2019年4月15日 (月)

2019年3月24日学習会の報告

①第1部  入門講座

第一章「商品」第三節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」三「等価形態」のテキスト第4パラグラフ「等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、・・・」(岩波文庫第1分冊104頁、以下同文庫からの引用ページ数のみ記載)から同11パラグラフ「・・・、等価形態の第二の特性である。」(108頁)までを学習しました。

前回、直接交換可能性の形態として、「商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身に対して独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押し付けると言う事である」。そして、「一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。」(103頁)ということを学びました。そして、今回は、その『等価形態』の特性(三つの内一と二)について説明しました。

 まず特性とは(=そのものだけが有する他と異なった特別の性質≪広辞苑≫)とあります。

等価形態の[第一]の特性は、「使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となること」(104頁)いうことです。亜麻布の価値を表すのに、上衣という使用価値の姿で表現しているのです。また、「いかなる商品も自分自身にたいして等価として関係することはなく、┅┅自分自身の価値の表現となすことは出来ない」(105頁)のであって、「他の商品の自然の皮膚を、自分自身の価値形態にしなければならぬ」(105頁)としています。この「皮膚」と言う表現をする場合、皮膚は、身体を包む外皮で、商品と商品の関係として現れるものは、人と人との関係なのであって、前者はいわば後者を包んでいる外皮なのです。ここでは、商品に包まれている労働を言っているとおもいます。では、「価値量」はどうなるのでしょうか。「一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である」(104頁)として「度量衡」で例えています。「鉄の物体形態も、砂糖のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。したがって、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量容態、すなわち、重さの現象形態を代表する。」(105頁)、さらに、「鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布に対して、ただ価値を代表するだけである。」(106頁)と、ここで、なんとなく、貨幣である『金』○○オンスと見えてくるようです。

等価形態の謎は、「まさに、一商品体、例えば上着が、あるがままの物として価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にある」(106頁)のであり、それは「・・・その等価形態を、すなわち直接的な交換可能性という属性を、同じように天然にもっているかのように・・・見える」(106頁)ことから生じるとテキストにあります。そして、等価形態の謎を貨幣の中にしか見ないブルジョア経済学者を批判しています。彼らは、完成された価値形態、すなわち貨幣形態(商品Aの価値=金△オンス等々)の形態しか見ないのです。ですから「彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というような最も簡単な価値表現が、すでに価値形態の謎を解くように与えられていることを、想像しても見ない」(107頁)のです。

[第二]の特性は、「(上衣の布地を裁断したり、縫ったりする)具体的労働がその反対物、すなわち、(価値の実体である)抽象的に人間的な労働の現象形態(となって、亜麻布の価値を表しているということである)となる」(108頁)ということです。

 

②第2部   通常講座

今回から第三篇「絶対的剰余価値の生産」に入り、この日は第五章「労働過程と価値増殖過程」の第一節「労働過程」の冒頭(岩波文庫第2分冊9、国民文庫第1分冊311頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこの節の第7パラグラフ注記(七)「・・・資本主義的生産過程については決して充分ではない。」(岩波文庫第2分冊15頁、国民文庫第1分冊317頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

学習内容(報告)

 この第三編から具体的に資本主義的生産過程の分析に入り、この中で剰余価値の生産の秘密、そのメカニズムが具体的に明らかにされます。

 しかし、こうした資本主義的搾取、剰余価値生産の過程は、他方では商品の生産過程でもあります。商品とは人間の生活に有用な労働生産物(使用価値)がとる歴史的な形態です。これを有用物(使用価値)の生産として普遍的に考察するならば、それは労働過程ということになります。

 我々が考察するのは、資本主義的な過程、つまり剰余価値の生産過程(価値増殖過程)ですが、その資本主義的特徴を掴む為にはまず、普遍的な労働過程がどういうものかをしっかり掴む必要があります。その上で資本主義的過程(剰余価値の生産過程、価値増殖過程)を考察することにより、資本主義的過程の特徴と本質がより明瞭になります。このことがこの第一節「労働過程」の考察の意義だと思います。

 

 資本の生産過程を人間にとっての有用物(使用価値)を生産する過程としてみれば、非資本主義的な生産方法とも共通かつ普遍的な労働過程として考察可能です。それ故「労働過程は、最終はまずいかなる特定の社会形態からも、独立に考察されるべきもの」(9頁)です。

 では労働過程について見てみましょう。

 労働過程は、次の3つの要素から成り立っています。

 ①労働そのもの②労働対象③労働手段です。

 ①の労働そのものはテキストでは次のように規定されています。「労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち、人間がその自然との物質代謝を、彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である。」(10頁)と。これは人間も他の動物と同様自然界に存在する栄養物やその他の必要なものを摂取することなしには個々の人間は愚か種としての人間つまり社会を維持再生産する為には絶対的に不可欠なことです。しかしその自然界から有用物をとりいれる方法(ここで言われている物質代謝)の仕方が、他の動物とは異なっています。人間は、自然をそのままの形で取り入れるのではなく、人間に有用な形態に自然物を変化させとりいれるのですがそれが労働だということです。つまり労働とは、自然との物質代謝を行う上での人間特有の仕方だともいえます。

 この労働ですが自然そのものを人間に有用な形に変化させるのみではなく、それを通じて人間自身も変化させるということもその特徴としてあります。

自然に働きかけてそれを自分たちに役立つように変化させるということはある種の動物も行うように見えます。例えば蜘蛛は、自分の獲者をつかまえるための精緻な巣をつくり、蜜蜂も精巧な巣をつくり、それぞれ人間の建築家に劣らないような複雑・精緻なものを作ります。しかし蜘蛛や蜜蜂のそれは本能的なものでしかなく、あらかじめ人間のように作業の前に、どのようなものを作るのかを頭の中に思い浮かべて、その通りものを作るということはできません。その意味で人間労働は、目的が最初にあり、その目的を実現するためにどのように働きかけるかを考え、それが実現するように彼自身の意識を調整コントロールして行う活動です。その意味で労働は合目的的活動といえます。

次に労働対象ですが、これは主に二つあります。一つは、人間自身の手が全く加えられていない「天然に存在する労働対象」ともう一つはすでに人間自身の手が加えられてそれ自身が労働の産物である原料です。

前者は、「完成生活手段を用意している土地」(11頁)や「労働によって、大地から直接の関連から引き離されるにすぎない物」(11頁)などです。例えば、天然の海――海でも人間自身が漁場として改良されているものはこれに該当しない――から取れる魚、原始林から伐られる木――すでに林業により手が加えられている山林はこれに該当しない――等々などがそうです。これに反してすでに何らかの人間労働が加えられているものは全て原料ということになります。

次に労働手段は「労働者が自己と対象のあいだに置き、この対象にたいする彼の活動の導体として彼に役立つ物または諸物の複合体」(12頁)であり、「物の機会的、物理的、化学的諸属性を利用して、それを彼の目的に応じて、他の物におよぼす力の手段として作用させる」(12頁)ものとテキストにあります。

人間は労働対象に働きかける際に、通常彼自身の手や足などの諸器官で直接に対象に働き環けるのではなく

何かものを媒介にして働きかけます。例えば、畑を耕すのにも鍬や鋤であるかあるいはもっと発達した労働手段であるトラクターであるかは問わず何らかの労働手段をつかって行います。こうした物が労働手段です。

 労働手段の使用と創造とは、人間の労働過程を他の動物のそれと区別するものだとテキストにあります。確かに萌芽的な状態ではある種の動物も道具を用いるようなことがあります。例えば、チンパンジーが木の枝を活用して蟻をとるなど。しかし、道具を使ってさらにより複雑な道具を考案し作成するなどということは人間以外には見られません。

 またどのような労働手段が使われるかは、その社会がどのような生産様式の社会かを判別する上で重要だといいます。「何が作られるかではなく、いかにして、いかなる労働手段をもって作られるかが、経済上の諸時代を区別する」(15頁)のです。

 これまで見てきた労働過程の全過程を「その結果なる生産物の立場から見れば、労働手段と労働対象との二つは、生産手段として、労働そのものは生産的労働として、現れ」(15頁)ます。

 

質問等

○「テキスト15頁の『労働者の側に不安定な形態において現れたものが、いまや安定的な性質として、存在の形態において、生産物の側に現れる。』という文章があるがこの意味がよくわからない。不安定な形態云々とは何をさしているのか分からないので説明してほしい。」という質問がありました。

 これについては、報告者より「この直前の文章が『労働はその対象と結合した、労働は対象化され、対象は加工される。』(15頁)とあるので『不安定な形態において現れたもの』とは労働そのものだと思う。つまり現在進行形の労働(生きた労働)は、それ自体人間の活動であるからそれを手にとってつかむことはできないが、対象に働きかけ、対象を加工し、つまり生産物に対象化された労働は、生産物の形態で手で触ったりつかんだりできる形態に変わったということではないかと思う。ちなみに国民文庫訳ではその部分は『労働者の側に不静止の形態で現れたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現れる。』(国民文庫第1分冊317頁)とあります。」

 

2019年3月26日 (火)

2019年2月24日学習会

福山『資本論』を読む会は、今年の1月から毎月第4日曜日の月一回となり、今回から当面第1部入門講座と第2部通常講座を並行して行います。


 


以下は、2月24日(日)の学習会の報告です。


 


①第1部 入門講座


  第一章第三節A-三「.等価形態」(岩波文庫第1分冊103~104頁第1段落~第3段落、国民文庫第1分冊106~108頁第1段落~第3段落)


 「商品A(亜麻布)は、その価値を異種の一商品B(上衣)の使用価値で表わすことで、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける」(岩波文庫)


 亜麻布の価値が上衣という使用価値で表わされるということは、亜麻布に対して上衣が、上衣という肉体形態とは異なった価値形態をとることなしに、亜麻布に等しいものとして置かれるということです。亜麻布は、自分自身が価値あるものであることを、直接に上衣と交換することによって表現するのです。


 上衣が亜麻布のために等価物として役立ち、亜麻布と直接に交換される形態にあるとしても、それによっては、上衣と亜麻布とが交換される割合までは決して与えられていません。この割合は、亜麻布の価値量が与えられているのだから、上衣の価値量によって定まります。


 しかし、上衣が価値表現において、等価物の位置にあるということは、この商品種類・上衣の価値量としての表現ではありません。この商品種類・上衣は、価値等式のなかでは、むしろただ或る物(ここでは亜麻布)の一定量として現われるだけなのです。すなわち、それ自身の価値量、上衣の価値量を表現することは決してできないのです。一商品の等価形態は決して量的な価値規定を含んでいないのです。


 


 ②第2部 通常講座


今回は、第四章「貨幣の資本への転化」の第三節「労働力の買いと売り」(岩波文庫第1分冊290~307頁、国民文庫第1分冊293~309頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)を学習しました。


学習内容(報告)


 前節では、剰余価値の発生は流通から生じるわけにはいかない――なぜなら流通は、単なる交換の場であり、これまで見てきた商品交換の原則から等価交換が原則であり、そこでは商品から貨幣、あるいは貨幣から商品へと転化しようともそれは単なる形態転換であるに過ぎず、価値量の変化は伴わないから――、しかし他方でそれは流通から生じないわけにもいかない―― なぜなら流通の外では、商品生産者らは自分の商品に対し自分が行う労働を価値として対象化するのみであり、それは自分の行った労働時間分が価値として対象化されるだけであり、決して剰余価値をその商品に付け加えるものではないから――、という矛盾した結論にたどり着きました。


 ここ第三節では、この矛盾が解決されます。


 資本の一般式は、次のように与えられています。すなわちG――W――G(G´)。ここでは貨幣所有者は、貨幣により商品を買い、それを再度売り貨幣に変えることにより剰余価値⊿Gをえることになります。


しかし、この過程のどこに剰余価値を生む秘密があるのでしょうか?


 最初に貨幣Gを見てみましょう。貨幣自体は、ただ商品の価値を価格という形で実現するのみで、貨幣自身から剰余価値が生まれるということはありません。つまり前半の流通G――Wから剰余価値が生まれることはありません。


 では第二番目の流通行為、W――G商品の再販売から生じるでしょうか?


もちろんここでも剰余価値は発生しません。なぜならこれは、ただ商品Wがその商品としての姿から貨幣の姿へと形態を変化させるのみであり、当然ここでは価値変化は生じないからです。


 とすると、剰余価値発生の秘密は貨幣所有者が買う商品Wにこそあるということになります。 


 しかし、問題はこの商品の何にその秘密が隠されているのかが問題です。         


 それはこの商品の価値にあるのではありません!なぜなら価値物としてはただ等価物のみが交換されるのですから。


 ですからこの価値変化、価値増殖の秘密はこの商品の使用価値そのものから生じるものなのです。


 つまり、その使用価値の実現(消費)が価値の源泉であるという特殊な商品を貨幣所有者は市場で見つけ出さなければならないのです。


 実際にそのようなものは労働能力または労働力なのです。


 しかし、いつでもそのようなものが商品として市場に見出すことができるかというとそうではありません。その為には条件があります。


 まず労働力の所有者が彼自身の労働を自由に処分できることがひとつの条件としてあります。例えば、封建社会の農民などは、身分と強制力により土地に縛られて自由に労働力を売るということなど不可能でした。


 また労働力の所有者がみずからの労働力を売るようになる為には、そうする以外に自らの生活手段を得る手段がないということが必要です。もし彼ら自身が生産手段(原料や労働用具等)を所有していれば、彼は自らの労働力を売るのではなく、自らの労働を対象化した商品を売ることによりその手段を得るでしょう。つまり彼らが生産手段を所有しておらず、したがって自らの労働を対象化した商品を売ることが不可能であることがその条件となります。


 以上のことから貨幣が資本へ転化するためには、貨幣所有者は市場で二重な意味での自由な労働者を見いださなければなりません。それは自らの労働力を自由に処分できるという意味で自由であり、かつ一切の生産手段から切り離されて自由――生産手段の所有から自由=非所有――というように二重の意味において自由な労働者ということです。


 実はこのような条件=労働力の商品化の条件は決して自然的な条件ではありません。それは歴史的に生み出される条件です。これは封建社会が掘り崩されて資本主義が登場する時代、いわゆる資本の本源的蓄積の時代(テキストではこの後の第二十四章「いわゆる本源的蓄積」で扱われます)に急速に生み出されて登場してきたものです。


 すなわちこうした条件、労働力の商品化そのものが資本主義という一時代を特徴づけるものだといえます。


 ところで労働力という商品の価値はどのように規定されるのでしょうか?


 労働力という商品も他の商品と同様にそれの生産(または再生産)に要する社会的平均的な労働時間により決まります。労働力は、生きた人間に内在する力である為に、その再生産の為にはその人間が生きてその能力を維持再生産することが必要となってきます。その為には一定程度の衣食住の生活物資が必要となります。


 つまり、この為の必要な生活手段の総量を生産するのに必要な労働時間の総計が労働力の価値を規定します。この必要な生活手段の中にはまず労働者自身を正常な状態で維持するに必要なものが含まれます。何を正常とするか、労働者の欲望等とも関わりますが、その国や地域によりほぼ与えられています。


 また労働力は世代を超えて再生産される必要がありますので、次世代の労働力として労働者のこども達の養育費等もこれらのものに入ります。


 さらに特定の労働部門に適応した労働力を養成しようとすれば、そのための教育や訓練等に必要な費用も考慮されなければなりません。こうした部分も当然労働力の価値規定に入ります。


 次の章(第五章)からは、具体的な資本の生産過程が展開されます。それは資本家が労働者から買った労働力商品を消費する過程、つまりその使用価値を実現する過程です。この過程は同時に、資本にとっては商品と剰余価値の生産過程でもあります。この中で剰余価値創造の秘密と資本主義的搾取のメカニズムが具体的に明かされます。


 しかし、この節で見てきた労働力の売買の過程はそれ自体は流通部面に属するものです。この限りにおいては資本家と労働者はあくまでも対等な商品所有者同士の関係として現れます。


 しかし、この形式的な自由で平等な契約関係の背後には、それと相対立する敵対的な関係が隠されているのです。それがどんなものであるかは次章から学んでいきましょう。


 

2019年1月27日学習会の報告

今回は、第四章「貨幣の資本への転化」の第二節「一般定式の矛盾」(岩波文庫第1分冊271~290頁、国民文庫第1分冊273~292頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)を学習しました。


 以下は、当日の学習会の報告内容です。


 


学習内容(報告)


 商品流通(W――G――W)と資本流通(G――W――G)の形態的な違いは、売り(W――G)と買い(G――W)の順番が異なっているということです。しかし、果たして売り(W――G)と買い(G――W)の順序が転倒するだけで、貨幣は資本に転化するのでしょうか。それが問題です。


 W――G――W、G――W――Gどちらとも3人の取引者が介在し、この点ではどちらも同じです。


 そこで、後者の取り引きについて、私が貨幣所有者として登場するものとします。


 まず私は貨幣でもってAさんから商品を買います(G――W)。これを取引①とします。そして次に私は、その買った商品をBさんに売ります(W――G)。これを取引②とします。①の取り引きは私から見れば買い(G――W)ですが、Bさんからみれば売り(W――G)です。この取引自体は、私が資本家としてBさんに相対するものではありません。ただお互いに普通の商品所有者同士の対等な取引にすぎません。他方、②の取り引きもこれ自体は、特別私が資本家としてAさんに相対する取り引きでもなく、これもお互いに対等な商品所有者同士の取り引きにすぎません。つまり売りと買いの順序の転倒から単純な商品流通の域を超えることはできません。


 しかし、前節ではG――W――Gという流通は、最後のGが増殖してG´になり、最初に投じられたG貨幣は、資本に転化するということが説明されました。


では、果たして流通そのものから剰余価値が発生し、貨幣は資本に転化するのか?ということが問われなければなりません。今度は、このことについて見ていきます。


まず貨幣を媒介にするのではなく、直接に商品と商品が交換される場合を見てみます。この場合、剰余価値は生まれるでしょうか?


 葡萄酒生産者と穀物生産者が取り引きすると仮定します。この場合、使用価値の面においはお互いに利益を得ることになります。なぜならこの交換(葡萄酒と穀物)において葡萄酒生産者は、彼自身が穀物を作るより多くの穀物を得ることができるし、穀物生産者も彼自身が葡萄酒を作るよりも多くの葡萄酒をこの交換により得ることができるからです。


 他方、交換価値の面では事情が異なります。なぜなら対等な商品所有者同士の取り引きとしては、両者の間で例えば50の価値の小麦が、葡萄酒で50の価値と交換されるのみだからです。つまり交換価値の面では、取引の前と後ではその大きさは変わらないからです。つまりこの場合価値の増殖はありません。


 では次に貨幣が媒介する場合ですが、これも先の場合と何ら変わりません。それはW――G――Wと貨幣が媒介しても、これは最初のW商品自身が、G貨幣の姿に転化し、最後に再びW商品の姿に戻るという商品の変態にすぎず、ここには量的な変化は含まれていないからです。ここでも等価交換が前提ですので、剰余価値の発生の余地はありません。


 それでは等価交換でない場合はどうでしょうか?


 最初に売り手に特権があり、価値以上の価格で売ることができる場合。


 ここで売り手は10%高く売ることができる、すなわち100の価値の商品を110で売れるとします。この場合、売り手は10の剰余価値を取得できます。しかし、彼は次に買い手として10の価値を失うことになります。どんな売り手も、別の場面では必ず買い手として現れないわけにはいきません。


 結局、この場合は名目的に10%価格が上昇する場合と同じであり、結局は誰も剰余価値を取得することはできません。


 次に逆に買い手に商品を価値以下で買う特権がある場合を考えると、これも「彼はすでに買い手として10%利得するまえに、10%だけ失っている」(280頁)。すなわち差し引きゼロであり、ここでも剰余価値は発生しえません。


 つまり剰余価値の形成は「売り手が商品を価値以上に売るということによっても、買い手がこれを価値以下で買うということによっても、説明しえ」(281頁)ません。


 売り手に特権がある場合も、反対に買い手に特権がある場合も、誰も一方的に売るだけや一方的に買うだけのものは存在しません。売り手も売る為の商品をどこかで買わなければなりません、仮に自分が生産した商品を売るのだとしてもそれを生産する為に必要な生産要素をやはり商品として買わなければならないでしょう。それに一方的に売るだけの人を想定するなら、そもそも彼はどうやって自分が生きていく為の生活資材を手に入れるのかが問われます。だからこれらの場合は、一方で得をしても他方でそれを失い、社会的に剰余価値の発生がないのは言うまでもないですが、個別の取引者ごとにみても剰余価値は生み出されません。


 そこで今度は個別的な取り引きにおいて非等価の取り引きがある場合を考えてみます。


 Aという人がいて彼は狡猾な人間だとします。他方、彼と取り引きするBやC等らは実直な人だとします。


 Aは、葡萄酒生産者で40ポンドの価値の葡萄酒をBに50ポンドで売るとする(非等価交換)。Aは、40ポンドの葡萄酒とひきかえにBから50ポンドの貨幣を手にします。そしてAは手に入れた50ポンドの貨幣でCから50ポンド相当の穀物を手に入れます(等価交換)。結局Aは、40ポンドの葡萄酒で50ポンドの価値の穀物を手に入れたことになります。この場合、確かにAは10ポンドの剰余価値を手に入れたことになります。


 しかし、総価値で見ればこの一連の取り引きの前と後では価値量に何ら違いがありません。40ポンドの葡萄酒と50ポンドの穀物ですから計90ポンドと。すなわち「流通する価値は、ほんの一分子も増えていない」(284頁)ということです。これはテキストでも書かれているようにAとBの間の価値の分配が変わっただけであり、何か流通の過程で剰余価値が生み出されたと言うわけではありません。Aにとって“剰余価値”として現れたものはBにとっての損失であり、これも結局プラマイゼロで社会的には何らの剰余価値は生まれてはいません。


 以上、これまで見てきたことから結論的に、等価交換でも非等価交換でも流通からは剰余価値は生まれえないということが明らかになりました。


 しかし、では剰余価値はどこから生まれるのでしょうか?流通から生まれないとするなら、流通の外で剰余価値が生まれるのでしょうか?これこそが問題です。


 流通の外では、商品所有者は他の商品所有者との関わりをもつことはできません。ただ自分自身の商品に対して自分自身が関わるのみです。自身の商品との関わりでいえば、自分自身が労働してその商品を生産するというようなことだけです。それ故、商品の価値との関係でいえば、ただ生産者自身の労働の社会的に規定された一定量が、彼自身の商品に対象化されるだけです。確かにここでは価値を生みだすことはできますが、決して剰余価値を生むことはできません。


 つまり、「商品生産者が流通部面の外部で、他の商品所有者と接触することなくして価値を増殖し、したがって、貨幣または商品を資本に転化するということは、不可能」(286頁)なのです。


 それ故「資本は流通から発生しない。そして同時に、流通から発生しえないというわけでもない。資本は同時に、流通の中で発生せざるをえないが、その中で発生すべきものでもない。」(289頁)という矛盾した結論にたどり着きます。これがこの第二節での結論です。


 ですからこの次の第三節では、この矛盾した命題を解くことが課題となります。


 すなわち、上記の矛盾した命題を、商品交換の内在的法則の基礎の上――つまり等価交換を前提にして――に解くことが課題となります。


 


 


主な質問・意見等


○「非等価交換ということが報告でもいわれテキストでも書かれているが、通常は不等価交換というようにいわれると思うが、違いはあるのか?」との質問がありました。


これにつては報告者から「岩波版だけでなく大月書店版もここでは非等価という訳になっている。たぶん訳の間違いというよりマルクスの表現がここでは非等価というようになっているのだと思う。非等価と不等価で内容的に違いはないと思うが、ここで非等価と言う表現を採用している細かいニュアンスははからない。内容的には同じことと考えてもらって言いのではないか?」と説明がありましたが、ここではこれ以上は議論になりませんでした。


○「葡萄酒生産者が40ポンドの自分の葡萄酒を50ポンドで売っても社会的に剰余価値は生まれていないということはどういうことか。商人などは自分が仕入れた商品を仕入れ価格より高く売ることよって利潤をえているが、それでは剰余価値の説明にはならないのか?」との質問が出ました。


 これについては「これではただ葡萄酒生産者Aただひとりが得をしただけで、彼がここで10ポンドの個別的剰余価値を取得したとしても、それは葡萄酒を50ポンドで買わされた人の10ポンドの損失の上になり立っているだけにすぎない。結局葡萄酒生産者のプラス10の剰余価値は、それは買った人のマイナス10の価値と相殺される。実際にこれは40ポンドと50ポンドの価値が非等価で交換されたわけで、交換前と交換後ではトータルの価値は90で変わらない。ただ分配がかわっただけで、テキストでいわれているように葡萄酒生産者Aが自分の商品を売るのでなくて直接に10ポンドBから盗んだのとかわらない。しかし資本というのは、どんどん価値増殖していくわけです。それは資本が非等価で誰かから“不正に”収奪しているというのと違うわけです。(もちろん内容的に資本と労働者の関係は、実質的に非等価?不等価交換で搾取が存在しているというのはその通りですが。しかしこれも単純な流通の問題ではないのです。)


流通過程で、流通の操作で仕入れた価格にマージンをプラスし転売することにより剰余価値を説明するとは不可能です。商品の売り手が価値より高い価格で売ることができても、それは名目的な物価上昇につながるだけで全体の価値関係では元の場合と変わりません。ここから剰余価値を説明しようと思えば、自らは全く消費せず商品を一切買わないでただ売り続けることができる階級を想定しなければなりません。


 第四章ではまだ扱われるべき内容ではありませんが、あえて言うと剰余価値というのは本質的に不払い労働であり、資本の労働者に対する搾取の結果です。ですがこうした資本主義的搾取のメカニズムは、それ以前の社会の暴力的支配関係に依存した直接的な搾取とは本質的に違うものです。私たちがこれから学ぶ資本主義的搾取のメカニズムは、あくまでも商品交換の等価交換の原則のもとに行われるものです。資本家と労働者の関係も、このブルジョア社会の原則の下、形式的には自由で対等な契約関係にすぎず、封建社会の農奴のように強制された関係ではありません。尚、労働こそが価値の源泉であるという労働価値説の立場からすれば、必然的に剰余価値の形成は、生産過程での労働者の生産的労働の搾取に求める以外ありませんが、先の例(葡萄酒生産者が40ポンド葡萄酒を50ポンドで売りつける例)や商業資本の立場からする商業利潤の根源を流通操作に求める場合は、流通から剰余価値を説明することになり、労働価値説とも矛盾することとなるばかりか、資本主義的搾取のメカニズムの秘密は完全に覆い隠されてしまいます。なぜなら流通過程から剰余価値を説明できるなら『資本論』のこの後の章から展開される資本の生産過程においてなされる資本主義的搾取のメカニズムは否定されることになります。


 直接に流通過程から剰余価値が説明しえないからこそ、やはりその秘密は資本の生産過程にあるわけで、労働価値説からもそうした説明が唯一正しいものということになるのだと思います。


 尚、商業利潤が商業資本などの商品の販売操作等(これらすべては流通過程上のもの)から発生するように見えます。しかし、これは資本家的分業関係から産業資本が生み出す剰余価値の一部が分配されているのです。生産的労働のみが価値の源泉だとすると剰余価値の創造もこれに求める以外ありません。そうなると産業資本のみが剰余価値を取得するということになりますが。しかし価値の創造、従って剰余価値の創造自体は生産にありますが、しかし、それを実現する為には商品を売ることが必要です。価値を生産してもそれを商品として売って実現しなければすれは無に帰します。ここに資本家的分業関係による産業資本と商業資本の分配関係の必然性があります。ここに商業利潤の発生の根源があります。つまり商業利潤という形での剰余価値の分配があるのです。


 それが、産業資本が生産した剰余価値の一部分であるという証拠は、仮にある商業資本が年間一億円商業利潤をあげたとしますこれが利潤として、(社会的)富として意味があるのは、この一億円で買うことができる物質的現物形態の富(社会的使用価値)がこの社会のどこかに生産されて存在している限りです。この一億円はこうした現物形態の富と交換可能な限りでそう言えるからです。人は誰も札束や金で空腹をしのぐことも衣食住の足しにすることもできません。おカネ、貨幣がカチだとか富だとか言えるのは、あくまでもそれにより生産された物質的な富をそれで買うことができるからであり、でなければそれを社会的な“富”だということは誰もできないでしょう。従って商業資本が生み出した一億円という貨幣額が社会的富を表しているといえるのは、それが表している現物形態の富があってのことなのです。商業利潤も産業資本が生み出した“富”の一部(剰余価値の一部分)にすぎないのです。」と説明がありました。

2019年1月22日 (火)

2018年12月23日学習会の報告

今回から、第四章「貨幣の資本への転化」に入ります。この日はそのうちの第一節「資本の一般定式」の冒頭(岩波文庫第1分冊252頁、国民文庫第1分冊257頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこの節の最後(岩波文庫第1分冊271頁、国民文庫第1分冊273頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

学習内容(報告)

 今回から、第二編「貨幣の資本への転化」に入ります。第二篇は、同名の短い章、第四章「貨幣の資本への転化」の一章のみで構成されています。これは、第一篇「商品と貨幣」の考察を受けて、第三篇「絶対的剰余価値の生産」以降から具体的に資本の生産過程が明らかにされますが、そのつなぎとして、その前段としての章構成になっています。

 この第二篇、つまり第四章の課題は、第一節で明らかにされた商品と貨幣の概念から資本という概念を論理的に導き出すことが課題とされています。テキストの中でもこの章の冒頭で「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。」(255頁)といっていますが、労働生産物が一般的に商品として現れるような社会と貨幣の存在は、資本が成立する上での論理的な条件でもあります。ここでの課題は、歴史的な条件ではなく、むしろ商品と貨幣の中から資本が生み出される論理的な必然性を明らかにすることにあります。

 私たちは、商品の流通式としてW――G――Wというものを既に知っています。これはある商品を売り貨幣に転化して、その貨幣をまた別の商品に変えるという商品の交換式です。いうならばこの式は買う為に売るということです。

 他方、貨幣で始まり、それを商品に転化し、最後のその商品をまた売り渡すという流通の形態G――W――Gという流通式があります。これは言うならば売る為に買うという行為です。これは貨幣に始まり、最後に再び貨幣を得る(すなわち目的が貨幣の取得)の為、この流通式は既に資本の流通式であるといわれています。

 しかしこの二つの流通式は、ともにW――G(売り)とG――W(買い)の二つから構成されており、どちらの取引も三人の取引者が介在するという点では同じです。ここで形態からわかる違いといえば、売りと買いの順番が違うということと、それぞれの目的が商品流通では異なる使用価値の交換が目的で、いうならばこの交換の目的は、目的の商品(流通式では後ろの方のW)を所得し消費することにあります。つまり最終的な目的はこの流通の外の過程(消費過程)にあるといえます。しかし資本の流通の方は、出発点も貨幣ですが終点も貨幣であり、つまりこの流通の目的は、貨幣の入手にこそあるということです。これは商品流通のように目的が流通の外にあるのではなく、まさにこの流通そのものが目的だといえます。

 流通W――G――Wでは、異なる使用価値の交換が目的ですから当然最初のWと後ろのWは、質的にことなるものです。しかし流通G――W――Gでは、運動の始点も終点も貨幣です。当然のことですが、交換価値としての貨幣は、質的には寸分も違いがありません。そうするとこの交換が意味をもつとしたら量的に差異がある場合のみです。それは、最後に還流して戻ってくる貨幣が最初に投じた貨幣よりもより増大した価値額の貨幣である場合のみです。すなわち資本の流通式では、後の方のGが最初のGよりも増大していなければならないのです。誰も投じた貨幣が、もし増大して戻ってこないなら自分の貨幣をわざわざ流通に投じる人はいないでしょう。少なくともここで貨幣所有者が貨幣を投じるのは、自分が買った商品を再び売ることにより、より大きな貨幣額として彼の手元に戻ってくるだろうという展望があるからでしょう。

 資本の流通では終点で戻ってくる貨幣は、最初に投じた貨幣より価値量が増大していなければなりません。故に先の資本の流通式は、正確にはG――W――G´(G´=G+⊿G、⊿Gは最初に前貸しされた貨幣の増加分、すなわち剰余価値)ということになります。

 このように資本に転化される貨幣とは、最初に前貸しされた価値額を流通の中で保存するだけでなく、その中で剰余価値を生み出しそれに付け加えるものです。こうして生み出される価値の増殖運動が、貨幣を資本に転化させるものです。

 そして特徴的なことは、この運動には終わりがないということです。なぜなら終点である貨幣は、同時にこの運動の新たな出発点(貨幣形態)でもあるからです。もしここで貨幣が引き上げられるとしたらそれは資本としての貨幣(資本に転化する貨幣)ではなく、ただの貨幣(退蔵貨幣等)になってしまいます。

 資本としての貨幣とは、この価値増殖の循環運動を続ける貨幣ということです。

 ところでこのG――W――G´は、一見商人資本に特有の形態に見えますが果たしてそうでしょうか?

 ここでは商人資本だけでなく一般的な資本の定式が問題になっているハズです。

 G――W――G´は、それは商人資本だけでなく産業資本にも当てはまります。自動車や鉄鋼などの産業資本も、資本として生産を始めるには、貨幣でもって生産手段等のあらゆる生産要素を商品として買うことから始まります。すなわち出発点は貨幣であり、その貨幣で生産要素を買い、新しく生産した商品を売り剰余価値を得るのです。そういう意味では産業資本もG――W――G´なのです。

 では銀行等の利子生み資本はどうでしょうか?

 マルクスは「利子付資本においては、流通G――W――G´は、簡略化されて、媒介のない流通の結果として、いわば簡潔文体で、G――G´として表される。」(271頁)といっています。これは別に言葉遊びではありません。利子生み資本は、その形態からみればおカネを貸して、そして貸した相手から元本に利子をつけて返してもらうわけだから貨幣が直接により増大した貨幣となって還流するという意味でまさにG――G´という形態なのです。しかしではこの利子の源泉は、どこから発生するのかというと根源は産業資本の生み出す剰余価値以外ではないのです。その意味で近代の利子生み資本は、それ自体が産業資本から派生してきたものでしかないのです(詳細はテキスト第三巻「資本主義的生産の総過程」第五篇「利子と企業者利得とへの利潤への分裂 利子生み資本」を参照)。

したがってG――W――G´は資本の一般定式なのです。

 

主な質問・意見等

「金が貨幣として機能するという内容だと思うが、それは金が価値をもっているということが前提になっていると思う。その場合に金の価値とは、それを産出するのに必要な労働量によってだけ決まるものなのか。例えば、金の希少性とか金をほしいと思う人の欲望とかは無関係なのか?」という質問がありました。

 これについては「基本的に金の価値の大きさは、他の商品と同じでそれを生産するのに必要な平均的な労働量の大きさで決まります。希少性については、いくら希少でもそれを獲得するのに労働が必要ないものはそもそも価値もありません。また欲望については、確かに使用価値として何らかの欲望の対象にならないと商品にはなりえませんし、そうした欲望の対象にならいものは、いくらそれを作り出すのに労働が支出されていても、価値物とはなりえません。そういう意味では無関係とはいえないかもしれませんが、だからといってそのものに対する欲望の大きさとかがその商品の価値の大きさに関わるということはないと思います。それは価値と使用価値の混同にすぎません。」とレポーターから説明があり了承されました。

○「ここでのテキストの説明は、金や銀あるいは金銀との兌換制の下という前提だが、これは現代の金との兌換が停止された現代にも当てはまるのか疑問がある。テキストで書かれている内容は、金との兌換がなされていた時代のことであり、歴史的な内容ではないかと思うがどうか?」という疑問が出されました。

 これについては「確かに現代では金との兌換が停止されていて、テキストでいわれていることを直接にはあてはめることはできない。そういう意味ではテキストの内容が歴史的なものだとも言えなくもない。しかし、現代の通貨のことや金融的な問題を考えるのにも、やはり資本論で展開されている内容は、貨幣論や金融論の最も基礎的な理論的土台であり、この理論的前提・理解なしには現代の問題も正しく理解することは不可能だと思う。例えば、現代に極めてありふれている通貨のインフレの問題なども、資本論でのように金であれば流通する貨幣量はきまっている。仮に金ではなく紙幣などの代理物であってもそれが流通する量は、その紙幣が代理している金量によって制約されるという流通法則を理解できなければインフレの問題は理解できないと思う。逆にこの関係を理解していれば、流通必要量に無関係に金融政策や財政事情で国家が紙幣を流通に人為的に無理やり押し込めば、流通必要金量を超えた分だけ紙幣価値が減価し、必然的にインフレにつながることが理解できる。だからテキストの内容もそれだけで直接現代の問題の答えになるわけではないが、しかし、そうした理解なしには現代の問題に正しく答えることは不可能だと思う。そういう意味で資本論は、古い時代の古典ではなく、現代の問題を考える上での土台、不朽の理論的原典だと思う。」と説明がありました。

2018年12月9日学習会の報告

第三節 価値形態または交換価値

A 「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の 二「相対的価値形態」の b「相対的価値形態の量的規定性」(岩波文庫第1分冊101頁~102頁、国民文庫104頁~106頁)

これまで価値形態を考察するにあたっては、量的な面からは離れて考察してきました。商品Aは自らでは自分自身の価値を表現できないので、他の商品BによってAの価値を表現するということを学びました。しかし、今回からは量的な側面にも入っていきます。商品は量的な面なしには取引はありえません。ある量の商品がどれだけの量の商品と交換されるのかは、重要な問題です。そして、お互いの商品の分量を決めるのは何でもって決められるのかという点に入っていきました。亜麻布20エレ=上衣1着 の等式で考察していきます。なお、ⅠとⅡは前回の学習箇所です。

.亜麻布の価値は変化するが、上衣価値は不変である場合

 例Ⅰ. 亜麻布の生産に必要な労働時間が2倍になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣2着

 例2.亜麻布の生産に必要な労働時間が二分の一になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣1/2着

亜麻布の相対的価値、すなわち上衣で表現された価値は、上衣の価値を同一としても、亜麻布の価値に正比例して上昇したり低下したりする。

.亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化する場合

 例Ⅰ.上衣の生産に必要な労働時間が2倍になった場合

    亜麻布20エレ=上衣1着  亜麻布20エレ=上衣1/2着

 例2.上衣の価値が半分に低下した場合

    亜麻布20エレ=上衣2着

亜麻布の価値を不変としても、上衣で表現されるその相対的価値は、上衣の価値変化と反比例で、低下したり上昇したりします。

Ⅰ及びⅡの項における各項の場合を比較すると、次の様な結果となります。

 相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てきます。

それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または上着の価値が1/2にていかしたのかによります。さらには(2)亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てきます。これは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからです。

.亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもあります。この場合には、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着です。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上昇または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまります。

.亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、それらの価値は同時に同一の方向に変化するとしても、同じでない程度でとか、または反対の方向にとか、その他様々な仕方で変化する場合があります。一商品の相対的価値に対する、この種のあらゆる可能なる組み合わせの影響は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの場合の応用によって明らかとなります。

2018年12月 6日 (木)

2018年11月25日学習会の報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」c「世界貨幣」の第4パラグラフ「その国内流通にたいすると同じように、・・・」(岩波文庫第1分冊252頁、国民文庫第1分冊243頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からc「世界貨幣」の最後まで「・・・または商品変態の流れの中断を示すものである。」(岩波文庫第1分冊254頁、国民文庫第1分冊255頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

c「世界貨幣」第4パラグラフ~最終パラグラフ学習内容

 貨幣は、世界市場においては、金や銀の地金(じがね)形態、すなわち現物の形態という形で機能します。ここでは、国内流通におけるように、鋳貨や価値標章(紙幣等)などの金や銀の代理物では機能しません。ではこうした世界貨幣として流通に出ていく金や銀はどこから供給されるのでしょうか。それはそれぞれの国内で蓄積された退蔵貨幣(の貯水池)から出ていきます。そういう意味では、各国は常に世界市場の為の準備基金を用意しておく必要がありますが、これはそれぞれの国内に蓄積された退蔵貨幣(貯水池)がその機能を果たします。この退蔵貨幣は、一国内においては、その国の国内流通における流通手段および支払手段の量を供給調整するプールとして機能するものであり、またこれが国際的取引においての債権・債務額の決済手段や国際間の富の移転等の為の世界貨幣の供給プールとしても機能するものです。

 こうして世界貨幣として機能する金銀の流れを見ると二つの流れがあります。一つはその源泉、つまり金銀の原産国から世界市場に入っていき、非産出国の国内流通にも入っていくという流れです。この場合、金銀の源泉、例えば鉱山から金銀が、その国の国内流通に入っていくところから始まりますが、それはまず金銀が一つの商品(生産物)として他の生産物と交換されることから始まります。この段階では金銀もあまたある商品の一つとして交換されるのです。もう一つは、「為替相場の不断の振動につづく運動」(253頁)において各国間を流れていく動きです。世界貨幣は国際的な貿易等の決済の支払手段として機能するとこれまでいってきました。しかし、これは取引ごとにその都度その都度で差額を決済し貨幣を支払うということではありません。基本的には国際的取引においては、それぞれの国の貨幣の代理物である為替で取引されます。例えば、日本とアメリカの間では円為替とドル為替での取引きとなります。ここで貿易に差額が生じても、すぐに世界貨幣である金で差額が決済されるかというとそうではありません。基本的には、円とドルの為替相場が金平価――これは円とドルのそれぞれの金との交換比率によって決まるものです。金との兌換が保障されていれば、それらは国内法により規定されています。例えば、戦前の日本では1円=金0.75gなど。――から金現送点(直接金を送金すればそのコストがかかりますのでそのコストを考慮して、その範囲内を超える場合にはじめて金の現送がなされます。)の範囲内であれば引き続き為替での取引が行われますが、これを超える場合には、債務国から債権国側へ金が現送されるという仕組みで行われていました。為替相場も売りと買いの関係で相対的に変動するものですが、この相場が金平価プラスマイナス金現送点の範囲内であれば、金は出動せず、それを超えれば当該国間の貸借を決済するものとして金(世界貨幣)が出動していたのです。逆にいえば、こうして世界貨幣としての金による機能は、国際的な為替相場を一定の範囲内に収めるメカニズムを内在しており、為替相場の安定に寄与していたということです。――このあたりの説明は、テキストでは全く触れられていません。また当日のレポーターの説明もここまで詳しくは説明していなかったものですが、世界市場における金銀の動きと「為替相場の不断の振動につづく運動」との関係が具体的にどういうことか分かりにくい為に捕捉して説明を行いました。

 発達した資本主義的諸国においては、大量の退蔵貨幣はその多くは銀行の金庫内に各種の準備金として存在していますが、それは結局、国内において供給される支払手段や流通手段を過不足なく供給するためやあるいは国際的な債務の決済としての準備金としての必要とされる最小限度の量に制限されています。それゆえ、例外はあるが、必要以上に退蔵貨幣が目だってあふれているということは通常はありえません。もしそういうことがあれば、それは「商品流通の梗塞」または「商品変態の流れの中断」すなわち流通面において何らかの問題が起きているということを示しています。

 

主な質問・意見等

「金が貨幣として機能するという内容だと思うが、それは金が価値をもっているということが前提になっていると思う。その場合に金の価値とは、それを産出するのに必要な労働量によってだけ決まるものなのか。例えば、金の希少性とか金をほしいと思う人の欲望とかは無関係なのか?」という質問がありました。

 これについては「基本的に金の価値の大きさは、他の商品と同じでそれを生産するのに必要な平均的な労働量の大きさで決まります。希少性については、いくら希少でもそれを獲得するのに労働が必要ないものはそもそも価値もありません。また欲望については、確かに使用価値として何らかの欲望の対象にならないと商品にはなりえませんし、そうした欲望の対象にならいものは、いくらそれを作り出すのに労働が支出されていても、価値物とはなりえません。そういう意味では無関係とはいえないかもしれませんが、だからといってそのものに対する欲望の大きさとかがその商品の価値の大きさに関わるということはないと思います。それは価値と使用価値の混同にすぎません。」とレポーターから説明があり了承されました。

○「ここでのテキストの説明は、金や銀あるいは金銀との兌換制の下という前提だが、これは現代の金との兌換が停止された現代にも当てはまるのか疑問がある。テキストで書かれている内容は、金との兌換がなされていた時代のことであり、歴史的な内容ではないかと思うがどうか?」という疑問が出されました。

 これについては「確かに現代では金との兌換が停止されていて、テキストでいわれていることを直接にはあてはめることはできない。そういう意味ではテキストの内容が歴史的なものだとも言えなくもない。しかし、現代の通貨のことや金融的な問題を考えるのにも、やはり資本論で展開されている内容は、貨幣論や金融論の最も基礎的な理論的土台であり、この理論的前提・理解なしには現代の問題も正しく理解することは不可能だと思う。例えば、現代に極めてありふれている通貨のインフレの問題なども、資本論でのように金であれば流通する貨幣量はきまっている。仮に金ではなく紙幣などの代理物であってもそれが流通する量は、その紙幣が代理している金量によって制約されるという流通法則を理解できなければインフレの問題は理解できないと思う。逆にこの関係を理解していれば、流通必要量に無関係に金融政策や財政事情で国家が紙幣を流通に人為的に無理やり押し込めば、流通必要金量を超えた分だけ紙幣価値が減価し、必然的にインフレにつながることが理解できる。だからテキストの内容もそれだけで直接現代の問題の答えになるわけではないが、しかし、そうした理解なしには現代の問題に正しく答えることは不可能だと思う。そういう意味で資本論は、古い時代の古典ではなく、現代の問題を考える上での土台、不朽の理論的原典だと思う。」と説明がありました。

2018年11月4日学習会の報告

今回は、第3節「価値形態または交換価値」A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の2「相対的価値形態」のa「相対的価値形態の内実」の第6段落「だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。…」~第11段落「商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。」(岩波文庫第1分冊97頁~98頁。国民文庫第1分冊101頁~102頁)とb「相対的価値形態の量的規定性」1段落「価値の表現せらるべきあらゆる商品は、…」~第5段落「それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上着の価値が二倍にのぼったからである」(岩波文庫第1分冊98頁~101頁第5段落。国民文庫第1分冊102頁~104頁)。までを学習しました。

 

 商品価値が抽象的な人間労働一般という特殊な性質であるというだけでなく、商品を生産する人間労働は価値を形成するものの、価値ではないと言われています。しかし、価値を形成するのに価値ではないとはどういうことなのでしょうか? では、いつ価値となるのでしょうか? 10月の学習で、ある商品が自らの商品価値を自らでいくら表現しても、誰からも認めて貰えないので、自らとは異なる相手商品の力を借りるしかありませんでした。すなわち、相手商品によって自らの価値を表現して貰うということでした。結局、価値・価値量の表現=価値であるという表現は、自らと同量の労働時間によって生産されている他の商品によって表現して貰うしかないということです。ですから「人間労働は価値を形成するが、価値ではない。対象的な形態で価値となる。」と言われているのです。すなわち、亜麻布は亜麻布と同量の労働が費やされている上衣を同等のものとすることによって、自らの価値を上衣で表現させました。このような価値関係によって、商品上衣の自然形態は、商品亜麻布の価値形態となります。つまり商品上衣が商品亜麻布を映し出している、価値鏡となるのです。商品亜麻布が商品上衣を価値体・人間労働の体化物として、関係することによって、商品亜麻布は、商品上衣を自らの価値表現の材料とするのです。そして、商品亜麻布の価値は、このように商品上衣の使用価値で表現されて、相対的価値の形態を得るのです。

二つの商品で表わされる価値形態には、価値の大いさをも表現しなければなりません。価値を表現するすべての商品には、亜麻布20エレ=上衣1着というようにその商品の量があります。この亜麻布20エレ=上衣1着といった方程式には、1着の上衣の中にまさに20エレの亜麻布の中と同じだけの量の価値実体・人間労働が加えられている、あるいは同一の大いさの労働時間がかけられていることを前提としています。

亜麻布や上衣の生産に必要な労働時間は、全く変化しないものではありません。機械や裁縫の生産力における一切の変化とともに変化します。次にこのような変化の影響が、相対的表現にどのように影響するかを見てみます。

.亜麻布の価値は変化するが、上衣の価値は不変であるばあい。

 亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊土の減退の結果、二倍となった場合、その価値は二倍となります。亜麻布20エレ=上着1着のかわりに、亜麻布20エレ=上衣2着となります。これは、1着の上衣は、今では20エレの亜麻布の半分だけの量の労働時間を含むにすぎないからです。

これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下します。こんどは、亜麻布20エレ=上着二分の1着となります。亜麻布の相対的価値、すなわち上着に表現された価値は、このように、上衣の価値が同一としても、亜麻布の価値に正比例して上騰したり、低下したりします。

 Ⅱ.亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化する場合。上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截が不便となったために、二倍になったとすれば、亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣二分の1着という式を得ます。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上着2着という式を得ることになります。したがって亜麻布価値を不変としても、上衣で表現されるその相対的価値は、上衣の価値変化と反比例で、低下したり上騰したりします。

   ⅠおよびⅡの項における各種の場合を比較すると、次の様な結果が生じます。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、まったく相反した原因から発生しうるということです。すなわち、亜麻布20エレ=上着1着という式から(1)亜麻布20エレ=上着2着という方程式が出てきます。それは亜麻布の価値が二倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによります。さらに、(2)亜麻布20エレ=上衣二分の1着という方程式も出てきます。それは亜麻布の価値が半分に半分に低下したのか、または上着の価値が二倍にのぼったからです。

2018年11月 6日 (火)

2018年10月14日学習会の報告

第3節「価値形態または交換価値」の第1段落「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。…」~第4段落「したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品に対してもっとも単純な価値表現を与えている。」(岩波文庫第1分冊88頁~90頁)(国民文庫第1分冊92頁~94頁)とA「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の1「価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態」の第1段落「一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。…」~第5段落「…それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。」(岩波文庫90頁~92頁)(国民文庫94頁~96頁)と2「相対的価値形態」のa「相対的価値形態の内実」の第1段落「どういうふうに一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出してくるためには、…」~第5段落「…すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。」(岩波文庫第1分冊92頁~95頁。国民文庫第1分冊96頁~99頁)を学習しました。

 

以下は学習会の報告です。

 

 第1節と第2節では、個別の商品の使用価値と価値、商品を生産する労働について学習してきました。第3節からは、資本主義社会における商品と商品の交換について学んでいきます。ここでは二つの商品の価値関係(価値形態)とそれぞれの商品(相対的価値形態と等価形態)が果たす役割について述べられています。

 

自然形態の使用価値が商品であるのは、ひとえに使用対象であると同時に価値保有者であるからです。これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつ限りにおいてのみ、商品として現われます。諸商品が価値保有者であるかどうかは、見ても触れても分かりません。しかし、商品価値が人間労働一般の支出を表わしているということであるなら、それは何らかの方法で表現され、確認されることになります。ところが商品は自分自身では、価値保有者であり、どれだけの価値をもっているかを表現できないのですから、第三者によって表現されるしかありません。それは自身と交換される相手商品によって表現されることになります。このことによって、初めて商品Aは商品Bによって、価値鏡によって自身を表現できるのです。

 

では、商品Aと商品Bの価値関係における価値表現を見ていきます。 

 

X量商品A=Y量商品B (亜麻布20エレ=上衣1着) の等式において、商品Aと商品Bにはそれぞれに違った役割があります。自身の価値を表現したい左辺にある商品Aの価値は、相対的(相手によって)に表わされているので、相対的価値形態にあると言われます。一方、右辺にある商品Bは、ただ商品Aの価値を表現するための材料としてあるだけで、商品B自身そのものの価値は表現していません。このような方程式においては、同一の商品は同時に両形態に現われることはできません。二つの異なった商品によって、価値表現が成されるということです。このことをもう少し詳しく見ていきます。

 

まず、二つの異なった商品を同一単位の表現としなければなりません。それには二つの商品が固有にもつ使用価値、有用労働を捨象して、残った同じ性質のもの、すなわち抽象的人間労働という性格に整約します。そして、一商品の価値表現を行うために、二つの商品には異なった役割を与えます。

 

ここでは、左辺の商品A・亜麻布の価値のみが表現されます。それは、亜麻布と等しい、亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣と関係することによってです。この関係において、上衣は価値の存在形態、価値物となります。なぜなら、このような関係においてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからです。そして、亜麻布自身が価値あるものであると表現されます。

 

商品にその自然形態と違った価値形態を与えるには、一つの商品そのものからでは価値形態を与えることはできません。二つの商品のうち、価値を表現したい商品と価値を表現する材料となるもう一方の商品があってこそです。

 

2018年9月23日学習会報告

今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第8パラグラフ「今、与えられた期間に流通している貨幣の総額を考察すると・・・」(岩波文庫第1分冊242頁、国民文庫第1分冊244頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第10パラグラフ「・・・。その狭い経済的存立諸条件は解消されるであろう。」(岩波文庫第1分冊245頁、国民文庫第1分冊247頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

b「支払手段」8パラグラフ~10パラグラフ

 商品流通に際して、ある一定期間に流通する貨幣量はどれくらい必要となるのでしょうか?

テキストでは「流通手段と支払手段の流通速度が与えられているばあいには、それは、実現されるべき商品価格の総和プラス期限のきた支払いの総和マイナスお互いに相殺される支払、最後に、マイナス同一個貨が交互に、あるときは流通手段として、あるときは支払手段として機能する流通量」(岩波文庫242頁)となるといっています。

 以前「流通手段」の項目の際には、流通手段の流通量は、基本的に実現されるべき商品価格の総和(総額)により規定され、それは流通手段の流通速度により変化しうるものだから、結局、実現されるべき商品総額を流通手段の流通速度――一定期間内で同じ貨幣片(岩波訳で同一個貨と同義)が何度商品交換を媒介するか、その回数、回数が多ければそれだけ流通速度が速いということになります――で割った商が、実際に流通する流通手段量ということになるというのを学習しました。

 実際の商品取引は、取引ごとにその等価として貨幣が支払われるものではありあません。資本主義的商品流通を考えれば、小口の取引はともかく、ここでのように取引ごとに貨幣が支払われるよりも、ここでのような掛け売り・掛買いの取引が登場してきて、こちらの方が支配的になってきます。

 ですから現実に商品流通の中で必要となる貨幣量を考えるには、流通手段のみではなく、支払手段も含めて考えなければなりません。

 基本は、与えられた期間内に実歳に取引される商品価格の総額――①とする――やはり規定的な要素ですが、しかし、今度は現在(この期間内に)取引される商品のみではなく、過去、すなわち当該の期間以前に取引されて、貨幣での決済が済んでおらず、この同じ期間内に支払い期限が来る支払総額――②とする――をプラスして、かつ支払手段の場合には相互の債権・債務が互いに相殺されるものもありますのでこの相殺分を考慮する必要があります。すなわち先の合計額からこの相殺される金額――③とする――を引かなければなりません。そしてこうしてえられた金額を最後に、同一個貨=同一の貨幣片が、時には流通手段として、時には支払手段として機能する回数分の金額――④する――を引いたものが、現実の貨幣の流通量となります。すなわち貨幣流通量=[①の商品総額]+[②の支払総額]-[③の債権相殺額][④の同一貨幣片が機能し、商品価格実現する総額]ということになります。

 こうしてみると一見流通する貨幣量は現実の商品取引総額に無関係に見えますが、やはり実際に流通する貨幣量の第一の規定的要因は、取引される商品量とその総額であるということだと思います。

 テキストも言うとおり「一期間の中に通用する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致し」(242頁)ません。なぜならそれは商品流通が商品取引と貨幣の支払いが対になった素朴な状態から発達してこの二つが時間的に分離された形態が必然となるにつれて「流通からとっくに脱却している商品を代表する貨幣」もあればその逆にまだ支払いわれていないために「その貨幣等価」が「将来になってやっと現れてくる商品も、流通通している」からです。

 

 これまで支払手段の機能を見てきました。ここでは商品の譲渡とその貨幣での支払いが時間的に分離されています。つまり貨幣は、商品の譲渡の際にはただ買い手の支払約束としてあるだけです。ここで単なる支払い約束ではなく債権・債務関係とその履行を確約させる書面が買い手から売り手に一種の債務証券が渡されるとします。この債務証券自身が再び債権の移転の為に流通するようになると、これは広義での信用貨幣――マルクスは狭義の信用貨幣は銀行券だといっていますので、ここでは区別しています――となります。こうした商業手形の登場が、ここでいう広い意味での信用貨幣の誕生ということになります。こういう意味において「信用貨幣は、直接に支払手段としての機能から生ずる」(243頁)ものだといえます。

 また商品生産が発展してくると、貨幣の支払手段としての機能も商品流通部面を越えて浸透していき、それまで現物納付だった地代や租税の支払いについても貨幣支払いへと転化させていきます。こうした地代や租税等の現物形態から貨幣形態への転化は、それまでの封建社会やそれ以前の遅れた社会の生産諸関係を織り崩していくものとなっていきました。

 

主な質問・意見等

「第8パラグラフでマルクスが貨幣の流通量について考察して述べていることの意義がわからない。ここで述べられていることがどういう意味を持ってくるのか?」という意見が出されました。

これについては報告者より「貨幣数量説的な見解、貨幣の流通量(数量)が商品の価格を決めるのだという俗流観念を批判する意義があると思う。貨幣の量が価格を決めるという考えは、商品の価格を純粋に相対化する観念だと思う。結局、商品価格を根底で規定する労働価値説、労働時間による価値規定を否定するものにつながると思う。マルクスの立場では、この根底(労働による価値の規定)から貨幣の問題にも接近していて、それこそが正しい立場だと思う。

 貨幣の量の問題でも、貨幣数量説のように貨幣の量と商品の量により価格が決まるというような純粋に相対的な関係に還元してしまい、商品も貨幣も価値を持たないというような考えだと貨幣の数量が価格を決めるというような転倒した考えになると思う。

 すべての商品の価値が、それを生産するのに必要な労働時間により、流通に入る前に与えられている。そして貨幣の価値も、金や銀としては、それを生産する労働時間により、流通に入る前に与えられている。そして価格とは、商品の価値を、貨幣(金、銀等)のどれくらいの量に相当するかという形、すなわち貨幣量で表現したものだとしたら、当然流通する貨幣の量というのは、商品の価格総額によって第一に決まってくる――もちろん他の要因、貨幣の流通速度等もあるが、第一の規定的要因は実現されるべき商品格総額だということ――のではないかと思う。こうした労働価値説の根底から実際に流通する貨幣の量の問題も考えることができる、というよりそうことこそ正しい方法だということを示しているのがここでの意義ではないか。」との回答がありました。

 

○第10パラフラフに関して「地代や租税等の現物形態から貨幣形態への転換が、近代以前の社会に対して作用し、その生産諸関係をも掘り崩していったというが、それは具体的にどういった形の生産関係が、貨幣形態での支払いによりどのように堀崩されていったのか説明してほしい」との要望がありました。

 これにつては、報告者から「あまり細かいことは分からない。私の知識の範囲では、日本では幕末になると農村部内で経済的な格差ができて貧しい層は、土地を失い豊な上層農民の小作のような地位に没落していった。ここで農村内部において階級分解が生じ、封建領主と農民という封建社会にこうした生産関係を掘り崩す新たな生産関係が徐々に形成されていったということがあったが、この下層農民の没落の要因の一つとして地代の貨幣形態への転換があったように記憶している。これに似たようなことは西洋でもあったともうが、あまり具体的には分からない。次回まで調べてあらためて説明したい。」とありました。

 

2018年9月11日 (火)

2018年8月26日学習会の報告

 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」b「支払手段」の第5パラグラフ「流通過程の一定の期間を見ると、・・・」(岩波文庫第1分冊239頁、国民文庫第1分冊241頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から第7パラグラフ「・・・。貨幣飢饉は、金で支払われようと、信用貨幣で支払われようと、かまってはいない。」(岩波文庫第1分冊241頁、国民文庫第1分冊243頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の報告内容です。

 

前回からの課題第4パラグラフの解釈について

 4パラグラフで問題になっている取引は、このb支払手段で扱われている商品の譲渡と支払いが時間的に分離されている、つまり貨幣は後から支払われる形のものです。一般的な商品の流通で考えると,第一節商品の変態で述べられているようにW――G――Wという形です。ここでは前半のW――Gが商品の第一の変態であり、それに続く後半のG――Wが第二の変態ということになります。

 しかし、ここでの場合、まず商品の買いが、商品の譲渡の際にはただ買い手の支払い約束としてあるだけで実際の貨幣での支払いはありません。すなわち本来なら彼は、買う前に、まず自分の商品を売って貨幣を入手していなければならない――通常はそうでないと買うことができない――のですが、売る(第一の変態)ことなしに、あるいはその前に買う(つまり第二の変態)を行っているのです。

 ここの冒頭の「買い手は貨幣を商品に再転化させる」(238頁)というところのここでの貨幣は、買い手の支払い約束ということです。単なる支払い約束といえども、ここでは観念的に計算貨幣として機能し商品価格が決められ、すなわち買い手の債務額、つまり売り手にとっての「貨幣に対する私法的な請求権」(238頁)=債権額が決定しているのです。つまりここでは買い手は将来の貨幣により、それを商品に転化していということです。

すなわち、買い手は、第二の変態をたちまち彼に支払い約束の下、いうならば将来の貨幣により、まず行うのであり、そしてそのあとに彼は自分の商品を売ることにより貨幣を手に入れ、それを先に買った商品の代金として支払う――「第一の変態の完遂は、後になってはじめて続く」――のです。

 第一の変態の前に第二の変態を行っているというのは、一見奇異に見えます。しかし、ここでの商品の買い手にとっても、結局自分の持っている商品を、自分が欲しいあるいは必要とする商品、使用価値へと交換したのであり、本質はW――W商品と商品の交換、相異なる使用価値どうしの交換です。ここでは流通手段として貨幣が登場することはありませんが、やはり貨幣は、ここでもこの商品交換を成り立たせる必須の条件として存在しているのだと思います。ですから支払手段の場合も、W――G――Wという関係が本質的なものなのであり、これが土台としてあるということではないでしょうか。

 

主な質問・意見等

○参加者より「これと逆の場合、商品の譲渡の前に支払いがなされる場合はどうなのか?その場合、貨幣は支払手段といえるのか?」との質問があり、これをめぐって議論がありました。他の参加者からも「それは、ここでのような信用取引とは違うのではないか?」「いや、先物取引のようなものはかなり古くからあるがそのようなものではないか」との意見がありましたが、結論的には「ここでの注八九に書かれてあることが、まさにこのことだろう。ここでは商品の譲渡の前に貨幣が支払われても、それは信用ということではなく、単なる購買手段として機能したということだといっている。」という発言があり解決されました。

 

◎b「支払い手段」第5パラグラフから第7パラグラフ

 商品の取引が発達してくる中で、商品の取引と貨幣での支払いが時間的に分離され、支払いが後からなされるようになってくると貨幣は、支払い手段として機能します。ではこうした取引に対してそれを決済する支払手段の量は、どのようになるのでしょうか?

 まず支払われなければならない総額は、期限がきた債務の総額ということになります。しかし、実際に支払われる貨幣は、この金額と同じではありません。なぜなら例えばAからBへ100の取引があり、またさらにBからCへと同じく100の取引が連鎖していく場合、この場合取引額の合計は200ですが、それを支払う貨幣は100で済むからです。この場合は、流通手段の場合と同じです。

支払い手段の場合、流通手段のときと異なる要素は、支払期限の問題です。この支払い期限の長さが支払い手段としての貨幣の流通のスピードに影響してきます。

つまり支払い手段の量は、支払期限のきた取引総額によってまず第1に規定されますが、その他にもその流通速度により必要となる支払い手段の量が決まってきます。基本的に取引の連鎖が、多くなればなるほど支払い手段の流通速度も速くなり、それだけ節約されることになります。ただ支払い手段の場合、支払期日が来れば、それは貨幣が支払い手段として実際に支払われなければなりませんから、支払手段としての流通速度にはこの支払期限の長さが影響してきます。

あとこのほかに、支払い手段の場合は、取引が連鎖していない場合、同時並行的な取引においてもそれらの債権と債務が相殺されることによって貨幣が節約されます。これは流通手段の場合では、商品の取引が連鎖していない場合――連鎖している場合は、同一貨幣片がそれらの取引を何度も媒介します――は、取引ごとに貨幣が必要となり、貨幣の節約は不可能です。

 例えば、それぞれ同時並行的な取引で相互に連鎖していない場合でもAのBに対する,BのCに対する、CのAに対する等々の債権は支払時期と取引所が同じであれば、相互に相殺することができます。こうして実際に、支払い手段として支払われなければならない貨幣の量は節約されます。この点は、流通手段の場合と大きく異なる点であり、流通手段の場合は、こうした同時並行的な取引では、取引の連鎖がない為、貨幣は取引のその都度必要となりますが、支払手段の場合はむしろその節約の新しい槓杆となります。

 またここでマルクスは「支払手段としての貨幣の機能は、媒介なき矛盾を含んでいる」(240頁)といっていますがこれはどういうことでしょうか?

 流通手段としての貨幣の場合は、それは直接に商品流通を媒介するものであり、またそうした機能を果たす限りで流通手段です。しかし、支払い手段としての貨幣は、それ自体は商品流通を媒介せず、むしろ最後に支払われる形で商品流通全体を閉じて終わらせる役割を担っていますこうした貨幣が支払い手段として最後に出動する際には、それは「絶対的商品」すなわち直接に価値一般として通用するものとして現れなければなりません。このことは、経済が順調に進み、商品流通が順調な場合には、諸支払いも相殺され問題なく進行します。しかし、ひとたび貨幣恐慌が起こるとこれらの諸支払いは、相殺不可能となり、むしろ即時の貨幣での支払が求められるようになります。こうした貨幣恐慌場面での、貨幣支払いの要求は絶対的なものとなり、ここでの矛盾は何ら媒介されえない――つまり現物の貨幣を支払うこと以外に何らの代替手段もないものとなります。

商品生産が発達し、こうした一種の信用取引も活発に行われようになると、現実の貨幣での支払が求められることは少なくなってきます。こうした取引では、むしろ貨幣より、商品の取引の方が社会的に重要視――「商品こそ貨幣だ」(240頁)――されます。しかし、貨幣恐慌の場面では、貨幣こそが求められるようになります。すなわち今度は、「貨幣こそ商品となった!」(240頁)ということです。

 

 

主な質問・意見等

○第7パラグラフに関連して注九九で「一般的な生産および商業恐慌の特別の段階として規定されている貨幣恐慌」と「同じように貨幣恐慌と名付けられている特殊な種類の恐慌」を区別すべきといっているが、この二つの違いはどういうものか?との質問がありました。これについては、報告者より後者の特殊な恐慌としての貨幣恐慌は、通常の恐慌のように産業面の恐慌を土台としてそれが流通に波及し、さらに金融的な部面に波及し現れてくるというものではなく、生産、流通部面から独立して現れるような貨幣恐慌だと思う。」との説明があり参加者より「最近では、リーマンショックがそれに相当するものではないか。リーマンショックは、サブプライムローンという金融商品を端に発生して、そこから金融面全般に広がっていったが、産業面など生産部門には深刻な打撃はなく、もっぱら金融的なものだった。そういう類のものではないか?」など捕捉説明があり、みなさん納得がいったようです。

 

(檀上)

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