2017年10月 4日 (水)

2017年9月24日学習会の報告

今回は、前回学習した「価値と価格」の問題について、レポーターより再度の説明と訂正がなされ、その点についての議論がありました。そのあと再度テキストに戻る為、これまでの箇所の復習(主に第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度]について)を行い、そのあと今回の箇所第2節「流通手段」の続き(国民文庫版第1分冊第2節の第13パラグラフ「これまでのところでは、・・・」<196頁>から同文庫第14パラグラフの終わりまで「・・・、他方では買われうる商品を代表するのである。」<198頁>まで、岩波文庫版では第1分冊第2節の第14パラグラフ「我々はこれまで人間の経済関係を、・・・」<193頁>から第15パラグラフの終わりまで「・・・」他方で買いうべき商品を代表する。」<195頁>までを行いました。

以下は、当日の学習会の報告です。

 

前回報告「価値と価格」についての報告箇所

 最初に前回の「価値と価格」の学習に関して再度簡単な説明がレポーターよりなされ、訂正箇所の説明がありました。

 「価値と価格」の説明については前回の報告で紹介していますのでここでは訂正部分についての報告を紹介します。

 

 前回の報告で価値と価格の乖離の可能性についてのところで、貨幣価値と商品価値の変化と価格の関係を説明しましたが、これは価値と価格の乖離の問題とは直接に関係ないということだと思いますのでここでの説明としては不適切であったと思います。

 それは商品価格の変動がある場合、それがもっぱら商品価値の変動によるものであろうと、あるいはもっぱら貨幣の側の価値変動によるものであろうと、あるいはこの両者の変動の複合的な結果だとしても、これらの結果としての価格変動はそれ自体価値と価格の乖離ではないし、この両者の変化自体は乖離の要因ではないということです。ここでは乖離はないし、むしろ価値と価格は一致していると思います。

 この問題は、現代の社会において全般的に価格が上昇していく場合、それが果たして商品の価値自体の変化に伴うものか、それとも通貨価値の下落にともなうものなのか、つまりインフレの問題なのかということと関連します。

 むしろ価値と価格の乖離ということの根源は、価格という形態が成立すると、本来労働生産物でないもの、すなわち価値をもたないものまでも、売りと買いの関係で価格というものが形成されるというようなことではないかと思います。マルクスは価値と価格のかい離の可能性は、その形態(=価格形態)にあるといっています。

 また労働生産物である本来の商品でも、価格というレベルでは、売りと買いの競争関係(需給関係)によりしばしば、価値から乖離した価格がつく可能性があるのはみなさんご存じのとおりだと思います。

 商品の価値を規定するのは、質的にはそこに共通に人間労働が支出されているということだろうし、その量、大きさの問題はその継続時間、すなわち社会的平均的労働時間だということですが、そうしたものとりわけその大きさの表現として現実に表れる価格は、直接にはその価値量から乖離しうるものだということだと思います。

商品価格は、同じ商品でも需給関係やその他諸々の要因により刻々と変化しうるものですし、時に急激に上昇することも急激に下落することもあります。個々別々の商品の、その時々の価格を見るだけなら、商品の価値を根底において規定するものは何もないように見えます。しかし、商品の価格を根底において規定するもの、究極において規定するものは、労働による価値の規定なのではないでしょうか?

 

質問・意見等

・ここでは、関連して価値の大きさ、価値量を規定するものが社会的労働時間だというが、高度な技能労働と単純労働とでは大きさが異なるのではないか、こうしたことなる労働を同じものとして同一の価値とすることはできないのではないか?との質問が出されました。

レポーターや幾人かの参加者より「複雑労働と単純労働の違いはあるが、しかし複雑労働も単純労働の何倍分とかという形で単純労働に還元できる。すなわち同等な人間労働ということで質的にも同等、量的にも同等なものとして現実に還元されうるのだと思う。」という意見が出されました。

・またマルクスの価値論が現代にも通用するのか?マルクスの価値規定から説明できない商品の価格も現代にはあるのではないか?例えば、原油価格などかなり高い価格になっているがどう説明するのか?との質問・意見も出されました。

これについてはレポーターより「現代では、実際の価値量よりかなり高い価格がついている商品も沢山ある。原油価格などもその典型例だが、そうした価値から乖離した価格がどのように形成されるかについても資本論第3巻ではマルクスは説明していると思う。基本的には原油価格は、地代論から説明されている。すなわち土地を独占(=私的所有)していることから発生する地代が生産物の価格に転化されることから生じるものです。土地所有者が最終的に地代として受け取ることができる利益分が生産物の価格の一部分として転化されることから生じるものです。ここではこれ以上の説明は割愛しますがこのように価値から乖離した価格の形成も価値論から説明できるし、それが唯一の正しい方法だと思う。」との説明がありました。

 

テキストこれまでの復習(主に第3章第1節「価値の尺度」について)

次にテキストの学習に戻る前に、再度これまでのところ主に第3章第1節の簡単な復習を兼ねての説明がレポーターよりなされました。

 

現在テキストでやっている箇所は第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のところですが、その前の第1節では「価値の尺度」ということでした。

この第3章では、貨幣の様々な機能について述べられています。貨幣の機能の中で一番の機能、最も根源的なな機能として価値尺度機能があげられます。

貨幣は、もともとは商品であり、商品の中から生まれてきたといえます。商品は、使用価値であるとともに価値でもあります。結局、商品は、相互に価値を持ったものとして関わり合うことが不可避です。もしそうすることができないとしたら相互に交換されることは不可能でしょう。

つまり全ての商品が、共通な価値物であることが示され、かつその価値の大きさの違いがそれぞれ示されるということが不可欠なわけです。全ての商品が共通な価値として、かつその各々の量的な大きさの違いが分かりやすく具体的に示されることが必要なのです。そうすることによりはじめて諸商品は相互に価値を持ったものとして互いに関わり合うことができます。

こうした諸商品を価値として表し、かつその大きさを貨幣である金の量により表現するものが、貨幣の第一の機能なのです。

ところで20エレのリンネル=1着の上着 というのも価値表現ですがこうした形態での価値表現にとどまるなら、諸商品が価値として相互に比較されるのは困難でしょう。なぜならこうした形態なら他にも1クオーターの小麦=aツェントナーの鉄 というものもありえますが、これではリンネルの価値表現は、上着によってなされていますが他方小麦は、また別の商品鉄によってなされているわけで、それではリンネルと鉄の交換関係はどうなるのかといことになります。これら諸商品が価値物として相互に関わりあうためには、それぞれがただ一つの共通の等価物で表される必要があります。他の全ての商品の共通な等価物として(一般的等価物として)の地位につき尚かつその地位を社会的に独占したのが貨幣商品としての金です。

 こうなれば全ての商品は、その価値の大きさを貨幣商品である金の量で表すことが可能となります。つまり各々の商品は、価値量としては、各々違った量の金により現されることになります。こうすればすべての商品がその価値の大きさを共通に金量で表現できるわけで、容易にその価値の大きさが比較可能となります。

 こうした商品の価値性格を示し、かつその価値の大きさをはかり表現するもとしての貨幣の機能こそ貨幣の最も本質的な機能だといえます。

 

国民文庫版1314パラグラフ(岩波文庫版14,15パラグラフ)についての報告。

ここでは、商品流通を媒介するものとして貨幣の機能、流通手段機能が問題になっていますが、その前提として貨幣(金)がすでに流通に入り、かかるものとして機能している必要があります。

金はもともとは他の商品と同様に一般的な労働生産物として存在していました。それが貨幣となるためにはどこかで商品市場に入る必要があります。それは金の生産源にあるとマルクスはいいます。金の生産源から直接的生産物としての金は、同じ価値を持った別の労働生産物と交換に商品市場に入り、この瞬間から金は貨幣として機能するようになります。

ここでマルクスは、貨幣を糞尿にたとえています。それは商品の変態を媒介する機能としての貨幣について考えれば、商品から貨幣への変態は、その商品に支出された具体的有用な労働は、貨幣に代わることで無差別な人間労働に転化するのであり、こうした全くの無差別で一様なものであるということをいわんとしたものではないでしょうか?

個々の商品は、むしろ具体的な有用性こそ問題になるのだと思います。リンネル、上着、小麦、鉄それぞれ異なる有用性が形成する異なる使用価値こそが問題なのではないでしょうか?しかし、そうした商品も他の諸商品と交換されなければなりませんが、そのためにはそれぞれの商品は貨幣へと転化する必要があります。貨幣になるとはこれらの有用労働が、無差別一様な人間労働に転化するということだと思います。具体的で有用的なものが抽象的で無差別一様な人間労働の“固まり”になるこうしたことを、貨幣を糞尿にたとえていったものではないでしょうか?

また次の14(岩波版15)パラグラフでは、いままで商品の変態についての前半(W-G)を見てきましたが、ここからその後半過程(G-W)すなわち買いの過程を見ていきます。この過程は前半過程つまり商品の貨幣への転化を受け、今度は貨幣が商品へと再転化することによりW-G-Wという商品の変態過程を完成させるものです。

 

質問・意見等

・ここでは、マルクスが貨幣を糞尿に例えた意味について議論になりました。

マルクスは、貨幣を糞尿に例えることで、貨幣こそが富であり、万能であるという人々の観念を批判して使ったのではないか?貨幣は価値があるように見えるが糞尿は全くか価値がない。貨幣を糞尿に例えることにより貨幣は価値があるという観念へのアイロニーになっているのではないかとの意見が出されました。

これにつては、レポーターより「確かに物神性批判ということは第1章第4節で展開されている。しかし、ここで貨幣を糞尿に例えたのは、商品の変態を媒介するものとしての貨幣については、それが具体的な商品の有用性、有用労働ということから貨幣に転化することは内容的に無差別な人間労働に転換されるということであり、そうなってしまえばそれがどこから来たものか、だれが作ったものかなんて一切関係ないし区別も全くないということのたとえのように思う。」と答えました。この糞尿の例えの意味については、これ以上の意見は出ませんでした。

2017年9月10日の学習会の報告

8月に続いて新参加者が来られましたので、第一章「商品」の第一節と第二節の振り返りをしました。その後に第三節「価値形態または交換価値」の前文に入りました。第一節の「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」と第二節は「商品に表わされた労働の二重性」は8月13日の学習会の報告に詳しく説明されていますので、そちらを参考にして頂きたいと思います。第三節の「価値形態または交換価値」の前文は読み合わせをしました。  

  

○第三節 「価値形態および交換価値」

この第三節では、貨幣生成の必然性が述べられています。マルクスは、貨幣においては、あらゆる商品の価値が貨幣である金の重量で統一的に表現されているが、それこそが貨幣の謎であるといっています。これは金以外の商品の価値が、金という特定の商品の使用価値によって表現されているということです。しかし、なぜこのように金によって、しかも価値の反対物であるその使用価値によって価値が表現されうるのか?いかにして金の使用価値が諸商品の価値として一般的に妥当するものになることができるのか?この点を解明することで貨幣の謎が解けると言うのです。次回から貨幣の謎解きに挑戦です。

2017年9月11日 (月)

2017年8月27日学習会報告

今回は、テキストには入らずに前回課題となった「価値と価格」の問題についての学習を行いました。主に第1章商品論を中心に振り返りながらテーマの価値と価格の問題について報告者より報告がなされ、参加者の方から様々な質問意見等が出され、議論になりました。

以下は、当日の学習会の報告です。

 

学習会の内容

 最初に報告者より、価値とは何かということで報告がありました。「価値とは、商品の交換価値として表れるものであり、様々な商品が相互に相等しいものとして交換されるのは、共通の本質がそれぞれの商品の中に存在しているからであり、この共通の本質が価値だといえます。さらに価値とは何かと分析するとこの共通なものは何かということになり、それは商品は全て人間労働の産物であり、共通のものとしてあるのはそれらの生産に抽象的人間労働が支出されていることだということになります。この抽象的人間労働が価値の実体であるということです。」との説明がありました。

 これに対して「価値の実体は抽象的人間労働だというが、では価値とは何であるのか?」という質問が出されました。報告者は「価値とは何かは?簡単には言えないが、商品の価値という形で表れる労働の特殊な性格が関係していると思う。商品を生産する労働もある意味で社会的な労働だが、商品生産以外、例えば共同的な関係の場合は最初から直接に社会的だが、商品生産の場合は違うと思う。価値とは何かの理解には、この商品生産の歴史的な特有の労働の性格(私的な労働として存在しながら、それが事後的に社会的なものとして認められなければならないということ?)があるのでは?」と何とか説明しましたが、なかなか参加者の方の納得の得られるものとはなりませんでした。これについては今後の課題として残りました。

 次に、価値の実体は人間労働であるが、では価値の大きさは社会的平均的労働時間により決まるという説明がなされましたが、ここでは「社会的平均とは、結果的に決まるということか?」との質問があり、これについては「結果的かどうかは分からないが、市場を通して競争も働いてというとならそういうことか?」と報告者が答えたことに対して議論になりました。結論的には「価値の大きさを規定するものとしては、競争を持ち出すのは誤りだろう。競争は価値の問題ではなくむしろ価格(形成)の問題であり、価値のレベルではおかしい。価値の大きさ関連するのは競争等ではなく、その社会の生産力(がどのくらいの水準か)という問題だろう。」ということでまとまりました。

 

 次に価格の問題に入り、「価格とは、商品の価値表現のあり方の一つで、私たちが知っているように商品の価値は、結局のところ価格という形で表現されます。先ほど価値の実体が、人間労働であり、その大きさはその商品の生産に必要な社会的労働時間によって決まるといいましたが、では商品の価値の大きさが労働時間で表されることができるかといえば、それはできないと思います。なぜかはテキストでは第1章の4節に展開されていることでここでは割愛しますが、とにかく商品は価値をもっており、全ての商品はそれが価値物であり、またその価値の大きさを表現する必要があるのです。でないと他の商品と相互に交換されることは不可能でしょう。共通に価値を持ったものであることが示されるとともにその価値の大きさを表現しなければなりません。

結局、ある商品の価値は、それと交換される、つまりそれと等価の商品により表現されざるをえない、それ以外にはないのだと思います。ですから商品の価値表現は、一定量のある商品の価値は、それと交換されるもう一つの別の商品の数量(上着なら1着分とか2着分とか、米なら1㎏相当、2㎏と相当とか)によってなされざるをえないのでしょう。しかし、個別の商品を等価物とする価値表現には一般性も社会的妥当性もありません。そこである特定の商品のみが等価物として機能し、その地位を独占するようになるのですが、それが貨幣であり、貨幣は本来は、金でした。すなわち全ての商品が貨幣である金の違った量――何キロ分か、何ポンド分か―によって表現されるようになります。この金量を一定の基準を定め、それに貨幣名(1ポンドとか1円とか)をつけると金量で表現された様々な商品の価値は、〇〇ポンドとか〇〇円という形になります。これが価格というものです。」との報告がなされました。

ここでは「価格は相対的なものにすぎないと報告者は説明したが、具体的にはどういうことか?」との質問があり「商品の価値表現自体が、ある商品の価値は、それと交換される他の商品によって表現される以外にないわけです。仮にある商品がそれと交換される上着によって表現される場合を考えても1着の上着が果たしてどれぐらいの価値量があるかは、上着の生産力や生産の諸条件が変化すれば変わるものです。上着1着がどこでもいつの時代でも同じ価値であるということはありえません。もちろんこれは金でも同じです。金も上着や他の商品と同様、労働生産物であり、それは生産条件が変化すれば変わるものです。従って同じ金量は、いつも同じ価値の大きさだということはありえません。それゆえ商品の価値表現は相対的といえると思います。」と説明がありました。

 

最後に、価値と価格の乖離の問題を扱いました。

 

報告者より「商品の価値の大きさとその価値表現としての価格の変化(騰落)の関係は単純ではありません。それは商品の価値が仮に変わらない場合でも、貨幣である金そのものの価値が変化するなら当然にも価格は変化します。また価格の上昇という現象があってもそれが商品自体の価値の高騰によるものか、それとも貨幣である金の価値自体の低落によるものか分かりません。価格が下落する場合もそれが商品の価値自体が下がったためか、それとも貨幣価値が上昇した為かは、それだけでは判別がつきません。このように価値と価格の関係は中はっきりとはつかみにくいものです。」との報告がありました。

これについては「インフレの問題に関連することか?」との質問があり「インフレとは、貨幣の側の問題、貨幣価値の減価により生じる物価上昇なのでつながると思います。」との返答がありました。

 

※これについては、報告者自身あとで考えるとここで説明した問題は、価値と価格の乖離の問題としての説明としては誤りだと気付いたので訂正させてもらいます。ここでの説明は、価値と価格の乖離とは直接には関係なく、むしろ価格というものが価値表現として考えても極めて相対的であり、限界があるものだということだと思います。ですからこれは、この最後の項目ではなく、2番目の報告のところに入れる内容でした。貨幣の価値自体が変化してそれに伴い価格が変化してもそれだけでは価値と価格が乖離したとはいえませんし、またその原因とも言えません。従ってここで訂正させてもらいます。

 

次に価値と価格の乖離の要因の一つとして「需給関係が変化し、需要に対して供給が過剰になったり、逆に供給に対して需要が拡大していく場合は、この場合、価値から乖離した価格が形成されます。」と報告者より説明がありました。

 

ここでは他にはあまり意見は出されませんでした。

 

また最後に、再度、抽象的人間労働に関連して「価値を形成するのは抽象的人間労働との説明があったが、この抽象的人間労働には流通を担うような労働も含まれるのか?なぜならいまでは資本主義の初期と違い生産的労働以外にも大量の労働者が従事している。これらの労働者の労働は価値を生まないのか?」という疑問だされました。これについては他の参加者から「ここでの労働とは、あくまで生産的労働であるし、そう考えるべき。」との意見が出され、報告者も賛同しました。

 しかし、「仮に価値を形成するものは生産的労働であるとしても、現代では大量の労働者が現にそうした労働に従事している。それをどう評価するかは、現代の課題ではないか?」との意見が再度出され、それについては「客観的に生産的労働であるかどうかの問題とそれが意義あるかないかどうかの問題は別だと思う。不生産的部門、商業労働あるいは金融部門での労働等、いずれも資本主義的分業として必然であり、資本主義の枠内の限界内であるが、これらの分業が発展することは大きな意義がある。こうした部門やそれらに従事する労働者の労働をどう評価しどう位置付けるかは大きな問題だと思うが、しかしそうしたことを正しく位置づける為にも生産的労働はどの部分なのかというちゃんとした評価は必要ではないか?」また他の参加者からも「物質的な生産を行う労働は、人間社会の永遠の自然必然性であるともマルクスはいっている。そういう意味でここでの人間労働は、生産的な労働なのではないか?」と発言があり概ねまとまったと思います。

2017年8月13日学習会報告

「資本論入門講座」は、新参加者が来られましたので、第一章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)と第2節「商品に表わされた労働の二重性」を復習しました。その後、第3節「価値形態または交換価値」の第1段落「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。…」~第4段落「…したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいしてもっとも単純な価値表現を与えている。」(岩波文庫版第1分冊88頁~90頁)、「商品は、使用価値または商品の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。…」~「…それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。」(国民文庫版第1分冊92頁~94頁)を学習しました。

 学習会の内容

原始共同体や未来の共産主義社会のように、社会全体の成員を念頭においての計画的生産、分配、消費が組織されてない階級社会においては、社会全体でどれだけの消費が必要で、その為には何をどれだけ生産すれば良いのか、人員をどのように配置すれば良いのかなどが計画的に考えられず、個々の資本家が利潤獲得のために生産をおこなっています。無政府的な生産は、需要と供給の不均衡、競争で常に過剰生産といった事を引きお越し、時には恐慌になったりもします。商品生産では社会全体においてどれだけ必要とされるかは、社会全体としての計画生産ではないのですから、商品として交換されて(売れて)初めて社会的に必要な生産物であった事が実証されます。資本主義社会で価値があるとかないとか言われますが、それは抽象的な人間労働が対象化された労働生産物であり、社会的な有用物であることが交換を通じて確認されるということではないかと思います。そういう意味では、価値というのは社会的なものであり、社会の生産物のほとんどが商品として現われる資本主義的生産様式=商品社会に特有のものと言えます。

 そして、商品を作る人間労働にも二つの要素があります。一つは使用価値を生産する有用労働であり、これはいかなる社会であっても人間の生活と切り離せない必要な労働です。一方の価値を生産する労働は、有用労働が対象化されていることはもとより、他人が使用するための生産物を生産する労働であるということです。それは、社会の成員の誰かが使用するものであり、商品交換(売れること)によって初めて社会的な労働であることが実証されます。

 

現実の商品交換は貨幣(通貨)で商品を購入していますので、商品と商品の交換が想像しにくいのですが、まずは貨幣を一般的な商品に置き換えて考察していきます。ここでは具体的な有用労働の側面は捨象され、同一の人間労働、抽象的な人間労働一般に還元された上で、各々の商品を生産するのに要した労働、具体的には労働時間によって比較されます。たとえば、生産者どうしが異なった生産物を交換するにあたっては、生産物を生産する具体的な労働形態は捨象されて、単に人間労働がどれだけ対象化されているか、その比率でもって交換されるのです。「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」というのは、商品交換にとって必要なことなのです。

 さて、第3節の「価値形態または交換価値」では、無計画的で無政府的な生産、私的にしか生産されない労働生産物が実際にどのようにして、社会的な生産物、商品として貨幣で売り買いされるようになるのか、その形態を検証していきます。第1節、第2節では商品の交換価値、交換比率から商品の価値の実体である人間労働を探りえました。第3節では価値の現象形態である、二つの商品の価値関係を考察します。ここでの目的は貨幣の謎を解くということです。「諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである―すなわち貨幣形態である。ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態様から、そのきらきらとした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消えうせる。」と言われているように、貨幣の謎を解くと言う課題に次回から入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年8月16日 (水)

2017年7月23日学習会の報告

「資本論通常講座」は、第三章「貨幣または商品流通」の第二節「流通手段」の「a商品の変態」の第9段落「W-Gすなわち、商品の第一の変態または売り。…」~第13段落「言葉を変えていうと、売りは買いである。W-Gは同時にG-Wである。(66)注釈」(岩波文庫版第1分冊188頁~193頁)、第9段落「W-G、商品の第一変態または売り。…」~第12段落「言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである。六六注釈」(国民文庫版第1分冊191頁~195頁)を学習しました。

 

※第二節は岩波文庫版第11段落と国民文庫版第10段落とは同じ内容です。なぜかと言いますと、岩波文庫版の第10段落と第11段落に分かれている箇所が、国民文庫版では第10段落として一つの段落になっているからです。したがって、この箇所から第二節最後までは両文庫は段落がずれています。

 

学習会の内容

 

 これまで見てきたように商品の流通過程は、商品―貨幣―商品 W-G-W という商品の形態変化を伴って行われます。この運動を結果からみれば、W-Wでそれは素材的な面(社会的有用物の転換)からみれば、社会的労働の物質代謝であります。

 この商品の形態変化をここではまず前半のW-Gをとってその変化の性格や内容を見ていきます。

 W-G第1の変態または売り。これは素材的な面だけを見るならただある商品が金に変わっただけに見えます。ですがマルクスは、この第1の変態を商品の命がけの飛躍と呼んでいます。このW-Gの内容は、はじめに商品の形態で存在していた価値が、貨幣形態、すなわち金体に変化するということです。貨幣、金体も本来商品であったはずですが、ここでは金がすでに普通の商品とは異なる貨幣として存在しているのですから、ここでの変化は、普通の商品からそれとは質的に異なり相対立する貨幣、金体へと転換されたということを意味します。

 ではこの商品の貨幣への転嫁が、命がけの飛躍であるとはどういうことでしょうか?

「商品は貨幣を恋いしたう」(国民文庫版194頁)とは、商品が貨幣に転化しなければならない必然性がありながらも、商品の貨幣への転化は容易な過程ではないということの例えだと思います。

 我々の知っている社会では、分業は労働生産物を商品に転化させ、そうして労働生産物の貨幣への転化を必然にしますが、他方でこの分業がこの労働生産物(商品)の貨幣への転化が成功するかどうかを偶然にしてしまいます。

 ある生産者の個々の生産物が確かに有用物であったとしても、それは他の生産者らが同じ商品を市場に供給して、この生産者が彼の生産物を市場に出す際には、既に社会的必要量を上回って過剰をとなるかもしれません。そうなれば彼の商品は売れずに、貨幣への転化は失敗することになり、彼の労働は社会的有用労働とはなりえません。この社会では、社会的欲望の総量にたいしてどの有用物がどれぐらい生産されるかは、個々の私的生産者達の無政府的な生産の結果でしかないのであり、社会的欲望(必要)に対して均衡的な生産(供給)がなされるかどうかは偶然でしかありません。

 また仮にある生産者の生産物が社会的有用物として認められ貨幣に変わることができるとします。しかし今度は、どのぐらいの貨幣に変わるのかということが問題となります。

 例えば、リンネル生産者が彼の20エレのリンネルを市場に出すとします。この20エレのリンネルを織る社会的労働(時間)に相当する貨幣での価値表現(=労働の貨幣名)が2ポンドスターリングとします。

 このリンネル生産者が20エレのリンネルを織るのに、実際には社会的労働時間より多くかかったとします。仮に1.5倍の労働時間が必要だったとすれば、彼の個別的労働時間からみれば2ポンドではなく3ポンドということになりますが、しかし市場では2ポンドとしてしか通用しません。1ポンド分は過剰ということですが、リンネル生産者が自分のリンネルを貨幣に変えるためには、この分は泣く泣く我慢せざるをえません。

 また仮に彼のリンネル生産に要する時間がちょうど社会的労働時間と同じだった場合、この場合彼のリンネルも2ポンドスターリングでちょうどその商品に対象化された社会的労働量に等しいということになります。

 しかしこの場合でも、彼の知らないうちにリンネル織物業の生産条件が激変――例えば新しい機械の導入などの技術革新があり、それが急速に浸透していくような場合――すれば、彼の20エレのリンネルの価格、2ポンドは高すぎる、それは過大ということになります。そうすればリンネル生産者は、彼の支出した労働時間からすれば低すぎる価格でも売ってしまうか、それとも売るのを諦めるか苦渋の選択を強いられるかもしれません。

 このように分業は、確かに労働生産物を商品に転化させ、かつその商品を貨幣に転化するのを必然にしますが、他方で、商品から貨幣への転化の過程を命がけの飛躍――なぜならこの転化がなされなければ、その商品は無意味なものとなるし、それに支出された生産者の労働も無意味とならざるをえません。これは確かに商品にとっては痛くもないかもしれませんが、商品生産者にとっては極めて痛いはずです。――の過程にするのです。

 このように各々の生産物に含まれる労働が社会的なものとして実証されるかどうかは、我々が考察する分業社会では、偶然的な事情によります。仮に社会的労働として認められてもそれは個々の生産者が実際に支出された労働量より過小に評価されることもありそれらの要因が商品を貨幣に転化することの困難にもなります。

しかし、ここでは、商品の変態について、その過程を純粋に考察するために、同一種類の商品片であれば、同一の労働量(時間)が含まれているものと仮定します。例えば、20エレのリンネルであれば、どの生産者のも同じ社会的労働時間が支出されたものとして仮定します。仮にその労働量の貨幣名が2ポンドスターリングであれば、どの20エレのリンネル片もやはり2ポンドスターリングということになります。このように仮定するのは、ここでの課題が、商品の変態について、商品が貨幣に転化し、次のその転化した貨幣が再度商品に転化するということ、すなわちW-G-Wという商品の変態、形態転換と循環ということがいかなる意味と内容をもつかをしっかりとつかむためです。この課題のためには商品の変態について、その正常な過程――つまり商品は売れて貨幣に転化するのであり、売れないかもしれないということはここでは想定に入れないのです――を前提してまず考察する必要があります。以降は、基本的に商品の変態が正常に滞りなく進むことを前提にして考察していきます。

 商品の変態についての前半部分、すなわち商品の貨幣への転化、すなわち売りは、同時に反対の極での貨幣の商品への転化の過程でもあります。

 例えば、20エレのリンネル商品が売りにより貨幣に転化する過程は、同じ取引を貨幣所有者の立場からみれば、それは彼の2ポンドスターリングを20エレのリンネル商品に転化することであるからです。

 一つの同じ過程が二面的な過程であり、商品所有者の側からは売りであり、貨幣所有者の側からは買いであるのです。この面からいえば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wでもあります。(だからといって売りも買いも同じだとはいえません。同じ過程が、売りと買いということで対になっており、その面では同一性があるが、他方で重要な質的な違いもあるということ、特に商品が貨幣へと転化する際には、命がけの飛躍と呼ばれた独特の困難があることを踏まえておいた方がよいように思います。)

 

議論になった箇所および質問や意見

○報告者より「国民文庫版12パラグラフ、岩波文庫版13パラグラフの終わりで、商品の価格の実現は、貨幣の観念的にのみ存在する使用価値の実現でもあるというようなことが書かれているが、これは、貨幣は現実には、交換価値として存在しているにすぎないが、価格の実現は、商品が貨幣に変わり、貨幣の方は商品に変わることであるので、現実に貨幣が使用価値に変わることをさしているととらえてよいのだろうか?」との疑問が出されました。これに対しては、特に違った意見はなく、恐らくそういうことなのではないかということになりました。

○また参加者から「マルクスの時代には、労働時間によって価値が決まっていたかもしれないが、現代では労働力の価値で商品の価値も決まっているのではないか?実際に企業は、必要な生産手段等を買い、それにプラスして労働者を雇い彼らに賃金を払い、それが商品の価格の形成につながっているので、結局のところ、労働力の価値の大きさにより商品の価値も決まるのではないか?」との意見が出されました。

これに対して他の参加者より「商品の価値の大きさは労働量により決まるとマルクスはいっているのではないか?商品価格ということでは、資本家が労働者へ支払う賃金の大きさが関係してくるかもしれない。価値と価格ということは別なのではないか?価値と価格の問題を混同しているように思う。一度、価値と価格の問題を学習会の中で整理して報告してもらった方がいいと思うがいかがか?」との意見と要望が出されました。

報告者としては「今すぐに価値と価格について説明できないが、確かに重要な問題でありかつ、いま学習いしているところとも大きく関係しているように思えます。次回に、価値とは何か、価格とは何かについて再度、整理して報告したいと思います。」ということで次回の課題とさせていただきました。

2017年7月9日学習会の報告

「資本論入門講座」は、第一章「商品」の第2節「商品に表わされた労働の二重性」の後半部分の第11段落「したがって、上着や亜麻布という価値においては、…」~第16段落「…それは使用価値を生産する。(16)注釈」(岩波文庫版第1分冊84頁~88頁)、「こういうわけで、価値としての上着やリンネルでは…」~「…それは使用価値を生産するのである。一六注釈」(国民文庫版第1分冊88頁~92頁)を学習しました。

 

学習会の内容

 先ず「資本論を読む会便り」7月号で、「商品に表わされた労働の二重性」の前半部分の復習を行った後、後半部分を学習しました。

 

 「資本論」の冒頭で、商品には使用価値と価値の二つの側面があることを学んできましたが、商品を生産する労働にも使用価値と価値を生産するといった二つの側面があることを学習しました。

 使用価値を生産する労働=有用労働は、使用価値の異なるのに応じた質の異なる有用労働ですが、一方の価値を生産する労働は、様々な使用価値を生産する異なった質の労働の側面は捨象した労働です。すなわち抽象的な人間労働一般であり、人間が頭脳や身体能力をもって自然に働きかけ、人間が使い易いように自然を変えていくことを言っています。

 

さて、使用価値が異なる二つの商品が等しいと置かれるのは、お互いの欲望はさておいて、一体、何が等しいのかが問題なのです。異なる使用価値は別にすると、両者に残るものは人間労働が体現された生産物であるということ以外ありません。しかし、両者に人間労働が体現されているといっても、上着を作る裁縫労働と亜麻布を織る機織り労働は、全く異なった労働です。このような具体的な労働の側面からは、両者が等しいということには行きつきません。そこで、両者の具体的な有用労働の側面を捨象してしまうと、残るのは単なる人間労働一般ということになります。このようにして、どちらにも共通の人間労働一般の生産物であることによって初めて比較が可能になります。

 

生産物の比較は、生産に費やされた労働・価値量がどれだけかということであり、具体的には労働時間で数えられます。上着1着が亜麻布20エレと等しいと置かれるのは、両者を生産するのに同じ時間の人間労働が費やされているということです。ですから上着2着であれば亜麻布40エレに等しくなります。それでは、手間暇かかった上質の上着1着を亜麻布と比較するとどうなるかと言えば、上質の上着1着の生産に費やされた労働時間と同じ時間で生産された亜麻布50エレと等しいというように比較されるのです。ここでは、手間暇掛けた複雑労働は、単純労働の数倍というように数えられます。

 

現在のように、機械化が進み素材的富の増大=大量生産が行われるようになると、その価値・労働時間は同時に低下するということが起こります。すなわち、少ない労働で今迄と同量の生産ができるようになります。あるいは今までと同じ労働で今迄の数倍の生産が可能となります。一方、生産力の低下においては一定の労働の生産物は小さくなります。

有用労働は、生産力の増大あるいは低下と正比例してより豊富な生産物を生み出すこともあれば、より少なくしか生み出さないこともあります。同一の労働は、同一の期間に、生産力がどのように変化しようともつねに同一の大いさの価値を生みます。他方生産力は、生産力が増大すればより多くの使用価値をもたらし、低下すればより少なくなります。労働の生産度を増大させ、使用価値の量を増加させる生産力の変化が、その生産に必要な労働時間の総計を短縮するのであれば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。逆の場合、労働時間の総計が増大するのであれば、価値の大いさを増大させます。

 

 商品に表わされた労働の二重性とは、

 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すべての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」

2017年7月 9日 (日)

2017年6月25日学習会の報告

今回から第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」に入り、項目A「商品の変態」の最初(国民文庫版第1分冊188頁、岩波文庫版第1分冊185頁――以下それぞれ国民文庫、岩波文庫と略す)からこの項目の8パラグラフ「その素材的内容からみれば、この運動はW―W、商品と商品との交換であり、社会的物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。」(国民文庫191頁)「W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。」(岩波文庫188頁)までを学習しました。

 

 学習会の内容

 

 商品の交換過程は、商品がその持ち手を変え、それを非使用価値である人の手から、それを使用価値として必要とする人の手にわたる持ち手の転換であるという点で考えると、それは社会的物質代謝です。しかし、物質代謝といっても商品が交換されそれが消費されるということは、ここでは考察の対象になりません。ここでは商品交換がどのような形でこの物質代謝を媒介するのか、つまりその際にとる商品の形態の変換、いわゆる“商品の変態”のあり方を考察していきます。

 

 この形態転換の理解が難しいのは、それが普通の商品と貨幣商品の交換においてなされるからです。この際、普通の商品と金が交換されるという素材的側面にとらわれるとこの形態上の変化を見落とすことになります。商品交換は、最初に第一の商品がありそれが貨幣と交換されて貨幣に転化し(第一の変態)、再びその貨幣が第二の商品と交換される(第二の変態)という形態をとります。すなわちW(商品)―貨幣(G)―商品(W)であり、商品交換は二つの相対立する変態から成っています。これは結果からみれば,W-Wであり、ある有用な労働生産物が別の有用な労働生産物と交換される過程でありその意味で社会的労働の物質代謝です。

 

 こうしたW-Wを媒介するものとしてのG貨幣は、商品の形態変化の一つであるということです。いわばこれは商品が貨幣形態をとって表れたものであり、またそれは最後には商品(形態)へと回帰していくのであり、その前段の形態(商品の貨幣姿態)にすぎないということです。

 

 商品は、使用価値であるとともに価値でもあり、またこの二つの相対立した契機を内在させた統一物でもあります。この使用価値と価値の対立は、価値関係において自らの価値を表現する商品(相対的価値形態側の商品)と価値表現の材料となる商品(等価形態側の商品)という形で価値表現の両極として外的な形で現れます。またこの価値関係は発展して最終的に貨幣によってその価値が表現される他の諸商品と貨幣という形で完成されます。つまり使用価値と価値の対立が、貨幣以外の諸商品と貨幣商品という形の外的な対立として現れるのです。これはいいかえれば商品に内在する使用価値と価値の対立が、商品の、商品と貨幣(商品)とへの商品の二重化という形で現れることでもあります。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対することになります。しかし他方で商品は、使用価値と価値の統一物です。ではそれぞれの性格はどのように表されているのかといえば、それは両極にそれが現れているのです。

 

商品は実在的には使用価値としてあります。ではその価値存在はどこに表れているのかといえば、価格という形で観念的に現れているだけなのです。貨幣により価値が表現されそれが価格という形態であらわされるなら、商品の価値存在、価値性格は価格の形態であらわさているのです。

 

他方、貨幣材料の金の方は、実在的には交換価値として存在しているといえます。しかし、貨幣材料としての金も、元来使用価値があり、金も商品として価値のみならず使用価値も併せ持っているからこそ貨幣の地位に就くことができたのです。では貨幣としての金の使用価値はどこに表されているのか?通常、貨幣商品は、他の諸商品と違い価値表現から排除されています。商品世界の中で価値表現から排除されている唯一の商品だからこそ、その商品世界で一般的な等価として、一般的で妥当な価値物として、つまり貨幣に地位に就くことができるのです。では貨幣商品の価値は、どのようにして表現されるか?それは物価表を逆に読む形で、つまり普通価値表現では20エレのリンネル⇒2オンスの金、1クオーターの小麦⇒2オンスの金というように読むが、これを反対から読むと2オンスの金⇒20エレのリンネルまたは1クオーターの小麦という形で2オンスの金の価値がリンネルや小麦で表現されています。

図①通常の価値表現

      20エレのリンネル  =

      1着の上着      =

      10ポンドの茶    = 2オンスの金                                       1クオーターの小麦 =

        等々の商品   =

図②貨幣商品である金の価値表現

 

                = 20エレのリンネル

                = 1着の上着

          2オンスの金 = 10ポンドの茶

                = 1クオーターの小麦

                = 等々の商品

※図①、図②とも価値表現式は、左辺から右辺へと読む。

 図①では 20エレのリンネル等々は、2オンスの金に値する。

 図②では 2オンスの金は、20エレのリンネル等々に値する。

図①は通常の価値表現でこれは左辺の諸商品の価値が統一的に貨幣金により表現されている形態ですが、他方図②は、これとは逆に貨幣商品金の価値が右辺の諸商品により表現されています。 

これは金という使用価値の商品の価値が表現されている形態です。つまり金の使用価値は図②での右辺の諸商品により「その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において」(国民文庫189頁)観念的に表されているのです。

 

 このように商品は、実在的には使用価値として存在し、その価値としての存在はただ価格という形で観念的に表現されているだけなのですが、しかしそれが社会的有用物としてのみでなく、それを生産する労働が社会的総労働の一環であることを実証するためには、使用価値としてだけでなく、価値としても実現されなければなりません。まさにこの二つの要素を実現するものこそ商品の交換過程だといえるでしょう。ですから商品交換においては、商品は観念的な貨幣ではなく、現実の肉体を持った貨幣へと転化=転態する必要があるのです。これは商品が使用価値の姿を脱ぎ捨てて、価値としての姿に変態することであるといえます。そして今度は再び価値としての姿――貨幣姿態――から再び使用価値の姿に戻るのです。つまりW(商品)―G(貨幣)―W(商品)であり、「商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態――商品の貨幣への転化と貨幣から商品への再転化とにおいて行われる」(国民文庫190頁)のです。 この二つの変態は、同時に商品所有者の諸取引――売り(W-G)と買い(G-W)であり、この両者の統一です。

 

 
 議論になった箇所および質問や意見

 

○「それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現れているだけである。」(国民文庫189頁)という箇所の意味が問題になり、この個所の「その使用価値」が何をさしているのかが問題となりました。ちなみに岩波版の訳では「したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現れるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。」(岩波文庫186頁)となっています。

 

 ――報告者は、ここの使用価値の意味を、金が貨幣となることにより一般的に交換価値として役立つという独特の使用価値の意味ではなく、本来の使用価値の意味、金という生産物の有用性――例えば、金はレアメタルとして貴重な工業材料として有用であるとか、あるいは宝飾品の材料として役立つ等々――と解釈し説明しました。

 

 説明内容は、図①と図②をもちいて報告内容の波線部分の形で行いましたのでで、ここでは省略します。

 

 この説明に対しては、これ以上意見も出ませんでした。

 

 ――ただここに関連して貨幣にも使用価値があるのかという疑問が出されました。これについては、「やはり貨幣である金もこれまでの資本論の説明から考えるとやはり一種の商品であり価値のみでなく使用価値も持っていると考えるべきではないだろうか。金も価値とともに使用価値を併せ持つ商品だからこそ貨幣の地位にも就くことができたのではないか。」と説明しました。

 

○商品の二つの変態、商品の貨幣への転化と貨幣から商品への再転化というが、売りと買いということで対称的なものか?という質問がありました。

 

 ――確かに売り手からみてW-Gは、買い手から見ればG-Wであり、同じに見えます。しかし前半の変態、商品から貨幣の変態は、その商品の買い手が市場に存在しなければ成立しません。商品はつくられてもそれが果たして売れるかどうかは分かりません。その意味でマルクスはこの商品の貨幣への転化は、命がけの飛躍といっています。一方、後半の貨幣から商品への転化は、これは恐慌とかの経済的混乱期でもない限り必ずなすことができます。なぜなら貨幣は商品であればどんなものとも直接に交換可能であるからです。ですからこの商品の変態W-GとG-Wは、むしろ非対称だといえます。

 

――この「命がけの飛躍」について参加者の方から、マルクスの「経済学批判」で最初に述べられており、参考にこの部分を紹介したらどうかという貴重な意見があり、当日紹介できなかったのでここに紹介します。

 

マルクスは,W-Gすなわち商品の販売過程の説明として商品が売れて貨幣に転化することを説明して次のようにいっています。

 

「だがこの困難、商品の salto mortale《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。一トンの鉄は、その譲渡によって、つまりそれが非使用価値である人の手から使用価値である人の手にうつることによって、自分を使用価値として実現し、同時にその価格をも実現して、ただ表象されるだけの金から現実の金になるのである。一オンスの金のよび名、つまり三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一にかわって、いまや一オンスの現実の金が登場してきた、だが一トンの鉄は退場してしまったのである。販売W-Gによって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているにすぎなかった金が、現実の貨幣に転化されるのである。」(カール・マルクス著『経済学批判』大内力他訳岩波文庫110頁から111頁)

 

 

 

 

2017年6月11日学習会の報告

「資本論入門講座」は、今回から第1章「商品」の第2節「商品に表わされた労働の二重性」に入りました。第1段落「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、…」(岩波文庫版第1分冊78頁)、「最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、…」(国民文庫版第1分冊82頁)から第10段落「(一五)…まだ問題にはならない。」(岩波文庫版84頁)、「一五…まだ全然存在しないのである。」(国民文庫版88頁)を学習しました。

 

学習会の内容

 

 商品に表わされた労働の二重性       

 

 商品は使用価値(有用性)と交換価値(社会的なものであり、商品の生産に必要な社会的な労働時間が対象化されたもの)という両面的・二面的なものとして現われることを学びました。そして、商品交換は使用価値が異なる労働生産物の量と量との交換ですが、何故に異なった使用価値が等しいと交換されるのか。それは二つの商品には使用価値とは違った同一のものが存在しているからであり、それが交換価値・価値なのです。交換価値・価値に表わされるところの社会的抽象的人間労働においては、使用価値を生産する有用労働のそれぞれの違いはなくなり、あるのは、社会的な抽象的人間労働だけでしかありません。交換価値・価値においては、個別の具体的有用労働といった側面は捨象され、これらの労働生産物は、なんら区別のない社会的抽象的人間労働が対象化されている労働生産物であるということだけを考察します。労働生産物が商品として交換されるということは、この労働生産物が自給的なものや年貢や税としてではなく、商品交換によって社会的に消費される労働生産物であるということを認められるということです。

 

 まずは、使用価値を生産する労働について検討しました。使用価値を生産するための生産的活動を有用労働と呼びます。商品体総体のうちには、様々な使用価値とともに多種多様な有用労働が存在します。それは社会的分業として現われています。この社会的分業は、商品生産の存在条件としてあります。しかし、逆に商品生産が社会的分業の存在条件としてあるのではありません。なぜなら、古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されていましたが、生産物は商品とはなりませんでした。また、工場では労働は分割されていますが、この分割は労働者が個別の労働生産物を交換するということによっては媒介されていません。ただ、独立に行われていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対します。社会の生産物が商品という形態をとっている社会、商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれる様々な有用労働の質的な相違が、一つの多岐的体制に、すなわち社会的分業(個々の作業場の内部で行われる分業とはことなり、様々な専門的職業に組織された社会内部の分業をいう)に、発展するのです。次に『資本論辞典』(青木書店)の社会的分業の説明を紹介します。

 

 「社会的分業は、相対立する出発点から二重に発生する。一方では、一家族の内部に、さらに発展すれば一種族の内部に、性や年齢の相違という純生理的な基礎のうえに分業が自然に発生し、共同体の拡大・人口の増大・部族間の闘争や征服とともにさらに発展する。他方では、これらの独立した共同体の接触によって剰余生産物の交換がはじまり、その間にあたらしい社会的分業が成立する。個々の共同体は、その自然的条件、したがってその生産方法や生活様式、生産物を異にし、独立した異種の生産部面を形成していた。商品交換は、このような自然発生的相違によって起こり、これらの独立した生産部面を結びつけてたがいに依存しあう社会的総生産の諸部門に転化する。ここに第二の社会的分業が発生します。

 

商品交換は交換のための商品生産を発展させるが、商品生産は社会的分業なしには存在しえない。しかし社会的分業は、生理的分業にみたように、商品生産なしにも存在しうる。歴史的には、交換によって媒介された最初の大きな社会的分業は牧人種族の独立によって成立し、第二の大きな分業は手工業の農業からの分離によって成立した。ことに都市と農村のとの分離・対立によって、これら分業の基礎は確立し発展した。なお、こうして自然発生的に成立した社会的分業は、資本主義的生産の発展とともに、きわめて無政府的なものとなります。」

 

 商品体は、自然素材と労働との結合物です。そして、商品に含まれている様々な有用労働そのものを取り払ってしまえば、物質的な土台が残りますが、それは人間の助力なしに天然に存在するものです。人間は、ただ素材の形態を変えることができるだけですが、この形態を変化する労働そのものにおいても、人間はつねに自然力に支えられています。自然素材からできた様々な機械や道具しかり。すなわち、労働は、労働によって生産される使用価値、素材的富の、唯一の源泉ではないのです。ウィリアム・ペティが労働は素材的富の父であり、土地(自然素材)はその母であると言っています。

 

 

次に商品の価値を少しですが検討しました。1着の上着の価値が10エレのリンネルの二倍の価値をもっているとすれば、20エレのリンネルは1着の上着と同じ価値量をもっている。価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもった物であり、同種の労働の表現です。上着をつくる裁縫労働とリンネルを作る織布労働とは質的に異なった労働です。しかし、労働の有用的性格を無視すれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということです。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働です。商品の価値は、具体的な労働の差異がまったくない、人間労働一般の支出を表わしています。ブルジョア社会では、将軍や銀行家は大きな役割を演じている一方、ただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じていますが、これは人間労働においても同様です。ここの人間労働においても同様というのは、ひどくみすぼらしい普通の人間の労働が単純労働をおこなうとすれば、将軍や銀行家の労働は単純労働を数乗した複雑労働をおこなっているということを言っています。

 

 ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置します。その場合、複雑労働の生産物はただ単純労働の一定量を表わしているにすぎません。いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われます。以下では、換算の労を省くために各種の労働力を直接に単純労働力とみなします。

 

 

参加者からの質問や意見

 

 

 ○『第8段落最後の「労働は素材的富の父であり、土地はその母である。」のその母として土地がいわれているが、土地だけがそうなのか?』との質問がありました。この箇所では、様々な商品体は、自然素材を労働によって形態変化をおこなうことによって、使用価値・素材的富と成します。ですから、労働だけが使用価値・素材的富の源泉ではありません。自然素材があってそれに働きかける、形態変化をおこなうといった、自然素材と労働の二つの結合によって素材的富・使用価値が生まれます。ここでは、素材的富・使用価値を子にたとえて、父である労働と母である土地から素材的富=労働生産物がうまれると表現しています。しかし、労働の対象である自然素材は、なにも土地だけではありません。あらゆる自然素材(母)は人間の労働(父)によって新たな使用価値・素材的富(子)に生まれ変わります。

 

2017年6月15日 (木)

5月28日の学習会の報告

今回は、第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度」の第16パラグラフ(国民文庫版第1分冊p181)「こうして、価格、または、商品の価値が観念的に転化されている金量は、・・・」からこの説の最後まで(国民文庫版第1分冊p187)「・・・それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」の箇所を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

○前回の報告内容の訂正

 前回の学習会の中で報告者の報告の中で謝った説明があったので学習会の冒頭で説明がなされました。

「いま学んでいるところでは、貨幣商品である金の価値尺度機能について触れられていますが、果たして現代でも金が価値尺度機能として機能しているかということが問題になりました。前回報告者は、現代では金と貨幣(おカネ)の結びつきは一切断たれています。現在では、各国通貨は金との兌換を保障していませんし、戦後かろうじて米ドルを通じて結びついていたものも1971年のニクソンショック以降完全に断たれています。ですが、現代でも価値尺度機能としては金がバックグラウンドで機能しているのではないかと発言しました。

 しかし、現実の現代の経済現象等を見ると、激しインフレやあるいは長期にわたる慢性的なインフレが生じたり、他方で株や土地が途方もない価格がついてバブルが生じたりとといことが頻繁に起こるようになってきています。こうした現象は、金が価値尺度といて機能していれば説明がつかないことです。やはり現代においては、金は価値尺度としても機能していないだろうというのが正しい評価だと思います。前回の報告を訂正します。」

 

学習会の内容

 商品の価格とは、前回の学習で学んだように、商品の価値表現の一つの形態です。貨幣が登場してからはあらゆる商品が貨幣によりその価値を統一的に表現します。ここでは、貨幣商品以外の全ての商品が、貨幣である金の数量で価値の大きさが表現されるようになります。具体的には、諸商品の価値が、貨幣商品である金の重量によって表されます。例えば、a量のA商品=金ⅹg、b量のB商品=金yg、c量のC商品=金zg等々。

このまさに貨幣諸品である金の量で表現された価値の表現形態(=金○○gまたは△△ポンド等々)が商品の価格ということです。しかし、こういう形で金の重量で諸々の商品の価値が表現されるにしても、これらの金量を計る基準がないと比較のしようがありません。イギリスではポンドという形で、貨幣名と金属重量名が同じになっていますが、それは貨幣の単位であるポンドがもともとは物の重量示すポンドに由来しているからです。

たとえば、この基準はイギリスでは1ポンドであり、戦前の日本では金750ミリグラムでした。ですから日本では、この金750mgを1として様々な金量――諸々の商品の価値が表現された金量――が計られたのです。これが貨幣法で定められた1円=金750mgということです。ですが実際には、金750mgより小さい価値の商品もあり、また当然金750mgを1(円)としてもそれ以下の端数も出てくるわけです。ということでさらに1円の単位をさらに100分割してその一つ分を1銭とすることになります。これはイギリスでは、ポンドの20分の1を1シリングとし、さらに1シリングは12分割されその可除部分は1ペンスと名付けられました。

 こうして1クオーターの小麦は1オンスの金に等しいというような価値表現から我々になじみのある三ポンド・スターリング十七シリング十1/2ペンスであるという表現になります。つまり諸商品の価値がこうした貨幣名で表現されるようになります。

 しかし、こうした貨幣名となるとそれがもともと何であったか不明になり、価値関係の痕跡が消すっかり消えてしまいます。それは単に物の名称を知るだけではそのものがどんなものであるかを知ることにはならないのと同様です。我々はポンドや円などの貨幣名を知っていてもそれにより表現されているものが何なのかは理解できません。この商品は○○ポンドだ、△△円だと知っていても、それが何をあらわしているかは理解できないでしょう。しかし商品の価値表現は、「このなんだか分からない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態」(=価格形態)に到達するまで発展し続けざるをえないのです。

 

 価格が、商品価値の現象形態であり、すなわち商品に対象化された労働(量)を貨幣で表現したものであるとすると、価値と価格の関係はどうでしょうか?

 マルクスは「価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である」(国民文庫版1分冊p183)といっていますが、この意味では価格は、本来的にはその商品の価値量に一致します。すなわち価値(量)=価格の関係にあります。しかし、我々もよく知っている通り、一つの商品をとっても価格というのはかなり変動します。これが価値そのものの変動に伴う場合もありますが、全く価値が変動していないにもかかわらず、変動することもしばしば見受けられます。

 このような価値と価格の乖離の可能性はどこから出てくるのでしょうか?

 価格が、商品に対象化されている労働の貨幣名であるということは、一定量のある商品に与えられた価格という形で表現されている貨幣量には、その商品に含まれている労働と同じだけの労働が含まれているということを意味します。例えば、1クオーターの小麦と2ポンドスターリング(金)が同じ労働量だとします。この場合、2ポンドスターリングが1クオーターの小麦の価格ということになります。

 しかし、事情によりこの1クオーターの小麦が1ポンドに下がったり、逆に3ポンド上昇するとします。ここではこの1ポンドは1クオーターの小麦価格としては過小であり、他方3ポンドでは過大ということになります。しかし、この1ポンドも3ポンドも小麦の価格であることには違いがありません。

 このように価値量と価格は乖離する可能性がありますが、それ(価値と価格の乖離の可能性)はまさにこの価格形態そのもののうちにあるのです。

 こういうと価値表現としての価格形態そのものの欠陥であるかに思われますが、むしろ価格形態はこの資本主義のもとでは、支出された社会的労働量により価値が規定されるという価値法則が、無政府的な資本による生産の下で、競争により盲目的に作用し貫徹される形態として最も相応しい形態だといえるでしょう。

 価格形態においては、単に価値量と価格の乖離ということにとどまらず、そもそもそれが価値表現ではなくなってしまうことも生じえます。

例えば、少しも価値をもっていないものに価格がつく場合があります。この場合どんな意味でも価値表現ではありません。それ自体商品でない物でも、貨幣所持者が買うことができるものであれば、その価格を通じてそれが商品となります。この場合の価格は、根底に価値関係がありませんので想像的なものということになります。しかしこうしたもののうちでも、未開墾地のように背景に何らかの現実の価値関係が潜在している場合もあります。

 

これまで商品の価値を表現するものとしての貨幣の機能=価値尺度機能を見てきました。この価値尺度機能においては、貨幣は現実の金である必要はありません。これは価値を金量で表現した価格形態においても同様です。商品は、価格を与えられ、それを表現するためには、現実の金は必要とはならず観念的な貨幣で充分です。しかし、商品が価値をあらわすところから現実に交換価値として機能するためにはそうはいきません。商品は、交換価値として働くためには、それはやはり現実の金に代わらなければならないのです。「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」(国民文庫版1分冊p187)というゆえんです。

 

参加者からの質問や意見

○報告者自身より「価値量と価格の乖離の可能性が価格形態そのもののうちにあるということがいま一つすっきりしない。誰かうまく説明できないか。」と問題提起がありました。これについては参加者の方から「価格は、価値から乖離することもあるが、こうした乖離した価格も需給関係や資本の競争関係を通じて,調整されて均衡した価格に落ち着いていく。無政府的な生産の根底で価値法則は貫徹されて、平均的には価値によって規定された価格に落ち着いていくのではないか」等の意見が出されました。

 しかし、それはその通りですが、価値と価格の乖離の可能性が価格というもののうちにあるという説明にはなっていないのであらためて報告者自身考えてみました。「価格とのいうのは価値表現であるとしても、それはあくまでも価値の相対的な表現にすぎない。価値表現といっても直接に労働時間で表現しているわけではない。それはある意味で当たり前で、直接に労働時間で表現することは不可能だろう。商品の価値表現は、結局、他の商品により価値を表現する以外にないのであり、それはいうならば他の商品の使用価値の姿、現物の姿で表す以外にないのです。例えば、20エレのリンネルが1着の上着に等しいというように。ここでは20エレという一定量のリンネルの価値が上着という使用価値により表現され価値の大きさとしてはその1着分であるという形で表されています。ここで上着の代わりに金をもってきても同じことです。ただ上着に代わり今度は金という別のモノで表現されるだけです。こうした物的な形態での価値表現には本質的な限界があるのでしょう。それに上着であろうと金であろうとそれ自体も価値量が変化するわけでこの点でも限界があるように思う。このような価値表現としては限界性のある価格形態そのもののうちに価値と価格の乖離の可能性はあるのでないでしょうか?」

 

○「『観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている』とはどういう意味か?金は柔らかいというイメージがあるがここでの堅い貨幣とは金ではないということか?」という質問が出されました。

これについては報告者より「ここで“堅い貨幣”とは、価値尺度としては観念的な金(頭の中で想像した金)で大丈夫だが、例えば現実の商品流通過程に出ていけば、頭で想像した金ではだめで、現物の金等の堅い貨幣でなければならないということだろう。」との説明がありました。

5月14日学習会の報告

「資本論入門講座」は 第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」の第6段落(岩波文庫版第1分冊70頁)「一定の商品、一クォーターの小麦は、…」(国民文庫版第1分冊71頁)「ある一つの商品、たとえば一クォーターの小麦は、…」から第18段落(岩波文庫78頁)「…労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値を形成しない。(一一a)注釈」(国民文庫82頁)「…労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。一一a注釈」までを学習しました。

 

○前回は、商品の二要素の一つである使用価値は、物の属性という質的なものであることを学びました。今回からは、商品のもう一つの要素である価値について学びます。交換は異なった使用価値であるからこそ成立します。そして異なった使用価値の交換の成立はその商品への欲望がまずあることは自明です。ところが、使用価値への欲望があるだけでは、その交換はたまたま欲望が一致したもの、偶然的なものでしかありません。対して、交換価値は使用価値の欲望を確定的なものにします。交換価値は量的なもの、量的な比率として現われます。それは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率であり、時と所によって、たえず変化する関係として現われます。そのことが、交換価値は、何か偶然的なもので純粋に相対的なものであるかに見えます。商品には内在的な、固有の交換価値といったものがあるにもかかわらず、そのようなものなど無いかに思われています。そこで、このことが詳細に考察されています。

 

○商品がある比率・量で交換されるのはどういう事か。その量とは何かが問題となります。それは使用価値を捨象したもの、使用価値とは異なった、両者に共通な第三のあるものなのです。使用価値を無視すれば、そこに残るものは労働生産物であると言う属性だけであり、この第三のものが、両者に共通な同じ人間労働なのです。この共通な人間労働は、労働生産物の異なった有用性と同様に、労働の異なった有用性も捨象したものです。ただ、同じ人間労働が支出されている労働生産物であるということで、お互いに共通な社会的労働の結晶としてこの労働生産物は、価値―商品価値なのです。すなわち、一つの使用価値が価値をもっているのは、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されている、物質化されているからに他なりません。

 

○それでは、使用価値・財貨の価値の大いさはどのように測定されるのでしょうか?それは、その中に含まれている価値を形成する実体である労働の量によって測定されます。その労働の量自身は、その継続時間によって測られます。そして労働時間は時、日などの尺度標準があります。

 

○ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、社会的に必要な労働の定量、この使用価値を生産するのに社会的に必要な労働時間にほかなりません。この場合、個々の使用価値の異なる商品も、同一の大いさの労働量を含む商品であれば、同一の価値の大いさをもっているとみなされます。すなわち、ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、その商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間に対する比に等しいのです。価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎないのです。

 

○物は、価値でなくても使用価値である場合がある。それは、その物の効用が人間の労働を媒介にしていない場合がそうである。空気、自然の草地、野生の樹木等々である。また、人間労働によって有用な物を作っても、それが商品としてでなく自己の為だけに使われる場合もそうである。すなわち、使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値を生産しなければ価値とはならない。そして、封建領主のために農民が作った生産物は、他人の為ではあっても商品とはならなかった。商品となるためには、それが使用価値として役立つ他の人に対して、交換によって移譲されるのでなければなりません。

 

参加者からの質問や意見

 

○使用価値は分かるが交換価値と価値の違いは?

 交換価値は現実に交換されている商品と商品の量であるが、価値はその内実で社会的な人間労働だと言える。前者は目に見えるものであるが、後者は目には見えないが交換割合を決める中心的なものであると言える。と言った意見が出されました。

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