2018年4月 6日 (金)

2018年3月18日学習会の報告

この日は、学習会は中止にし、今後の「通常講座」の具体的な内容について話し合いましたので、その内容とその後の決定についてお知らせします。

「これからの「通常講座」の開催についてですが、当初、報告者・檀上の仕事の都合で、3月でもって終了するということを提案させていただき、一度は2月25日の「通常講座」で参加者の方の了承も得て、そのようにする予定でした。しかしその後、再検討しまして報告者自身も第3章「貨幣または商品流通」の途中で終わるのは内容的にも中途半端であり、やはり資本論の第1巻の理論的中核としてある第1篇「商品と貨幣」はせめて終わりたいとの思いもあり、第1篇終了まで、つまり第3章の最後(第3章第3節「貨幣」のc「世界貨幣」)までは実施することとしました(この点については、前回の『資本論を読む会』便り・第53号で報告した通りです)。

ですが、これまでと全く同じやり方では何ら変わることが無いので、どのような形にするかを検討しました。3月18日の「通常講座」で「通常講座」を毎月ではなく、隔月で行うという提案をしましたが、参加者の方から「レジュメが無くとも良いのでこれまでと同様に毎月の講座としてやって欲しい」との強い要望が出されまして、これまでどおりに毎月第4週におこなうということにしました。そこで、「通常講座」の具体的な内容を考えてみました。

「通常講座の今後の内容について。報告者はこれまでのようなテキストの段落に対応した詳細なレジュメはつくらず、その代わりとして毎回、テキストの学習範囲の要点について、簡潔にまとめたレジュメを提出します。やり方としては、最初に報告者より学習範囲の要点を簡単に報告し、そのあとはこれまで通り輪番でテキストを参加者の方に読んでもらいます。そして読んでもらった後、その段落の簡単な説明(疑問点や感想でも結構です)をしてもらいます。そのあと討議を全体で行う形にしたいと思います。また各項目(たとえば第3章第3節ではa「貨幣退蔵」b「支払い手段」c「世界貨幣」と3項目あるのでそれぞれ)が終了した際には、復習を兼ねて最後にまとめという形で簡単なレジュメを用意し、報告者より説明するという形でしっかりとポイントはつかめるようにしていきたいと思います。以上のような形で、今後の「通常講座」をやっていきたいと思いますのでご了承いただきたいと思います。この新しいやり方は、2018年5月からとさせていただき、4月については従来通りのやり方で行います。尚、この度、私の都合で「通常講座」の開催について、二転三転しましたことをお詫びいたします。」

2018年3月11日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第1段落~第4段落。

今回から「資本論」テキストに入りました。冒頭でマルクスは「われわれの研究は商品の分析をもって始まる」と言っています。しかし「資本論」と言う表題であるのに、まずは資本を分析せずにどうして商品から分析しているのか? という疑問が起こります。われわれが生活する社会における労働生産物はほとんどが商品として現われます。衣食住のほとんどを自らが作り出すのではなく、他人の労働生産物で賄っています。この社会では、多くの成員の労働なくしては個人の成員の生活は不可能になっています。商品として現われている、他人が作った労働生産物は自らの労働で得た賃金と交換して生活しています。

自給自足と異なり、他人の労働生産物である商品を自分の労働で得た賃金と交換するというのは、賃金を介在しているものの、生活に必要な商品を自らの労働と交換しているということです。これは、分業が発達して、巨大な商品群がますます社会の隅々にまで行き渡り、商品を手に入れることなくしては一日たりとも生活が成り立たない社会に在るということです。こういった社会の労働生産物は、自らのための労働生産物を自らが生産するのではなく、他人のための商品、全体の一部を生産する、分割した生産、分業が主流となります。資本主義的生産は競争に拍車をかけ、機械をはじめとする生産力のたゆまぬ発展を推し進めます。機械を始めとする生産時間の短縮は、携わる労働者の労働時間の短縮に直接繋がらず、機械に繋がれた労働者と多数の産業予備軍・失業者を生み出します。

マルクスが商品の分析から始めているのは、資本主義社会ではすべての労働生産物は商品として現われているゆえに、商品の分析をもって始めると言っています。では、資本とはどういう関係があるのかです。そもそも、資本とは何かです。一般的には、土地、工場、機械・原料、(お金、商品)と言われますが、これらの物はこれ自体ではただの土地であり、工場であり、機械・原料等々でしかありません。これらが資本となるにはこれらから労働生産物を生み出す労働力が必要です。この労働力を駆使して労働生産物を生み出し、販売することで、資本は資本となり得るのです。資本である土地や工場や機械・原料や労働力もすべて商品として現われています。故に、資本を分析する前に、まずもって商品を分析しているのです。

 

・テキストの第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」に入りました。今回は「使用価値」について学びましたが、「使用価値」そのものではこれと言った意見・疑問は出ませんでした。しかし、「使用価値」は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的な内容を持っているということ。そして、「使用価値は」同時に、次回から学習する「交換価値」の素材的な担い手であるということを確認したいと思います。

 ・次回の学習課題である「交換価値」「価値」がある・なしは何をもっていうのかと言った疑問も出されましたが次回からの学習会で検討したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

2018年3月 8日 (木)

2018年2月25日の学習会の報告

今回は、テキストの第1巻第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のb「貨幣の流通」の第8パラグラフ「したがって、この前提のもとでは、流通手段の量は・・・」(岩波文庫第1分冊208頁、国民文庫版第1分冊210頁、訳文は岩波版のもの)からb項目の最後(岩波文庫218頁、国民文庫220頁)までを学習しました。

 以下は当日の学習内容の報告です。

 

主な報告内容

 このb項目「貨幣の流通」の中盤から後半は、一国内においてどれだけの流通手段(貨幣)が必要となるかということが問題になっています。

 前回みたように流通手段として機能する貨幣の量は、基本的に実現されるべき諸商品の価格総額によって規定

されます。つまり貨幣の価値があらかじめ決まっていれば、市場で流通するすべての商品価格の総計により決まるということです。これは、例えば、商品価格の上昇やあるいは価格の上昇がなくとも流通する商品量が増大するなどして、流通する諸商品の価格総額が大きくなればそれだけ流通手段の量は増えるということです。

 しかし、流通手段として機能する貨幣の量は単純に価格総額だけで決まるでしょうか?実は、これには諸商品の価格総額とともにある一定期間において同じ貨幣が何回商品流通を媒介するかということ、すなわち貨幣の流通速度が関係してきます。

 通常、商品流通は、一つ一つの商品交換が各々独立しているのではなく複数の商品交換が相互に絡み合う形になっています。例えば、小麦農家が自分の小麦を売り、そこでえた貨幣で亜麻布を買う場合。すなわちW-G-W(小麦―貨幣―亜麻布)という商品変態の場合。この場合、まず小麦の買い手としての貨幣所有者が必要で、この貨幣所有者からみれば、G―W(貨幣―小麦)という変態になります。他方で小麦農家が最終的に買った亜麻布についてみれば、その売り手である亜麻布織職の商品変態が先の小麦農家の商品変態と絡み合うことになります。それは資本論の例では、亜麻布―貨幣―聖書ということで、織職は自分の商品を売った貨幣で聖書を買うということです。さらに織職に聖書を販売した、聖書販売者は、ウイスキーが欲しいということで自分が織職に売った貨幣でウイスキーを買います。聖書―貨幣―ウイスキーという変態になります。この一連の絡み合う諸変態を見るとここでそれぞれの変態を媒介する貨幣は、同一の貨幣以外ではありません。ここで貨幣の動きをみると最初貨幣所有者の懐にあった貨幣が小麦農家の手に渡り、次には亜麻布織職の手に渡り、その次には聖書販売者の手に渡ります。そして最後にはウイスキーを販売した酒造家の手元に入ることになります。これらの貨幣は同一の貨幣(片)であり、それぞれの変態で異なる貨幣(片)が機能したわけではありません。ここでの各々の商品価格が2ポンドだとすると実現されるべき価格総額は8ポンドですが、同一の2ポンド片が何度も購買手段として機能したわけですので、ここでの総流通に要した貨幣(流通手段)は、2ポンドにすぎません。

 これと違い、相互に絡み合わない独立した商品取引の場合。先の例と同じく、小麦と亜麻布と聖書とウイスキーが同じくそれぞれ2ポンドで販売される場合を考えます。これは例えば小麦農家は、小麦を収穫し市場に売りに出す場合に、仮にその売った貨幣の全てをあとから彼が必要とする資材と交換するにせよ、たちまちは手にいれた貨幣をすぐに使わない場合もありうるでしょう。そうした場合を想定します。同じく亜麻布織職、聖書販売者、酒造家もたちまちは自分の商品を一方的に売ると想定します。この場合、絡み合う場合と同様、実現されるべき商品の価格の総和は、やはり同じく8ポンドです。先ほどと違うのは、それぞれの販売で機能する貨幣が、絡み合う場合は、2ポンドで済みましたが、今度は取引ごとに2ポンドずつ必要ということになり、この場合流通に必要な貨幣は8ポンドということになります。

 つまり流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、実際に市場に流通する諸商品の価格総額貨幣の流通速度、すなわち一定期間の間に同名の貨幣片が何回流通するかその回数で割った数に等しい――先の絡み合う商品変態での例をもとにすると、ここではこの一連の取引に要する時間が丸1日とします。するとこの1日間のここで登場する2ポンド片は4回変態を媒介するわけで、1日当たりの当該の2ポンド片の流通速度は4(回)ということであり、実現されるべき価格総額8ポンドをこの2ポンド片の流通回数4で割れば、その商は2(ポンド/1日)となり、実際に流通に必要な2ポンドと一致します――ということになります。これが一国の国内等で流通手段として機能する貨幣量を規定する法則です。

 ところで市場に流通する諸商品の価格総額は、個々の商品の価格とそれらの流通量により決まります。商品の価格と流通量、そして貨幣の流通速度はそれぞれ異なった要素であり、それぞれがそれぞれに変化しうるものです。とするとこの3つの要素の関係はどのようなものでしょうか。

 例えば、商品価格は変わらない場合を考えてみましょう。この場合、流通する商品量が増大するか、貨幣の流通速度が落ちれば、流通手段量は増えます。他方、この場合で流通手段量が減るケースは、商品量自体が減るか、あるいは貨幣の流通速度が速くなるというケースでしょう。

 次に商品価格が上昇する場合を考えると、価格上昇と同じ割合で商品量が減少するケースや価格上昇と同じや速さで貨幣の流通速度が上がれば、価格上昇分が相殺され、流通手段量は価格上昇にも関わらず変わりません。

 また価格が下落する場合も、必ずしもそれに応じて流通手段量が減るわけではありません。例えば、価格下落の度合いに反比例する形で商品量が増大するか、価格下落度合いと同じ割合で貨幣の流通速度も落ちれば価格下落と相殺され流通手段量が変わらないこともあります。

また価格の下落にもかかわらず流通手段量が逆に増えることもあります。それは価格下落度合いよりも商品量の増大の度合いが大きいケースや価格下落度合いよりも貨幣の流通速度の低下が激しいケースです。

 このように価格の騰落だけで流通手段の量が判断できるわけではありません。

 一国の経済において、必要な流通手段量は、諸商品の価格総額と貨幣の流通速度により決まるという法則を理解するためには、以下のことの理解が肝要です。

 まず価格総額が規定的ということは、流通で実現されなければならない個々の商品の価格は、流通に入る前に与えられている――商品は、価格を持たなければ、通常流通することはありないということは現実の流通を見れば自明なことだろう――ということ。

 また貨幣の方も、やはりそれ自身の価値は、流通に入る前に与えられているということ。だからこそ、各々の商品の価値――当然に、商品の価値は流通に入る前に与えられている!――は、この与えられている価値の貨幣との等置により、その価値(の大きさ)がはかられ、貨幣との数量的関係――○○の商品の××量=金△△グラム等々――で表現され、価格を持つのです。

 確かに商品も貨幣も、それ自体の価値は、変動しうるものですが、しかし、それは流通に入った後ではなく、流通に入る前のことなのです。

 ですから流通する貨幣の数量によって、商品の価格が決まったり、あるいは流通する貨幣量自体が一国内にある金や銀などの貨幣材料により決まるなどという考えは幻想にすぎません。

 一国の経済においても景気の浮き沈みがあり、商品流通量の増減や価格自体の騰落など実現されるべき価格総額もある程度変化します。そうした増減等により流通手段の過剰や過小は生じないのかと疑問に思うでしょう。しかし、貨幣が金や銀などの本来的な貨幣であれば、流通が吸収しうる量は、価格総額の大きさ(と貨幣の流通速度により)決まっているのです。では過剰な貨幣はどこへ行き、過小な場合はどこから引き出されるのでしょうか。これは、この後の第3節貨幣で出てくる退蔵貨幣(蓄蔵貨幣ともいう)という形で流通の外にプールされます。というわけで実際に流通する貨幣量は、価格総額によってきまっているのです。

 

主な意見や質問等

◎「絡み合わない場合の商品変態の説明のところで、その場合、小麦―貨幣、亜麻布―貨幣等々という説明で一方的な売りのみと説明があったが、しかし小麦農家もいずれ次年度の小麦生産のために、肥料とか農機具とかを小麦を売って得た貨幣で買うはず。その場合どうなのか?」という質問があり、報告者から「仮に小麦農家が自分の小麦を売ってえた貨幣で、次の小麦生産のための生産手段等の購入に充てるとしても、それは時間的にはすぐではなく、例えば一ヶ月後だとしたら、たちまちは、その貨幣は彼の手元にあるわけです。それは一時的にではあれ流通から引き揚げられて、次の生産のための準備金等として蓄えられるものです。そこでの貨幣は、流通手段としては、小休止の状態ではないでしょうか。それに流通速度の問題は、時間的な長さを決めてその期案内で何回変態を媒介するのかということが問題になります。テキストの例では、1日間という期間なので、小麦農家が自分の小麦を売って得て、一旦流通から引き揚げた貨幣を再び流通に投じるとしても、それは1ヶ月後にすぎず、この貨幣は1日の間には流通手段としてはたった1回しか機能しません。」との説明がありました。

 

◎「ここで説明された流通手段量は、価格総額により規定されるということが、現代の通貨の問題を考える上での土台となると考えていいのか?」との質問もあり、これについては報告者より「たぶんそうだと思う。現代の通貨の問題を説明してほしいといわれると報告者の力量を超えているのであまり言えない。しかし、基本的には本来的な貨幣である金であれば、その流通法則はどのようなものかを理解してなければ現代の通貨の問題も正しく考えられないのだと思う。現代の通貨、円やドルなどは金による価値の裏付けがほとんどない。ほとんどというよりは皆無という方が正しいか?だからその“価値”も極めて不安定――ドルと円の関係でも交換レートが一日でかなりの乱高下がある――になっている。また中央銀行が通貨政策で“過剰”な通貨を押し込むこともできるし、またそれがインフレにつながれば確かに価格は上昇することになる。こうなるとあたかも貨幣の流通量が価格を決めるかのように見えるが、そうではないと思う。流通に必要な貨幣(金量)は決まっている。だから紙幣に近い貨幣の代理物(?)である現代の通貨は、過剰に押し込まれた分必然的に減価、“価値”の目減りが生じざるをえないのだと思う。」と説明がありました。

 

 

報告;檀上

2018年2月11日学習会の報告

1月に続いて、現在学習しているテキストを離れて、「資本論」を読む意義を学習しました。今回はレジュメ1頁の『マルクス経済学の研究対象が「貨幣という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係である」とはどういうことなのか…例えば、働いてみかんを作り商品として売ってお金(貨幣)を手に入れそのお金で諸々の生活物資を得るが、その物資も他の多くの人々の労働の生産物であるわけで、貨幣という“モノ”の関係をとおしているけれども、そこには私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている…。』について。

このレジュメで、みかん農家の生産者は、自ら労働して生産したみかんを売ってお金を得て、生活物資を購入しているが、これらの生活物資も多くの人々の労働の生産物である。ここでは、貨幣という“モノ”の関係が媒介されているが、私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。と言われています。とりわけ、最後の「…貨幣という“モノ”の関係が媒介されているが、私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。」このことをどのように考えるのかに議論が集中しました。尚、このレジュメでは、生活物資を得るための貨幣は、自らが生産したみかん商品を売って得ていますが、賃金労働者の場合は、資本家に自らの労働力商品を売って得る賃金です。

 生活物資が自給自足ではなく、多くの人々の労働生産物によって賄われている。➔ ② 生活物資は物々交換ではなく、貨幣で購入する。➔ ③ こういった行為に、人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。

とりわけ、③をどのように理解するかで、意見交換が行われました。

まずは、資本主義社会での生産と労働にはどのような特徴があるのかについてです。

モノを生産するために必要な生産手段 ―機械や道具、原材料、工場建物―を占有する資本家と労働力商品を資本家に売ることにより、資本家の下でモノを生産する労働に携わり、賃金を得て生活物資を購入する労働者の二大階級の存在が、資本主義的生産様式の生産と労働の特徴であるといえます。

出された意見では、「人と人との関係が希薄である」「金を出せば、何でも手に入れられるがはたしてそれが良いのか」「資本家は、人を人とも思っていないような対応がある」などがありました。

このような資本家の対応は、資本にとって従順で“優秀”な労働者は、労働力商品として購入するが、そうでない労働力商品は必要が無い。代りの労働力商品は労働市場にはいくらでも溢れているのだから。と言ったことでしかありません。ですから、資本主義経済社会における生産と労働の更なる特徴は、資本家が生産手段を占有しているとともに労働力商品の代り(失業者)があるということです。そして、資本家階級による様々なイデオロギー支配― 政治的、法律的、宗教的、芸術的、哲学的 ―といったことも経済的生産様式と不可分にあります。この点は次回で学習したいと思います。

報告;伊藤

2018年2月 7日 (水)

2018年1月28日学習会の報告

 128日は、テキストの第1巻第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のb「貨幣の流通」に入りました。この日は、b「貨幣の流通」の冒頭「労働生産物の物質代謝が行われる形態変化・・・」(岩波文庫第1分冊202頁、国民文庫第1分冊204頁)から6パラグラフ目「・・・金の価値は、事実上価格評価の瞬間に与えられているとおりに、与えられるものと前提する。」(岩波文庫208頁、国民文庫208頁)までを学習しました。

 以下は当日の学習内容の報告です。

 

主な報告内容

 これまで見てきたように商品の流通W-G-Wは、商品で始まり商品で終わるのであり、もちろん最初と最後の商品は違った使用価値なのですが、それが同じ価値の大きさの商品が戻ってくる形になっています。その意味でこの商品の運動は循環だといえます。

 しかし、貨幣の方を見るとあくまでもそれは商品流通を媒介するのみであり、貨幣はそれを購買手段として支

出した人の手元に戻ってきません。商品流通を媒介する貨幣、流通手段としての貨幣の場合は、貨幣は商品流通を媒介するごとに次々と持ち手を変え、最初の所有者からどんどん遠ざかっていきます。

 しかも、貨幣自体は商品と違い――商品は交換されそれを使用価値とするものの手にわたると流通から出ていき消費されますー―それ自体は流通にとどまり続けます。貨幣はこうした独特の運動をするものですが、これが貨幣の流通というものです。

 ところで流通手段としての貨幣は、常に買い手側にあり、彼にとっての購買手段として機能するという特徴があります。こうした面だけにとらわれると、それ自体運動しない商品を貨幣が運動させているように見えます。つまり商品の運動の結果として貨幣の流通があるのではなく、貨幣の流通があり、それにより商品も運動するように転倒して見えてしまいます。ですが、これはあくまでも商品の流通ということであり、ここでは貨幣は流通を媒介する手段であるにすぎません。

 貨幣が流通手段として機能するのは、それが諸商品の価値の独立した存在としてあるからです。貨幣自体も他の商品と同様に価値をもっており、なおかつそれは商品世界では価値の最も一般的で妥当な姿として認められるのです。ですからあらゆる商品は、貨幣に転化して、その価値たる存在を実現しなければなりません。商品の流通過程は、商品の実現過程でもありますから、それが質的に違った使用価値に転換――例えば、リンネルが貨幣を媒介にして最終的に聖書に変わる等々――しなければならないのは言うまでもありませんが、その前に貨幣に転化して、価値たる性格を示さなければなりません。

 ですからそれが流通手段として機能するから貨幣なのではなく、この商品世界においては、それ自体が社会的価値の実在として諸商品の価値を表現するものであるからこそ、貨幣は流通手段としても機能するのです。

 一方的な売りや一方的な買いなどの場合、貨幣はその取引の数だけ必要となります。ですが商品流通が相互に絡み合う場合は、同一の貨幣片が何度も流通手段として機能します。前節(a「商品の変態」)に出てきたリンネルが貨幣を媒介にして聖書に変わる交換――W(リンネル)-G(貨幣)W(聖書)――を見てみます。前節の例ではこの商品交換は、他の商品交換と絡み合います。一つはリンネルの買い手として登場する貨幣所有者の商品交換です。この貨幣所有者は、ここでの貨幣を自分の小麦を売って得たとすると、彼(小麦農家)の、W(小麦)G(貨幣)-W(リンネル)という商品交換が絡み合うことになります。他方、リンネル織職が自分のリンネルを売って得た貨幣でもって聖書を買う過程は、聖書の所有者からすれば、自分の聖書を売る過程でもあります。そして聖書所有者が手に入れた貨幣でもってウオッカを買うとしたら、彼の商品交換はW(聖書)G(貨幣)W(ウオッカ)ということになり、リンネル織職の商品交換W(リンネル)-G(貨幣)W(聖書)と絡み合います。

 ここではW(リンネル)-G(貨幣)W(聖書)という一つの商品交換が、他のW(小麦)G(貨幣)-W(リンネル)という交換とW(聖書)G(貨幣)W(ウオッカ)という交換と相互に絡みあっています。この場合流通手段として機能する貨幣は、同一の貨幣片であり、複数の貨幣は必要ではありません。ちなみにここでの貨幣の動きを見てみると、貨幣は小麦農家⇒リンネル織職⇒聖書所有者⇒酒販売者と持ち手を変えていきます。ところで流通手段としての貨幣は、実際の流通部面でどのくらい必要となるのでしょうか?

マルクスは、流通に必要な貨幣量(流通手段量)は、実現されるべき商品の価格により規定されると述べています。なぜ貨幣量は商品の価格総額により規定されるのでしょうか?またそれはどういうことでしょうか?

まず価格とは何かを振り返ると、価格とは、商品の価値の大きさを貨幣商品である金の量で表現したものです。金の価値が与えられていれば、商品の価値は、1㎏の小麦=金○○g、500gのお茶=金△△gと等々というように金の重量で表現されます。この段階では、我々の知る価格とは異なりますが、例えば、戦前の日本では金0.75gを基準としてこれを1円としました。こうなると諸商品の価値が××円等の我々が知る価格の形で表現されます。ですから本来は、価格という商品の価値表現の形は、貨幣商品である金の量によりそれぞれの商品の価値の大きさを示したものなのです。

とすると実現されるべき商品の価格の総額とは、それらの商品の総価値を表現している観念的な金量(総量)と一致することになります。つまり価格というものの本質から考えれば、実現されるべき商品の総価格=流通する商品の総価値であり、従ってそれらを価格として実現するために必要な金量、すなわち流通する貨幣量は、結局のところ流通する商品の総価格により規定されるということです。

 

主な意見や質問等

◎「相互に絡み合う複数の商品交換においては、同一の貨幣が流通手段として何度も機能するということがいま一つ理解できないので、再度説明してほしい。」との要望がありました。これについては報告者より「リンネル―貨幣―聖書という商品変態――リンネルが貨幣と交換され、その貨幣が次に聖書に交換される例――では、リンネルの買い手として貨幣所有者の登場が必要だが、この貨幣所有者は最初から貨幣をもっているという前提でもかまわないが、しかし彼もどこかで貨幣を手にしれなければならない。そこで資本論の例では、彼は小麦農家であり、このリンネルの交換が始まる前に自分の小麦を売っており、ここでリンネルの購買手段として機能する貨幣を手に入れていたとする。そうすると貨幣は、小麦農家の手元からリンネル織職の手に移ることになる。今度はリンネルの変態の後半の方を考えると、リンネル織職が手に入れた貨幣で聖書を買うわけだが、これは聖書販売者からすれば、自分の商品聖書の売りWG、聖書―貨幣という過程ということになる。聖書の販売者も彼自身の欲望を満たすためには、ここで得た貨幣を彼の欲望の対象である何らかの商品に交換しなければならない。資本論の例では彼は酒好きでウオッカと交換するということになっている。すると聖書販売者の交換は、聖書―貨幣―ウオッカとなる。貨幣は、リンネル織職の手元から聖書販売者の手に渡り、そして最後にはウオッカを作った酒造家の手に渡ったということになる。そもそもこの貨幣の最初の所有者は小麦農家だったわけで、すると貨幣は、小麦農家⇒リンネル織職⇒聖書販売者⇒酒造家と次々に持ち手を変えて流通する。このように相互に絡み合う商品交換では、同一の貨幣が何度も商品交換を媒介する。」との説明で概ね了承されました。

◎「貨幣の流通量が商品の総価格により規定されるというが、それはどのように調整されるのか?例えば、経済が停滞して商品の流通量が減って総価格も減少した場合、過剰となる貨幣はどこに行くのか?」との質問がありました。「これについては、一方的な売りなどで流通から引き揚げられた貨幣が蓄積されていわゆる蓄蔵貨幣とか退蔵貨幣とかいわれるものになるが、これが流通に過剰な貨幣のプールとなり、また流通手段が不足するとここから流通に貨幣が出ていき、その調整がなされます。この蓄蔵貨幣の形態は、単なる致富目的の場合もありますが資本主義が発展するに従い、固定資本の減価償却の積み立て等など様々な形の遊休資本の形態として存在しています。」との説明がありました。これについて、さらに調整がなされるメカニズムについても具体的に教えてほしいとの要望がありましたが、これについては報告者も「そこまでは説明できる力量がない。」ということで今後の課題となりました。

◎「ここでの貨幣の問題は、インフレと現代の通貨の問題につながると考えてよいのか?」との質問がありました。これについては「基本的にそうだと思う。インフレや現代の通貨の性格や価値の問題もいまやっているところの理解が大前提になると思う。貨幣の理解も、それが本来は価値を持ったものであり、なおかつそれがあらゆる商品の独立した価値姿態であり、だからこそ諸商品の価値を現すことができ、流通手段としても機能しうるのだということを理解しなければおかしなことになると思う。こうしたことを理解しないなら流通する貨幣の量こそが、商品の価格を決めるのだという転倒した考えに惑わされることになる。こうした貨幣数量悦のまちがえは、通貨政策等により通貨供給量を人間がコントロールでき、経済過程を支配できるという幻想につながっていると思う。現代の通貨は、貨幣というより単なる紙幣に近いものだから、金量に縛られずに--そもそも金との結びつきが断たれているのだから――人為的に流通量を増やせないことはない。一見、この経済社会の必然性から逃れられるかのように見えるが、そうではないだろう。流通に必要な金量(貨幣量)は、実現されるべき商品の総価格によって規定されているという経済的必然性には逆らえない。その顕著な例が、現代のインフレなのではないか。金との結びつきを絶たれた現代の通貨においては、通貨政策等により過剰な通貨を人為的に流通に押し込むことが可能であるが、しかしそれはあとから通貨価値の持続的な下落や時には急激な下落として襲ってくるのだと思う。」との説明がありました。

2018年1月14日学習会の報告

 1月14日は、初学者のお二人の参加があるということで、現在学習しているテキストを離れて、「資本論を学ぶ意義」と「資本論全体の構成と概要」の説明を行いました。「資本論全巻のあらまし」の説明は、最初の価値を中心にする予定でしたが、レジュメが全般的に書かれていて、レジュメに沿って大分先の説明にまで行ってしまい申し訳なかったと思います。今後の学習会の中で、最も重要な価値の問題をやっていきたいと思います。

 以下にそれぞれの報告内容を掲載します。

 

1;資本論を読む意義

「資本論」(副題―経済学批判)の第1巻初版は1867年9月ドイツの書店から刊行されました。先に出た「経済学批判」の第2冊としてではなく、《資本》という題で独立して刊行されました。カール・マルクスが当時のイギリスの労働者階級の状態を見て執筆したものです。ただし、フリードリッヒ・エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」のように純粋に労働者階級の経済状況が書かれているのではなく、資本主義社会の生産様式を解明するといった学問的な要素があります。しかし、革命家カール・マルクスは「資本論」は労働者が読むための書物であり、労働者なら理解できる。と言っているように、何よりも資本家階級に労働力を切り売りするしか生きるすべのない労働者のために書かれた本なのです。その内容は、資本家階級が労働者階級を搾取することによって、社会の富を私有し、政治、法律、教育、文化なども自らの延命のために都合のよい社会を維持発展するためにブルジョア的なものとなります。しかし、ブルジョア的民主主義が確立されたなかで、労働者階級は学び、鍛えられることによって、やがて資本のくびきから自らを解放することを確信できるようになります。

 「資本論」は資本主義的社会の経済的運動法則が展開されています。具体的な内容は事項に譲りますが、それは、資本主義社会の先にある本当の共産主義社会がどのようなものであるか、その核心を考えることになると思います。

 

2;『資本論』全体の構成と概要

 『資本論』は第1巻から第3巻までありますが、マルクス自身の手によりが完成稿として出版されたものは、第1巻のみで第2巻、第3巻はマルクスの死後、盟友エンゲルスにより残された草稿を整理して出されたものです。

 

 まずは第1巻ですが、資本論はご存じの通り、商品から始まっています。なぜ資本論なのに、資本からではなく、商品からか疑問に思うかもしれません。それは、資本論の対象は、我々が生きる現代の社会、つまり資本主義的な社会経済の分析です。この資本主義の特徴はというと、社会の富(=労働生産物)のほとんどが商品として生産され、かつそれらを相互に交換し合うことにより成り立っている社会だということです。だから資本主義の一番の土台の経済的関係もこの商品生産の中に求められるべきなのです。それ故、資本論は商品の分析から始まります。

 では商品とは何でしょうか?商品は、それが食べ物であれば食欲を満たすとか鍬や鎌などであれば、農業での労働手段として役立つ等のような有用性があります。この有用性を使用価値といいます。使用価値がないものは商品とはなり得ません。しかし使用価値だけでは商品にはなりえません。それは、他の商品と交換されうるということ、すなわち交換価値がないと商品にはなりません。では交換価値とは何か、これはあらゆる商品に共通に内在している価値というものが交換の際現れてくるものだということをマルクスは分析により明らかにしています。さらに価値とは何かということで分析を進め、これは商品を使用価値とする要素は関係ないのだから、その要素を一切捨象して、商品に残った要素であると、すなわちその残ったものはただの人間労働の産物であるという要素だということにたどり着きます。ここから、商品の価値として表れるものの実体は、抽象的人間労働だと述べています。

 価値の実体は人間労働であるとすると、その大きさはその継続時間、労働時間ということになります。これが資本論冒頭で述べられている価値の規定です。

 商品の次に貨幣が登場しますが、実は貨幣もまた商品であり、商品の中から登場してきたものです。貨幣は、商品の交換関係の発展の中から必然的に生まれてきたものであり、商品に内在している価値という契機が自立した形で表れたものです。貨幣とは商品の世界で、一般的に価値として通用する特殊な商品とでもいえるでしょうか。ですから一般的に流布されている貨幣とは、人間が発明した交換の為に便利な手段などではないのです。

 こうした貨幣の本質からして、貨幣の第一の機能は、諸商品の価値の大きさを表現するという機能、価値尺度の機能です。これはあらゆる商品の価値の大きさを貨幣の量により表現するということですが、これがわれわれの知っている価格ということの基礎にあります。

 マルクスは、資本主義的搾取の秘密を剰余価値ということで説明しています。資本が労働者を賃労働として雇い、そこで剰余価値を生産・取得するのですが、それはどのような仕組みなのでしょうか?

 商品交換が基本的に等価交換であることを考慮すると、資本家的企業のあげる利潤の源泉である剰余価値は生産過程以外には発生しえないことになります。

 産業資本家は、生産手段などの物的生産要素を貨幣で買います。生産過程でそうした生産手段の下で新たな生産物(商品)を作り出す為には労働力が必要となりますが、これを資本家は労働者を労賃で雇うことで調達します。

 ところで労賃とは、一般に労働者が実際に働いた労働時間に応じて支払われているかのように思われています。

 しかし、労賃とは労働力商品の価格ということであり、それはどのようにしてその大きさが決まるかといえば、労働者の労働能力の再生産費によってです。それは、労働者が正常に労働能力を再生産するために必要となる生活資材等の総量によりどれぐらいかが決まります。それは最低限生きて行く為の生活費用のみでなく労働者が精神的にもその能力を正常に保つためにはある程度文化的な要素も含まれるかもしれません。ですがそれは与えられた社会では決められています。

 資本家は労働力商品を購入しますが、それは労働力商品の価値に相当する金額を貨幣で支払うわけです。

しかし、その買った商品(労働力商品)の使用価値は、この価値とは全く別物です。資本家が生産過程で商品の生産の為に労働者を働かせることは、この後者の使用価値に属することです。

 資本家が労働力商品の使用価値を実現すること、何を作る為にどれだけ働かせるかは、それを買った資本家の裁量権に属することです。ですからそれは労働力商品の価値とその大きさには何らかかわりはありません。

 実際に資本家が働かせる労働時間が8時間とすると、ここでは8時間に相当する新たな価値が生み出されます。しかし、労働力商品の価値に相当する労働時間が2時間だとすると、労働者は2時間の労働ですでに資本家が労賃として支払った分を再生産していることになります。そうすると4時間-2時間で半分の2時間分が資本家の手元に残ることになります。この資本家の手元に残る剰余労働が剰余価値となる部分です。

 これではまるで詐欺のように見えるかもしれませんが、表面上はこの商品生産の等価交換の法則を何ら侵害していません。なぜなら資本家が労働者から買ったのは労働力そのものであり、普通の商品と同様、かってしまえばその使用権は商品を買ったものにあるからです。ですから資本家と労働者の関係は、形式上は対等な契約関係にすぎないのです。

 しかし、いま見てきたように形式上対等な関係の下、実際には搾取が行われているのです。このようなことが可能となるのは、資本家が見出した労働力という商品が、その使用価値の実現が唯一の価値の源泉であるという特殊性にあります。

 資本家的搾取は、封建社会などでの力や暴力による強制ではなく、一方には生産手段が一握りの資本家の下に集中され、他方では大多数の労働者は生産手段は一切持たず――すなわち無産者階級、プロレタリア化した状態にある――生きていくためには、生産手段を所有している資本家のもとで賃金労働者として働かざるをえないという状況の下発生しているのです。それは労働者にとっては選択の余地などないのであり、資本主義の下では必然なのです。

 

2巻以降は先にも述べましたようにマルクスの死後、盟友エンゲルスにより残された草稿を整理して出されたものです。ここでは時間がない為にごく一部をトピックとして紹介します。

 

1巻では、商品や貨幣という形でかなり抽象的な内容の展開が多いですし、資本が登場してもそれは単なる一般的資本であったり、また剰余価値の説明の部分でも基本的に産業資本により説明されており、我々が知っているその他の具体的な資本形態はほとんど説明されていません。

しかし、それは第1巻の課題が、タイトルにあるように「資本の生産過程」であり、資本主義的生産様式の一番の土台の部分、そうした生産様式の経済システムが生まれてくる一番の基礎を扱っているからであります。この段階では、我々が目にする資本主義経済の具体的形態、資本も産業資本のみならず、商業資本、金融を取り扱う銀行資本など様々な資本形態や、収入でも産業資本が生み出す利潤以外にも利子や地代収入等の様々な収入形態がありますが、これらを説明することが難しいからです。

2巻では第1巻の生産過程に続き、流通過程が扱われますが、第3巻ではこの両者を統一して「資本主義的総過程」が扱われています。先の具体的な形態については、この第3巻ではじめて扱わる内容です。

少しだけ具体的な形態について第3巻を見てみます。

1巻で資本家がえる利潤の源泉として剰余価値の創造とその秘密が産業資本の活動から語られましたが、現実には産業資本以外にも商業資本(商品取り扱い資本)や銀行業等の金融的資本などが存在しています。

実は、これらの資本は全て産業資本のような生産的資本が土台になっており、そこから派生して登場するものなのです。商業資本の生み出す商業利潤、金融的資本の生み出す利子も実は、その源泉は生産的資本の生み出す剰余価値以外にはありえません。労働による価値の規定の立場からは、やはり生産的労働こそが価値の源泉なのであり、したがって彼らが取得する商業利潤にしても利子収入にしてもすべて源泉は、生産的資本の生み出す剰余価値であり、労働者の剰余労働以外ではないのです。

ですから産業資本と商業資本や銀行資本等の関係は、資本家的な分業関係から、産業資本が獲得する剰余価値を互いに分配し合っているにすぎません。こうなると産業資本が取得する部分は剰余価値全体ではなく、そこから商業資本に支払う流通マージンや銀行に支払う借入金の利子を控除した部分が、産業資本の取得する利益部分ということになります。これが新たな収入形態として企業者利得ということになります。このように説明すれば我々が知っている具体的現実の姿が再現されたのではないでしょうか。

2018年1月 9日 (火)

2017年12月24日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の続き、国民文庫版では第1分冊201頁、A「商品の変態」の項目の20パラグラフ「商品流通は、ただ形態的にだけでなく、実質的に・・・」、岩波文庫版第1分冊198頁、a「商品の変態」の項目21パラグラフ「商品流通は、形式だけでなく、本質的にも・・・」からこの項目の最後まで行いました。(次回からは、b「貨幣の流通」国民文庫版204頁、岩波文庫版202頁、に入ります。)

 

学習会の内容および議論の紹介

主な報告内容

 ここでは、商品流通――商品交換を貨幣が媒介する場合――と直接的な生産物交換――貨幣を媒介にしない商品と商品の直接の交換の場合――との違いについて説明されています。

 ここでの商品流通の例は、引き続きテキストに出てきたリンネル(亜麻布)と聖書の交換の例です。すなわちW(リンネル)―貨幣(G)―W(聖書)という形態です。

 これはリンネル織職が聖書を手に入れるために行った商品交換です。すなわちリンネル織職にとってリンネルと聖書の交換――確かに直接にリンネルと聖書を交換するのではなく、貨幣を媒介にしてですが、リンネル織職の交換の目的は、聖書なので―――は無条件的な行為です。しかし、これはリンネル織職にとって真実ですが、他方聖書の売り手にとっては、自分の聖書をリンネルと交換しようとは思いもしなかったことです。またこの交換が成立する為には、リンネルを貨幣で買う貨幣所有者が存在している必要がありますが、テキストの例では貨幣所有者は小麦農家であり、彼がこの課程でリンネルを買う貨幣は彼の小麦を売って得たものとなっています。そうするとリンネルは小麦と交換されたことになります。小麦農家にとっては彼の 小麦()―貨幣(G)―リンネル()という交換がなされたということなります。しかし、この交換はリンネル織職にとっては思いもおよばないことです。ただリンネル織職にとっては、自分のリンネルが自分の納得いく貨幣量で売れればいいわけで、それを誰が買おうが、その貨幣が何から生じたものか――小麦かあるいはそのほかの商品か―――は関係ないわけです

 この商品交換は、結果からいえばリンネル織職の立場からすれば、リンネルという商品が聖書に代わったわけですが、これはリンネルと聖書が直接に交換されたわけではありません。もしリンネル織職が聖書所有者に直接に私のリンネルとあなたの聖書と交換してほしいと取引を持ちかけたらこのこう交換は成立しないでしょう。

 ここではリンネル織職は、聖書がほしい。しかし聖書所有者は酒好きでウオッカがほしい。リンネルをほしいと思うのは実は小麦農家である。もし貨幣が登場しなければ、ここでは各々の欲望が一致しない限り交換は不可能ですが貨幣が登場し、小麦農家が自分の小麦を貨幣に変えることができれば、この交換は滞りなく成立します。

 このように貨幣が商品交換を媒介にすることで商品流通は、個人的な欲望による制約だけでなく、局地的制約をも取っ払い発展していくことになります。

 また商品流通は、商品の交換が実現されたとしてもそれ自体消えてなくなることはありません。直接的な生産物交換であれば交換が実現すればあとはそれぞれ消費されるのみです。すなわちそこで完結します。例えば、リンネルー貨幣―聖書という交換を見ても、これが成立する為には、小麦農家が誰かに小麦を売っていなければならないし、リンネル織職にとっての売りは、ここで貨幣所有者として登場する小麦農家にとっての買いであり彼にとっての交換、小麦―貨幣―リンネルというもう一つの交換と分かちがたく結びついています。また聖書の所有者にとって彼の目的の為の交換である聖書―貨幣―ウオッカという交換とも分かちがたく結びついています。

 このように商品が交換されてそれを使用価値として必要としている人の手にわたっても、商品流通自体は消失することはありません。

 ここで商品と貨幣の流通には特徴的な違いがあります。商品自体は、それを使用価値として必要としている人の手に渡れば、流通から脱落し消費されます。しかし、貨幣は違います。流通手段としての貨幣は、いつまでも流通にとどまり続けます。それは商品交換を媒介するごとに持ち手を変えていきながらそれ自体は流通にとどまるものです。

 例えば先の例では貨幣は最初は小麦農家のものであり、それがリンネル織職の手に渡り、次には聖書所有者の手に渡りました。このように貨幣は持ち手を変えながらどんどんと移っていきます。「流通は絶えず貨幣を発汗している。」(岩波版199) というゆえんです。

 

 またここでは最後に、商品の交換過程が商品流通という形態をとることによって生じる"恐慌の可能性“についてマルクスは言及しています。

 このa「商品の変態」のところの前半でマルクスも言うとおり一面では、ある商品の売りは、反対の立場からみれば買いでもあり、そういう意味では売りと買いは直接に一致しているということになります。ここから売りは買いであり、売りと買い、つまり供給と需要は直接に一致するというバカげた考えが生じます。テキストの注七三に登場するJ・Bセーもそうした単純な考えから恐慌を否定しました。

 しかし、貨幣が商品交換を媒介にすることにより売りと買いが非対称となる可能性が生じます。

例えば、リンネル―貨幣―聖書という交換をとってみても、リンネル織職がリンネルを売って貨幣をえたとしても、それをすぐに聖書に変える必要はないということです。なぜなら貨幣を所有していれば、それはいつでも、どこでも、どんな商品とでも交換できるからです。

 リンネル織職が自分の商品リンネルを売ったからといって、それでえた貨幣全部を使ってしまわなければならない理由はないからです。倹約化の彼はできるだけ貨幣を節約して手元に残そうとするかもしれません。あるいは最終的には彼がリンネルを売って得た全部の貨幣を使うにしても、それはいまではなくもっとあとからかもしれません。そうすると、売りと買いは直接的には一致しなくなります。

 

 商品流通は、直接的な生産物交換に存在するような時間的、場所的、個人的な制限を打ち破りますが、それは流通そのものが自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるとい生産物交換に存在する直接の一致を、売りと買いという相対立した契機に分裂させることによってだとマルクスはいいます。

 これはリンネルと聖書の例で考えると、直接的な生産物交換の場合は、リンネル―聖書という生産物交換はこれは直接に一致しているというとになります。なぜならこの場合リンネルだけ交換が成立して、他方の聖書は交換が成立しなかったということはありえません。この場合、リンネルの交換の成立は、同時に聖書の交換の成立であり、かくして有用な生産物が必要とするものの手に渡ったということになります。

 しかし、商品流通の場合は違います。商品流通の場合は、いったん貨幣に転化しなければなりません。つまり リンネルー貨幣―聖書 という変態がなされるわけですが、これはこれまで見てきたように リンネルが貨幣に転化する リンネルー貨幣

(W-G)という前半の過程と 後半の 貨幣―聖書(G-W)の過程に分けられます。ここでの目的がリンネルを聖書に交換することだと考えれば、リンネルー貨幣と貨幣―聖書が一致することが考えられますが、しかしマルクスも言うように商品を交換してえた貨幣はすぐに商品に変えないといけないわけではありません。ここに売りと買いの不一致(売りと買いの対立)が生じる可能性があります。

 こうして商品流通は生産物交換の直接的同一性を売りと買いの対立に分裂させますが、他方でこの過程を分裂させることによりその時間的、場所的、個人的な制約をも破るのだということなのでしょう。確かに貨幣が媒介し、商品交換が売りと買いに分裂することで、一度商品交換が休止点をえることになり、時間的連続や場所的、個人的な制約も取り払うことができます。例えばリンネル織職があるマーケットで優良な買い手を見つけ、そこで高い値で売れたとしても、そのマーケットで自分の欲しいものが見つからなければ、彼は自分ほしいものがあるどこか別のマーケットへ自由に行くことができます。

 このように商品の流通形態の中に存在する売りと買いという対立は、恐慌の可能性を含んでいるとマルクスはいいます。ですがこれはかなり抽象的な可能性にすぎず、これが現実性へ転化するためにはより多くのより具体的な契機が必要だということでしょう。

 こうして商品流通を媒介するものとして、貨幣は流通手段という機能を持つことになります。

 

主な質問・意見

○まずテキストで「商品交換が、人間労働の物質代謝を発展させる」というようなことがいわれているが、どういうことか?との質問がありました。

――これについては、報告者からは「一般に生物は、自然との間で必要な栄養物を自分の体内に取り込みそれを消化吸収しエネルギ-などを得て、残りの老廃物等を排泄するなどして生命活動を行っている。この有様を物質代謝とよんでいるが、人間も生物である以上何らかの形で物質代謝を行わざるを得ない。しかし、その仕方が他の動物と違い独特であり、人間の場合労働を媒介にし、自然を人間にとつて有用な形に意識的に加工するということがある。これが人間労働が物質代謝を媒介にしているということの内容だと思う。

 商品交換の発展は、分業を発展させることにより人間社会の生産力を発展させているが、これはいわば人間が自然界から労働を媒介にして得ることができる範囲を拡大することになっていると思う。このような内容が「商品交換が、人間労働の物質代謝を発展させる」ということの意味ではないでしょうか。」との説明がありました。

 

○続いて「流通は、絶えず貨幣を発刊する」とはどういう意味かとの質問がありました。

――報告者からは「報告にもありますように、商品と違い、貨幣は商品交換を媒介しながら流通にとどまり続けます。少なくとも流通手段としての貨幣はずっと流通にとどまり続けます。発汗とするというイメージがわかりにくい感じがしますが、貨幣は一つの商品交換が終わると次の場所へと次々移っていきます。その様が汗をかく様に見えるということかもしれません。」との回答がありました。

 

○最後に参加者の方から「直接的生産物交換から商品流通になると恐慌の可能性が生じてくるということがいわれているが、それは結局、商品交換が売りと買いに分けられることにより、買いのない一方的な売りが生じて不均衡が生じるということでよいのか?」との質問がありました。

――これについては「基本的にそういう理解でいいと思う。テキストにも『しかし、何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。』(岩波文庫200)とあるのでそうだと思う。」と報告者も答え了承されました。

2017年12月15日 (金)

2017年11月26日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の後半部分から、国民文庫版では第1分冊187頁、A「商品の変態」の項目の14パラグラフ「G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。・・・」、岩波文庫版第1分冊195頁、a「商品の変態」の項目15パラグラフ「G-W商品の第二、または終局的変態、すなわち、買い。・・・」から国民文庫版第1分冊200頁の最後、19パラグラフ「・・・この過程は商品流通として現れる。」、岩波文庫版198頁、20パラグラフ「・・・総過程は商品流通として現れる。」までを学習しました。

 

学習会の内容および議論の紹介

主な報告内容

 第2節「流通手段」では、商品流通を媒介するものとしての貨幣の機能=流通手段としての貨幣が問題となります。この第2節の最初A「商品の変態」の項目では、商品流通の目的は、有用な生産物の相互の交換であり、その意味で社会的物資代謝であることが示されています。商品の流通は、簡単にW-G-Wの流通式に表現されますが、ここでのGはそれ自体は目的ではなく、ただ最初のWの変化した形態、Wが転化して貨幣の形態をとったものに過ぎません。しかも、この貨幣形態も一時的なものに過ぎず、すなわち“瞬過”的な形態にすぎず、それはすぐに貨幣の形態を脱ぎ捨てて目的の商品へと転化しなければならないというものです。

 流通手段としての貨幣は、あくまでも有用物を相互に交換し、それを必要とするもののもとへと行き渡らせる、そうした物質代謝としての商品交換の媒介手段でしかないということです。それが物質代謝であるというのは、個々の生産者達がそうした商品交換により必要なものを手にしれなければ生活は成り立たないということ以上に商品生産社会そのものが成り立ちえないということでしょう。

 前回までは、この商品流通の前半過程すなわちW-G-Wの前半のW-Gを見てきました。今日は後半過程G-Wを見ていき、それから再度全体のW-G-Wを見ていきます。

 

 後半のG-Wは、貨幣が再度商品へと転化する過程です。これによりこの商品流通は完結します。なぜならそれは目的とする商品へと変わるからです。ここでの商品流通を、最初のWをリンネルとし、それが貨幣を媒介に転化する後ろの商品を聖書とすると、W(リンネル)-G-W(聖書)となります。この流通の目的は、後半の聖書が目的です。リンネル織職が自分が所有しているリンネル商品を売ることにより手に入れた貨幣で、今度は彼が手に入れたいと望んだ商品、すなわち聖書を手に入れる過程ということになります。リンネル織職としては、この最後に聖書を手に入れることこそこの交換の目的でした。ですから前半で自らの商品リンネルを貨幣に変えることは、彼にとって最終的に聖書を手に入れる為の媒介的な手段でしかありません。ですからリンネル織職にとってもこの後半の交換で聖書を手に入れることが目的であり、そうすることによってはじめて彼の商品交換も完結します。

 しかし、この過程はリンネル織職にとっては、目的の商品を手に入れる為の買いの過程、すなわちリンネル商品の流通の後半の過程ですが、他方、聖書の所有者の立場からみれば、それは反対の過程すなわち売りであり、それは彼が目的とする商品流通の過程の前半過程――彼はこの交換によりリンネル織職から貨幣を手に入れ、それでもって彼自身が欲する商品に交換するから――でもあります。すなわちある商品の後半の変態G-Wは同時にもう一つの別の商品の前半の変態過程でもあるのです。

 

 次に再度一つの商品の流通(変態過程)の全体を振り返ってみます。W-G-W、ここでは先の例と同様リンネルー貨幣―聖書として考えます。

 この商品の変態過程を見るとそれは4つの極と3人の登場人物によりなり立っています。

 3人の登場人物とは、まずはこの商品交換の主人公であるリンネル織職です。この変態、取引過程は彼の過程であり、ここでの目的は彼自身が欲する聖書を入手するためのものです。

 2人目はこのリンネル商品を買う人つまり貨幣所有者です。彼はリンネルを欲しており、この過程が始まる前に既に貨幣を所持していることが前提になります。

 3人目は、聖書の所有者です。彼は、リンネル織職が自分のリンネルを売ることにより手に入れた貨幣と交換に自分の聖書を譲渡、売り渡します。

 では4つの極とは、どういうことでしょう。

まずは前半のW-G、これはリンネル織職にとって自分が持っている商品リンネルを売り渡す過程です。これが第1の極です。しかしこれはリンネル織職からみた立場ですが、これを買う貨幣所有者の立場からみれば自分のもっている貨幣でもってリンネルを買う過程でもあります。すなわち彼からすればG-W、貨幣―リンネルということです。これが第1の極と対になっている第2の極です。

 それからリンネル織職がリンネル販売により手に入れた貨幣により聖書を買う過程、G-W。これが第3の極です。しかし、これは聖書の売り手からみれば、自分の聖書を貨幣との交換で譲渡する過程でもあり、すなわち聖書―貨幣、W-Gの過程でもあります。これが第4の極ということです。

 ここで先にも見たように最初の変態が成立するためには、ここでリンネルの買い手が貨幣所有者として登場しなければなりません。ここで貨幣所有者として登場するものは、この過程の始まる前にどこかで何らかの手段で貨幣を手に入れていなければなりません。彼も恐らく自分の所有していた商品を売って貨幣を手に入れたと想定できます。ここでは小麦を作る農家が自分の小麦を売って得た貨幣だとします。この小麦農家の商品変態過程として考えるとW(小麦)-G(貨幣)―W(リンネル)ということになります。先のW(リンネル)-G(貨幣)は、この小麦農家の商品変態過程のG(貨幣)-W(リンネル)、すなわち後半過程ということになります。

 またリンネル織職の商品変態の後半過程G(貨幣)-W(聖書)も聖書の所有者からみればW(聖書)-G(貨幣)であります。ここで聖書の持ち手がウイスキーを欲していれば、彼は手に入れた貨幣でウイスキーを買うでしょう。つまり聖書の持ち手からすればW(聖書)―G(貨幣)-W(ウイスキー)の過程の前半のW(聖書)―G(貨幣)ということになります。

 このようにある商品の変態は別の商品の変態と絡みあっています。商品の流通過程とは、このように無数の商品の変態過程が相互に絡みあい、しかも相互に前提しあう関係にあり、分かちがたく結びついているものであり、これらの総過程として表れるものです。

 

 この第2節のA項目「商品の変態」いわゆる商品変態論の意義はどういったことにあるのでしょうか?レポーターは長らく疑問に思ってきましたが、最近になって次のように思うようになりました。

 第3節以降の貨幣の諸機能の問題を論じるに際して、やはり流通手段としての貨幣はあくまでも流通を媒介するだけで、この過程の中では一時的な存在にすぎず、それは目的の商品に転化する前段の姿でしかないこと。これに対して第3節から展開されている貨幣の独自の機能、例えば蓄蔵貨幣とかいうものの理解に必要不可欠であるということ。この場合、貨幣は流通から脱落することになりますが、本来流通手段としての貨幣はそれ自体流通にとどまり続けるものです。(他方、普通の商品は、一つの交換が終わると消費され、流通から脱落します。)それは諸品流通の場足、貨幣の取得はあくまでも一時的にすぎず、それはその貨幣が再度目的の商品に転化するためにのみ取得されるにすぎないからです。

 ですが蓄蔵貨幣の場合は違います。この場合は貨幣そのものを貯めることが目的ですからです。こうした貨幣の機能は、流通手段としての貨幣の機能とは異なる独自なものです。こうした貨幣の理解にも流通手段としての貨幣の機能の理解、それが商品の変態を媒介するものであり、ここでの貨幣は商品自体の転化した形態にすぎず、しかもそれはあくまでも一時的“瞬過”的なものにすぎないことを理解することは極めて肝要だったのではないでしょうか。

 例えば、この項目で取り上げる貨幣、すなわちW-G-WのGは、ただの流通手段としての貨幣にすぎず、これが決して資本になることはあり得ません。ところが同じ貨幣でもあとででてくる資本の一般定式G-W-G(G´)の場合のGは流通手段ではなく、資本としての貨幣となります。これ以上の説明はここでは割愛しますが、このような流通手段としての貨幣についてしっかりした理解がなければ、これ以降の貨幣の理解は覚束ないのではないでしょうか。

 

主な質問・意見

○テキストの「貨幣は、すべての価格を逆読みする」(岩波文庫版195)とあるが、どういうことか?

――報告者の説明

 「貨幣以外のあらゆる商品は、貨幣により価値が表現され、かつその大きさ(価値量)が表現されます。貨幣が金であればこれは、金○○グラムとか金の重量で表される形です。つまり図Aのような形です。

 

 図A:商品の価値表現(価格形態)

 

αエレのリンネル   =  

 

βクオーターの小麦  = 

 

γツェントナーの鉄  =     ○○グラムの金(または△△ポンド・スターリング)

 

δポンドの茶     =

 

etc         =

 

これは貨幣商品以外のすべての商品が統一的に貨幣商品である金により価値が表現されています。こうした貨幣による価値の大きさの表現(価格形態)が成立すると、諸商品は相互にその価値の大きさが比較可能となります。

 

 

 

 しかし、貨幣の方はどうかというと、当然貨幣は価格をもたない――○○グラムの金=○○グラムの金というのは意味を持たない――わけです。では貨幣の価値はどのように表現されうるかといえば、それをあえて示そうとすれば、商品の価値表現の場合は、図Aの式を左辺から右辺と読みますが、これを逆に読む、つまり右辺から左辺へと読むわけです。すると○○グラムの金という貨幣商品の価値が、それと等価の様々な商品によって表現されています。○○グラムの金=αエレのリンネルまたはβクオーターの小麦またはγツェントナーの鉄またはδポンドの茶、etc。」

 

 

 

○テキストの中で「貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現れ・・・」(岩波版197)とあるがここでの堅い価値結晶とは何を意味しているのか?

 

――報告者の説明

 

 「堅い価値結晶とは、本来は価値という社会的な実体のもの―だから本来はモノとして把握されうるものではないはずですが―が、我々が感覚的につかみうるような具体的な物質的な形態=貨幣形態として現れるということだと思う。だからW-G-WのGは最初の商品W自身の価値としての姿が具体的に貨幣という形であらわれたものだということだと思う。ここでの商品がリンネルだとするとリンネルをいくら透かして見てもその価値としての姿は明らかになりません。しかし、それは交換により貨幣に転化することでその価値そのものが表現されることになるのです。貨幣に転化すれば、この商品世界では貨幣は最も妥当な価値の姿として認められるわけです。ですから商品は、貨幣に転化しなければならない必然性があるのです。」

 

 

 

○最後に報告者よりテキストの「これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるほかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。」(岩波版198)という箇所は何を言っているのかわからないと疑問が出されました。

 

 これについては、こうだという意見が出ずに次回の課題ということになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

     

2017年11月12日学習会の報告

第一章「商品」の第三節「価値形態または交換価値」のA「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の二「相対的価値形態」の a「相対的価値形態の内実」の第10段落と第11段落を学習しました。

 先ず第10段落の「商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上着と交わるようになるや否や、自身で、申し述べることがわかる。…人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することを言うために、亜麻布は、上着が亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているというふうに言うのである。…」(岩波文庫版97頁)、「要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、…」(国民文庫版101頁)

 

  ここでは先ず、「商品価値の分析が以前に告げたような一切のこと」とは何を指しているのかを振り返りました。商品には二つの要素、使用価値と交換価値、価値がありますが、使用価値とはいかなる社会的形態であろうと、人間が生活していくにあたって必要不可欠な物質の有用性、質のことです。他方、交換価値、価値とはその有用物の交換される割合、比率の問題です。そして、物の有用性はどれだけの労働が費やされているかといった事とはまったく別の事です。

 

そして、商品生産社会においては、使用価値は常に使用価値だけにとどまらず、同時に交換価値の素材的な担い手となります。使用価値が質を問題にされるのに対して、交換価値は第一に量的なもの、量的な関係として現われます。ある使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として現われます。時と所によって、たえず変化する関係として現われます。このことは、何か偶然的なもの、相対的なものであって、商品に内在的な固有の交換価値といったものは無いかに考えられますが、そうではないことを見ていきます。

 

一定の商品、一クオーターの小麦は、他の商品ときわめて雑多な割合で交換されます。すなわち、小麦は唯一の交換価値ではなくて、多様な交換価値をもっています。相互におきかえることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であると言えます。このことは、同一商品の交換価値は、一つの同一物を言い表しているということ。交換価値は、交換価値とは区別される内在物の表現方式、現象形態であるということです。例えば、一クオーターの小麦=aツェントネルの鉄と言うような方程式は、何を意味するのか? 二つの異なった物が等しいと置かれるのは、異なった二つの物のうちに同一の大いさのものが、共通のものがあるということです。二つの物は一つの第三のものに等しい。この第三のものは、それ自身は、前の二つの物のいずれでもない。両者の各々は、交換価値であるかぎり、この第三のものに制約しうるものでなければなりません。

 

では、この内在物とは何か? それは商品体の使用価値、有用性を捨象した後に残るもの、交換価値であり、交換価値においては商品を生産する具体的な労働形態も捨象されます。従って、残るのは単なる抽象的な人間労働の生産物であるということだけです。共通なる一般的な人間労働の生産物に制約されて初めて、両者が等しいとされるのです。異なった使用価値を交換するのですが、交換価値=価値としては同質・同量が交換されるのです。そして、この二つの商品の交換は商品A=商品Bの価値関係においては、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となります。商品Bの肉体は商品Aの価値を映し出す鏡となるのです。商品Aは、商品Bを価値体(人間労働の対価物)として認め、商品Bと関係することによって商品Aは、使用価値Bを、商品A自身の価値表現の材料とします。そうすることで商品Aの価値は、商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値形態を得ることができるのです。

次回は相対的価値形態の量を規定するものについてです。

 

                             

2017年11月 5日 (日)

2017年10月22日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の後半部分から、国民文庫版では第1分冊187頁、A「商品の変態」の項目の14パラグラフ「G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。・・・」、岩波文庫版第1分冊195頁、a「商品の変態」の項目15パラグラフ「G-W商品の第二、または終局的変態、すなわち、買い。・・・」からを学習する予定でしたが、前回までの復習に時間がかかり、また参加者からの質問でかなり議論になりましたのでテキストには入りませんでした。というわけで今回はこれまでの復習の報告と議論の紹介をさせてもらいます。

 

学習会の内容および議論の紹介

1節「価値の尺度」についての復習

これまで貨幣については、第1章の第3節「価値形態論」の中や第2章の「交換過程論」の中で論じられてきました。前者では、貨幣生成についていかにして商品の中から貨幣は生まれるのかということが明らかにされ、交換価値論では商品に内在する矛盾が交換過程の場面で現実のものとして表れる中で、この矛盾を媒介するものとしての貨幣登場の必然性が明らかにされました。

これらの叙述を受け第3章では貨幣の様々な機能について展開されています。

とりわけ第1節「価値の尺度」では、貨幣の最も本質的で重要な機能、第1の機能として価値尺度機能について述べられています。

 価値尺度機能とは、貨幣以外の諸商品の価値を示し、かつその価値の大きさを価格として表現する機能のことです。これが貨幣の一番の本質的な機能です。貨幣には価値尺度機能以外にも流通手段としての機能や支払い手段としての機能などがありますが、第1の機能はこの価値尺度機能です。

 ところで我々が一番なじみのある価値表現は、価格(〇〇ポンド、△△円)でしょう。しかし、価格とは一体何でしょうか?

 これまで見てきたように貨幣が成立すると、商品世界の他のすべての商品は、この貨幣商品により価値が表現されます。どんな商品も貨幣と等置されることにより、それがどんな種類の具体的労働であるかに関わらず、人間労働一般、すなわち社会的労働の産物として示され、かつその価値の大きさも貨幣商品である金の重量により表現されるようになります。

 この商品の価値の、貨幣商品である金の量による表現がまさに価格(形態)ということなのです。ですからこれは x量のA商品=mgの金 とか y量のB商品=ngの金 等の価値の表現の形です。これを金の一定量を基準としてそれにポンドとか円とかの貨幣名を与えると さきほどの価値表現は x量のA商品=αポンド

とか y量のB商品=β円 という形になります。事実、戦前の日本でも1円とは金0.75gの価値をあらわすものでした。

 こうして貨幣以外のすべての商品は貨幣によりその価値がしめされ、その価値の大きさも貨幣量により計られて表現され、価格がつきます。こうなると諸商品は相互の価値の大きさの比較も容易になります。

 このように貨幣の価値尺度機能とは、諸商品を価値として示し、かつその価値の大きさを価格として表現し、相互に比較可能なものとします。

 

2節「流通手段」 A「商品の変態」 前半部分の復習

2節では、流通手段としての貨幣がとりあげられています。すなわち商品流通を媒介するものとしての貨幣です。商品流通はW-G-Wすなわちある商品が貨幣へと転化し、それが再度商品へと転化する形をとります。これを資本論では「商品の変態」と呼んでいます。各々の商品生産者にとって商品交換の目的は、彼が生産した使用価値-―彼自身にとっては非使用価値――を譲渡し、交換することにより他人が生産した使用価値――彼自身にとっての使用価値――を手に入れることが目的です。また社会的にみても商品生産は、直接に社会的な生産ではなくただ互いの私的労働を相互に価値として交換しあうことのみを通じて社会的生産として成り立ちうるものです。そうした点からすれば商品流通は社会的物質代謝として考えられます。この点からすると商品流通は生産物の交換が目的でありすなわちW-W、商品と商品の交換が目的です。

ここでの貨幣Gはこの商品の変態にとっては目的ではなく、商品の貨幣への変態は一時的なものですし、あくまでこの貨幣Gは最初の商品自身の価値としての姿――価値姿態、貨幣姿態――にすぎません。

しかし、この前半の変態W-G、商品の貨幣への変態は、容易なものではありません。先ほども述べたとおりここでの目的は貨幣ではなく最初のWがそれとは異なる使用価値のWに転換されることです。しかし、商品は直接に目的とする他の商品に代わることはできません。商品は一度貨幣に転化しなければなりません。商品は貨幣へと転化することではじめて社会的なものであることが示されるのです。ですから「商品は、貨幣を恋い慕う」のです。商品は貨幣へと転化しなければなりません。そうしなければその商品とその商品を生産するのに費やされた労働の社会的性格が認められません。また当然ですが目的の商品(W-G-Wの後ろの方の商品)へと変わることもできません。(これと比較して後半のG-Wは、それほど困難ではないといえるでしょう。なぜなら貨幣は、社会的労働の最も妥当な形態としてこの商品世界では認められた形態であり、それゆえどんな商品とでも直接に交換可能な形態だからです。)

この前半の変態はW-Gですが、それは貨幣所有者の側から見れば逆の変態G-Wでもあります。ここで最初の商品をリンネルとするとこの変態はリンネルー貨幣ということになりますがこれはリンネル所有者からみた場合で、これを貨幣所有者の側からみれば自分の貨幣を手放し、それを商品リンネルに変えることになります。

 

〇質問・意見等

 今回は、これまでの復習のみとなり、それに関する質問はありませんでした。しかし、参加者の方からこれまで疑問だったことが寄せられましたのでそれに対するレポーターの説明と併せて紹介します。

 

◎議論となったのは、価値と価格の関係で現代の資本主義において、労働価値節で現実の商品の価格を説明できるのか、ということでした。

以下では、参加者の質問発言をAとし、レポーターの発言をBとし主なやり取りを紹介します。

A;「自動車や鉄鋼などの資本が自動車や鉄などの商品を作る場合、その価格は、生産手段等の費用に労働者の賃金をプラスしたものに、その上に利益(利潤)をプラスしたものになるのではないか?こうして成立する価格は、生産に必要な総労働量によって規定される価値の大きさにマッチしないのではないか?」

B;「現代の個々の商品の価格は、直接に価値とは一致しません。これは資本論第3巻でそれぞれの商品の価格は、直接価値量によって規定されるのではなく、生産価格によって規定されると述べています。しかし、この生産価格の形成も、労働による価値の規定からちゃんと説明されています――というより労働価値論からのみ合理的に説明しうるものですが。厳密ではないかもしれませんが、資本主義的商品の価格は、直接に価値によって規定されていないが、究極的には価値論(労働価値説)から説明できるし、またこれのみが正しい説明だといえるのではないでしょうか。それに資本論の第1巻、特に冒頭の数章では、商品の価値を規定するものとしてやはりシンプルに労働価値説から説明されていますが、これはここでの商品が単純な商品、つまり剰余価値、利潤等を捨象された商品だからです。もちろん我々が見るのは剰余価値、利潤が含まれた商品ですが、それらをちゃんと理解するためには、まずは商品一般、(論理的な意味での)単純な商品が何によって規定されたものか、どんな基本的な生産関係が背景にあるものかをまず知ることなしには、それよりずっと発展した関係を含む現実の商品のことをちゃんと理解するのは困難だからです。ですからまずはここでは商品の価格と価値は一致したものとして考えた方がよいと思います。」

A;「しかし、労働者の労働といっても、高度な技能労働と単純な労働とは随分違うし賃金も実際異なると思うが、そうした違いから考えると、労働そのものから単純に説明しがたいのではないか?」

B;「賃金と労働者が実際に働く労働とは違います。賃金はあくまでも資本家が買う労働者の労働力商品としての価格です。労働力商品の価格は、基本的には労働者の労働力の再生産にかかる費用で衣食住等の諸費用です。この価格と実際労働者が資本の下でどれだけ働くかは直接に関係ありません。資本家の立場からすれば、賃金として支払う部分に相当する労働量より、実際に働かせて生みだす価値量の方を少しでも多くしようと考えるでしょう。この差額がいわゆる剰余価値です。これが資本家の利益の源泉です。また複雑労働と単純労働では確かに価値の大きさが異なります。第1章の第2節で述べているようにこれは複雑労働も単純労働に還元されますので労働価値説には矛盾しません。」

A;「そうすると資本家の利潤取得は、不正な取得ということになるのではないか?ごまかして不正を働いている資本もあるが、そうでない資本もあると思うが、そうした場合利潤はどこから来るのか?」

B;「(生産的な)資本の剰余価値の取得は不正とかではないです。むしろ正常な関係というべきでしょう。資本家が労働者に払う賃金は、市場で決まる労働力商品の価格通り払います。そういう意味では対価――この対価は決して、彼が実際に資本家に提供する労働の対価ではありません!――を支払うのです。これはこの社会では資本を所有するものと、労働力(のみ)を所有するものとの、商品所有者同士の関係としては対等な契約関係にすぎません(もちろん形式上ですが!)。ですが資本家が買うのは労働者の労働力の使用権であり、他方労働者が資本家に売るのは彼が提供する労働そのものではなく、ただ彼の労働力そのものにすぎません。もし労働者が、彼が提供する労働そのものを売ることができたら搾取は不可能であるかもしれません。ですが彼が売り渡したものは労働力であって、その使用権を資本家にあたえたわけです。ですからどれくらい働かせるかは資本家の裁量です。ここで賃金、労働力の価値に相当する労働時間と同等あるいはそれ以下しか働かせない資本家というものは普通ありえません。仮に存在しても激しい資本同士の競争戦から彼は手持ちの資本もすぐに枯渇させ、没落する以外ないでしょう。」

A;「賃金は労働に応じて支払われているのではないか?例えば、時間に応じて支払われたりする」

B;「時間給とかですか。労働時間に比例した形で支払われるというのと。実際に支出した労働時間に、つまり労働量に応じて支払うというのは全く別なことです。賃金形態の一つの時間給というのは、実際に支出した労働に応じて支払われているわけではありません。それは時給900円だとすると、ここにすでに剰余労働分が存在するのです。これは別に資本家の不正とかいう問題ではありません。時間に比例して支払われるということと実際に支出した労働(量)に応じて支払われるということは全く別なことです。」

A;「剰余価値を生みだすのは、生産的資本のみだとの説明があったが、それだと生産的部門以外の資本の利潤はどうなるのか?」

B;「資本論第1巻では、資本としては基本的に生産的な資本を前提にして述べています。第1巻のタイトルが資本の生産過程とあるのはそういうことだと思います。現実には生産的資本以外にも、流通を担う流通資本とか、貨幣を取り扱い貸し出す金融的な資本もあります。しかしそうしたより発展した資本を理解するためには一番の基礎的資本である生産的資本を理解することが何より肝要だからです。実は、生産資本以外の資本は、生産資本からすべて派生したものなのです。資本とは、自己増殖を続ける価値――平たくいえば何らかの形で投資して利潤(もうけ)をえてそれをどんどん増やすことを目的とした企業活動――とも言えますが、では価値とは何かといえば人間労働が生産物に対象化したものであり、それは生産活動以外に源泉はありません。つまり資本も人間の生産活動が源泉なのです。回り道をしましたが、生産的部門以外の資本の利潤や様々な儲け(利子等)も生産的資本が生み出す剰余価値が源泉であり、資本家的分業関係の中で、その剰余価値の中から分配されているものにすぎません。ですから銀行の利子も金融業自体から機能的に生み出されるものではなく、源泉は生産的資本が生み出す剰余価値の一部であるにすぎません。」

«2017年10月8日学習会の報告