し、さらに金融的な部面に波及し現れてくるというものではなく、生産、流通部面から独立して現れるような貨幣恐慌だと思う。」との説明があり参加者より「最近では、リーマンショックがそれに相当するものではないか。リーマンショックは、サブプライムローンという金融商品を端に発生して、そこから金融面全般に広がっていったが、産業面など生産部門には深刻な打撃はなく、もっぱら金融的なものだった。そういう類のものではないか?」など捕捉説明があり、みなさん納得がいったようです。

 

(檀上)

2018年8月14日学習会の報告

今回は参加者4名と少なかったのですが、いつもは発言があまり無い方からも質問がありました。多くの意見が出されて活発な学習会となりました。

 悪天候を懸念して7月の「入門講座」が休止となりましたので、7月に予定していました第一章「商品」第二節「商品に表わされた労働の二重性」第9段落「われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、…」(岩波文庫第1分冊82頁、国民文庫第1分冊86頁)から第二節の最後の第16段落「…そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」(岩波文庫第1分冊88頁、国民文庫第1分冊92頁)までを学習しました。

 今回の学習箇所の最初に「われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。」(第9段落)と言われています。これまでの学習内容が商品の使用価値=物の有用性についての学習であったのに対して、これからは商品価値を学習していきます。これまでは、商品ひとつひとつの有用性・使用価値といったものを検討してきました。使用価値は商品の二つの側面のひとつですが、使用価値そのものは直接には経済学の範疇に入るものではなく、人間の欲望を充足させる物の属性に関することです。しかし、物に人間の欲望を充足させる属性が無いのであれば、そのような物は使用価値が無い物として商品にはなりません。ですから、商品価値を検討するにあたって、その物が使用価値であることは前提とされます。しかし、次の様なものは使用価値であっても商品とはなりません。たとえば、空気や未開拓の土地や野生の樹木などのように、人間の労働が媒介されていない物や、人間の労働が媒介されていても自分自身が使用するために作る物などです。すなわち、商品となるためには、自分が使用するためではなく、他の人々が使用するための使用価値、社会的使用価値を生産しなければなりません。しかも、税や年貢といった単に他の人々のために生産するということだけではなく、それが使用価値として役立つ他人に、交換によって移譲されなければなりません。使用価値についてはおおよそ以上の様なことを学習しました。

本課題の価値について。価値とは労働であり、ある使用価値の価値の大いさ(量)を規定するのは、この使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間であり、同一の大いさの労働量を含む商品、あるいは同一労働時間に生産される商品は、同一の価値の大いさをもっています。

 そして、第二節「商品に表わされた労働の二重性」では、商品に使用価値と価値の二つの側面があるように、商品を生産する労働においても、使用価値をつくる労働と価値をつくる労働といった二面性があることを学んでいきます。

使用価値をつくる労働においては、商品を生産する具体的な労働=質(内容)が問題であるのに対し、交換価値をつくる労働では、単なる労働、人間労働一般として考察されます。なぜなら、質の異なった商品の交換をおこなうには、同一の基準が必要となるからです。それには具体的な労働の側面を捨象した、単なる労働、人間労働一般とすることで、はじめて比率によって商品交換が可能となります。その比率とは、具体的にはその商品の生産に必要な労働の量であり、時間でもって計られます。つまり、使用価値をつくる労働が質であるのに対し、価値をつくる労働は量であるといえます。

それぞれの商品は、生産に要した労働時間の大いさでもって交換されます。例えば、労働時間2時間の商品2個=労働時間4時間の商品1個と交換されます。このことは、労働時間4時間の商品は労働時間2時間の商品に比べて、労働が複雑労働であり、対して労働時間2時間の商品は単純労働であると言えます。

 次に、生産力の変化が労働にどのように関係するのかについてです。まず、質問でもありました生産力については次のように述べられています。「生産力は、もちろんつねに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。」(岩波86頁)ここで言われているのは、ある目的の使用価値をつくる具体的・有用労働がある一定の期間に、どれだけの生産活動が可能であるかを規定しているということを言っている。このことは、有用労働(使用価値をつくる労働)は、生産力が増大すれば豊富な生産物を、生産力が低下すれば貧弱な生産物を生み出します。

 この問題に関しては次のように述べられています。「より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。…だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。…他方、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態(ある使用価値を生産する具体的な有用労働)がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるや否や、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら生産力は、同一期間にちがった量の使用価値をもたらす、生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。」(岩波文庫86頁)

 ここでは、生産力の変化と価値に表わされている労働の関係について言われています。生産力は、労働の具体的・有用的な形態がもっているものであり、労働がこの具体的な有用な形態から抽象されるや否や、生産力は労働に関係することはできません。生産力が変化しても、同一の労働は、同一の期間に、つねに同じ大いさの価値を生みます。

 最後に注(16)で、「…A・スミスは、…商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。」と、マルクスがA・スミスを批判していますが何が間違っているのでしょうか? A・スミスは商品の価値を規定するものを、商品の生産に支出された具体的な労働の量と考えています。しかし、商品の価値を規定するものが労働ではあっても、それは個々の商品に支出された具体的な労働量ではありません。社会的に同一で平均的な労働・人間労働一般が価値を規定するのです。

(伊藤)

2018年8月23日 (木)

2018年7月22日学習会の報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第3パラグラフ「商品流通の部面に帰ろう。・・・」(岩波文庫第1分冊237頁、国民文庫第1分冊239頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第4パラグラフ「・・・。その第一の完遂は、後になって初めて続く。」(岩波文庫第1分冊238頁、国民文庫第1分冊240頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

b「支払い手段」第3パラグラフおよび第4パラグラフ

 貨幣が商品交換を媒介する場合は、貨幣は流通手段として機能します。他方、ここのb項目の場合のように商品が支払い約束の下に譲渡されて、あとから貨幣が支払われる場合は、貨幣は支払い手段として機能したということになります。

 こうした場合の貨幣は、第一に売却された商品の価格を規定するものとして、つまり価値尺度として機能します。これにより売却される商品に価格がつきます。この価格は、買い手の支払い義務を表しており、それは彼にとっては債務額ということになります。

 ここでの貨幣は第二に観念的な購買手段として機能することになります。ここで観念的とは、商品の譲渡の際には、現実の貨幣の支払いはありませんが、それでも後から貨幣が支払われるという支払い約束の下に商品が譲渡されるわけですから、その意味では観念的にではあれ貨幣は、買い手にとって目的の商品を買う購買手段として機能しているということです。

 そして、最後に支払期日が来れば貨幣が支払われ、貨幣は支払い手段として、ここではじめて流通に入っていくわけです。

 ここでは貨幣は、“交換価値の絶対的存在”としてこの過程(商品の流通過程)を終わらせます。この場合、単なる流通手段としての貨幣とは異なり、貨幣は“交換価値の絶対的存在”である必要があります。なぜなら流通手段の場合、それが単に流通を媒介するだけなら、それは貨幣の代理物や無価値な標章でもかまわないのですが、支払い手段としての場合は、そうはいきません。これは売り手の立場、債権者の立場からはすれば、やはりちゃんと価値が保障された貨幣で支払ってもらわなければならないということです。

 この後の第4パラグラフでは「買い手は貨幣を商品に再転化させる、しかし、彼はその前に商品を貨幣に転化させることをしていない。別の言葉でいえば、彼はおそらく第二の商品変態を、第一のそれの前に遂行している。売り手の商品は流通するが、ただ貨幣に対する私法的な請求権において、その価格を実現するだけである。商品は、貨幣に転化するまえに、使用価値に転化する。その第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く。」(岩波文庫版238頁)となっており、かなり分かりづらい展開になっています。

 これにつては報告者もなかなかすっきりとは理解できていませんでしたが、次のようなことではないかということで一応の解釈を提出しました。以下がその内容です。

 ここでの取引は、買い手は、商品の支払いは後からするために、彼にとっては売らずに買うという取引です。すなわち買い手は、自分の商品を売ってそれを貨幣に転化するまえに、貨幣を商品に転化、つまり相手の商品を買っているのです。通常の商品変態であれば W――G・G――W という過程であり、まず自分の商品を売り貨幣に転化し、その貨幣でもって再度自分が手に入れたい商品に転化するわけです。この通常の商品変態の過程からみれば、ここでの買い手の取引は、前半の商品変態W――Gを行う前に、後半の変態G――Wを行っているということです。「貨幣を商品に再転化」といっていることはこのことではないでしょうか?

 あともう一つここで私たちが混乱してしまうことは、貨幣は後から支払われるわけで、貨幣の商品への再転化、第二の商品変態、G――Wといってもそれはどういうことか、一体貨幣はどこで出てくるのか?と思ってしまうことではないでしょうか?テキストの叙述の中にあるように、実は、この場合の取引においても貨幣は機能しているのだと思います。それは観念的な形でやはり購買手段として、つまりここでの買い手にとっての第二の商品変態を担うものとして貨幣は機能しているのでしょう。そう考えるとここでの商品は、売り手にとっては、現実に貨幣に転化するまえに――なぜなら貨幣は後から支払われるから――自分の商品が買い手の手に渡り使用価値に転化します。そして第一の変態 W――G が終わるのは売り手にとって商品が現実に貨幣に代わることであるから、それは後になって支払期日が来て貨幣が支払われてからだ――だから「第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く」のである――ということではないかと思います。

 

 この第4パラグラフは、報告者もあまり自信がなく整理が十分でできなかったため、次回再度やることにしました。

 

 

主な質問・意見等

「ここのb『支払手段』のところでは、信用貨幣の問題が扱われていると解釈してよいのか?そうだとするとここの項目の説明は、現代の“貨幣”の問題 にも通じる重要なところのように思うがいかがか?」というような質問と意見が出されました。

 これについては報告者から「信用貨幣の問題が扱われているといいきっていいかわからないが、少なくともテキストのこの後の説明の中で、『信用貨幣は、直接に支払手段としての貨幣の機能から生ずる。』(岩波文庫版243頁)といっています。ここでのように信用により商品が取り引きされ、そこで買い手から売り手に債務証書が渡され、それが他の者との取引間でも債権の移転の為に流通するようになれば、それは信用貨幣のはじまりだということではないでしょうか?一方でマルクスは、本来の信用貨幣とは、こうした商業手形などではなく銀行券であるといっています。銀行券の説明や本格的な信用の問題は、第3巻で展開されるべき内容だと思いますが、その一番の基礎的な理解は、ここのb『支払手段』なのではないでしょうか?ここの説明だけで現代の通貨や信用の問題を説明することはできないとは思いますが、しかしここでの支払手段としての貨幣の理解なくしては、それは望めないということのように思います。」との回答がありました。

 

○また報告者より第4パラグラフの中の「貨幣に対する私法的な請求権」とあるがどういうことか分からないと疑問が出されましたが、それについては「売り手の商品は、譲渡され流通するが、ここではその支払いは後からなので、その代金は当面は売り手にとってはただ私法的な請求権――買い手に対しての債権――としてあるだけということだと思う。」と説明があり報告者も納得しました。

2018年7月8日学習会の報告

この日は、前日に降った豪雨の影響を考慮して学習会は中止とさせていただきました。

2018年7月16日 (月)

2018年6月24日学習会の報告

第三章「貨幣または商品流通」の第三節「貨幣」のa「貨幣退蔵」第4段落「商品生産がもっと発達するとともに、…」~第8段落の最後まで(岩波文庫第1分冊229頁~235頁)と、b「支払い手段」第1段落「これまで考察した商品流通の直接の形態においては、…」~第2段落の最後まで(岩波文庫第1分冊235頁~237頁)を学習しました。 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」a「退蔵貨幣」の第4パラグラフ「商品生産がもっと発達するとともに、・・・」(岩波文庫第1分冊229頁、国民文庫第1分冊231頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこのa「退蔵貨幣」の終わりまでと次の「支払い手段」の冒頭から第2パラグラフ「・・・敵対関係を反映しているにすぎない。」(岩波文庫第1分冊227頁、国民文庫第1分冊229頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

a「退蔵貨幣」の続き

 商品生産の発展は、必然的に生産者らに自分の商品を売ることなしに、自分が必要とする商品を買う必要が生じてきます。それは農家が自分の生産物の収穫期が来る前に、追加的に必要となる堆肥やあるいは破損した農機具の買い替えの必要が生じる場合などです。仮にあらかじめ生産を始める前にある程度必要な堆肥や農機具をそろえていたとしても、突発的に追加的堆肥が必要となる場合や農機具などが不足するという事態も考えられます。そうした生産上の必要から生産者の手元に貨幣が蓄えられるようになります。生産を継続しさらに拡張していくためには大なり小なりこうした生産者の手元に蓄えられた貨幣(ある種の準備金)が必要となります。しかし、こうした貨幣を手元に蓄えるためには、一方で買うことなしに売っておく必要があります。先の農家の例では、前年度に生産した農作物を売ってえた貨幣で、彼自身が消費するための消費財の購入と次年度の生産のための農機具や肥料等々のための資材を買わなければなりません。しかし、そこで彼は彼が収穫でえた貨幣全部を使ってしまうのではなく、一部は次年度以降の準備金として手元に残しておくようになります。

 退蔵貨幣(国民文庫訳では蓄蔵貨幣)の一部は、こうした生産に必要な各種の準備金の形態で形成されてきます。

 他方、貨幣はそれ自体「すべての商品の一般的等価形態」であり、それがあればどんな商品でも買うことができます。しかし、それはどんな商品でも買うことができる(質的に見れば無制限)のですが、ただ量的にみればおのずと限界があります。例えば、少額の貨幣では仮に安価なモノでも沢山は買えないし、高価なモノはほとんど買えません(量的には限界がある)。ここから人はより多くの貨幣を求めるようになります。こうしたことからより多くの貨幣を蓄えようという衝動が生じて来ます。この場合の貨幣退蔵者が多くの貨幣をため込むことができるのは、自分の消費欲を抑制し、節約と勤勉に励むことによってであるとマルクスは言います。つまり彼は生産に励み多く売って少なく買うことによります。これにより彼はより多くの貨幣を退蔵貨幣として手元に蓄えることになります。これがもう一つの退蔵貨幣の形成につながります。

 流通手段として機能する貨幣との関係では、退蔵貨幣は次のような重要な役割を果たします。

 流通手段として機能する貨幣の量は、これまで見てきたように流通する商品の価格総額により基本的に決まります(厳密には貨幣の流通速度も関係してきますが)。つまり経済が好況で商品取引が活発になり実現される価格総額が増えるなら、流通する貨幣量も増大し、逆に経済が停滞して取引も減少して実現される価格総額も小さくなれば流通に必要な貨幣量は減少します。しかしこうした流通手段として機能する貨幣の量はどうやって調整されるのかが問題となります。これは流通に過剰な貨幣は、流通の外に出ていき退蔵貨幣として蓄積されていき他方流通で貨幣が不足すれば退蔵貨幣としてあったものの中から必要な分が鋳貨(流通手段)として出ていきます。すなわち社会の中で退蔵された貨幣が、一種の貯蔵プールのような役割を果たします。これにより流通する貨幣は、特別な事態がない限り、不足することも溢れることもありません。

 

◎b「支払い手段」

 このbでは、支払い手段としての貨幣がとりあげられます。では、支払い手段としての貨幣とはどんなものでしょうか?

 商品流通が発展する中で、商品の譲渡とその譲渡された商品の価格の実現が時間的に分離されてくる事情が発生してきます。この場合、商品の売り手は、債務者となり、他方、買い手は債務者となります。この場合、貨幣での支払いは、支払いの約束の期日が来たら支払うという形になります。これが支払い手段としての貨幣ということになります。ですから支払い手段としての貨幣は、売り手と買い手、債権者と債務者という信用関係を表現するものです。

 次回からこの支払い手段としての貨幣について詳しく見ていきます。

主な質問・意見等

「ここでの退蔵貨幣というのは、要するに拝金主義者や金儲け主義者みたいな人間がどんどんと儲けて蓄えたものということなのか?」という質問がありましたが「そういう致富衝動により貨幣が蓄えられるということもあるが、一方で商品生産の発展の中から、生産者の中に、自分の商品を売ることなしにも、必要なモノをいつでも買うことができるようにしておきたいという欲求が必然的に生まれてくるということもあると思います。」とレポーターより説明がありました。

○「岩波文庫版234頁『あるときは、鋳貨は貨幣として引きつけられ、あるときは、鋳貨は貨幣として追い出されなければならない。』とあるがここでの鋳貨とは、価値標章ということか?またここの一文は何を言っているのか?」という質問がありました。これについては報告者より「ここでの鋳貨というのは、たぶん流通手段としての貨幣形態ということだと思う。価値標章ということではないと思う。流通から脱落した退蔵貨幣は、すべてが金貨や銀貨のような形態(鋳貨形態)である必要はないし、一部は鋳つぶされて金塊や銀塊のような形態にされることが多かったと思う。他方、一部は確かに退蔵されても鋳貨の形態のままであったと思う。流通過程で貨幣が不足すると退蔵貨幣の貯水池からまず先に出ていくのは金貨や銀貨の形態にある鋳貨であると思う。これが鋳貨は貨幣として引きつけられるということで、他方流通に過剰な貨幣(鋳貨)は、流通から追い出されるが、それは別の形態の貨幣、退蔵貨幣として蓄積されるということをいっているのだと思う。」と説明がありました。

2018年6月10日学習会の報告

第一章「商品」の第二節「商品に表わされた労働の二重性」第1段落「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。…」~第8段落「上着、亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、…」(岩波文庫第1分冊78頁~82頁)までを学習しました。

さて、マルクスは「労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表を持たないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのである…」と述べています。

商品を生産する労働の二面的なもののうち、交換価値に表わされる労働には、使用価値の生産の労働のように、個別的で具体的な内容=徴表は必要がありません。なぜなら、商品の使用価値は個別的なものですが、交換価値として必要なものは、両者に共通なものをどれだけといった、質ではなくもっぱら量が問題になるからです。その共通なものは人間労働ですが、交換価値では交換される商品にこの共通の人間労働がどれだけ対象化されているかということが問題になります。交換における交換比率では、個別の商品の使用価値は捨象され、交換される商品にどれだけの労働が対象化されているのかということだけが問題になり、その点で交換が行われるのです。ここでは、交換の計算単位としての労働時間でもって比較され、それが交換価値として表わされます。

上衣と亜麻布とが質的に違った使用価値があるように、上着と亜麻布を生産する裁縫と機織りの労働も全く違った質の労働です。このことは、多くの商品の使用価値が異なると同様に、その商品を生産するそれぞれの労働も全く異なっており、商品の使用価値と同様に生産する労働も存在するということです。それは、商品の使用価値が様々な種類―属、種、科、亜種、変種等々と分かれるように、それらをつくる労働も同様に分かれます。これらが、すなわち社会的分業と言われます。マルクスは「この分業は商品生産の存立条件である」しかし「商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。」と言っています。

商品生産にとって社会的分業は不可欠であり、もし、社会的分業がなければ機械制大工業のもとでの大量生産や商品生産の発展はありません。一方、社会的分業は商品生産でなくとも可能です。たとえば、古代インドの共同体や未来の社会主義・共産主義社会においては、商品生産で無くとも、労働生産物は分業としておこなわれます。商品として相対するのは、計画的ではない、独立的で無政府的な生産である私的労働の生産物だけなのです。

次に、使用価値とこれを生産する労働の関係について、マルクスは次のように述べています。「上着、亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらゆる要素が現存するようになったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。」

ここでは、人間の要求が自然にあるがままのものから、自然には無い様々な物に移っていくにしたがって、それらの素材的富は、自然を作り替えるだけではなく、まったく自然とは異なるようなものを生み出すような生産活動が行われなければならなくなった。使用価値をつくる有用労働は、社会形態からは独立した、人間の存立条件であって、人間の生活を媒介するために永久的に必要なものなのです。

商品体(具体的な商品そのもの)は、自然素材と労働の二つの要素の結合物です。商品体から有用労働をすべて引き去ってしまえば、残るのは、つねに人間の労働が加えられていない、自然にある物質だけとなります。ということは、人間が加える労働は自然にある物質に合わせて行うしかなく、それは、ただ自然の形態を変更することしかできないのです。そして、この労働においても、たえず自然力に支えられています。故に、労働は、生産される使用価値の、唯一の源泉だとは言えません。労働と自然的素材の結合によってこそ、新たな使用価値が生まれるのです。

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