2017年8月16日 (水)

2017年7月23日学習会の報告

「資本論通常講座」は、第三章「貨幣または商品流通」の第二節「流通手段」の「a商品の変態」の第9段落「W-Gすなわち、商品の第一の変態または売り。…」~第13段落「言葉を変えていうと、売りは買いである。W-Gは同時にG-Wである。(66)注釈」(岩波文庫版第1分冊188頁~193頁)、第9段落「W-G、商品の第一変態または売り。…」~第12段落「言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである。六六注釈」(国民文庫版第1分冊191頁~195頁)を学習しました。

 

※第二節は岩波文庫版第11段落と国民文庫版第10段落とは同じ内容です。なぜかと言いますと、岩波文庫版の第10段落と第11段落に分かれている箇所が、国民文庫版では第10段落として一つの段落になっているからです。したがって、この箇所から第二節最後までは両文庫は段落がずれています。

 

学習会の内容

 

 これまで見てきたように商品の流通過程は、商品―貨幣―商品 W-G-W という商品の形態変化を伴って行われます。この運動を結果からみれば、W-Wでそれは素材的な面(社会的有用物の転換)からみれば、社会的労働の物質代謝であります。

 この商品の形態変化をここではまず前半のW-Gをとってその変化の性格や内容を見ていきます。

 W-G第1の変態または売り。これは素材的な面だけを見るならただある商品が金に変わっただけに見えます。ですがマルクスは、この第1の変態を商品の命がけの飛躍と呼んでいます。このW-Gの内容は、はじめに商品の形態で存在していた価値が、貨幣形態、すなわち金体に変化するということです。貨幣、金体も本来商品であったはずですが、ここでは金がすでに普通の商品とは異なる貨幣として存在しているのですから、ここでの変化は、普通の商品からそれとは質的に異なり相対立する貨幣、金体へと転換されたということを意味します。

 ではこの商品の貨幣への転嫁が、命がけの飛躍であるとはどういうことでしょうか?

「商品は貨幣を恋いしたう」(国民文庫版194頁)とは、商品が貨幣に転化しなければならない必然性がありながらも、商品の貨幣への転化は容易な過程ではないということの例えだと思います。

 我々の知っている社会では、分業は労働生産物を商品に転化させ、そうして労働生産物の貨幣への転化を必然にしますが、他方でこの分業がこの労働生産物(商品)の貨幣への転化が成功するかどうかを偶然にしてしまいます。

 ある生産者の個々の生産物が確かに有用物であったとしても、それは他の生産者らが同じ商品を市場に供給して、この生産者が彼の生産物を市場に出す際には、既に社会的必要量を上回って過剰をとなるかもしれません。そうなれば彼の商品は売れずに、貨幣への転化は失敗することになり、彼の労働は社会的有用労働とはなりえません。この社会では、社会的欲望の総量にたいしてどの有用物がどれぐらい生産されるかは、個々の私的生産者達の無政府的な生産の結果でしかないのであり、社会的欲望(必要)に対して均衡的な生産(供給)がなされるかどうかは偶然でしかありません。

 また仮にある生産者の生産物が社会的有用物として認められ貨幣に変わることができるとします。しかし今度は、どのぐらいの貨幣に変わるのかということが問題となります。

 例えば、リンネル生産者が彼の20エレのリンネルを市場に出すとします。この20エレのリンネルを織る社会的労働(時間)に相当する貨幣での価値表現(=労働の貨幣名)が2ポンドスターリングとします。

 このリンネル生産者が20エレのリンネルを織るのに、実際には社会的労働時間より多くかかったとします。仮に1.5倍の労働時間が必要だったとすれば、彼の個別的労働時間からみれば2ポンドではなく3ポンドということになりますが、しかし市場では2ポンドとしてしか通用しません。1ポンド分は過剰ということですが、リンネル生産者が自分のリンネルを貨幣に変えるためには、この分は泣く泣く我慢せざるをえません。

 また仮に彼のリンネル生産に要する時間がちょうど社会的労働時間と同じだった場合、この場合彼のリンネルも2ポンドスターリングでちょうどその商品に対象化された社会的労働量に等しいということになります。

 しかしこの場合でも、彼の知らないうちにリンネル織物業の生産条件が激変――例えば新しい機械の導入などの技術革新があり、それが急速に浸透していくような場合――すれば、彼の20エレのリンネルの価格、2ポンドは高すぎる、それは過大ということになります。そうすればリンネル生産者は、彼の支出した労働時間からすれば低すぎる価格でも売ってしまうか、それとも売るのを諦めるか苦渋の選択を強いられるかもしれません。

 このように分業は、確かに労働生産物を商品に転化させ、かつその商品を貨幣に転化するのを必然にしますが、他方で、商品から貨幣への転化の過程を命がけの飛躍――なぜならこの転化がなされなければ、その商品は無意味なものとなるし、それに支出された生産者の労働も無意味とならざるをえません。これは確かに商品にとっては痛くもないかもしれませんが、商品生産者にとっては極めて痛いはずです。――の過程にするのです。

 このように各々の生産物に含まれる労働が社会的なものとして実証されるかどうかは、我々が考察する分業社会では、偶然的な事情によります。仮に社会的労働として認められてもそれは個々の生産者が実際に支出された労働量より過小に評価されることもありそれらの要因が商品を貨幣に転化することの困難にもなります。

しかし、ここでは、商品の変態について、その過程を純粋に考察するために、同一種類の商品片であれば、同一の労働量(時間)が含まれているものと仮定します。例えば、20エレのリンネルであれば、どの生産者のも同じ社会的労働時間が支出されたものとして仮定します。仮にその労働量の貨幣名が2ポンドスターリングであれば、どの20エレのリンネル片もやはり2ポンドスターリングということになります。このように仮定するのは、ここでの課題が、商品の変態について、商品が貨幣に転化し、次のその転化した貨幣が再度商品に転化するということ、すなわちW-G-Wという商品の変態、形態転換と循環ということがいかなる意味と内容をもつかをしっかりとつかむためです。この課題のためには商品の変態について、その正常な過程――つまり商品は売れて貨幣に転化するのであり、売れないかもしれないということはここでは想定に入れないのです――を前提してまず考察する必要があります。以降は、基本的に商品の変態が正常に滞りなく進むことを前提にして考察していきます。

 商品の変態についての前半部分、すなわち商品の貨幣への転化、すなわち売りは、同時に反対の極での貨幣の商品への転化の過程でもあります。

 例えば、20エレのリンネル商品が売りにより貨幣に転化する過程は、同じ取引を貨幣所有者の立場からみれば、それは彼の2ポンドスターリングを20エレのリンネル商品に転化することであるからです。

 一つの同じ過程が二面的な過程であり、商品所有者の側からは売りであり、貨幣所有者の側からは買いであるのです。この面からいえば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wでもあります。(だからといって売りも買いも同じだとはいえません。同じ過程が、売りと買いということで対になっており、その面では同一性があるが、他方で重要な質的な違いもあるということ、特に商品が貨幣へと転化する際には、命がけの飛躍と呼ばれた独特の困難があることを踏まえておいた方がよいように思います。)

 

議論になった箇所および質問や意見

○報告者より「国民文庫版12パラグラフ、岩波文庫版13パラグラフの終わりで、商品の価格の実現は、貨幣の観念的にのみ存在する使用価値の実現でもあるというようなことが書かれているが、これは、貨幣は現実には、交換価値として存在しているにすぎないが、価格の実現は、商品が貨幣に変わり、貨幣の方は商品に変わることであるので、現実に貨幣が使用価値に変わることをさしているととらえてよいのだろうか?」との疑問が出されました。これに対しては、特に違った意見はなく、恐らくそういうことなのではないかということになりました。

○また参加者から「マルクスの時代には、労働時間によって価値が決まっていたかもしれないが、現代では労働力の価値で商品の価値も決まっているのではないか?実際に企業は、必要な生産手段等を買い、それにプラスして労働者を雇い彼らに賃金を払い、それが商品の価格の形成につながっているので、結局のところ、労働力の価値の大きさにより商品の価値も決まるのではないか?」との意見が出されました。

これに対して他の参加者より「商品の価値の大きさは労働量により決まるとマルクスはいっているのではないか?商品価格ということでは、資本家が労働者へ支払う賃金の大きさが関係してくるかもしれない。価値と価格ということは別なのではないか?価値と価格の問題を混同しているように思う。一度、価値と価格の問題を学習会の中で整理して報告してもらった方がいいと思うがいかがか?」との意見と要望が出されました。

報告者としては「今すぐに価値と価格について説明できないが、確かに重要な問題でありかつ、いま学習いしているところとも大きく関係しているように思えます。次回に、価値とは何か、価格とは何かについて再度、整理して報告したいと思います。」ということで次回の課題とさせていただきました。

2017年7月9日学習会の報告

「資本論入門講座」は、第一章「商品」の第2節「商品に表わされた労働の二重性」の後半部分の第11段落「したがって、上着や亜麻布という価値においては、…」~第16段落「…それは使用価値を生産する。(16)注釈」(岩波文庫版第1分冊84頁~88頁)、「こういうわけで、価値としての上着やリンネルでは…」~「…それは使用価値を生産するのである。一六注釈」(国民文庫版第1分冊88頁~92頁)を学習しました。

 

学習会の内容

 先ず「資本論を読む会便り」7月号で、「商品に表わされた労働の二重性」の前半部分の復習を行った後、後半部分を学習しました。

 

 「資本論」の冒頭で、商品には使用価値と価値の二つの側面があることを学んできましたが、商品を生産する労働にも使用価値と価値を生産するといった二つの側面があることを学習しました。

 使用価値を生産する労働=有用労働は、使用価値の異なるのに応じた質の異なる有用労働ですが、一方の価値を生産する労働は、様々な使用価値を生産する異なった質の労働の側面は捨象した労働です。すなわち抽象的な人間労働一般であり、人間が頭脳や身体能力をもって自然に働きかけ、人間が使い易いように自然を変えていくことを言っています。

 

さて、使用価値が異なる二つの商品が等しいと置かれるのは、お互いの欲望はさておいて、一体、何が等しいのかが問題なのです。異なる使用価値は別にすると、両者に残るものは人間労働が体現された生産物であるということ以外ありません。しかし、両者に人間労働が体現されているといっても、上着を作る裁縫労働と亜麻布を織る機織り労働は、全く異なった労働です。このような具体的な労働の側面からは、両者が等しいということには行きつきません。そこで、両者の具体的な有用労働の側面を捨象してしまうと、残るのは単なる人間労働一般ということになります。このようにして、どちらにも共通の人間労働一般の生産物であることによって初めて比較が可能になります。

 

生産物の比較は、生産に費やされた労働・価値量がどれだけかということであり、具体的には労働時間で数えられます。上着1着が亜麻布20エレと等しいと置かれるのは、両者を生産するのに同じ時間の人間労働が費やされているということです。ですから上着2着であれば亜麻布40エレに等しくなります。それでは、手間暇かかった上質の上着1着を亜麻布と比較するとどうなるかと言えば、上質の上着1着の生産に費やされた労働時間と同じ時間で生産された亜麻布50エレと等しいというように比較されるのです。ここでは、手間暇掛けた複雑労働は、単純労働の数倍というように数えられます。

 

現在のように、機械化が進み素材的富の増大=大量生産が行われるようになると、その価値・労働時間は同時に低下するということが起こります。すなわち、少ない労働で今迄と同量の生産ができるようになります。あるいは今までと同じ労働で今迄の数倍の生産が可能となります。一方、生産力の低下においては一定の労働の生産物は小さくなります。

有用労働は、生産力の増大あるいは低下と正比例してより豊富な生産物を生み出すこともあれば、より少なくしか生み出さないこともあります。同一の労働は、同一の期間に、生産力がどのように変化しようともつねに同一の大いさの価値を生みます。他方生産力は、生産力が増大すればより多くの使用価値をもたらし、低下すればより少なくなります。労働の生産度を増大させ、使用価値の量を増加させる生産力の変化が、その生産に必要な労働時間の総計を短縮するのであれば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。逆の場合、労働時間の総計が増大するのであれば、価値の大いさを増大させます。

 

 商品に表わされた労働の二重性とは、

 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すべての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する。」

2017年7月 9日 (日)

2017年6月25日学習会の報告

今回から第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」に入り、項目A「商品の変態」の最初(国民文庫版第1分冊188頁、岩波文庫版第1分冊185頁――以下それぞれ国民文庫、岩波文庫と略す)からこの項目の8パラグラフ「その素材的内容からみれば、この運動はW―W、商品と商品との交換であり、社会的物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。」(国民文庫191頁)「W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。」(岩波文庫188頁)までを学習しました。

 

 学習会の内容

 

 商品の交換過程は、商品がその持ち手を変え、それを非使用価値である人の手から、それを使用価値として必要とする人の手にわたる持ち手の転換であるという点で考えると、それは社会的物質代謝です。しかし、物質代謝といっても商品が交換されそれが消費されるということは、ここでは考察の対象になりません。ここでは商品交換がどのような形でこの物質代謝を媒介するのか、つまりその際にとる商品の形態の変換、いわゆる“商品の変態”のあり方を考察していきます。

 

 この形態転換の理解が難しいのは、それが普通の商品と貨幣商品の交換においてなされるからです。この際、普通の商品と金が交換されるという素材的側面にとらわれるとこの形態上の変化を見落とすことになります。商品交換は、最初に第一の商品がありそれが貨幣と交換されて貨幣に転化し(第一の変態)、再びその貨幣が第二の商品と交換される(第二の変態)という形態をとります。すなわちW(商品)―貨幣(G)―商品(W)であり、商品交換は二つの相対立する変態から成っています。これは結果からみれば,W-Wであり、ある有用な労働生産物が別の有用な労働生産物と交換される過程でありその意味で社会的労働の物質代謝です。

 

 こうしたW-Wを媒介するものとしてのG貨幣は、商品の形態変化の一つであるということです。いわばこれは商品が貨幣形態をとって表れたものであり、またそれは最後には商品(形態)へと回帰していくのであり、その前段の形態(商品の貨幣姿態)にすぎないということです。

 

 商品は、使用価値であるとともに価値でもあり、またこの二つの相対立した契機を内在させた統一物でもあります。この使用価値と価値の対立は、価値関係において自らの価値を表現する商品(相対的価値形態側の商品)と価値表現の材料となる商品(等価形態側の商品)という形で価値表現の両極として外的な形で現れます。またこの価値関係は発展して最終的に貨幣によってその価値が表現される他の諸商品と貨幣という形で完成されます。つまり使用価値と価値の対立が、貨幣以外の諸商品と貨幣商品という形の外的な対立として現れるのです。これはいいかえれば商品に内在する使用価値と価値の対立が、商品の、商品と貨幣(商品)とへの商品の二重化という形で現れることでもあります。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対することになります。しかし他方で商品は、使用価値と価値の統一物です。ではそれぞれの性格はどのように表されているのかといえば、それは両極にそれが現れているのです。

 

商品は実在的には使用価値としてあります。ではその価値存在はどこに表れているのかといえば、価格という形で観念的に現れているだけなのです。貨幣により価値が表現されそれが価格という形態であらわされるなら、商品の価値存在、価値性格は価格の形態であらわさているのです。

 

他方、貨幣材料の金の方は、実在的には交換価値として存在しているといえます。しかし、貨幣材料としての金も、元来使用価値があり、金も商品として価値のみならず使用価値も併せ持っているからこそ貨幣の地位に就くことができたのです。では貨幣としての金の使用価値はどこに表されているのか?通常、貨幣商品は、他の諸商品と違い価値表現から排除されています。商品世界の中で価値表現から排除されている唯一の商品だからこそ、その商品世界で一般的な等価として、一般的で妥当な価値物として、つまり貨幣に地位に就くことができるのです。では貨幣商品の価値は、どのようにして表現されるか?それは物価表を逆に読む形で、つまり普通価値表現では20エレのリンネル⇒2オンスの金、1クオーターの小麦⇒2オンスの金というように読むが、これを反対から読むと2オンスの金⇒20エレのリンネルまたは1クオーターの小麦という形で2オンスの金の価値がリンネルや小麦で表現されています。

図①通常の価値表現

      20エレのリンネル  =

      1着の上着      =

      10ポンドの茶    = 2オンスの金                                       1クオーターの小麦 =

        等々の商品   =

図②貨幣商品である金の価値表現

 

                = 20エレのリンネル

                = 1着の上着

          2オンスの金 = 10ポンドの茶

                = 1クオーターの小麦

                = 等々の商品

※図①、図②とも価値表現式は、左辺から右辺へと読む。

 図①では 20エレのリンネル等々は、2オンスの金に値する。

 図②では 2オンスの金は、20エレのリンネル等々に値する。

図①は通常の価値表現でこれは左辺の諸商品の価値が統一的に貨幣金により表現されている形態ですが、他方図②は、これとは逆に貨幣商品金の価値が右辺の諸商品により表現されています。 

これは金という使用価値の商品の価値が表現されている形態です。つまり金の使用価値は図②での右辺の諸商品により「その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において」(国民文庫189頁)観念的に表されているのです。

 

 このように商品は、実在的には使用価値として存在し、その価値としての存在はただ価格という形で観念的に表現されているだけなのですが、しかしそれが社会的有用物としてのみでなく、それを生産する労働が社会的総労働の一環であることを実証するためには、使用価値としてだけでなく、価値としても実現されなければなりません。まさにこの二つの要素を実現するものこそ商品の交換過程だといえるでしょう。ですから商品交換においては、商品は観念的な貨幣ではなく、現実の肉体を持った貨幣へと転化=転態する必要があるのです。これは商品が使用価値の姿を脱ぎ捨てて、価値としての姿に変態することであるといえます。そして今度は再び価値としての姿――貨幣姿態――から再び使用価値の姿に戻るのです。つまりW(商品)―G(貨幣)―W(商品)であり、「商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態――商品の貨幣への転化と貨幣から商品への再転化とにおいて行われる」(国民文庫190頁)のです。 この二つの変態は、同時に商品所有者の諸取引――売り(W-G)と買い(G-W)であり、この両者の統一です。

 

 
 議論になった箇所および質問や意見

 

○「それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現れているだけである。」(国民文庫189頁)という箇所の意味が問題になり、この個所の「その使用価値」が何をさしているのかが問題となりました。ちなみに岩波版の訳では「したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現れるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。」(岩波文庫186頁)となっています。

 

 ――報告者は、ここの使用価値の意味を、金が貨幣となることにより一般的に交換価値として役立つという独特の使用価値の意味ではなく、本来の使用価値の意味、金という生産物の有用性――例えば、金はレアメタルとして貴重な工業材料として有用であるとか、あるいは宝飾品の材料として役立つ等々――と解釈し説明しました。

 

 説明内容は、図①と図②をもちいて報告内容の波線部分の形で行いましたのでで、ここでは省略します。

 

 この説明に対しては、これ以上意見も出ませんでした。

 

 ――ただここに関連して貨幣にも使用価値があるのかという疑問が出されました。これについては、「やはり貨幣である金もこれまでの資本論の説明から考えるとやはり一種の商品であり価値のみでなく使用価値も持っていると考えるべきではないだろうか。金も価値とともに使用価値を併せ持つ商品だからこそ貨幣の地位にも就くことができたのではないか。」と説明しました。

 

○商品の二つの変態、商品の貨幣への転化と貨幣から商品への再転化というが、売りと買いということで対称的なものか?という質問がありました。

 

 ――確かに売り手からみてW-Gは、買い手から見ればG-Wであり、同じに見えます。しかし前半の変態、商品から貨幣の変態は、その商品の買い手が市場に存在しなければ成立しません。商品はつくられてもそれが果たして売れるかどうかは分かりません。その意味でマルクスはこの商品の貨幣への転化は、命がけの飛躍といっています。一方、後半の貨幣から商品への転化は、これは恐慌とかの経済的混乱期でもない限り必ずなすことができます。なぜなら貨幣は商品であればどんなものとも直接に交換可能であるからです。ですからこの商品の変態W-GとG-Wは、むしろ非対称だといえます。

 

――この「命がけの飛躍」について参加者の方から、マルクスの「経済学批判」で最初に述べられており、参考にこの部分を紹介したらどうかという貴重な意見があり、当日紹介できなかったのでここに紹介します。

 

マルクスは,W-Gすなわち商品の販売過程の説明として商品が売れて貨幣に転化することを説明して次のようにいっています。

 

「だがこの困難、商品の salto mortale《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。一トンの鉄は、その譲渡によって、つまりそれが非使用価値である人の手から使用価値である人の手にうつることによって、自分を使用価値として実現し、同時にその価格をも実現して、ただ表象されるだけの金から現実の金になるのである。一オンスの金のよび名、つまり三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一にかわって、いまや一オンスの現実の金が登場してきた、だが一トンの鉄は退場してしまったのである。販売W-Gによって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているにすぎなかった金が、現実の貨幣に転化されるのである。」(カール・マルクス著『経済学批判』大内力他訳岩波文庫110頁から111頁)

 

 

 

 

2017年6月11日学習会の報告

「資本論入門講座」は、今回から第1章「商品」の第2節「商品に表わされた労働の二重性」に入りました。第1段落「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、…」(岩波文庫版第1分冊78頁)、「最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、…」(国民文庫版第1分冊82頁)から第10段落「(一五)…まだ問題にはならない。」(岩波文庫版84頁)、「一五…まだ全然存在しないのである。」(国民文庫版88頁)を学習しました。

 

学習会の内容

 

 商品に表わされた労働の二重性       

 

 商品は使用価値(有用性)と交換価値(社会的なものであり、商品の生産に必要な社会的な労働時間が対象化されたもの)という両面的・二面的なものとして現われることを学びました。そして、商品交換は使用価値が異なる労働生産物の量と量との交換ですが、何故に異なった使用価値が等しいと交換されるのか。それは二つの商品には使用価値とは違った同一のものが存在しているからであり、それが交換価値・価値なのです。交換価値・価値に表わされるところの社会的抽象的人間労働においては、使用価値を生産する有用労働のそれぞれの違いはなくなり、あるのは、社会的な抽象的人間労働だけでしかありません。交換価値・価値においては、個別の具体的有用労働といった側面は捨象され、これらの労働生産物は、なんら区別のない社会的抽象的人間労働が対象化されている労働生産物であるということだけを考察します。労働生産物が商品として交換されるということは、この労働生産物が自給的なものや年貢や税としてではなく、商品交換によって社会的に消費される労働生産物であるということを認められるということです。

 

 まずは、使用価値を生産する労働について検討しました。使用価値を生産するための生産的活動を有用労働と呼びます。商品体総体のうちには、様々な使用価値とともに多種多様な有用労働が存在します。それは社会的分業として現われています。この社会的分業は、商品生産の存在条件としてあります。しかし、逆に商品生産が社会的分業の存在条件としてあるのではありません。なぜなら、古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されていましたが、生産物は商品とはなりませんでした。また、工場では労働は分割されていますが、この分割は労働者が個別の労働生産物を交換するということによっては媒介されていません。ただ、独立に行われていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対します。社会の生産物が商品という形態をとっている社会、商品生産者の社会では、独立生産者の私事として互いに独立に営まれる様々な有用労働の質的な相違が、一つの多岐的体制に、すなわち社会的分業(個々の作業場の内部で行われる分業とはことなり、様々な専門的職業に組織された社会内部の分業をいう)に、発展するのです。次に『資本論辞典』(青木書店)の社会的分業の説明を紹介します。

 

 「社会的分業は、相対立する出発点から二重に発生する。一方では、一家族の内部に、さらに発展すれば一種族の内部に、性や年齢の相違という純生理的な基礎のうえに分業が自然に発生し、共同体の拡大・人口の増大・部族間の闘争や征服とともにさらに発展する。他方では、これらの独立した共同体の接触によって剰余生産物の交換がはじまり、その間にあたらしい社会的分業が成立する。個々の共同体は、その自然的条件、したがってその生産方法や生活様式、生産物を異にし、独立した異種の生産部面を形成していた。商品交換は、このような自然発生的相違によって起こり、これらの独立した生産部面を結びつけてたがいに依存しあう社会的総生産の諸部門に転化する。ここに第二の社会的分業が発生します。

 

商品交換は交換のための商品生産を発展させるが、商品生産は社会的分業なしには存在しえない。しかし社会的分業は、生理的分業にみたように、商品生産なしにも存在しうる。歴史的には、交換によって媒介された最初の大きな社会的分業は牧人種族の独立によって成立し、第二の大きな分業は手工業の農業からの分離によって成立した。ことに都市と農村のとの分離・対立によって、これら分業の基礎は確立し発展した。なお、こうして自然発生的に成立した社会的分業は、資本主義的生産の発展とともに、きわめて無政府的なものとなります。」

 

 商品体は、自然素材と労働との結合物です。そして、商品に含まれている様々な有用労働そのものを取り払ってしまえば、物質的な土台が残りますが、それは人間の助力なしに天然に存在するものです。人間は、ただ素材の形態を変えることができるだけですが、この形態を変化する労働そのものにおいても、人間はつねに自然力に支えられています。自然素材からできた様々な機械や道具しかり。すなわち、労働は、労働によって生産される使用価値、素材的富の、唯一の源泉ではないのです。ウィリアム・ペティが労働は素材的富の父であり、土地(自然素材)はその母であると言っています。

 

 

次に商品の価値を少しですが検討しました。1着の上着の価値が10エレのリンネルの二倍の価値をもっているとすれば、20エレのリンネルは1着の上着と同じ価値量をもっている。価値としては、上着とリンネルとは、同じ実体をもった物であり、同種の労働の表現です。上着をつくる裁縫労働とリンネルを作る織布労働とは質的に異なった労働です。しかし、労働の有用的性格を無視すれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということです。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働です。商品の価値は、具体的な労働の差異がまったくない、人間労働一般の支出を表わしています。ブルジョア社会では、将軍や銀行家は大きな役割を演じている一方、ただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じていますが、これは人間労働においても同様です。ここの人間労働においても同様というのは、ひどくみすぼらしい普通の人間の労働が単純労働をおこなうとすれば、将軍や銀行家の労働は単純労働を数乗した複雑労働をおこなっているということを言っています。

 

 ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置します。その場合、複雑労働の生産物はただ単純労働の一定量を表わしているにすぎません。いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われます。以下では、換算の労を省くために各種の労働力を直接に単純労働力とみなします。

 

 

参加者からの質問や意見

 

 

 ○『第8段落最後の「労働は素材的富の父であり、土地はその母である。」のその母として土地がいわれているが、土地だけがそうなのか?』との質問がありました。この箇所では、様々な商品体は、自然素材を労働によって形態変化をおこなうことによって、使用価値・素材的富と成します。ですから、労働だけが使用価値・素材的富の源泉ではありません。自然素材があってそれに働きかける、形態変化をおこなうといった、自然素材と労働の二つの結合によって素材的富・使用価値が生まれます。ここでは、素材的富・使用価値を子にたとえて、父である労働と母である土地から素材的富=労働生産物がうまれると表現しています。しかし、労働の対象である自然素材は、なにも土地だけではありません。あらゆる自然素材(母)は人間の労働(父)によって新たな使用価値・素材的富(子)に生まれ変わります。

 

2017年6月15日 (木)

5月28日の学習会の報告

今回は、第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度」の第16パラグラフ(国民文庫版第1分冊p181)「こうして、価格、または、商品の価値が観念的に転化されている金量は、・・・」からこの説の最後まで(国民文庫版第1分冊p187)「・・・それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」の箇所を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

○前回の報告内容の訂正

 前回の学習会の中で報告者の報告の中で謝った説明があったので学習会の冒頭で説明がなされました。

「いま学んでいるところでは、貨幣商品である金の価値尺度機能について触れられていますが、果たして現代でも金が価値尺度機能として機能しているかということが問題になりました。前回報告者は、現代では金と貨幣(おカネ)の結びつきは一切断たれています。現在では、各国通貨は金との兌換を保障していませんし、戦後かろうじて米ドルを通じて結びついていたものも1971年のニクソンショック以降完全に断たれています。ですが、現代でも価値尺度機能としては金がバックグラウンドで機能しているのではないかと発言しました。

 しかし、現実の現代の経済現象等を見ると、激しインフレやあるいは長期にわたる慢性的なインフレが生じたり、他方で株や土地が途方もない価格がついてバブルが生じたりとといことが頻繁に起こるようになってきています。こうした現象は、金が価値尺度といて機能していれば説明がつかないことです。やはり現代においては、金は価値尺度としても機能していないだろうというのが正しい評価だと思います。前回の報告を訂正します。」

 

学習会の内容

 商品の価格とは、前回の学習で学んだように、商品の価値表現の一つの形態です。貨幣が登場してからはあらゆる商品が貨幣によりその価値を統一的に表現します。ここでは、貨幣商品以外の全ての商品が、貨幣である金の数量で価値の大きさが表現されるようになります。具体的には、諸商品の価値が、貨幣商品である金の重量によって表されます。例えば、a量のA商品=金ⅹg、b量のB商品=金yg、c量のC商品=金zg等々。

このまさに貨幣諸品である金の量で表現された価値の表現形態(=金○○gまたは△△ポンド等々)が商品の価格ということです。しかし、こういう形で金の重量で諸々の商品の価値が表現されるにしても、これらの金量を計る基準がないと比較のしようがありません。イギリスではポンドという形で、貨幣名と金属重量名が同じになっていますが、それは貨幣の単位であるポンドがもともとは物の重量示すポンドに由来しているからです。

たとえば、この基準はイギリスでは1ポンドであり、戦前の日本では金750ミリグラムでした。ですから日本では、この金750mgを1として様々な金量――諸々の商品の価値が表現された金量――が計られたのです。これが貨幣法で定められた1円=金750mgということです。ですが実際には、金750mgより小さい価値の商品もあり、また当然金750mgを1(円)としてもそれ以下の端数も出てくるわけです。ということでさらに1円の単位をさらに100分割してその一つ分を1銭とすることになります。これはイギリスでは、ポンドの20分の1を1シリングとし、さらに1シリングは12分割されその可除部分は1ペンスと名付けられました。

 こうして1クオーターの小麦は1オンスの金に等しいというような価値表現から我々になじみのある三ポンド・スターリング十七シリング十1/2ペンスであるという表現になります。つまり諸商品の価値がこうした貨幣名で表現されるようになります。

 しかし、こうした貨幣名となるとそれがもともと何であったか不明になり、価値関係の痕跡が消すっかり消えてしまいます。それは単に物の名称を知るだけではそのものがどんなものであるかを知ることにはならないのと同様です。我々はポンドや円などの貨幣名を知っていてもそれにより表現されているものが何なのかは理解できません。この商品は○○ポンドだ、△△円だと知っていても、それが何をあらわしているかは理解できないでしょう。しかし商品の価値表現は、「このなんだか分からない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態」(=価格形態)に到達するまで発展し続けざるをえないのです。

 

 価格が、商品価値の現象形態であり、すなわち商品に対象化された労働(量)を貨幣で表現したものであるとすると、価値と価格の関係はどうでしょうか?

 マルクスは「価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である」(国民文庫版1分冊p183)といっていますが、この意味では価格は、本来的にはその商品の価値量に一致します。すなわち価値(量)=価格の関係にあります。しかし、我々もよく知っている通り、一つの商品をとっても価格というのはかなり変動します。これが価値そのものの変動に伴う場合もありますが、全く価値が変動していないにもかかわらず、変動することもしばしば見受けられます。

 このような価値と価格の乖離の可能性はどこから出てくるのでしょうか?

 価格が、商品に対象化されている労働の貨幣名であるということは、一定量のある商品に与えられた価格という形で表現されている貨幣量には、その商品に含まれている労働と同じだけの労働が含まれているということを意味します。例えば、1クオーターの小麦と2ポンドスターリング(金)が同じ労働量だとします。この場合、2ポンドスターリングが1クオーターの小麦の価格ということになります。

 しかし、事情によりこの1クオーターの小麦が1ポンドに下がったり、逆に3ポンド上昇するとします。ここではこの1ポンドは1クオーターの小麦価格としては過小であり、他方3ポンドでは過大ということになります。しかし、この1ポンドも3ポンドも小麦の価格であることには違いがありません。

 このように価値量と価格は乖離する可能性がありますが、それ(価値と価格の乖離の可能性)はまさにこの価格形態そのもののうちにあるのです。

 こういうと価値表現としての価格形態そのものの欠陥であるかに思われますが、むしろ価格形態はこの資本主義のもとでは、支出された社会的労働量により価値が規定されるという価値法則が、無政府的な資本による生産の下で、競争により盲目的に作用し貫徹される形態として最も相応しい形態だといえるでしょう。

 価格形態においては、単に価値量と価格の乖離ということにとどまらず、そもそもそれが価値表現ではなくなってしまうことも生じえます。

例えば、少しも価値をもっていないものに価格がつく場合があります。この場合どんな意味でも価値表現ではありません。それ自体商品でない物でも、貨幣所持者が買うことができるものであれば、その価格を通じてそれが商品となります。この場合の価格は、根底に価値関係がありませんので想像的なものということになります。しかしこうしたもののうちでも、未開墾地のように背景に何らかの現実の価値関係が潜在している場合もあります。

 

これまで商品の価値を表現するものとしての貨幣の機能=価値尺度機能を見てきました。この価値尺度機能においては、貨幣は現実の金である必要はありません。これは価値を金量で表現した価格形態においても同様です。商品は、価格を与えられ、それを表現するためには、現実の金は必要とはならず観念的な貨幣で充分です。しかし、商品が価値をあらわすところから現実に交換価値として機能するためにはそうはいきません。商品は、交換価値として働くためには、それはやはり現実の金に代わらなければならないのです。「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」(国民文庫版1分冊p187)というゆえんです。

 

参加者からの質問や意見

○報告者自身より「価値量と価格の乖離の可能性が価格形態そのもののうちにあるということがいま一つすっきりしない。誰かうまく説明できないか。」と問題提起がありました。これについては参加者の方から「価格は、価値から乖離することもあるが、こうした乖離した価格も需給関係や資本の競争関係を通じて,調整されて均衡した価格に落ち着いていく。無政府的な生産の根底で価値法則は貫徹されて、平均的には価値によって規定された価格に落ち着いていくのではないか」等の意見が出されました。

 しかし、それはその通りですが、価値と価格の乖離の可能性が価格というもののうちにあるという説明にはなっていないのであらためて報告者自身考えてみました。「価格とのいうのは価値表現であるとしても、それはあくまでも価値の相対的な表現にすぎない。価値表現といっても直接に労働時間で表現しているわけではない。それはある意味で当たり前で、直接に労働時間で表現することは不可能だろう。商品の価値表現は、結局、他の商品により価値を表現する以外にないのであり、それはいうならば他の商品の使用価値の姿、現物の姿で表す以外にないのです。例えば、20エレのリンネルが1着の上着に等しいというように。ここでは20エレという一定量のリンネルの価値が上着という使用価値により表現され価値の大きさとしてはその1着分であるという形で表されています。ここで上着の代わりに金をもってきても同じことです。ただ上着に代わり今度は金という別のモノで表現されるだけです。こうした物的な形態での価値表現には本質的な限界があるのでしょう。それに上着であろうと金であろうとそれ自体も価値量が変化するわけでこの点でも限界があるように思う。このような価値表現としては限界性のある価格形態そのもののうちに価値と価格の乖離の可能性はあるのでないでしょうか?」

 

○「『観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている』とはどういう意味か?金は柔らかいというイメージがあるがここでの堅い貨幣とは金ではないということか?」という質問が出されました。

これについては報告者より「ここで“堅い貨幣”とは、価値尺度としては観念的な金(頭の中で想像した金)で大丈夫だが、例えば現実の商品流通過程に出ていけば、頭で想像した金ではだめで、現物の金等の堅い貨幣でなければならないということだろう。」との説明がありました。

5月14日学習会の報告

「資本論入門講座」は 第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」の第6段落(岩波文庫版第1分冊70頁)「一定の商品、一クォーターの小麦は、…」(国民文庫版第1分冊71頁)「ある一つの商品、たとえば一クォーターの小麦は、…」から第18段落(岩波文庫78頁)「…労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値を形成しない。(一一a)注釈」(国民文庫82頁)「…労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。一一a注釈」までを学習しました。

 

○前回は、商品の二要素の一つである使用価値は、物の属性という質的なものであることを学びました。今回からは、商品のもう一つの要素である価値について学びます。交換は異なった使用価値であるからこそ成立します。そして異なった使用価値の交換の成立はその商品への欲望がまずあることは自明です。ところが、使用価値への欲望があるだけでは、その交換はたまたま欲望が一致したもの、偶然的なものでしかありません。対して、交換価値は使用価値の欲望を確定的なものにします。交換価値は量的なもの、量的な比率として現われます。それは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率であり、時と所によって、たえず変化する関係として現われます。そのことが、交換価値は、何か偶然的なもので純粋に相対的なものであるかに見えます。商品には内在的な、固有の交換価値といったものがあるにもかかわらず、そのようなものなど無いかに思われています。そこで、このことが詳細に考察されています。

 

○商品がある比率・量で交換されるのはどういう事か。その量とは何かが問題となります。それは使用価値を捨象したもの、使用価値とは異なった、両者に共通な第三のあるものなのです。使用価値を無視すれば、そこに残るものは労働生産物であると言う属性だけであり、この第三のものが、両者に共通な同じ人間労働なのです。この共通な人間労働は、労働生産物の異なった有用性と同様に、労働の異なった有用性も捨象したものです。ただ、同じ人間労働が支出されている労働生産物であるということで、お互いに共通な社会的労働の結晶としてこの労働生産物は、価値―商品価値なのです。すなわち、一つの使用価値が価値をもっているのは、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されている、物質化されているからに他なりません。

 

○それでは、使用価値・財貨の価値の大いさはどのように測定されるのでしょうか?それは、その中に含まれている価値を形成する実体である労働の量によって測定されます。その労働の量自身は、その継続時間によって測られます。そして労働時間は時、日などの尺度標準があります。

 

○ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、社会的に必要な労働の定量、この使用価値を生産するのに社会的に必要な労働時間にほかなりません。この場合、個々の使用価値の異なる商品も、同一の大いさの労働量を含む商品であれば、同一の価値の大いさをもっているとみなされます。すなわち、ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、その商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間に対する比に等しいのです。価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎないのです。

 

○物は、価値でなくても使用価値である場合がある。それは、その物の効用が人間の労働を媒介にしていない場合がそうである。空気、自然の草地、野生の樹木等々である。また、人間労働によって有用な物を作っても、それが商品としてでなく自己の為だけに使われる場合もそうである。すなわち、使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値を生産しなければ価値とはならない。そして、封建領主のために農民が作った生産物は、他人の為ではあっても商品とはならなかった。商品となるためには、それが使用価値として役立つ他の人に対して、交換によって移譲されるのでなければなりません。

 

参加者からの質問や意見

 

○使用価値は分かるが交換価値と価値の違いは?

 交換価値は現実に交換されている商品と商品の量であるが、価値はその内実で社会的な人間労働だと言える。前者は目に見えるものであるが、後者は目には見えないが交換割合を決める中心的なものであると言える。と言った意見が出されました。

2017年5月14日 (日)

4月23日学習会の報告

商品の価格形態とは、商品の価値表現の形態ですが、それは商品の価値を、貨幣商品である金の重量で現したものです。例えば、お茶が商品としてあるなら、お茶○○㎏=x量の金。あるいはコーヒー△△㎏=y量の金。ボールペン××ダース=z量の金等々という形であらわされます。これはいろいろな商品の価値が、金というモノ(=使用価値)の量で表現されている形態です。商品の価格とは、本質的には貨幣商品金の重量により商品価値の大きさを表現したものです。

 ここで諸商品は、全て金により、その重量により価値が表現されるわけですが、これらを相互に価値として比較するためには、ある固定して金量を定め、この固定した金量をこれら商品の価値を尺度するものとして、これらの度量単位とすることが技術上必要となってきます。

 この度量単位とは、例えば長さや重さを計るにしても、それぞれ基準が必要です。長さでは1m、重さでは1㎏とそれぞれ度量単位が決まれば、それの何倍分の長さか、あるいは何倍の重さかという形で、今度はいろいろなモノの長さや重さが計られて相互にその大きさが比較可能となります。

 重さで重量単位は、㎏とポンドでは違います。1㎏と1ポンドは異なった度量単位です。

 貨幣の場合でも同じで、地域や国が違えば度量単位も異なります。

 戦前の日本では、この度量単位として金750mg(=1円)として法的に定められていました。つまり戦前の日本では金750mgが貨幣の度量単位とされたのです。この金750mgを1(1円)として他の金量を計るのです。

 またこの度量単位は、技術上の必要等から可除部分に分割されたりします。戦前の日本の例では、1円の下に1円の100分の1として1銭という単位が設けられました。金量であらわせば7.5mgということになります。

 こうした金750mg等が基準の金量となり、この金量で様々な商品の価値が尺度され現されるようになりますが、これが価格の度量標準としての貨幣の機能です。

 これまで見てきた貨幣の価値尺度機能とこの価格の度量標準としての貨幣の機能の違いについてみてみます。

価値尺度機能としては、貨幣は人間労働の社会的化身として働きます。しかし、価格の度量標準としては、ただ固定した金量として役立つだけであり、この固定した金量で各々の商品価値があらわされた各々の金量を計るのです。

ところで金そのものは、価値変動しますが、それが価格の度量標準として機能することに対して何らの妨げにはなりません。なぜなら価格の度量標準としては、問題になるのは基準とされるある固定した金量とその他の金量の関係ですから、これはどんなに金自体の価値が変化しようとこの関係に変化がないのはいうまでもありません。例えば、金の価値がどんなに上昇しても金1gと金12gの関係は、相変わらず1対12で変わらないでしょう。

 このように価格の度量標準としては、問題になるのは価値の絶対的大きさではなく、その相対的な大きさ――基準となる固定した金量とその他の金量との関係――にすぎません。だからいくら金価値が変動しようとも、価格の度量標準としての機能には差しさわりがないのです。

 

 次に商品価格の運動を見てみましょう。商品価格は上昇したり下落したりしますが、それと貨幣価値の関係はどのようなものでしょうか?

 商品価格の運動には、基本的に商品の側の価値の変動と貨幣の側の価値の変動と二つの要因により規定されます。

 一般に商品価格が上昇するケースは、二つのケースが考えられます。一つは貨幣の価値が不変の場合、この場合、商品自体の価値が上昇すれば商品価格は上昇します。もう一つは商品の価値自体は変化がない場合ですが、この場合も貨幣の方が価値が下落すれば、商品価格は上昇します。

 逆に商品価格が下落するケースは、これも二つのケースが考えられます。一つは貨幣の価値が不変の場合、この場合では、商品価値自体が下落すれば、価格は下がります。もう一つは商品自体の価値は変わらない場合ですが、この場合でも貨幣価値が上昇すれば、価格はやはり下がります。

 実際は、どちらか片方だけ変化するのではなく貨幣の側も商品の側もそれぞれ価値変動していくものです。ですから一般的な物価上昇という現象があってもそれが商品の価値変動によるものか、あるいは貨幣価値の下落によるものかは物価現象だけ見るのでは分からないということです。

 

   金や銀などの金属貨幣の名称は、歴史的な経過の中でそのもともともの金属重量名から乖離していきます。   例えばイギリスの貨幣1ポンドは、当初は銀1ポンドを現していました。このときには貨幣1ポンドが貨幣である銀の1ポンドの重量と一致していました。

   しかし、歴史的な過程の中で貨幣が銀から金へと移って行きましたが、貨幣の名称は、依然と同じポンドが使われました。しかし、銀1ポンドと金1ポンドは全く異なる価値です。当時、銀1ポンドの価値は金1ポンドの価値の15分の1程度でした。そこで新たな金貨幣の1ポンド(名称)は、実歳は15分の1ポンド分の価値しかないものでした。

   このような乖離は、様々な要因から生じますが決定的な要因として大きなものは、①発展した諸国に発展程度が低い諸国地域からの輸入商品としての貴金属=外国貨幣の流入により、これらの外国貨幣の名称と国内の重量名称の違いにより生じる場合。②先のイギリスのポンドの例のように高級でない金属がより高級な金属によって貨幣の地位がとって変わられる場合。③何世紀にもわたって引き続き行われた王侯らによる貨幣変造。日本でも江戸時代に幕府が財政難から金1両の金含有量を減らして、金貨1両がその何分の一の重量分の価値しか持たなくなっていきました。

   このように貨幣名称とその金属の実際の重量とは歴史的に乖離していきます。本来、商品の価格(形態)とは、商品の価値を貨幣である金で、その使用価値の姿で、すなわち金の重量で現したものです。ですからもともとはその物質としての重量単位、つまりポンドや両などがそのまま貨幣名称にもなっていました。

 

 

参加者からの質問や意見

○日本の通貨単位である円も、もともとは重量単位だったのでしょうか?

これについては、レポーターも分からず、あとで調べたところでは、円はもともとは圓でありこれは中国に由来しているということです。これがおおもとは重量単位であったかはどうかまでは分かりませんでした。ちなみに中国の人民元は正確には人民圓だということです。

○また学習会にはじめて参加された男性の方から、学習会の中で説明もあったと思うが、まだ商品(と商品の価値)と貨幣と価格の3つの事柄の関連と違いがうまく整理できないとの感想が出されました。

 これはなかなか難しい問題で重要なことですのであらためてレポーターなりに整理してみました。「貨幣とはそもそも本来は商品であり、商品の価値関係の発展の中から必然的に出てきたものです。商品は、同一な人間労働の対象化としてそれぞれ価値をもっています。商品の価値は、結局、同じ人間労働の対象化物としての他の商品によってでしか価値を表現できません。ですから商品の関係の発展の中から商品は、一般の商品と貨幣商品へと分かれていくことになります。ここである商品が貨幣になるということは、ここではこの商品が価値一般を現すもの、価値そのものを現すもの――価値姿態――としての社会的役割が与えられるということでしょう。商品世界において、そうした価値一般として妥当するものが貨幣だといえるでしょう。こうして貨幣は、商品世界の他のすべての商品の価値を現すものとして登場し、このことにより諸商品がはじめて相互に価値として比較されうるものとなります。なぜなら貨幣登場以前は、価値として一般的に妥当なものとして通用する商品はなかったからです。貨幣は、商品世界において一般的でありかつ統一的に価値を表現するものですから貨幣の登場により、貨幣以外の他のすべての商品は貨幣によりその価値を表現することにより、相互に価値として関わり合い、その大きさも比較可能なものとなります。

 貨幣の本質が、諸商品の価値を表現するものであり、まさにその表現材料として機能することだと考えられます。それゆえに貨幣の第1の機能は、諸商品の価値を表現し、その価値の大きさを尺度することです。商品の価値は、貨幣により表現されますが、それは結局貨幣商品としての金という形で表現されます。それは商品の価値が貨幣商品である金の使用価値(現物形態)であらわされる形態ですが、それはつまるところ金○○g(金重量による表現)ということです。

 様々な商品の価値が貨幣である金の様々な量によって表現される形態、まさにこれが価格(形態)です。それは例えば、お茶○○㎏=x量の金。あるいはコーヒー△△㎏=y量の金。ボールペン××ダース=z量の金等々という形態です。このように価格とは、商品価値の一つの表現形態ですが、それはあくまでも貨幣である金の現物形態で、その量で表現したものにすぎず、価値の相対的な表現にすぎないのです。」

 

4月16日学習会の報告

「資本論入門講座」は今回から『資本論』テキストに入りました。

 第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」の第1段落(岩波文庫版第1分冊67頁)「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、…」、(国民文庫版第1分冊71頁)「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、…」から第5段落(岩波文庫70頁)「われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。…(七)注釈」(国民文庫74頁)「このことをもっと詳しく考察してみよう。…(七)注釈」までを学習しました。

 

○第1節の最初で、なぜ「商品」の分析から始めたのかを次のように説明しています。『資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。』短い文章ですが、資本主義社会の特徴をよく表現しています。資本主義社会では、自給自足の社会とは違って、社会的生産物のすべては分業で生産されます。すなわち、社会的生産物は商品として生産され商品として売られます。消費する衣食住すべては商品を買う以外にはありません。資本主義社会における社会の富は、膨大な商品が集まって積み重なっている「巨大な商品集積」として現われるとは、資本主義社会をよく言い表しています。まずはその「巨大な商品集積」の細胞である商品を分析することから始めているのです。

 

○商品は「その属性によって人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つの物である。…直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。」商品は直接に生活手段として役立つのかそれとも生産手段として役立つのかは問題ではないのです。何に役立つのかということが問題ではなく、人間の何らかの種類の欲望を満たすもの―有用性があればよいのです。

 

○鉄や紙のようなすべての有用物は、質と量の二重の観点から考察されるべきものです。これらのすべての有用物は、多くの属性をもっており、様々な用途があります。物の多くの属性とそれにともなう多様な使用方法を発見することは、これまでも歴史的に行われてきた事です。そして、有用な物の量をはかる社会的尺度を見いだすことも行われてきました。商品尺度は、測定される対象の性質の相違から、或いは伝習から生じました。

 

○一つの物の有用性(いかなる種類かの人間の欲望を充足させる物の属性)があるということは、この物を使用価値にします。使用価値は、商品体の属性によって限定されていて、商品体と一体のものです。ゆえに、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨なのです。このような商品体の性格は、その有効属性を取得するのに多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものかによって決まるのではありません。

 使用価値を考察するにあたっては、つねに、一ダースの時計、一エレの亜麻布、一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされます。商品の使用価値は商品学の材料となります。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現されます。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしています。どのような社会的形態であろうと、富の素材的内容は使用価値です。しかし、これから考察する社会形態―資本主義的生産様式の社会形態においては、使用価値は同時に―交換価値の素材的担い手でもあります。

 

○前段落までは、使用価値の説明がなされていましたが、ここでは商品の二つの側面である使用価値とは異なる、交換価値に入るにあたっての説明がなされています。

 使用価値が物の属性という質的なものであったのに対して、交換価値はあくまでも量的なもの、量的な比率として現われます。それは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、時と所によって、たえず変化する関係として現われます。そのことが、交換価値は、何か偶然的なもの、純粋に相対的なものであって、商品に内在的な、固有の交換価値といったものは無いかに思われています。そこで、このことを詳細に考察していきます。

2017年4月16日 (日)

3月26日学習会の報告

月26日学習会の内容

今回から、第三章「貨幣または商品流通」に入り、第一節「価値の尺度」の第1段落(岩波文庫168頁)(国民文庫171頁)~第6段落(岩波文庫173頁)(国民文庫176頁)を学習しました。以下は学習会の内容です。

 

以前の学習会での議論になった点について

 122日の学習会で議論になり課題として残っていた点についてレポーターから報告がありました。

 テキストの中で「人間はしばしば人間そのものを奴隷の形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現れることができなかった。それが現れたのは、一七世紀の最後の三分の一期のことであり、その実行が国家的規模で試みられたのは、やっと一世紀後にフランスのブルジョア革命のさいちゅうのことだった。」(国民文庫163頁)とある中のこのような思いつきの内容が、奴隷を貨幣材料にするという考えのことなのか、土地を貨幣材料にするという考えなのか、どちらなのかということが以前の学習会で議論になりました。

レポーターよりこの件については、「17世紀の後半にイギリスで活躍した経済学者の中で、土地を担保にした貨幣を提案するものが出てきており、またフランス革命のさなかで実際に土地を担保にした証券であるアッシニアが当時のフランス政府の財政事情等から強制通用力を持たされて“貨幣”として流通するようになり、それが激しいインフレを起こしフランスの経済社会に大きな混乱をもたらしたという史実があり、まさにこのことだろう。だからここの「このような思いつき」は、土地を貨幣材料にしようとの思想をさしていると思う。」との報告がなされました。

 

第三章をはじめるにあたって

 今回から第三章に入りますが、それにあたって第一章、第二章の復習を簡単に行いました。

 

第三章では貨幣の問題が本格的に論じられ、貨幣の様々な重要な機能について触れています。第一章、第二章でも貨幣の問題が論じられてきました。

 第一章では、資本主義的富の基礎形態として商品が分析され、主に第一節において、商品の本質的契機としての価値の側面が分析され、価値の実体が抽象的な人間労働であることが明らかにされました。また第三節では価値形態の分析により、いかにして商品が他の商品により価値が表現されるかが解明され、商品は必然的に一般の商品と貨幣商品へと分裂していくことが明らかにされました。つまり商品の中から、商品の価値表現の中から貨幣が生成する必然性が示されました。

 第二章では、交換過程の問題が扱われ、商品の交換過程においてはじめて露わになる商品の使用価値としての実現と価値としての実現の矛盾により、そうした矛盾を媒介するものとしての貨幣の必要性が明らかにされました。

 ここでは、参加者より交換過程で現れる商品の矛盾として、商品の使用価値としての実現と価値としての実現ということをもう少し説明してほしいとの要望が出されましたのでその点について説明します。

 「リンネル商品所有者が聖書を欲して、自分のリンネルを聖書と交換しようとしているとします。もし貨幣が存在していれば、リンネル所有者は、リンネルを必要としている人に貨幣との交換でリンネルを譲渡します。これは、リンネルが使用価値として欲している人の手にわたることです。つまりリンネルが社会的使用価値として実現されることであり、これがいわゆる商品が使用価値として実現することです。この使用価値としての実現はこのように貨幣が媒介した形であれば、リンネル所有者の欲望――聖書を手にしれたい――に全く関わりなく実現できます。しかし、もしまだ貨幣が登場しておらず直接的な生産物と生産物との交換であるならば、リンネル所有者は、自分のリンネルを聖書と直接交換しようとします。しかし、この交換が成立するためには聖書所有者もリンネルを欲しているのでなければ不可能です。このような相互の商品所有者の欲望が一致しなければ商品交換が成立しないというのは大きな矛盾ということになり、これでは一般的な商品生産は成り立ちようがありません。

また話を元に戻して、貨幣が媒介の場合、リンネルが貨幣との交換でそれを使用価値として必要としている人の手にわたり、リンネル商品は、まず使用価値として実現されたわけです。

そこで今度は、リンネル所有者は手に入れた貨幣で自分がほしかった聖書を手に入れます。これは、リンネル所有者にとって自分の商品を貨幣を媒介にしてですが、まさに自分が欲していた聖書との交換を実現することです。これは、商品の価値としての実現ということです。貨幣が媒介するのであれば、これは容易に実現されます。商品が価値として実現されるということは、ある商品が直接に任意の商品――ここでのリンネル所有者の立場からすれば、他のどんな商品でもないまさに聖書と交換されること――と交換されるということです。なぜなら価値としては、商品は他のどんな商品とも、人間労働の対象化として同質でありどんな違いもないからです。ですから商品は価値としては、他のどんな商品とも交換可能なものであるはずです。ここでは直接にリンネルが聖書と交換可能であるということです。

しかし、貨幣を媒介にしない場合を考えると、そう簡単にはいきません。ここでの場合、リンネル所有者が、リンネルとの交換で聖書を手に入れる為には、聖書所有者の方もリンネルを欲していなければ実現しようがありません。

リンネルの場合、それが使用価値として実現されるということは、それを欲している人に交換を通じてわたることです。しかし、肝心の聖書所有者はリンネルを欲していない。リンネルをほしいと思っているのは小麦の所有者だとすると使用価値として実現するためには、リンネルは聖書ではなくむしろ小麦と交換される必要があります。ですが小麦との交換では、リンネル所有者の目的は果たせません。

このように貨幣が介在しない直接的な生産物交換では、商品を使用価値として実現させようとすれば、価値としては実現できず、他方価値として実現させようとすれば使用価値としては実現しえないという二律背反ということになります。ところが貨幣が成立し、商品交換を媒介にするようになると、商品交換が二つの過程に分離されることにより、この盾を克服することができます。それは、リンネルを欲している人に貨幣との交換で譲渡し(使用価値としての実現)、次に手に入れた貨幣でリンネル所有者が欲していた聖書を手にいれる(価値としての実現)ということです。

このように貨幣を媒介にすれば、使用価値としての実現と価値としての実現は分離されて相互に矛盾することはありません。しかし、直説的な生産物どうしの交換ではこの二つの契機は相対立するものとなるということです。」

 

第三章 貨幣または商品流通 

第一節 価値の尺度

123パラグラフ

 貨幣(=金)の第一の機能は価値尺度機能です。それはまず、貨幣商品以外のあらゆる商品の価値を表現することです。それは質的には、価値としては、人間労働の対象化であり、この人間労働という同等性において諸商品は全く違いがない同様なものとして示されるということです。諸商品の価値が貨幣(=金)により共通に価値が表現され、このことにより諸商品は、相互に価値として相対することができます。そして次に、価値の大きさが相互に比較されます。これが価値尺度機能です。全ての商品がその価値の大きさを、貨幣である金の重量で表現されます。このことにより全ての商品の価値の大きさが相互に比較可能な形で表現がなされます。例えば小麦1㎏=金0.2g、鉄1㎏=金1.0g、お茶1㎏=金0.4gと価値が表現されるなら、鉄は小麦の5倍の価値があり、お茶は小麦の2倍の価値がある。鉄はお茶との比較では2.5倍の価値があるということになります。

 しかし、貨幣(金)が他のすべての商品の価値を表現できるのは、他のすべての商品も価値をもっているからです。すなわち貨幣が登場することではじめて諸商品は価値として相対するのではないのです。それは貨幣が登場する以前から、はじめから価値を持ったものとしてあるのです。

 

ここではテキストの脚注50の中のオーエンの労働貨幣とはどういうものかという質問がありました。「ここでいう労働貨幣は、マルクスも言うように貨幣ではなく、共同体で個人が何時間働いたということを証明する証書のようなものです。この証書の記載労働時間によって個人は分配を受けます。マルクスの批判は、そもそも直接に社会的な労働としてなされるような共同体では、貨幣(もちろん商品も)は存在しようがないということでしょう。」とレポーターより報告がありました。

 

4パラグラフ

 商品の価格とは何でしょう?それはまさに商品価値を貨幣(金)で表現したものであり、商品の価値の大きさを貨幣の量で表現したものです。金が貨幣として機能する場合は、つまるところそれは金の重量での表現ということになります。先の例では小麦1㎏=0.2g、鉄1㎏=1.0g、お茶1㎏=0.4gという形です。これは小麦、鉄、お茶の1㎏の価値が金の重量で表現されていますが、まさにこれが価格(形態)です。金何gというとまだピンと来ないかもしれませんが金1g=〇〇ポンドという形にすれば、現在我々が知っている価格形態になります。

 現在のポンドとかドルとか円とかは、昔と違い金との兌換が全く保障されていません。つまり金との結びつきが一切断たれています。というわけで価格とは何であり、その本質はどういったものかということが完全に痕跡が断たれていて掴みようがありません。

 しかし、もともとはポンドとかドルとか円などの各国の貨幣は、貨幣としての金や銀での価値表現であり、それらはそれぞれイギリス、アメリカ、日本での貨幣名にすぎないのです。

 

56パラグラフ

 貨幣(=金)による価値表現は、観念的なものです。ここで観念的というのは、商品の価値そのものは各々の商品に内在する、実在的なものです。しかし、貨幣が商品の価値を表現するという機能を考えると、例えば一定量の金が価値を表現し、ある商品は、金の〇〇gに相当するという場合、現物の金は必要ありません。

 あくまでも価値を表現し、その大きさを測り、それを表現する――価値尺度――場合には、その場に現物の金がある必要はないのです。すなわち価値尺度機能においては、貨幣は観念的なものであってもかまわないのです。この機能においては、貨幣は現物の金である必要はありません。

 

 もし仮に金や銀というように二つのものが価値尺度として機能するとそれは価値表現も二重のものとなるということになります。それは同じ商品が二つの価格をもつということ、金価格と銀価格をもつということになります。しかし、この場合、金と銀との間での価値比率が変化すると、価値尺度機能に支障が生じてしまいます。

3月12日学習会報告

3月12日の学習会の内容

「資本論入門講座」の第3回目は『資本論』ガイダンス3回目として、「資本主義経済社会より前の経済社会の特徴」というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

資本主義社会より前の社会と言えば、原始共同体社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と続き、資本主義社会によって人類の前史は終わると言われています。そして、資本主義社会を止揚した後の社会体制である社会主義の下、急速に発展する生産力の利用と労働の効率的な組織化の結果、労働時間も二分の一、三分の一に短縮され得ます。

さらに生産力が豊かになるにつれて、人々は階級社会による強制労働だけでなく、生活の必要による強制労働からも徐々に解放され、自己の能力をあらゆる方向に、全面的に発達させることができるようになります。人々は能力に応じて働き、必要に応じて消費手段を社会から受け取るという高次の共産主義に接近していきます。

 

翻って、我々が生きている資本主義社会の特徴は、私的所有の下で無政府的な生産が行われています。社会の富の生産、分配、消費は、社会全体として事前の計画が立てられるのではなく、後からそれらを追認するといったことでしかありません。過剰生産や恐慌なども資本主義社会のもとで表われる現象です。あらゆる労働生産物が商品と言う形態をとる資本主義社会では、人間の労働力もが商品として売買されます。人間そのものでなく、労働力のみが商品であるというのは、自由や平等と言ったブルジョア憲法に謳われている概念と一致していると、ブルジョア階級は主張しますが、資本家の下で搾取労働に苦しむ労働者階級は、真の自由や平等ではない事を良く知っています。それでは、資本主義社会より前の経済社会の特徴はどのようなものであったかを見てみます。

 

人間は生きていくために、自然に働きかけて自己の都合の良いように自然を変えていきます。この自然を変えていくためには、道具や機械と言った生産手段を使うわけですが、この生産手段の変化・発達が、生産物の増大と労働時間の短縮に結果します。そして、このことが社会経済体制を特徴づけ、変化させる根底と言えます。

○原始共同体社会

 

 何よりも生産力が低いということです。共同体の成員に必要な物を獲得するだけが精いっぱいで、余剰と言ったものは殆どありませんでした。人間が働きかける対象も自然そのままの森や川や海であり、収穫物を採りつくせば移動するといった生活が主でした。自然が主で、人間が自然を計画的に変えていくと言ったことには未だなりません。

 しかし、道具の改良と共に、わずかながらも社会的分業がおこなわれ余剰収穫物ができ、さらに家畜を飼育するようになると、定住と土地での食糧生産が行われるようになります。そして、ある程度まで生産力が増大すると、共同体どうしの余剰生産物の交換が行われるようになり、それは、共同体の内部でも行われるようになります。余剰生産物の交易は、共同体の代表者たちのあいだで行われ、やがて彼らが交易される生産物を私有するようになります。

 

○奴隷制社会

 

 他の共同体との戦争による捕虜や共同体内の犯罪者などが、共同体の生産手段の所有者の労働力として利用されるようになります。そして、生産物は生産手段の所有者のものとなり、成員間の不平等な関係が発生して共同体は崩壊し、奴隷主と奴隷という階級社会が出現します。支配階級の存立は、主として奴隷労働によって維持されるようになります。

 しかし、奴隷の極端な酷使は、社会を維持する労働力のはなはだしい乱費ということであり、奴隷自身の生殖による労働力の再生産が行われなくなり、戦争や奴隷狩りや奴隷買い入れなどの外的な補給に依存するようになりますが、この補給が不足し途絶するとともにこの体制も崩壊します。

 

○農奴制(封建制)社会

 

 奴隷制の崩壊の後に成立した農奴制では、土地の領有が支配者の地位にとって決定的な意義を持っていましたが、それは土地が主要な生産手段だったからです。主要な生産が、採取や遊牧を主とする段階から、牧畜や農耕を主とする段階に移っていたということを意味します。土地は、一部分が領主直属地として、残りを農民の分割貸与地として与えられました。直接的生産者である農民は、領主直属地での夫役労働と自分の保有地の生産物の年貢で搾取されました。この搾取を行うために、領主は裁判権や警察権の行使といった事を行いました。農民が土地を分配されて保有する為には、彼らは土地の付属物として束縛され、自由に移転することを許されませんでした。それは、権力的強制によって剰余労働、剰余生産物を地代の形態で搾取されるということを意味しました。

 封建領地での農奴労働は基本的には自給自足ですが、一方では農業と手工業との分離に始まる社会的分業が進み、商品経済の拡大が見られるようになります。しかし、一方では領主による農奴労働の搾取や手工業者同職組合による厳格な生産規制が生産の増大を妨げたり、領主の封建的割拠も商品流通拡大の妨げになりました。このように社会的分業の発展やそ生産力の上昇は封建的な諸制度と衝突せざるをえなくなります。

 農村での生産物の余剰を商品として売ることによって、農民のあいだにも貧富の差が生じ、自分の保有地を失って他人の土地を耕作してその労賃で生活する人々が現れます。他方、商人や金貸しの手のなかでは貨幣の蓄積が進み、彼らによる農民や手工業者からの収奪が行われます。農民は貨幣を必要とするようになり、自分の生産物を商品として売ることを余儀なくされます。こうして、一方では生産手段と生活資料またはこれらの物を買うための貨幣が諸個人の手のなかにあつまるにつれて、他方では生産手段を失って独立に生産を営むことができなくなり、生産手段の所有者に雇われて労働するよりほかはない無産者がつくりだされます。つまり、産業資本家と賃金労働者とが現れます。政治的には近代的統一国家への過渡形態としての絶対主義国家が成立して、一連の政策を強行して、いわゆる資本の本源的蓄積の過程を推進すると同時に、商品流通のために封建的な障壁を破って統一的な国内市場の形成を促すという役割を果たします。こうして、産業資本家階級と賃金労働者階級とが形成され始め、封建社会の解体を経て資本主義的生産様式の萌芽が成長し、ブルジョア革命によって封建制は上部構造とも転覆され、資本主義に適した法律や制度が作り上げられます。

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