2018年9月11日 (火)

2018年8月26日学習会の報告

 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第5パラグラフ「流通過程の一定の期間を見ると、・・・」(岩波文庫第1分冊239頁、国民文庫第1分冊241頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第7パラグラフ「・・・。貨幣飢饉は、金で支払われようと、信用貨幣で支払われようと、かまってはいない。」(岩波文庫第1分冊241頁、国民文庫第1分冊243頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

前回からの課題第4パラグラフの解釈について

 4パラグラフで問題になっている取引は、このb支払手段で扱われている商品の譲渡と支払いが時間的に分離されている、つまり貨幣は後から支払われる形のものです。一般的な商品の流通で考えると,第一節商品の変態で述べられているようにW――G――Wという形です。ここでは前半のW――Gが商品の第一の変態であり、それに続く後半のG――Wが第二の変態ということになります。

 しかし、ここでの場合、まず商品の買いが、商品の譲渡の際にはただ買い手の支払い約束としてあるだけで実際の貨幣での支払いはありません。すなわち本来なら彼は、買う前に、まず自分の商品を売って貨幣を入手していなければならない――通常はそうでないと買うことができない――のですが、売る(第一の変態)ことなしに、あるいはその前に買う(つまり第二の変態)を行っているのです。

 ここの冒頭の「買い手は貨幣を商品に再転化させる」(238頁)というところのここでの貨幣は、買い手の支払い約束ということです。単なる支払い約束といえども、ここでは観念的に計算貨幣として機能し商品価格が決められ、すなわち買い手の債務額、つまり売り手にとっての「貨幣に対する私法的な請求権」(238頁)=債権額が決定しているのです。つまりここでは買い手は将来の貨幣により、それを商品に転化していということです。

すなわち、買い手は、第二の変態をたちまち彼に支払い約束の下、いうならば将来の貨幣により、まず行うのであり、そしてそのあとに彼は自分の商品を売ることにより貨幣を手に入れ、それを先に買った商品の代金として支払う――「第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く」――のです。

 第一の変態の前に第二の変態を行っているというのは、一見奇異に見えます。しかし、ここでの商品の買い手にとっても、結局自分の持っている商品を、自分が欲しいあるいは必要とする商品、使用価値へと交換したのであり、本質はW――W商品と商品の交換、相異なる使用価値どうしの交換です。ここでは流通手段として貨幣が登場することはありませんが、やはり貨幣は、ここでもこの商品交換を成り立たせる必須の条件として存在しているのだと思います。ですから支払手段の場合も、W――G――Wという関係が本質的なものなのであり、これが土台としてあるということではないでしょうか。

 

主な質問・意見等

○参加者より「これと逆の場合、商品の譲渡の前に支払いがなされる場合はどうなのか?その場合、貨幣は支払手段といえるのか?」との質問があり、これをめぐって議論がありました。他の参加者からも「それは、ここでのような信用取引とは違うのではないか?」「いや、先物取引のようなものはかなり古くからあるがそのようなものではないか」との意見がありましたが、結論的には「ここでの注八九に書かれてあることが、まさにこのことだろう。ここでは商品の譲渡の前に貨幣が支払われても、それは信用ということではなく、単なる購買手段として機能したということだといっている。」という発言があり解決されました。

 

◎b「支払い手段」第5パラグラフから第7パラグラフ

 商品の取引が発達してくる中で、商品の取引と貨幣での支払いが時間的に分離され、支払いが後からなされるようになってくると貨幣は、支払い手段として機能します。ではこうした取引に対してそれを決済する支払手段の量は、どのようになるのでしょうか?

 まず支払われなければならない総額は、期限がきた債務の総額ということになります。しかし、実際に支払われる貨幣は、この金額と同じではありません。なぜなら例えばAからBへ100の取引があり、またさらにBからCへと同じく100の取引が連鎖していく場合、この場合取引額の合計は200ですが、それを支払う貨幣は100で済むからです。この場合は、流通手段の場合と同じです。

支払い手段の場合、流通手段のときと異なる要素は、支払期限の問題です。この支払い期限の長さが支払い手段としての貨幣の流通のスピードに影響してきます。

つまり支払い手段の量は、支払期限のきた取引総額によってまず第1に規定されますが、その他にもその流通速度により必要となる支払い手段の量が決まってきます。基本的に取引の連鎖が、多くなればなるほど支払い手段の流通速度も速くなり、それだけ節約されることになります。ただ支払い手段の場合、支払期日が来れば、それは貨幣が支払い手段として実際に支払われなければなりませんから、支払手段としての流通速度にはこの支払期限の長さが影響してきます。

あとこのほかに、支払い手段の場合は、取引が連鎖していない場合、同時並行的な取引においてもそれらの債権と債務が相殺されることによって貨幣が節約されます。これは流通手段の場合では、商品の取引が連鎖していない場合――連鎖している場合は、同一貨幣片がそれらの取引を何度も媒介します――は、取引ごとに貨幣が必要となり、貨幣の節約は不可能です。

 例えば、それぞれ同時並行的な取引で相互に連鎖していない場合でもAのBに対する,BのCに対する、CのAに対する等々の債権は支払時期と取引所が同じであれば、相互に相殺することができます。こうして実際に、支払い手段として支払われなければならない貨幣の量は節約されます。この点は、流通手段の場合と大きく異なる点であり、流通手段の場合は、こうした同時並行的な取引では、取引の連鎖がない為、貨幣は取引のその都度必要となりますが、支払手段の場合はむしろその節約の新しい槓杆となります。

 またここでマルクスは「支払手段としての貨幣の機能は、媒介なき矛盾を含んでいる」(240頁)といっていますがこれはどういうことでしょうか?

 流通手段としての貨幣の場合は、それは直接に商品流通を媒介するものであり、またそうした機能を果たす限りで流通手段です。しかし、支払い手段としての貨幣は、それ自体は商品流通を媒介せず、むしろ最後に支払われる形で商品流通全体を閉じて終わらせる役割を担っていますこうした貨幣が支払い手段として最後に出動する際には、それは「絶対的商品」すなわち直接に価値一般として通用するものとして現れなければなりません。このことは、経済が順調に進み、商品流通が順調な場合には、諸支払いも相殺され問題なく進行します。しかし、ひとたび貨幣恐慌が起こるとこれらの諸支払いは、相殺不可能となり、むしろ即時の貨幣での支払が求められるようになります。こうした貨幣恐慌場面での、貨幣支払いの要求は絶対的なものとなり、ここでの矛盾は何ら媒介されえない――つまり現物の貨幣を支払うこと以外に何らの代替手段もないものとなります。

商品生産が発達し、こうした一種の信用取引も活発に行われようになると、現実の貨幣での支払が求められることは少なくなってきます。こうした取引では、むしろ貨幣より、商品の取引の方が社会的に重要視――「商品こそ貨幣だ」(240頁)――されます。しかし、貨幣恐慌の場面では、貨幣こそが求められるようになります。すなわち今度は、「貨幣こそ商品となった!」(240頁)ということです。

 

 

主な質問・意見等

○第7パラグラフに関連して注九九で「一般的な生産および商業恐慌の特別の段階として規定されている貨幣恐慌」と「同じように貨幣恐慌と名付けられている特殊な種類の恐慌」を区別すべきといっているが、この二つの違いはどういうものか?との質問がありました。これについては、報告者より後者の特殊な恐慌としての貨幣恐慌は、通常の恐慌のように産業面の恐慌を土台としてそれが流通に波及し、さらに金融的な部面に波及し現れてくるというものではなく、生産、流通部面から独立して現れるような貨幣恐慌だと思う。」との説明があり参加者より「最近では、リーマンショックがそれに相当するものではないか。リーマンショックは、サブプライムローンという金融商品を端に発生して、そこから金融面全般に広がっていったが、産業面など生産部門には深刻な打撃はなく、もっぱら金融的なものだった。そういう類のものではないか?」など捕捉説明があり、みなさん納得がいったようです。

 

(檀上)

2018年1月14日学習会の報告

今回は参加者4名と少なかったのですが、いつもは発言があまり無い方からも質問がありました。多くの意見が出されて活発な学習会となりました。

 悪天候を懸念して7月の「入門講座」が休止となりましたので、7月に予定していました第一章「商品」第二節「商品に表わされた労働の二重性」第9段落「われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、…」(岩波文庫第1分冊82頁、国民文庫第1分冊86頁)から第二節の最後の第16段落「…そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」(岩波文庫第1分冊88頁、国民文庫第1分冊92頁)までを学習しました。

 今回の学習箇所の最初に「われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。」(第9段落)と言われています。これまでの学習内容が商品の使用価値=物の有用性についての学習であったのに対して、これからは商品価値を学習していきます。これまでは、商品ひとつひとつの有用性・使用価値といったものを検討してきました。使用価値は商品の二つの側面のひとつですが、使用価値そのものは直接には経済学の範疇に入るものではなく、人間の欲望を充足させる物の属性に関することです。しかし、物に人間の欲望を充足させる属性が無いのであれば、そのような物は使用価値が無い物として商品にはなりません。ですから、商品価値を検討するにあたって、その物が使用価値であることは前提とされます。しかし、次の様なものは使用価値であっても商品とはなりません。たとえば、空気や未開拓の土地や野生の樹木などのように、人間の労働が媒介されていない物や、人間の労働が媒介されていても自分自身が使用するために作る物などです。すなわち、商品となるためには、自分が使用するためではなく、他の人々が使用するための使用価値、社会的使用価値を生産しなければなりません。しかも、税や年貢といった単に他の人々のために生産するということだけではなく、それが使用価値として役立つ他人に、交換によって移譲されなければなりません。使用価値についてはおおよそ以上の様なことを学習しました。

本課題の価値について。価値とは労働であり、ある使用価値の価値の大いさ(量)を規定するのは、この使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間であり、同一の大いさの労働量を含む商品、あるいは同一労働時間に生産される商品は、同一の価値の大いさをもっています。

 そして、第二節「商品に表わされた労働の二重性」では、商品に使用価値と価値の二つの側面があるように、商品を生産する労働においても、使用価値をつくる労働と価値をつくる労働といった二面性があることを学んでいきます。

使用価値をつくる労働においては、商品を生産する具体的な労働=質(内容)が問題であるのに対し、交換価値をつくる労働では、単なる労働、人間労働一般として考察されます。なぜなら、質の異なった商品の交換をおこなうには、同一の基準が必要となるからです。それには具体的な労働の側面を捨象した、単なる労働、人間労働一般とすることで、はじめて比率によって商品交換が可能となります。その比率とは、具体的にはその商品の生産に必要な労働の量であり、時間でもって計られます。つまり、使用価値をつくる労働が質であるのに対し、価値をつくる労働は量であるといえます。

それぞれの商品は、生産に要した労働時間の大いさでもって交換されます。例えば、労働時間2時間の商品2個=労働時間4時間の商品1個と交換されます。このことは、労働時間4時間の商品は労働時間2時間の商品に比べて、労働が複雑労働であり、対して労働時間2時間の商品は単純労働であると言えます。

 次に、生産力の変化が労働にどのように関係するのかについてです。まず、質問でもありました生産力については次のように述べられています。「生産力は、もちろんつねに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。」(岩波86頁)ここで言われているのは、ある目的の使用価値をつくる具体的・有用労働がある一定の期間に、どれだけの生産活動が可能であるかを規定しているということを言っている。このことは、有用労働(使用価値をつくる労働)は、生産力が増大すれば豊富な生産物を、生産力が低下すれば貧弱な生産物を生み出します。

 この問題に関しては次のように述べられています。「より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。…だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。…他方、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態(ある使用価値を生産する具体的な有用労働)がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるや否や、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら生産力は、同一期間にちがった量の使用価値をもたらす、生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。」(岩波文庫86頁)

 ここでは、生産力の変化と価値に表わされている労働の関係について言われています。生産力は、労働の具体的・有用的な形態がもっているものであり、労働がこの具体的な有用な形態から抽象されるや否や、生産力は労働に関係することはできません。生産力が変化しても、同一の労働は、同一の期間に、つねに同じ大いさの価値を生みます。

 最後に注(16)で、「…A・スミスは、…商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。」と、マルクスがA・スミスを批判していますが何が間違っているのでしょうか? A・スミスは商品の価値を規定するものを、商品の生産に支出された具体的な労働の量と考えています。しかし、商品の価値を規定するものが労働ではあっても、それは個々の商品に支出された具体的な労働量ではありません。社会的に同一で平均的な労働・人間労働一般が価値を規定するのです。

(伊藤)

2018年8月23日 (木)

2018年7月22日学習会の報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第3パラグラフ「商品流通の部面に帰ろう。・・・」(岩波文庫第1分冊237頁、国民文庫第1分冊239頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第4パラグラフ「・・・。その第一の完遂は、後になって初めて続く。」(岩波文庫第1分冊238頁、国民文庫第1分冊240頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

b「支払い手段」第3パラグラフおよび第4パラグラフ

 貨幣が商品交換を媒介する場合は、貨幣は流通手段として機能します。他方、ここのb項目の場合のように商品が支払い約束の下に譲渡されて、あとから貨幣が支払われる場合は、貨幣は支払い手段として機能したということになります。

 こうした場合の貨幣は、第一に売却された商品の価格を規定するものとして、つまり価値尺度として機能します。これにより売却される商品に価格がつきます。この価格は、買い手の支払い義務を表しており、それは彼にとっては債務額ということになります。

 ここでの貨幣は第二に観念的な購買手段として機能することになります。ここで観念的とは、商品の譲渡の際には、現実の貨幣の支払いはありませんが、それでも後から貨幣が支払われるという支払い約束の下に商品が譲渡されるわけですから、その意味では観念的にではあれ貨幣は、買い手にとって目的の商品を買う購買手段として機能しているということです。

 そして、最後に支払期日が来れば貨幣が支払われ、貨幣は支払い手段として、ここではじめて流通に入っていくわけです。

 ここでは貨幣は、“交換価値の絶対的存在”としてこの過程(商品の流通過程)を終わらせます。この場合、単なる流通手段としての貨幣とは異なり、貨幣は“交換価値の絶対的存在”である必要があります。なぜなら流通手段の場合、それが単に流通を媒介するだけなら、それは貨幣の代理物や無価値な標章でもかまわないのですが、支払い手段としての場合は、そうはいきません。これは売り手の立場、債権者の立場からはすれば、やはりちゃんと価値が保障された貨幣で支払ってもらわなければならないということです。

 この後の第4パラグラフでは「買い手は貨幣を商品に再転化させる、しかし、彼はその前に商品を貨幣に転化させることをしていない。別の言葉でいえば、彼はおそらく第二の商品変態を、第一のそれの前に遂行している。売り手の商品は流通するが、ただ貨幣に対する私法的な請求権において、その価格を実現するだけである。商品は、貨幣に転化するまえに、使用価値に転化する。その第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く。」(岩波文庫版238頁)となっており、かなり分かりづらい展開になっています。

 これにつては報告者もなかなかすっきりとは理解できていませんでしたが、次のようなことではないかということで一応の解釈を提出しました。以下がその内容です。

 ここでの取引は、買い手は、商品の支払いは後からするために、彼にとっては売らずに買うという取引です。すなわち買い手は、自分の商品を売ってそれを貨幣に転化するまえに、貨幣を商品に転化、つまり相手の商品を買っているのです。通常の商品変態であれば W――G・G――W という過程であり、まず自分の商品を売り貨幣に転化し、その貨幣でもって再度自分が手に入れたい商品に転化するわけです。この通常の商品変態の過程からみれば、ここでの買い手の取引は、前半の商品変態W――Gを行う前に、後半の変態G――Wを行っているということです。「貨幣を商品に再転化」といっていることはこのことではないでしょうか?

 あともう一つここで私たちが混乱してしまうことは、貨幣は後から支払われるわけで、貨幣の商品への再転化、第二の商品変態、G――Wといってもそれはどういうことか、一体貨幣はどこで出てくるのか?と思ってしまうことではないでしょうか?テキストの叙述の中にあるように、実は、この場合の取引においても貨幣は機能しているのだと思います。それは観念的な形でやはり購買手段として、つまりここでの買い手にとっての第二の商品変態を担うものとして貨幣は機能しているのでしょう。そう考えるとここでの商品は、売り手にとっては、現実に貨幣に転化するまえに――なぜなら貨幣は後から支払われるから――自分の商品が買い手の手に渡り使用価値に転化します。そして第一の変態 W――G が終わるのは売り手にとって商品が現実に貨幣に代わることであるから、それは後になって支払期日が来て貨幣が支払われてからだ――だから「第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く」のである――ということではないかと思います。

 

 この第4パラグラフは、報告者もあまり自信がなく整理が十分でできなかったため、次回再度やることにしました。

 

 

主な質問・意見等

「ここのb『支払手段』のところでは、信用貨幣の問題が扱われていると解釈してよいのか?そうだとするとここの項目の説明は、現代の“貨幣”の問題 にも通じる重要なところのように思うがいかがか?」というような質問と意見が出されました。

 これについては報告者から「信用貨幣の問題が扱われているといいきっていいかわからないが、少なくともテキストのこの後の説明の中で、『信用貨幣は、直接に支払手段としての貨幣の機能から生ずる。』(岩波文庫版243頁)といっています。ここでのように信用により商品が取り引きされ、そこで買い手から売り手に債務証書が渡され、それが他の者との取引間でも債権の移転の為に流通するようになれば、それは信用貨幣のはじまりだということではないでしょうか?一方でマルクスは、本来の信用貨幣とは、こうした商業手形などではなく銀行券であるといっています。銀行券の説明や本格的な信用の問題は、第3巻で展開されるべき内容だと思いますが、その一番の基礎的な理解は、ここのb『支払手段』なのではないでしょうか?ここの説明だけで現代の通貨や信用の問題を説明することはできないとは思いますが、しかしここでの支払手段としての貨幣の理解なくしては、それは望めないということのように思います。」との回答がありました。

 

○また報告者より第4パラグラフの中の「貨幣に対する私法的な請求権」とあるがどういうことか分からないと疑問が出されましたが、それについては「売り手の商品は、譲渡され流通するが、ここではその支払いは後からなので、その代金は当面は売り手にとってはただ私法的な請求権――買い手に対しての債権――としてあるだけということだと思う。」と説明があり報告者も納得しました。

2018年7月8日学習会の報告

この日は、前日に降った豪雨の影響を考慮して学習会は中止とさせていただきました。

2018年7月16日 (月)

2018年6月24日学習会の報告

第三章「貨幣または商品流通」の第三節「貨幣」のa「貨幣退蔵」第4段落「商品生産がもっと発達するとともに、…」~第8段落の最後まで(岩波文庫第1分冊229頁~235頁)と、b「支払い手段」第1段落「これまで考察した商品流通の直接の形態においては、…」~第2段落の最後まで(岩波文庫第1分冊235頁~237頁)を学習しました。 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」a「退蔵貨幣」の第4パラグラフ「商品生産がもっと発達するとともに、・・・」(岩波文庫第1分冊229頁、国民文庫第1分冊231頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこのa「退蔵貨幣」の終わりまでと次の「支払い手段」の冒頭から第2パラグラフ「・・・敵対関係を反映しているにすぎない。」(岩波文庫第1分冊227頁、国民文庫第1分冊229頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

a「退蔵貨幣」の続き

 商品生産の発展は、必然的に生産者らに自分の商品を売ることなしに、自分が必要とする商品を買う必要が生じてきます。それは農家が自分の生産物の収穫期が来る前に、追加的に必要となる堆肥やあるいは破損した農機具の買い替えの必要が生じる場合などです。仮にあらかじめ生産を始める前にある程度必要な堆肥や農機具をそろえていたとしても、突発的に追加的堆肥が必要となる場合や農機具などが不足するという事態も考えられます。そうした生産上の必要から生産者の手元に貨幣が蓄えられるようになります。生産を継続しさらに拡張していくためには大なり小なりこうした生産者の手元に蓄えられた貨幣(ある種の準備金)が必要となります。しかし、こうした貨幣を手元に蓄えるためには、一方で買うことなしに売っておく必要があります。先の農家の例では、前年度に生産した農作物を売ってえた貨幣で、彼自身が消費するための消費財の購入と次年度の生産のための農機具や肥料等々のための資材を買わなければなりません。しかし、そこで彼は彼が収穫でえた貨幣全部を使ってしまうのではなく、一部は次年度以降の準備金として手元に残しておくようになります。

 退蔵貨幣(国民文庫訳では蓄蔵貨幣)の一部は、こうした生産に必要な各種の準備金の形態で形成されてきます。

 他方、貨幣はそれ自体「すべての商品の一般的等価形態」であり、それがあればどんな商品でも買うことができます。しかし、それはどんな商品でも買うことができる(質的に見れば無制限)のですが、ただ量的にみればおのずと限界があります。例えば、少額の貨幣では仮に安価なモノでも沢山は買えないし、高価なモノはほとんど買えません(量的には限界がある)。ここから人はより多くの貨幣を求めるようになります。こうしたことからより多くの貨幣を蓄えようという衝動が生じて来ます。この場合の貨幣退蔵者が多くの貨幣をため込むことができるのは、自分の消費欲を抑制し、節約と勤勉に励むことによってであるとマルクスは言います。つまり彼は生産に励み多く売って少なく買うことによります。これにより彼はより多くの貨幣を退蔵貨幣として手元に蓄えることになります。これがもう一つの退蔵貨幣の形成につながります。

 流通手段として機能する貨幣との関係では、退蔵貨幣は次のような重要な役割を果たします。

 流通手段として機能する貨幣の量は、これまで見てきたように流通する商品の価格総額により基本的に決まります(厳密には貨幣の流通速度も関係してきますが)。つまり経済が好況で商品取引が活発になり実現される価格総額が増えるなら、流通する貨幣量も増大し、逆に経済が停滞して取引も減少して実現される価格総額も小さくなれば流通に必要な貨幣量は減少します。しかしこうした流通手段として機能する貨幣の量はどうやって調整されるのかが問題となります。これは流通に過剰な貨幣は、流通の外に出ていき退蔵貨幣として蓄積されていき他方流通で貨幣が不足すれば退蔵貨幣としてあったものの中から必要な分が鋳貨(流通手段)として出ていきます。すなわち社会の中で退蔵された貨幣が、一種の貯蔵プールのような役割を果たします。これにより流通する貨幣は、特別な事態がない限り、不足することも溢れることもありません。

 

◎b「支払い手段」

 このbでは、支払い手段としての貨幣がとりあげられます。では、支払い手段としての貨幣とはどんなものでしょうか?

 商品流通が発展する中で、商品の譲渡とその譲渡された商品の価格の実現が時間的に分離されてくる事情が発生してきます。この場合、商品の売り手は、債務者となり、他方、買い手は債務者となります。この場合、貨幣での支払いは、支払いの約束の期日が来たら支払うという形になります。これが支払い手段としての貨幣ということになります。ですから支払い手段としての貨幣は、売り手と買い手、債権者と債務者という信用関係を表現するものです。

 次回からこの支払い手段としての貨幣について詳しく見ていきます。

主な質問・意見等

「ここでの退蔵貨幣というのは、要するに拝金主義者や金儲け主義者みたいな人間がどんどんと儲けて蓄えたものということなのか?」という質問がありましたが「そういう致富衝動により貨幣が蓄えられるということもあるが、一方で商品生産の発展の中から、生産者の中に、自分の商品を売ることなしにも、必要なモノをいつでも買うことができるようにしておきたいという欲求が必然的に生まれてくるということもあると思います。」とレポーターより説明がありました。

○「岩波文庫版234頁『あるときは、鋳貨は貨幣として引きつけられ、あるときは、鋳貨は貨幣として追い出されなければならない。』とあるがここでの鋳貨とは、価値標章ということか?またここの一文は何を言っているのか?」という質問がありました。これについては報告者より「ここでの鋳貨というのは、たぶん流通手段としての貨幣形態ということだと思う。価値標章ということではないと思う。流通から脱落した退蔵貨幣は、すべてが金貨や銀貨のような形態(鋳貨形態)である必要はないし、一部は鋳つぶされて金塊や銀塊のような形態にされることが多かったと思う。他方、一部は確かに退蔵されても鋳貨の形態のままであったと思う。流通過程で貨幣が不足すると退蔵貨幣の貯水池からまず先に出ていくのは金貨や銀貨の形態にある鋳貨であると思う。これが鋳貨は貨幣として引きつけられるということで、他方流通に過剰な貨幣(鋳貨)は、流通から追い出されるが、それは別の形態の貨幣、退蔵貨幣として蓄積されるということをいっているのだと思う。」と説明がありました。

2018年6月10日学習会の報告

第一章「商品」の第二節「商品に表わされた労働の二重性」第1段落「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。…」~第8段落「上着、亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、…」(岩波文庫第1分冊78頁~82頁)までを学習しました。

さて、マルクスは「労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表を持たないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのである…」と述べています。

商品を生産する労働の二面的なもののうち、交換価値に表わされる労働には、使用価値の生産の労働のように、個別的で具体的な内容=徴表は必要がありません。なぜなら、商品の使用価値は個別的なものですが、交換価値として必要なものは、両者に共通なものをどれだけといった、質ではなくもっぱら量が問題になるからです。その共通なものは人間労働ですが、交換価値では交換される商品にこの共通の人間労働がどれだけ対象化されているかということが問題になります。交換における交換比率では、個別の商品の使用価値は捨象され、交換される商品にどれだけの労働が対象化されているのかということだけが問題になり、その点で交換が行われるのです。ここでは、交換の計算単位としての労働時間でもって比較され、それが交換価値として表わされます。

上衣と亜麻布とが質的に違った使用価値があるように、上着と亜麻布を生産する裁縫と機織りの労働も全く違った質の労働です。このことは、多くの商品の使用価値が異なると同様に、その商品を生産するそれぞれの労働も全く異なっており、商品の使用価値と同様に生産する労働も存在するということです。それは、商品の使用価値が様々な種類―属、種、科、亜種、変種等々と分かれるように、それらをつくる労働も同様に分かれます。これらが、すなわち社会的分業と言われます。マルクスは「この分業は商品生産の存立条件である」しかし「商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。」と言っています。

商品生産にとって社会的分業は不可欠であり、もし、社会的分業がなければ機械制大工業のもとでの大量生産や商品生産の発展はありません。一方、社会的分業は商品生産でなくとも可能です。たとえば、古代インドの共同体や未来の社会主義・共産主義社会においては、商品生産で無くとも、労働生産物は分業としておこなわれます。商品として相対するのは、計画的ではない、独立的で無政府的な生産である私的労働の生産物だけなのです。

次に、使用価値とこれを生産する労働の関係について、マルクスは次のように述べています。「上着、亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらゆる要素が現存するようになったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。」

ここでは、人間の要求が自然にあるがままのものから、自然には無い様々な物に移っていくにしたがって、それらの素材的富は、自然を作り替えるだけではなく、まったく自然とは異なるようなものを生み出すような生産活動が行われなければならなくなった。使用価値をつくる有用労働は、社会形態からは独立した、人間の存立条件であって、人間の生活を媒介するために永久的に必要なものなのです。

商品体(具体的な商品そのもの)は、自然素材と労働の二つの要素の結合物です。商品体から有用労働をすべて引き去ってしまえば、残るのは、つねに人間の労働が加えられていない、自然にある物質だけとなります。ということは、人間が加える労働は自然にある物質に合わせて行うしかなく、それは、ただ自然の形態を変更することしかできないのです。そして、この労働においても、たえず自然力に支えられています。故に、労働は、生産される使用価値の、唯一の源泉だとは言えません。労働と自然的素材の結合によってこそ、新たな使用価値が生まれるのです。

2018年6月12日 (火)

2018年5月27日学習会の報告

 

 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第二節「流通手段」のC「鋳貨 価値標章」の後半部分、このC項目の第6パラグラフ「一ポンド、五ポンド等々というように、・・・」(岩波文庫第1分冊223頁、国民文庫第1分冊225頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から、同項目の最後までと次の第三節「貨幣」の冒頭から第3パラグラフ「・・・あらかじめオーストラリアの金と換えられていたものである。」(岩波文庫229頁、国民文庫231頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

 

C「鋳貨 価値標章」の後半部分 

 前回では、鋳貨が流通するなかで磨滅してその実質的な金属純分が減っていっても、もともとの金属純分に相当するものとして通用するということを見てきました。例えば、銀1ポンドという鋳貨が、もとはちゃんと銀1ポンド分の含有量があったとしても、それが流通し磨滅していくうちに銀1ポンドより少なくなります。ところがその目減りした銀1ポンド鋳貨は、以前と同様に目減りする前の実質的な銀1ポンドに相当するものとして通用することが生じます。こうなると目減りした銀1ポンド鋳貨は、その名目上の銀純分と実質的な銀純分が乖離することになります。これは、目減りした鋳貨が、その名目上の金属純分に相当するものとして、価値標章になっているということです。鋳貨では、価値標章といってもまだそれはある程度価値を持ったものでありますが、これが紙幣になると全く無価値な紙券が金や銀などの代用物として流通し、通用することになります。この紙幣の場合でも、国家による強制通用力があれば、それが実際にはただの紙切れで無価値であっても、それが象徴する金や銀などの貨幣の代わりにそれと同等なものとして通用するようになります。つまり鋳貨であれ、紙幣であれ価値標章としては、どちらもそれが代表している金量(銀量)と同等のものとして通用します。

 これが前回までの部分ですが、では価値標章として流通する紙幣の流通法則は、どのようになるのでしょうか?

以前、流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、基本的に流通に必要とされる金量により規定されるということを学習しました。

 紙幣の場合にも、この法則が基本的に当てはまります。つまり金であれば実際に流通するであろう量に紙幣も制約されるということです。ですから「紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示されている金(ばあいによっては銀)が、現実に流通しなければならぬ量に限定されるべきである」(岩波文庫223頁、国民文庫225頁)ということになります。

 しかし、金が実現されるべき商品価格総額等により流通量が決まっており、それを超えることがないのはこの必要量を超えた部分は、流通から引き揚げられ退蔵貨幣(蓄蔵貨幣)として機能することができるからです。

 しかし、紙幣の場合はどうでしょうか?紙幣の場合も、それが金を代表する限り、例えば経済が好況で以前よりたくさんの商品が取り引きされるような場合、つまり流通が吸収しうる金量が増大すれば、それに応じて紙幣の流通量も増えます。しかし、今度は経済状況が不況に陥り取引が停滞し、実現されるべき価格総額も縮小すると紙幣が過剰ということになります。しかし紙幣は、金のように流通から退場し別の機能(退蔵貨幣のような)を果たすことはできません。つまり過剰になった紙幣も流通にとどまり続けることになります。この場合も当然紙幣はあくまでも金の代理物であり、その限りで流通しうるわけですから、以前と同じだけの紙幣(量)が、今度は収縮した金量を表す、つまり代表することになるのです。

 結局、紙幣もそれが貨幣の代理物として通用する限り、金であれば流通するであろう量によって制約を受けるわけであり、仮に何らかの事情でこの流通必要金量を超えることがあっても、それは金(銀)であれば流通するはずのものを代表するにすぎないということです。

 例えば、流通に必要な銀量が10000ポンドだとし、それを代表する10000ポンドの紙幣が発行されていたとします。しかし、これが不況により経済が収縮し流通に必要な銀量が8000ポンドに下がったとすると、いまでは10000ポンドの紙幣が銀8000ポンドを代表していることになります。つまり以前では紙幣1ポンドは、正に銀1ポンドを代表(象徴)するものでしたが、いまでは紙幣1ポンドは、銀0.8ポンドを代表するものになってしまうということです。

 しかし、どうして金の代わりに単なる無価値な標章が流通しうるのでしょうか?こうしたことが可能なのは、それらがもっぱら流通手段としてのみ機能する場合であり、そうした場合は、このような単なる無価値な標章、つまり紙幣でも可能なのだとマルクスは言います。

 それは流通手段としてのみならば、貨幣はただ商品の変態――ある商品が交換により別の商品へと変わること、W-G―W――を媒介するだけであり、確かにそれはいったん貨幣に代わらなければならないのですが、ここでは貨幣は目的ではなく、あくまでも媒介手段にすぎず、しかもそれは一瞬にしてすぎるものです。だからそれは金でなくても、その代理物、単なる標章でも役割を果たすことができるのです。

 

第三節 「貨幣」

 この第三節では、これまで見てきた単なる価値尺度のとしての貨幣や単なる流通手段としての貨幣とは異なるいわゆる貨幣としての貨幣の機能、現物の金や銀のように本来的な貨幣でないと果たせない機能について展開されます。

 単なる価値尺度としては、貨幣は現実の肉体を持った貨幣である必要はありませんでした。それは単に計算貨幣として観念的な存在でも事足ります。またただ流通手段としてだけなら、貨幣は無価値な標章でも、機能することができます。

 しかし、この第三節での貨幣の働きでは、現物の金のように現実に肉体を持った貨幣でなければならないし、またそれは単なる標章では、役に立つことができません。それは現物の金のように、ちゃんとした価値のあるものでなければなりません。

 

A 貨幣退蔵

 これは、蓄蔵貨幣とも言います。第二節で見てきた流通手段としての貨幣は、次々と商品の変態を媒介するだけであり、この場合に貨幣は、次々と持ち手を変えていきつつ、それ自体は流通にとどまり続けます。しかし退蔵貨幣は、流通から引き揚げられた貨幣であり、それはその所有者の手元で蓄えられる貨幣といえます。この手の貨幣形態が形成されるのは、商品生産の発展の中から生産者らにいつでも必要な商品を買い得る状態にしておきたいという欲求が生じ強まることなどが背景にあります。例えば、農家なら作物が収穫できるようになる前に、鋤や鍬などの道具が急に壊れて、買い替えが必要となるかも知れません。その場合、そうした突発的な需要が生じた場合、もし手元に貨幣の蓄えがなければ、農作業に支障が出ざるをえません。生産を安定的に継続していくためには、ある程度支払い準備金のようなものも不可欠となってきます。退蔵貨幣は、このような商品生産の発展の中から、必然的に生じてきます。

 しかしこの形態の貨幣は、自給自足的な共同体の下で発生した剰余生産物がその形をとったものが始まりです。

 

主な質問・意見等

・貨幣の機能、価値尺度機能と流通手段機能と第三節で扱われるような貨幣の機能のちがいにて説明してほしいとの要望が出ました。これについては、レポーターより「すべての商品は、価値の大きさが表現されなければなりませんが、それは貨幣によって、その量により大きさが表現されます、つまりⅩ量のA商品=金(貨幣)M㎏。あるいはY量のB商品=金(貨幣)N㎏等(この貨幣である金の量による価値量の表現は価格形態です。金の一定量を基準にしてそれに貨幣名をつけると○○ポンドとか○○円とか我々に知る価格の姿になります。)。こうしてあらゆる商品が金の量により価値がはかられ示されます。つまり諸商品は貨幣によりその価値と価値の大きさが共通に表現されることになります。これにより初めて諸商品は相互に価値量において相互に比較可能となります。こうした貨幣の機能が価値尺度機能です。これは諸商品に価格を付与する貨幣の働きといってもいいと思います。これに対して流通手段の機能は、ただ諸商品の交換を媒介するのみです。この機能の貨幣の特徴は、商品の変態を媒介しながら、それ自体は流通にとどまり続けるということです。もし商品の変態が中断され、貨幣が流通から引き上げられれば、それはこの第三節の貨幣としての貨幣の機能の一種、退蔵貨幣となります。他にもこの種のものとしては支払い手段としての機能や、世界的な貿易などで必要となる世界貨幣などの機能があります。この三番目の機能では、いずれにおいても現実に肉体を持ち、価値もちゃんと持った本来の貨幣、つまり金(や銀)である必要があります。価値尺度では、現物の金(や銀)は必要なく、ただ観念的なものでこと足りました。流通手段としては、それは紙幣などの、無価値な標章でも機能しました。しかし、この第三の機能では、金や銀のようにちゃんと価値を持ったものであり、それは観念的のものではなく現物の貨幣が必要となるのです。」と説明がありました。

2018年5月13日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第13段落「商品の交換関係そのものにおいては、…」~第一節の最後、第18段落「物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。…」(岩波文庫第1分冊73頁~78頁)までを学習しました。

 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われました。実際に労働生産物の使用価値から抽象すれば、労働生産物の価値が得られます。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、その価値なのです。この価値を考察するに際しては、価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値から切り離して考察されます。

 一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているからです。それでは、財貨の価値の大いさはどうして測定されるのでしょうか?それは、その中に含まれている「価値形成実体」である労働の定量によってです。そして、労働の量自身は、その継続時間によって測られます。労働時間には、時、日等のような一定の時間部分としてその尺度標準があります。

 価値の実体をなす労働は、等一の人間労働です。従って、怠惰や不熟練といった個々人の労働は考慮されません。社会の全労働力として、同一人間労働力の支出としてみなされます。無数の個人的労働は、社会的平均労働力として作用します。一商品の生産においても、ただ平均的に必要な、社会的に必要な労働時間が用いられます。個々人の労働は、他のものと同一の人間労働力なのです。社会的に必要な労働時間とは、現にある社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもってなんらかの使用価値を造りだすために必要とされる労働時間です。

 

 ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかなりません。同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっています。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間に対する比に等しいのです。「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない」

  ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変です。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化します。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さいのです。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きいのです。従って、ある商品の価値の大いさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化します。

わたしたちは、いまや価値の実体を知りました。それは労働です。わたしたちは価値の大いさの尺度を知りました。それは労働時間です。

 物は、価値でなくして使用価値であるばあいがあります。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介されないばあい(空気、処女地、自然の草地、野生の樹木等々)です。

 物によっては、有用でありまた人間労働の生産物であって、商品でない場合があります。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくりますが、商品はつくりません。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち社会的使用価値を生産しなければなりません。そして、ただ他の人々に対して生産されたということだけで、商品とはなりません。商品となるためには、年貢や税のために生産された労働生産物ではなく、生産物が、使用価値として役立つ他の人に対して、交換によって移譲されるのでなければなりません。

 どんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできません。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにははいらず、したがってまた、なんらの価値も形成しないのです。

2018年5月 6日 (日)

2018年4月22日学習会の報告

本日は、常連メンバーに加えて、新しい参加者の方2名が参加され、合計9名での久々に盛況な学習会となりました。

 新規の方の参加があった為、今回は、はじめに資本論でもっとも基礎的な冒頭の商品論と価値論を簡単に振り返り、そのあと今回予定していたテキストの前回からの続きの部分、第三章「貨幣または商品流通」第二節「流通手段」のc「鋳貨 価値標章」の冒頭(岩波文庫第218頁、国民文庫21頁)からこのc「鋳貨 価値標章」の第5パラグラフ、「・・・信用貨幣は、貨幣の支払い手段としての機能に、その自然発生的の根源を持っているのである。」(訳文は岩波のもの、岩波文庫222頁、国民文庫224頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

 

 

商品論と価値論の振り返り 

 「資本論」は、冒頭の第1章が商品から始まります。「資本論」は、ご存じのとおり資本主義的な経済体制がどんなものであるかを体系的に曝露した書物です。ではなぜそうした資本論の冒頭は、資本からではなく「商品」から始まるのでしょうか?

 歴史上のどんな社会においても人間社会の根底は、人間自身が自然に働きかけ、自然を人間の生存や活動に役立つように作り変えていくこと、つまり労働により自然から有用物を得るという物質的な生産活動を基礎としているということです。確かに人はパンのみで生きているわけではありませんが、基本的に衣食住などの物質的な生産活動内には、どんな社会も成り立ちえません。言い方を変えれば、こうした労働による生産活動がどのような形でなされ、またそうして生産された物質的富がどのような形で分配されるかということ、端的にいえばその社会の生産様式がどのようなものであるかがその社会の基礎であるということです。マルクスによると資本主義的な生産様式の一番の基礎は、人間が生産した社会的富(=労働生産物)が一般的に商品という形をとるということにあると言っています。すなわち、商品とは何かということを明らかにすること、その背景にはどのような生産関係があるのかを解明することが、資本主義の一番土台にある関係を理解することにつながるからです。

 また資本とは、例えば、おカネを持っていてそれを何かに投資するとおカネが増えて帰ってきます。そうした場合、そのおカネは資本といえますが、この場合資本価値が増殖するとも言います。マルクスも「資本」とは「永遠の自己増殖的な価値である」という言い方もしています。どうやら「資本」とは何か?その一番の本質を考えるには価値とは何かを明らかにする必要がありそうです。

 実は、この価値とはまさに、労働生産物を他ならぬ商品にする要素なのです(単なる労働生産物は商品ではありません。)。ですから資本とは何かを明らかにするためには、まずもって商品を分析して、その価値とは何かを明らかにする必要があります。ですから資本論は、まず商品論から始められなければならないのです。

 次に価値論です。

マルクスは商品の分析で、商品は使用価値と交換価値の二つの要素からなっているといいます。使用価値については、そのものの有用性です。他方、交換価値とはある商品が他の商品と交換される割合、これが交換価値です。例えば、x㎏の小麦がy㎏のコーヒーと交換される場合、x㎏の小麦 の交換価値は y㎏のコーヒーということになります。これを等式で表すと x㎏の小麦 = y㎏のコーヒー。しかし、小麦はコーヒーとしか交換されないのでは、商品としては不十分です。当然、小麦は他の商品とも交換されます。お茶や亜麻布などとも。x㎏の小麦 = z㎏のお茶、または x㎏の小麦 = mエレの亜麻布(エレは長さの単位)。

とすると同じ x㎏の小麦 の交換価値が y㎏のコーヒーやz㎏のお茶、あるいはmエレの亜麻布などと様々に表されることになります。これは等式で表せば、x㎏の小麦 = y㎏のコーヒーまたはz㎏のお茶またはmエレの亜麻布となり、これら3つの物が表しているのは、すべてx㎏の小麦の交換価値であり、それはある共通のものがそれぞれ具体的な形をとって表れたものということになります。この共通するもの(その内実)が価値というものであると。では価値とは何か。価値とは、x㎏の小麦 = y㎏のコーヒーの等式にもあるようにこの両辺のものを相等しいものとして置くものであり、それは使用価値の側面は相異なるわけであるから、この要素はこの共通なもの(価値として現れるもの)には一切関係ない。だから商品から使用価値の側面を捨象(=取り除いて考えること)すると、残るものは、両者が人間労働の産物以外ではないということになります。ここから商品の価値という形で現れてくるものの実体は、抽象的人間労働であると。これがマルクスの価値の論証です。抽象的人間労働とは、実は商品の使用価値を形成するものも人間の労働なのですが、それは例えば、小麦を作るためには農家の小麦を作る労働が必要とか亜麻布を作るためには布を織る労働が必要とか、それぞれの労働の具体的側面、具体的有用労働としての側面が問題になります。他方、価値としては、そうした有用な形態は問題にならず、むしろ同等な人間労働としての側面、小麦を作ろうが、布を織ろうがそこには、共通して人間労働力の支出があるということのみが問題となるということです。

価値の実体は、抽象的人間労働ですが、ではその大きさはといえば、その商品を生産するのに必要な社会的平均的労働時間であり、その長さが価値の大きさを決めます。

 

c 鋳貨 価値標章

鋳貨とは、金や銀などが鋳造された形態での貨幣だといえます。ヨーロッパなどで流通していた金貨や銀貨、あるいはい日本の江戸時代などで流通していた小判などがそれにあたります。

もともと鋳貨は、金の代理として作られ流通するようになったものです。もともとは金が鋳造されるなどして、その名目的な価値の大きさと実質的な価値の大きさは一致していました。例えば、イギリスの1ポンドスターリング銀貨は,1ポンドの銀含有量を保障するものでした。しかし、鋳貨は当然流通するうちに徐々に磨滅していきます。すなわち1ポンドスターリング銀貨の実質銀含有量は、1ポンドより少なくなっていきます。これは流通するうちにどんどん減っていきますから長く流通するうちに、元の銀1ポンドからのかい離は大きくなっていきます。しかし、法定通貨としては相変わらず、銀1ポンドの価値があるものとして流通します。

このように鋳貨は、もともとの金属含有量、あるいはその鋳貨が名目的に象徴している金属含有量より少なくなっても流通します。本来は、その名目的な金属含有量を保障していなければならないはずですが、鋳貨は名目上保障している含有量を下回っても、名目上の含有量を持つものとして流通し通用してしまいます。すなわち、これは鋳貨が、本来貨幣としては金や銀がそれだけの金属含有量を保障するものでなければならないはずの物が、単に鋳貨としては、名目的に表しているだけのもの、すなわち象徴になっているということです。これが価値標章ということです。これは、鋳貨が、その表向きの、名目上の価値をただ象徴しているということです。例えば、1ポンドの銀の代理である、1ポンドスターリング銀貨は、貨幣としてはやはり実質的にも銀1ポンドを保障していなければならないはずです。ですが単なる流通手段としては、法定貨として国家権力が背景にあればそれは名目上の価値があるものとして流通することができます。ですから価値標章というのは、それが単なる流通手段として機能する場合であり、もしこれが流通の外に出るとたちまち機能しなくなります。例えば、次の第三節の「貨幣」で扱われる貨幣の機能は全く担えません。第三節での貨幣は、本来的な姿の貨幣、鋳貨から金(地金)形態や銀(地金)形態として存在することになります。なぜなら、ここでは本来的に価値のある物でなければならないからです。

ではなぜ単なる流通手段としては、こうし価値標章でも機能するのでしょうか。それはもちろん国家による強制通用力を背景にしているということがありますが、その根底には流通手段として様々な商品の交換を次々に媒介するものとしては、その交換価値としての姿は、ほんの一瞬一瞬のこと(「ただ瞬過的な事柄」(岩波226頁)だからです。それにこの場合の貨幣は次々に持ち手を変えていき決してひとところにとどまっていません。ですからこの場合、商品の価値を表現する必要があるとしても、それは一瞬であり、ここでの貨幣の目的は、ある商品がまた別の商品へと交換により変わること、ただそれを媒介することが目的だとすれば、価値としては象徴的なものでもかまわないのです。

 ここまで見てきた鋳貨の価値標章の機能から、紙幣の流通も出てきます。鋳貨として単なる標章が流通するとすれば、より無価値な紙幣でもかまわないことになります。鋳貨の場合は、価値標章としての象徴としての性格は、まだ潜在的です。なぜなら金属鋳貨であれば、確かに価値標章として名目的な価値の大きさから乖離しているとしてもまだいくらかは価値があります。しかし、紙幣ともなるとそれが名目的に謳う金属含有量相当の価値とはほとんど無縁の、ほとんど無価値なものになってしまっています。そいう意味で貨幣標章として、純粋に象徴的な性格は紙幣の場合明瞭に現れているといえます。

 

おもな質問や意見

◎参加者より「価値の大きさは、労働時間により決まるというが、ダイヤモンドなど労働時間ばかりでなく、希少性もその価値の大きさに関与するのではないか?」との質問があり報告者より「基本的に、労働時間により決まる。ダイヤモンドはどこでも採掘できないし、ダイヤモンド鉱山があってもそれを掘り出すのは、相当深く掘りださないととれないとか、それが希少性にも関わるといえばそうだが、しかしそれでも希少性で価値が高まるというとではなく、それを採掘するのに大変な困難があり、結果としてそれを最終的に生案するには多くの労働時間がかかるからであり、ダイヤモンドの高い価値はやはりその生産に必要な労働時間が膨大だということであり、やはり労働時間に規定されていると思う。」と回答がありました。

 

◎「資本論で書かれていることは、当時のイギリスの状態のことで、ここから現代に問題を考えることはできないのではないか?例えば、減殺の通貨の問題は、資本論に書かれてあることから説明がつかないと思う。」との意見が出されましたがこれに対して別の参加者から「マルクスは、原理的なことを言っている。当時も現代も資本主義は本質的に変わってはいないと思う。だから現代の資本主義の問題について考える場合も、マルクスの理論から学ぶ必要がある。」との反論があり、報告者からも「基本的に同感であり、資本論そのものを持って現代の分析とすることはできないが、資本論で明らかにされている基本的な理論を土台に据えないではどんなン現代資本主義の分析も不可能だと思う。例えば、現代の通貨の問題もいまやっているところの理解なしには、ちゃんとした説明はできないと思う。」と意見がありました。

 

◎「銀行券と(政府)紙幣との違いが分からないので説明してほしい。」との質問がありました。これについては報告者より「銀行券は、本来は信用貨幣であり、債権・債務関係から生じる支払い証書が貨幣の代理として流通するようになったものから生じている。そもそも流通する根拠が債権・債務関係などの経済的信用関係に根拠があるので、単に権力により強制通用力が与えられえた紙幣とは根拠が全く違い、流通法則も全く違う。前者はほぼ貨幣流通の法則--流通に必要な金量の増大収縮に応じて、その流通量が決まる――に従うが、後者紙幣は流通に必要な金量には制約を受けない、すなわち流通に投じられた紙幣は全て流通してしまう。これがインフレなどにつながってしまうのだと思う。もっとも現代の日銀券などは、信用貨幣といえるかどうかわからない。かなり紙幣に近い側面もあるのではないか。」との説明がありました。

2018年4月8日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第5段落「交換価値は、まず第一に量的な関係として、…」~第12段落「われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。…」(岩波文庫第1分冊70頁~73頁)を学習しました。3月までは商品の使用価値について学習ましたが、4月からは商品の二要素のひとつである価値の学習に入りました。そこで使用価値と価値の違いについての確認をしました。

まず、商品の二つの要素一つである「使用価値」は、富の社会的形態(原始共産制、封建制、資本主義制、共産主義制)がどのようなものであろうと、人間が生活していくための有用物として不可欠なものです。そして、資本主義社会では「使用価値」は同時に「交換価値」の素材的な担い手となっています。「使用価値」は人間が生活していくうえに必要な衣食住にいかに適合しているかが問題となりますが、他方の「交換価値」は、商品と商品を交換するにあたっての比率であり、どれだけの分量かが問題となります。つまり「使用価値」が異なる質のものであり、商品の質を問題にするのに対して、「交換価値」はただ量を異にするだけであり、「使用価値」と言ったものはまったく含まれていないのです。そこで、商品が交換される分量が「交換価値」であるとしても、二つの異なった商品が等しいとして交換されることには疑問があります。一体、二つの商品の何が等しいのかという疑問です。もちろん、二つの商品は異なった「使用価値」ですから、「使用価値」が等しいわけがありません。そもそも等しい「使用価値」は交換の対象とはなりません。そこで、「使用価値」が考慮の外に置かれるのであれば、残るのは交換価値ということになります。『商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。』すなわち商品の二要素のうち、残ったものはというと「交換価値」です。すなわち「使用価値」が異なる質であれば、「交換価値」は一つ一つの商品の異なる量であるということです。そして、二つの商品が等しいもの「=」として置かれる場合は、「交換価値」が同じ量であるということです。

さて、その同じ量とされるものの内容とはなにか? 商品と商品が等しい「=」として交換される「交換価値」とは、一体なにが等しいのかを見ていきます。マルクスは次のように述べています。『いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。…われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。…労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用な性質は消失する。したがって、これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に制約される。』そして、あれこれの具体的ではない、無差別な人間労働によって生産された労働生産物には、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。

前回の学習会で質問が出ていた「価値がある、無いとはなにをもっていうのか」についてですが、労働生産物=商品には人間労働が累積されています。この社会的な人間労働がどれだけ累積されているかということが商品価値がある、無いということに帰着するのではないかと思います。ですから、交換価値の大いさは社会的な人間労働の大いさであるとともに価値の大いさであると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

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