2017年4月16日 (日)

3月26日学習会の報告

月26日学習会の内容

今回から、第三章「貨幣または商品流通」に入り、第一節「価値の尺度」の第1段落(岩波文庫168頁)(国民文庫171頁)~第6段落(岩波文庫173頁)(国民文庫176頁)を学習しました。以下は学習会の内容です。

 

以前の学習会での議論になった点について

 122日の学習会で議論になり課題として残っていた点についてレポーターから報告がありました。

 テキストの中で「人間はしばしば人間そのものを奴隷の形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現れることができなかった。それが現れたのは、一七世紀の最後の三分の一期のことであり、その実行が国家的規模で試みられたのは、やっと一世紀後にフランスのブルジョア革命のさいちゅうのことだった。」(国民文庫163頁)とある中のこのような思いつきの内容が、奴隷を貨幣材料にするという考えのことなのか、土地を貨幣材料にするという考えなのか、どちらなのかということが以前の学習会で議論になりました。

レポーターよりこの件については、「17世紀の後半にイギリスで活躍した経済学者の中で、土地を担保にした貨幣を提案するものが出てきており、またフランス革命のさなかで実際に土地を担保にした証券であるアッシニアが当時のフランス政府の財政事情等から強制通用力を持たされて“貨幣”として流通するようになり、それが激しいインフレを起こしフランスの経済社会に大きな混乱をもたらしたという史実があり、まさにこのことだろう。だからここの「このような思いつき」は、土地を貨幣材料にしようとの思想をさしていると思う。」との報告がなされました。

 

第三章をはじめるにあたって

 今回から第三章に入りますが、それにあたって第一章、第二章の復習を簡単に行いました。

 

第三章では貨幣の問題が本格的に論じられ、貨幣の様々な重要な機能について触れています。第一章、第二章でも貨幣の問題が論じられてきました。

 第一章では、資本主義的富の基礎形態として商品が分析され、主に第一節において、商品の本質的契機としての価値の側面が分析され、価値の実体が抽象的な人間労働であることが明らかにされました。また第三節では価値形態の分析により、いかにして商品が他の商品により価値が表現されるかが解明され、商品は必然的に一般の商品と貨幣商品へと分裂していくことが明らかにされました。つまり商品の中から、商品の価値表現の中から貨幣が生成する必然性が示されました。

 第二章では、交換過程の問題が扱われ、商品の交換過程においてはじめて露わになる商品の使用価値としての実現と価値としての実現の矛盾により、そうした矛盾を媒介するものとしての貨幣の必要性が明らかにされました。

 ここでは、参加者より交換過程で現れる商品の矛盾として、商品の使用価値としての実現と価値としての実現ということをもう少し説明してほしいとの要望が出されましたのでその点について説明します。

 「リンネル商品所有者が聖書を欲して、自分のリンネルを聖書と交換しようとしているとします。もし貨幣が存在していれば、リンネル所有者は、リンネルを必要としている人に貨幣との交換でリンネルを譲渡します。これは、リンネルが使用価値として欲している人の手にわたることです。つまりリンネルが社会的使用価値として実現されることであり、これがいわゆる商品が使用価値として実現することです。この使用価値としての実現はこのように貨幣が媒介した形であれば、リンネル所有者の欲望――聖書を手にしれたい――に全く関わりなく実現できます。しかし、もしまだ貨幣が登場しておらず直接的な生産物と生産物との交換であるならば、リンネル所有者は、自分のリンネルを聖書と直接交換しようとします。しかし、この交換が成立するためには聖書所有者もリンネルを欲しているのでなければ不可能です。このような相互の商品所有者の欲望が一致しなければ商品交換が成立しないというのは大きな矛盾ということになり、これでは一般的な商品生産は成り立ちようがありません。

また話を元に戻して、貨幣が媒介の場合、リンネルが貨幣との交換でそれを使用価値として必要としている人の手にわたり、リンネル商品は、まず使用価値として実現されたわけです。

そこで今度は、リンネル所有者は手に入れた貨幣で自分がほしかった聖書を手に入れます。これは、リンネル所有者にとって自分の商品を貨幣を媒介にしてですが、まさに自分が欲していた聖書との交換を実現することです。これは、商品の価値としての実現ということです。貨幣が媒介するのであれば、これは容易に実現されます。商品が価値として実現されるということは、ある商品が直接に任意の商品――ここでのリンネル所有者の立場からすれば、他のどんな商品でもないまさに聖書と交換されること――と交換されるということです。なぜなら価値としては、商品は他のどんな商品とも、人間労働の対象化として同質でありどんな違いもないからです。ですから商品は価値としては、他のどんな商品とも交換可能なものであるはずです。ここでは直接にリンネルが聖書と交換可能であるということです。

しかし、貨幣を媒介にしない場合を考えると、そう簡単にはいきません。ここでの場合、リンネル所有者が、リンネルとの交換で聖書を手に入れる為には、聖書所有者の方もリンネルを欲していなければ実現しようがありません。

リンネルの場合、それが使用価値として実現されるということは、それを欲している人に交換を通じてわたることです。しかし、肝心の聖書所有者はリンネルを欲していない。リンネルをほしいと思っているのは小麦の所有者だとすると使用価値として実現するためには、リンネルは聖書ではなくむしろ小麦と交換される必要があります。ですが小麦との交換では、リンネル所有者の目的は果たせません。

このように貨幣が介在しない直接的な生産物交換では、商品を使用価値として実現させようとすれば、価値としては実現できず、他方価値として実現させようとすれば使用価値としては実現しえないという二律背反ということになります。ところが貨幣が成立し、商品交換を媒介にするようになると、商品交換が二つの過程に分離されることにより、この盾を克服することができます。それは、リンネルを欲している人に貨幣との交換で譲渡し(使用価値としての実現)、次に手に入れた貨幣でリンネル所有者が欲していた聖書を手にいれる(価値としての実現)ということです。

このように貨幣を媒介にすれば、使用価値としての実現と価値としての実現は分離されて相互に矛盾することはありません。しかし、直説的な生産物どうしの交換ではこの二つの契機は相対立するものとなるということです。」

 

第三章 貨幣または商品流通 

第一節 価値の尺度

123パラグラフ

 貨幣(=金)の第一の機能は価値尺度機能です。それはまず、貨幣商品以外のあらゆる商品の価値を表現することです。それは質的には、価値としては、人間労働の対象化であり、この人間労働という同等性において諸商品は全く違いがない同様なものとして示されるということです。諸商品の価値が貨幣(=金)により共通に価値が表現され、このことにより諸商品は、相互に価値として相対することができます。そして次に、価値の大きさが相互に比較されます。これが価値尺度機能です。全ての商品がその価値の大きさを、貨幣である金の重量で表現されます。このことにより全ての商品の価値の大きさが相互に比較可能な形で表現がなされます。例えば小麦1㎏=金0.2g、鉄1㎏=金1.0g、お茶1㎏=金0.4gと価値が表現されるなら、鉄は小麦の5倍の価値があり、お茶は小麦の2倍の価値がある。鉄はお茶との比較では2.5倍の価値があるということになります。

 しかし、貨幣(金)が他のすべての商品の価値を表現できるのは、他のすべての商品も価値をもっているからです。すなわち貨幣が登場することではじめて諸商品は価値として相対するのではないのです。それは貨幣が登場する以前から、はじめから価値を持ったものとしてあるのです。

 

ここではテキストの脚注50の中のオーエンの労働貨幣とはどういうものかという質問がありました。「ここでいう労働貨幣は、マルクスも言うように貨幣ではなく、共同体で個人が何時間働いたということを証明する証書のようなものです。この証書の記載労働時間によって個人は分配を受けます。マルクスの批判は、そもそも直接に社会的な労働としてなされるような共同体では、貨幣(もちろん商品も)は存在しようがないということでしょう。」とレポーターより報告がありました。

 

4パラグラフ

 商品の価格とは何でしょう?それはまさに商品価値を貨幣(金)で表現したものであり、商品の価値の大きさを貨幣の量で表現したものです。金が貨幣として機能する場合は、つまるところそれは金の重量での表現ということになります。先の例では小麦1㎏=0.2g、鉄1㎏=1.0g、お茶1㎏=0.4gという形です。これは小麦、鉄、お茶の1㎏の価値が金の重量で表現されていますが、まさにこれが価格(形態)です。金何gというとまだピンと来ないかもしれませんが金1g=〇〇ポンドという形にすれば、現在我々が知っている価格形態になります。

 現在のポンドとかドルとか円とかは、昔と違い金との兌換が全く保障されていません。つまり金との結びつきが一切断たれています。というわけで価格とは何であり、その本質はどういったものかということが完全に痕跡が断たれていて掴みようがありません。

 しかし、もともとはポンドとかドルとか円などの各国の貨幣は、貨幣としての金や銀での価値表現であり、それらはそれぞれイギリス、アメリカ、日本での貨幣名にすぎないのです。

 

56パラグラフ

 貨幣(=金)による価値表現は、観念的なものです。ここで観念的というのは、商品の価値そのものは各々の商品に内在する、実在的なものです。しかし、貨幣が商品の価値を表現するという機能を考えると、例えば一定量の金が価値を表現し、ある商品は、金の〇〇gに相当するという場合、現物の金は必要ありません。

 あくまでも価値を表現し、その大きさを測り、それを表現する――価値尺度――場合には、その場に現物の金がある必要はないのです。すなわち価値尺度機能においては、貨幣は観念的なものであってもかまわないのです。この機能においては、貨幣は現物の金である必要はありません。

 

 もし仮に金や銀というように二つのものが価値尺度として機能するとそれは価値表現も二重のものとなるということになります。それは同じ商品が二つの価格をもつということ、金価格と銀価格をもつということになります。しかし、この場合、金と銀との間での価値比率が変化すると、価値尺度機能に支障が生じてしまいます。

3月12日学習会報告

3月12日の学習会の内容

「資本論入門講座」の第3回目は『資本論』ガイダンス3回目として、「資本主義経済社会より前の経済社会の特徴」というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

資本主義社会より前の社会と言えば、原始共同体社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と続き、資本主義社会によって人類の前史は終わると言われています。そして、資本主義社会を止揚した後の社会体制である社会主義の下、急速に発展する生産力の利用と労働の効率的な組織化の結果、労働時間も二分の一、三分の一に短縮され得ます。

さらに生産力が豊かになるにつれて、人々は階級社会による強制労働だけでなく、生活の必要による強制労働からも徐々に解放され、自己の能力をあらゆる方向に、全面的に発達させることができるようになります。人々は能力に応じて働き、必要に応じて消費手段を社会から受け取るという高次の共産主義に接近していきます。

 

翻って、我々が生きている資本主義社会の特徴は、私的所有の下で無政府的な生産が行われています。社会の富の生産、分配、消費は、社会全体として事前の計画が立てられるのではなく、後からそれらを追認するといったことでしかありません。過剰生産や恐慌なども資本主義社会のもとで表われる現象です。あらゆる労働生産物が商品と言う形態をとる資本主義社会では、人間の労働力もが商品として売買されます。人間そのものでなく、労働力のみが商品であるというのは、自由や平等と言ったブルジョア憲法に謳われている概念と一致していると、ブルジョア階級は主張しますが、資本家の下で搾取労働に苦しむ労働者階級は、真の自由や平等ではない事を良く知っています。それでは、資本主義社会より前の経済社会の特徴はどのようなものであったかを見てみます。

 

人間は生きていくために、自然に働きかけて自己の都合の良いように自然を変えていきます。この自然を変えていくためには、道具や機械と言った生産手段を使うわけですが、この生産手段の変化・発達が、生産物の増大と労働時間の短縮に結果します。そして、このことが社会経済体制を特徴づけ、変化させる根底と言えます。

○原始共同体社会

 

 何よりも生産力が低いということです。共同体の成員に必要な物を獲得するだけが精いっぱいで、余剰と言ったものは殆どありませんでした。人間が働きかける対象も自然そのままの森や川や海であり、収穫物を採りつくせば移動するといった生活が主でした。自然が主で、人間が自然を計画的に変えていくと言ったことには未だなりません。

 しかし、道具の改良と共に、わずかながらも社会的分業がおこなわれ余剰収穫物ができ、さらに家畜を飼育するようになると、定住と土地での食糧生産が行われるようになります。そして、ある程度まで生産力が増大すると、共同体どうしの余剰生産物の交換が行われるようになり、それは、共同体の内部でも行われるようになります。余剰生産物の交易は、共同体の代表者たちのあいだで行われ、やがて彼らが交易される生産物を私有するようになります。

 

○奴隷制社会

 

 他の共同体との戦争による捕虜や共同体内の犯罪者などが、共同体の生産手段の所有者の労働力として利用されるようになります。そして、生産物は生産手段の所有者のものとなり、成員間の不平等な関係が発生して共同体は崩壊し、奴隷主と奴隷という階級社会が出現します。支配階級の存立は、主として奴隷労働によって維持されるようになります。

 しかし、奴隷の極端な酷使は、社会を維持する労働力のはなはだしい乱費ということであり、奴隷自身の生殖による労働力の再生産が行われなくなり、戦争や奴隷狩りや奴隷買い入れなどの外的な補給に依存するようになりますが、この補給が不足し途絶するとともにこの体制も崩壊します。

 

○農奴制(封建制)社会

 

 奴隷制の崩壊の後に成立した農奴制では、土地の領有が支配者の地位にとって決定的な意義を持っていましたが、それは土地が主要な生産手段だったからです。主要な生産が、採取や遊牧を主とする段階から、牧畜や農耕を主とする段階に移っていたということを意味します。土地は、一部分が領主直属地として、残りを農民の分割貸与地として与えられました。直接的生産者である農民は、領主直属地での夫役労働と自分の保有地の生産物の年貢で搾取されました。この搾取を行うために、領主は裁判権や警察権の行使といった事を行いました。農民が土地を分配されて保有する為には、彼らは土地の付属物として束縛され、自由に移転することを許されませんでした。それは、権力的強制によって剰余労働、剰余生産物を地代の形態で搾取されるということを意味しました。

 封建領地での農奴労働は基本的には自給自足ですが、一方では農業と手工業との分離に始まる社会的分業が進み、商品経済の拡大が見られるようになります。しかし、一方では領主による農奴労働の搾取や手工業者同職組合による厳格な生産規制が生産の増大を妨げたり、領主の封建的割拠も商品流通拡大の妨げになりました。このように社会的分業の発展やそ生産力の上昇は封建的な諸制度と衝突せざるをえなくなります。

 農村での生産物の余剰を商品として売ることによって、農民のあいだにも貧富の差が生じ、自分の保有地を失って他人の土地を耕作してその労賃で生活する人々が現れます。他方、商人や金貸しの手のなかでは貨幣の蓄積が進み、彼らによる農民や手工業者からの収奪が行われます。農民は貨幣を必要とするようになり、自分の生産物を商品として売ることを余儀なくされます。こうして、一方では生産手段と生活資料またはこれらの物を買うための貨幣が諸個人の手のなかにあつまるにつれて、他方では生産手段を失って独立に生産を営むことができなくなり、生産手段の所有者に雇われて労働するよりほかはない無産者がつくりだされます。つまり、産業資本家と賃金労働者とが現れます。政治的には近代的統一国家への過渡形態としての絶対主義国家が成立して、一連の政策を強行して、いわゆる資本の本源的蓄積の過程を推進すると同時に、商品流通のために封建的な障壁を破って統一的な国内市場の形成を促すという役割を果たします。こうして、産業資本家階級と賃金労働者階級とが形成され始め、封建社会の解体を経て資本主義的生産様式の萌芽が成長し、ブルジョア革命によって封建制は上部構造とも転覆され、資本主義に適した法律や制度が作り上げられます。

2017年3月 3日 (金)

2月26日学習会の報告

今回は、第2章交換過程の第10パラグラフから第2章の終りまで(国民文庫版第一分冊163170頁、岩波文庫版第一分冊160167頁)を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

前回の質問点について

 前回8,9パラグラフの学習を行いました。

前回出された質問で「物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それは反作用的に内部的共同生活での商品になる」(国民文庫161頁)とはどういうことか?これにつては参加者の方より岡崎次郎著『資本論入門』(国民文庫)62頁で共同体においても「対外的な交換が繰り返されるうちにそれが共同体の内部に逆作用して、生産物の一部分ははじめから交換を目的として生産されるようになり」とあり、生産物が商品として繰り返し交換されることが要因となり、共同体内部でも商品を生産するようになっていくということではないかとの意見があり、概ね了承がえられました。

また「人間はしばしば人間そのものを奴隷に形で原始的な貨幣材料にしたが、しかし土地をそれにしたことはなかった。このような思いつきは、すでにできあがったブルジョア社会でしか現れることができなかった。」(国民文庫163頁)の「このような思いつき」とは、何をさしているのか?奴隷を貨幣材料にするということか、土地をそれにするということか議論がありました。これについては、報告者も調べたがいま一つはっきりさせることができず、議論は並行線でした。次回事実関係を調べて再度報告するということになりました。

 

10,11パラグラフ

 貨幣は、歴史的に金や銀がその地位についてきました。しかし、金や銀はそれ自体生まれつき貨幣なのではありません。ですが貨幣材料としては、金や銀等の貴金属が最も適しています。それは金や銀は同じ純度であれば、その重量で価値が表現できます。また金や銀は任意に分割することやあるいはとかして塊として合成することもできますが、そうしても同じ重量当たりの価値には何ら変化はありません。このように金や銀は物資的に最も貨幣材料に適した商品なのです。

 こうしたことが「金銀は生来貨幣なのではないが、貨幣は生来金銀である」理由なのです。

 

ここでは、金は貨幣になるがダイヤモンドが貨幣にならないのはなぜか?という質問が出ました。「ダイヤモンドは、金や銀のように分割することもできないし、またとかして塊にすることもできない。金や銀は純度が同じであれば、純粋に重量で価値量が表現できる。貨幣材料としては、金や銀の方が適している。またダイヤモンドは、金や銀ほど一般的に商品としても流通していないのではないか。」と報告者からの説明があり了承されました。

 

12,13パラグラフ

 貨幣商品の使用価値は、例えば金が虫歯の充填材料として役立つというような具体的有用性から生じるものですが、もう一つ独特な使用価値をもつようになります。それは、貨幣として諸商品の価値を表現し、商品交換を媒介するという機能における特殊な使用価値です。

 ここで貨幣は、他のすべての商品にとって一般的等価物として存在します。他方、他のすべての商品は、貨幣にとっては、その特殊的な等価物として存在するということになります。

 

14パラグラフ

 貨幣は交換過程における矛盾の媒介の必要性から生じるものですが、しかしそれは決して貨幣の価値が交換過程から生じる、あるいは交換過程により決まるということを意味しません。

 交換過程が、貨幣に転化する商品に与えるのは、その価値ではなく、その独特の価値形態なのです。それはつまり諸商品に共通な価値の形態、すなわち貨幣形態なのです。このような独特の価値形態を貨幣となる商品に与えるのです。

 貨幣は交換過程に入る以前から労働生産物として価値をもっています。その価値の大きさは、他のすべての商品と同様その生産に必要な労働時間により規定されています。決して交換により価値量が規定されるわけではありません。

 この交換により価値が規定される、また価値の大きさも交換過程により決まるという観念は価値と価値形態の混同から来ています。この二つを混同すると交換により価値量が決まるように見えてしまいます。

 また価値と価値形態の混同は、他方で貨幣は単なる章標にすぎないという誤った考えも生みました。(章標とは、現物の金や銀などの価値をもった貨幣の代理として通用するもので、それ自体はほとんど価値がないものです。)実際に、流通手段として商品交換を媒介するだけであれば、現実の貨幣(金や銀の現物等)は必要なく、現実の貨幣の章標でも代理できます。

 しかし貨幣が、諸商品の価値を表現し、また商品交換を媒介しうるのは、本来はそれ自体価値のあるものであり、貨幣の生産に人間労働が対象化されているからに他なりません。決して、貨幣は単なる章標ではないのです。

 

ここでは本文の脚注で引用されている学者とかは有名な学者のものなのかという主旨の質問がありました。報告者から「スミスとかリカードとか有名な人のものもあるがまったく無名な人の学説などもマルクスは紹介している。それは有名であろうとなかろうとマルクス自身の見解を確立するに際して、少しでも影響を受けたもの、示唆を受けたものは、自分に先行する学説として紹介している。」と説明すると「マルクスは、随分謙虚な人なんですね」との感嘆の声もありました。

また章標について「それは現代の貨幣、ドルとか円とかと関わりがあるのですね」と質問?がありました。「まさに、その通りだろう。現在のドルとか円とかは章標とさえいえるか疑問があるが、例えば金との兌換が保障されている場合、普段は現物の金は貨幣とし登場せず、その代理としてその章標が貨幣として流通する。それが商品交換を媒介し貨幣として機能しうるのは、現物の貨幣がバックグラウンドとして存在していて、必要あらば現物の貨幣に代わりうるからだと思う。」との説明がありました。章標については、次の第三章の中ででてくるのでその時に譲るということになりました。

 

15パラグラフ

 貨幣での価値量の表現は、決して絶対的な大きさを表すものではありません。貨幣での価値の表現は相対的のものです。例えば、10ポンドの金が貨幣として機能するとしても、その価値がどれくらいであるかは分かりません。また金10ポンドの価値自体、金の生産性が変われば当然変化しうるものです。同じ金10ポンドでも国や地域や時代によっても様々に異なるものです。ただ同じ純度であれば、金100ポンドは金10ポンドの10倍に価値があるはずですし、金1ポンドであれば110の価値ということになります。この比例関係は、金自体の価値が変わろうと全く変わりません。このことが貨幣としての価値量の表現に必要な条件なのです。

 また、貨幣が商品であるということを理解すことは比較的たやすいが、貨幣の本質的理解として商品が貨幣であることを理解することは容易ではありません。商品がまさに貨幣であるということを理解することが肝要です。第一章から見てきたように貨幣とは、商品に内在し、その本質的な契機である価値というものが、商品の価値関係の発展のなかから一つの自立した形態として表れ、諸商品の価値を共通に表現する社会的な価値形態として表れたものです。そういう意味において、貨幣とはまさに商品の価値関係の発展のなかから出てきたものであり、商品の、一般の商品と貨幣商品への分裂から生じたものにほかなりません。貨幣とは、そもそも商品なのであり、商品を生みだすこの社会の生産関係は必然的に貨幣をも生み出すということなのです。

 

16パラグラフ

 金、銀すなわち貨幣は、その生まれつきから、あたかもすべての商品の価値を一般的に表現しうるもの、マルクスの言葉でいえば「一切の人間労働の直接の化身」であるかのように見えます。まるで物質としての金、銀にそのような性格が存在するかのようです。しかし、金、銀が貨幣であるのは、これらが商品世界の共同行為により、金、銀以外のあらゆる商品の共通の価値表現の為に、これらを社会的等価形態、すなわち貨幣として排除したからに他なりません。金、銀は歴史的に貨幣の地位を独占しましたが、それはこうした商品世界の共同行為によりこうした地位を与えられたにすぎません。

 しかし、金、銀は生まれつき貨幣であるかのように見えますし、また貨幣は、他のすべての諸商品との関係により、その貨幣としての地位、機能――すべての諸商品の共通の価値表現、価値尺度等々――が与えられるのではなく、それ自体はじめからそのようの社会的自然属性を有しているかのように見えます。

 これは貨幣についての間違った外観であり、貨幣が、金、銀があらゆる商品の価値を表現し、その価値尺度として機能する、つまり貨幣のみがそうした社会的“力”をもっているという観念は貨幣についての物神性であるといえます。

 こうした間違った外観は、実は貨幣のみに特有のことであはりません。それは、単純な商品の関係にもその萌芽があるのです。

 単純な商品の価値関係、x量の商品A=y量の商品Bにおいても、すでにこのような間違った外観が生じます。それは、この関係のなかでは商品Bは、商品Aの等価形態になっているのですが、この商品Bの等価形態としての性格が、あたかもこの価値関係とは関わりなく、商品B自体がはじめからそのような性格を社会的な自然属性としてもっているかのように見えます。またこの価値関係の主役はあくまでも商品Aの方ですが、どうしても等価形態側の商品が主役であり積極的な役割を果たしているかのように見えます(主客転倒!)。

 このように単純な商品の関係に既に、間違った外観を生じさせるものがあるのです(商品の物神性)。

 貨幣の物神性は、こうした商品の物神性が発展して、完成されたものだといえるのです。

2017年2月23日 (木)

2月12日学習会の報告

 

『資本論』ガイダンスとして始めた「入門講座」の2回目は“マルクスは『資本論』を「資本」の分析からではなく、なぜ「商品(価値)」の分析から始めたのか?”というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

 

 

 まず報告者から、今回のテーマに入る前に、「資本とは何か?」について説明がありました。

 

一般的には、「資本」とはある一定額の貨幣が投下後に初期の投入分より多くの貨幣となって還流してくる“自己増殖する価値(貨幣)”である、と表面的に捉えられている。しかし、流通段階での商品や貨幣、あるいは生産段階にある生産手段が「資本」であると言われるにしても、自らヨリ大なる価値として膨れ上がっていくためには、それらが歴史的にある特定の社会的な生産関係のもとにある限りのことである(勿論、翻れば、商品や貨幣も “モノ”のように現象していますが、それは資本と同様に人々の社会関係を表わしています)。

 

 

 

 こうした報告を受けて、参加者からも発言がありました。

 

商品や貨幣はそれ自体として決して「資本」ではないが、しかし資本は商品であり貨幣である。最近イオンなどの流通関係の企業や地場の建設企業などが農業生産法人を設立し資金を出資して人を雇い野菜などの生産を行っている例が報道されているが、ここで生産されている商品は多くの“利潤”を含んだ資本主義的商品であって、ここでの商品や貨幣、そしてそこで働いている労働者は賃金労働者としてそれに支配されている生産手段などは「資本」に転化していると言える。

 

ここでのまとめとして、「資本」とは“モノ”ではなく、商品や貨幣、生産手段が人々の生産における特定の社会的な関係のもとでのみ初めて「資本」になるのであって、資本-賃労働、搾取-被搾取という関係を含んだ歴史的な概念である、ということを確認しました。

 

 

 

続いて、報告者から“なぜ『資本論』は「商品」の分析から始まるのか?”の説明がありました。

 

 私たちは商品経済の社会の中で生れ落ち、それ以来、全生活をその中で生きてきており、それを自然なものと思っていて、なぜ商品社会なのか、なぜ労働生産物が商品になっているのか、どういったメカニズムがそこに働いているのか、という疑問を持たない。しかし人類が商品経済が支配的になった社会の中で生活し生きてきたのは、せいぜいこの300年くらいのものである。ミカンを作って生計を立てている農業専業者である報告者としては、ミカンやネーブルなどの農産物がすべて商品にはならない、つまり欲している多くの人がいる(使用価値を持っている生産物である)にもかかわらず、他の商品と交換される「価値」を持っているものとして売られる(お金に換えられる)わけではない、という経験を日頃からしており、「商品とはいったいどういうものなのか」ということを『資本論』から学んでいる。この社会では、「商品」とはどんな時代にでも人々の諸種の欲望の対象である「使用価値」と資本主義的生産様式特有の社会的な富の形態(姿)である「交換価値(価値)」からなっていて、両者は分かち難い相即不離の関係ように思われるが、実はそうではない。つまり、今日のように労働生産物が商品という形態をしていること、つまり「使用価値」と「交換価値」の二面的なものとして現われるようになったのは資本主義社会特有のことであり、これによってこの生産様式は、社会的生産の特殊な一種類として歴史的に特徴づけられている。

 

 「商品」の分析は、直接「資本」(資本主義)の分析とは別であるが、しかし深く関係しており、「資本」の理解の出発点・基礎でもあって、商品価値の理解なくして資本主義の理解もまたあり得ない、だからこそ『資本論』では「商品」の分析から始まっている。こうして、まず「商品とは何であって、その価値とは何であり、それはどのように表現されるのか」の分析を通して「貨幣(価値が自立し目に見える姿になったもの)」を検討し、その貨幣が“自己増殖する貨幣”である「資本」に転化していく過程を叙述していくことになる。

 

労働生産物が商品形態(価値形態)をとるのは資本主義社会特有のことであり、「なぜそうなっているのか」ということを詳述している『資本論』の第一章「商品」は最も抽象的で難解な部分であるけれどもみんなでしっかり学習していこうと参加者に話した。

 

 

 

当日の学習会の終わり近くに報告者から、「商品生産と資本主義的生産の関係について」というテーマで、商品生産と資本主義的生産とは別物であり両者を切り離して、1952年のスターリンの論文『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』以来、商品経済(貨幣経済)を利用した市場経済的社会主義を唱える論者(中国共産党など)がいるが、それは『資本論』の叙述がなぜ「商品」から始まっているのかということの無理解に所以している、そもそも“商品生産は、資本主義的生産の基礎であり出発点であり、資本主義的経済は商品経済(市場経済)をその基礎としており、商品経済そのものである”という説明がありました。

 

これについて、「商品生産と資本主義的生産との違いは何なのか?」、「商品や貨幣は古くからあり資本主義に特有のものではないと言われたが、資本主義に特有のものは何か?」という質問があり、少し議論になりました。

 

 

 

報告者や他の参加者からも次のような説明がありました。

 

ここでいう「商品生産」とはいわゆる単純商品生産であり、そこでは「(商品になっている生活物資を)買うために(自己労力で生産した商品を)売る」、つまり、W(商品)― G(貨幣)― W(商品)である。

 

一方、資本主義的生産の流通部面に現れる一般定式は「(利潤を含んだ商品を)売るために(貨幣によって最初に商品を)買う」、つまり、G(貨幣)― W(商品)― G’(貨幣、G+Δg)であり、流通過程を離れて資本の生産過程を見ると、以下のようになる。

 

 

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

 

 

   

 

 Pm(生産手段)

 

 G(貨幣)― W(商品)             ・・P(生産過程)・・W’(利潤を含んだ商品)― G

 

 A(労働力)

 

 

つまり、利潤を含んだ商品W’を売って初期に投下した貨幣Gより多くの貨幣G’を手に入れるために、まず初めに、商品である機械や原材料などの生産手段Pmと労働者の労働(能)力Aを貨幣Gによって買うということである。

 

資本主義は最高に発展した商品生産社会であって、すべてのものが商品化されている社会であるが、「資本主義に特有のものは何か?」と問われれば結局のところ、その使用が新たな価値(特に、剰余価値Δg)を生み出す特殊な商品である労働力商品Aが登場してきたことではないかとの意見が数人からありました。 

 

 

 

また、「『資本論』の日本語訳によっては同じ用語を“抽象”と言い“捨象”とも言っているが、これはどういうことなのか」という質問がありました。“抽象”とは多くの物や事柄に共通なものを取り出すことであり、それは反面、そういった共通なもの以外を捨て去ることにもなるので、それを強調して“捨象”という表現が用いられており、含意はまったく同じであるという説明がありました。これとよく似たものに、「肯定は否定である」という言い方があります。例えば、“これは犬である”という肯定表現には、“これは犬でないもの(非犬)ではない”という否定的な表現をも含んでいます。 

 

『資本論』での用語は私たちが普段使っている言葉ではないものが多くあって理解しづらい箇所がありますが、みんなで討論し深め合い、言葉の意味を一つ一つ確認しながら学んでいきたいと思います。

 

 

今回、報告者としては、アレもコレもと一度に多くのことを言おうとしてしまい、かえって分かり難くしてしまったのではないか、“なぜ「商品」の分析から始めたのか”という最も重要だと思う部分に的を絞って説明した方が参加者に親切ではなかったかと反省しきりです。

2017年2月16日 (木)

1月22日学習会の報告

今回は、『資本論』第二章 交換過程 の冒頭から8パラグラフ目「直接的な生産物の交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、・・・」(岩波文庫158頁)から11パラグラフの終わり「・・・しかして、金と銀とは、このような属性を本来もっている。」(岩波文庫161頁)を学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

8パラグラフ

 これまでのパラグラフでは、商品交換はなぜ一般的等価物――これが発展すれば貨幣になります――を生みださざるをえないのか、その必然性と、ではそれは何によって、どのような過程によって生み出されるのかということが論理的に明らかにされてきました。

 少し振り返るとそれは、一般的等価物や貨幣が媒介にしない無媒介な商品交換、直接的な生産物交換の形では、商品のそれ自身の使用価値としての性格や交換者の欲望に制約されてしまい、商品交換が成り立ちえなくなります。この矛盾を解決するためには、こうした無媒介な商品交換を媒介するものが必要となります。これは、どんなものでもよいわけではなくやはり諸商品の価値を表現しうるものとしてそれ自体価値をもった商品である必要があります。これは第三節で示されているように諸商品の価値を客観的に表現できる妥当なものとしては、一般的等価物ということになります。商品交換の矛盾を媒介するものとしては、このような一般的等価物の成立は必然なのです。

 ではこの一般的等価物は、何によって生み出されるのかという問題ですが、これは商品世界の共同作業であり、ある特定の商品を排除し、その商品を一般的等価物とすることによってです。これは商品の交換過程の問題であり、まさに現実の交換過程により、特定の商品が一般的等価物として登場するのです。

 

 ここ8パラグラフからは、こうした一般的等価物の成立、そしてそれが貨幣になっていく歴史的な過程について展開されています。

 

 まず貨幣や一般的等価物を媒介にしない直接的に生産物交換はどのようなものでしょうか?

 それは交換以前には商品として存在してない場合、交換によってはじめて生産物が商品となる場合です。これは、共同体の中で余剰生産物が生まれ、この余剰生産物どうしが共同体間で交換されるような場合です。

 こうした最初の商品交換では、交換は偶然的でした。しかし、それは繰り返される中で規則的なものとなっていき、社会的な過程となっていきます。やがて労働生産物の一部分は最初から交換を目的に生産されるようになっていきます。

 交換の割合も偶然的なものから、生産そのものによって決まるようになり、徐々にそれらの生産物の価値量として固定されるようになっていきます。

 

9パラグラフ

 商品交換が発展し、商品の数と多様性が増大するにつれて、やはり7パラグラフまでで見てきたように、商品交換を媒介する、より一般的で社会的な等価物の必要性、必然性も大きくなっていきます。

 多くの生産物が商品として取り引きされるためには、やはり各々の商品が共通の第三の物で価値が表現され、それと交換がなされるということが必要になります。こうして商品交換は、この第三の商品種類により媒介されることになります。こうしてはじめて商品交換は、一般的なものになります。

 この第三の商品は一般的、社会的な等価形態となりますが、これもこの第三の商品をこうした等価形態とする社会的な接触が終われば、消滅します。つまり一般的等価形態となる商品も様々であり、時代や場所により様々な商品がこの形態についてきたのです。

 しかし、やがて排他的にある特定の商品種類だけがこの形態をとるようになります。こうなるとその特定商品=貨幣であるということになります。貨幣の成立です。

 しかし、何がこの貨幣となる商品であるかは、最初は偶然的でした。つまりまだ貨幣=金、銀ではないのです。

2017年1月15日 (日)

1月8日学習会の報告

今年から「資本論入門講座」を新たに設け毎月第2日曜日に開催することになり、その第1回目の学習は『資本論』ガイダンスとして、“マルクスはなぜ経済学研究(資本主義批判)をしなければならないと思うようになったのか?”というテーマで行いました。以下はその報告です。

 

まず初めに、マルクスの経済学と「エコノミクス」と呼ばれている経済学との違いについて報告者から説明がありました。

「マルクスの「経済学」は社会の物質的富の生産や分配にしめされている社会法則(人間社会の物質的生活条件)を研究するが、その研究対象は商品や貨幣、資本という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係です。他方、近年流行の「エコノミクス」は単に資本主義社会の表面的な経済現象(為替相場や株価、投機的な金融商品や商品先物相場、金利などの動き)だけを分析し、そこでの数量的法則と因果関係を純粋に捉えることをもって“科学的だ”と主張する、労働者にはまったく縁のないマネーゲームに興ずる退廃した経済学なのです。

ここでは、マルクス経済学の研究対象が「貨幣という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係である」とはどういうことなのかという質問がありました。これに対して報告者から、例えば、働いてミカンを作り商品として売ってお金(貨幣)を手に入れそのお金で諸々の生活物資を得るが、その物資も他の多くの人々の労働の生産物であるわけで、貨幣という“モノ”の関係をとおしているけれども、そこには私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れているという説明がありました。

 

以下、当日のレジュメに即して項目ごとにその学習内容を報告します。

 

1.『資本論(副題:経済学批判)』の目的と出版当時(1867年)の世界

 『資本論』の目的は「資本主義的生産様式を分析し、近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」によって、この生産様式の(労働が個人的なものではなく社会的なものになったという)歴史的意義と(人々の労働が商品の価値・貨幣という“モノ”になって倒錯して現れる)限界を明らかにすることにあります。

 『資本論』が出版されて今年で150年になります。当時、資本主義的生産様式の典型的な場所は唯一イギリスだけでしたが、その後の世界は圧倒的にこの資本主義的生産のもとにあります。従って、この資本主義とはどのような社会システムであり、どのようなメカニズムで動いているのかというその本質的な諸関係を暴露している『資本論』は決して古い書物ではなく、人類史上聖書と並ぶベストセラーであって、出版以来多くの労働者たちを引き付け読み継がれてきました。

 また、『資本論』の叙述では人間は脇役で、経済関係の能動的主体・主役は商品・貨幣・資本ですが、それはこの資本主義社会では人と人との関係がモノとモノとの転倒した関係として現れているからなのです。

 

2.マルクスが経済学研究の“導きの糸”とした唯物論的歴史観

「法律諸関係ならびに国家諸形態というものは、それ自体によっても、またいわゆる人間精神の一般的発展からも、理解されるものではなく、むしろそれらは、物質的な生活諸関係(市民社会)に根底をもっている。しかし、この市民社会の解剖は経済学のうちにもとめるべきである」というのがマルクスの考えです。

 資本主義社会を歴史的・経過的なものとして見る視点

資本主義そのものが人間社会の発展の過程から見て、1つの歴史的に過程的なものに過ぎず、この資本主義的秩序を社会的生産の絶対的で最終的な姿としてではなく、社会的生産の一種として歴史的に過ぎ去る発展段階として考える必要があります。

 

例えば、現在のような「王権(王朝)国家」ではない“法の支配(憲法体制)”という「独立主権国家(国民国家)」という形が成立したのは、数万年におよぶ人類史上、せいぜいこの200年くらい前のことにすぎません。私たちはマルクスと同じ視点を持って、現在の「国民国家」を人間社会の唯一の姿、絶対的で最終的な姿としてではなく、人類共同体の歴史的に過ぎ去る1つの発展段階として考える必要があります。

 唯物論的歴史観について

唯物論的歴史観は、「経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論だ」と死んだ教条のように誤解する人がいるが、人類の歴史を研究する際にはその時代の思想や理念(観念論的歴史観)とかある人物の業績(英雄史観)などから行うのではなく、人間が生きていくのに必要な衣食住の生産と再生産をどんな生産手段を使いどのような社会的なつながりのもとで人々が行ってきたのかということから始めなければならないという歴史観(歴史の見方)です。

マルクスは『経済学批判序言』の中で唯物論的歴史観について次のように定式化しています。

「人間はその生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、生産関係にはいる。この生産関係は、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する。これらの生産関係の総体は社会の経済的構造を形づくる。これが現実の土台であり、そしてそのうえに法律的および政治的な上部構造がたち、そしてそれに一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。」(『経済学批判序言』より)

 

 これはつまり、ある歴史時代の政治的・法律的な諸関係やその性格は基本的に経済的土台(その社会の生産諸関係の総体)によって規定されており、またその時代の人々の様々な支配的なイデオロギー(観念・意識内容)も基本的にはその社会の土台により制約を受けています。つまり見方を変えれば、どのような社会的な問題であろうと本当の解決を考えるためにはその社会の経済的土台との関連を見なければならないということだと思います。

 

ここで、レジュメでは「唯物論的歴史観は“経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論だと死んだ教条のように誤解する人がいる”と書かれているが、唯物論的歴史観はある意味で“は経済的な下部構造がすべてを決める経済決定論”ではないか」という意見が出され議論になりました。「唯物論的歴史観の一般的定式を述べている『経済学批判序言』には“物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける”と言われており、“決める”と“条件づける”という表現上の微妙な違いではないか」という意見もありました。

報告者の意図としては、ここで言う「すべてを決める」という言い回しを強調して“死んだ教条のように誤解する人がいる”とレジュメに書いたのですが、もう少し慎重な表現をするべきだったと反省しています。この問題(一般的な唯物論的歴史観の誤解)についての参考として、当日のレジュメの以下の文章を挙げておきます。

★ エンゲルスからブロッホへの手紙(1890)

唯物史観によれば、歴史における究極の規定的要因は、現実の生産および再生産です。それ以上のことは、マルクスも私もかつて主張したことはありません。いまこれを、経済的要因が唯一の規定的要因である、というふうにねじまげる人があるならば、その人は、あの命題を無味乾燥な抽象的不合理な空語にかえてしまうのです。・・われわれが社会の歴史の規定的土台とみなす経済的諸関係とは、一定の社会の人々が彼らの生活資料を生産し、また(分業があるかぎりは)生産物を相互に交換する、その仕方を言うのです。・・われわれはわれわれの歴史を自分でつくりますが、しかしそれは、第一に、まったく特定の諸前提と諸条件とのもとでのことです。それらのなかでは経済的な前提と条件が終局的に決定的なものです。しかし政治的・等々の前提や条件も、いな人間の頭につきまとっている伝統でさえも、決定的な役割でこそないが、ある役割を演じるのです。」(全集37P.401

 

3.社会の基礎は働く者の労働にあるという視点

人間社会の最深の基礎は、人間が自然とのあいだで行う物質代謝である労働によって生存に必要な衣食住などの物質的富を生産することであって、この生産活動は社会活動の基礎をなしており、生産活動の原動力は労働です。そして私たちは、労働を通して生み出された富を消費することによって生活しています。ここでは、物質的富を生産する労働者の「生産的労働」の意義を強調しました。

 

人間の生存と社会の存続とを支えている社会の富は労働によって生産された生産物であることは自明です。労働なしには人間の生存も社会の存続もあり得ず、人間は労働によって自然に働きかけそれを人間生活に役立つものに変化させていくこと、どのような社会でも人間はそういう物質的な富を自然から獲得するのに必要な労働について思いめぐらさなければならなかったということ、これらのことは誰にでもわかる当たり前の事実であって、経済学によってはじめて明らかにされるようなことではありません。歴史上人間はあらゆる動物のなかで最も群居的な集団生活を行ってきたのであって、そうである限り、この共同体にとって必要な富を生み出す生産的労働こそが人類の歴史と文化およびその発展の物質的な必然的条件、その契機であり、一切の歴史と人間社会の基礎過程であると言えるはずです。

 

ここでは、人間の生存と社会の存続とを支えている生産的労働の重要性を参加者の皆さんと確認しましたが、「教育労働や医療労働などは生産的労働でないかもしれないが社会的には有用で必要不可欠な労働ではないか」という疑問が出され、議論になりました。これについては当日のレジュメで次のように書かれていました。

「人間社会の物質的な富を生産および再生産する生産的労働の意味は、その概念が社会の一切の寄生的な人々(他人の労働によって生活する人々・寄食者)を拒否するだけでなく、生産的労働と不生産的労働に区別を設ける点にもある。この概念は不生産的労働がすべて人間社会にとって無用であるというわけではないが、しかし少なくとも、何が社会の存立と発展のための基礎であるかを明らかにし、不生産的労働が認められうる限界を確定する。つまり、生産的労働は社会の物質的な富を増やすが、不生産的労働はそれがどんなに有用であり社会的に必要なもの(例えば、教育労働や医療・介護労働など)であろうと、それは生産的労働のたまものである物質的な富の豊かさによってのみ可能となるということである。」

 また、「教育の費用は労働力の価値(生産費)の一部を構成するので、教育労働は不生産的労働とはいえないのではないか」という質問も出ました。報告者からは“マルクスのいう本来的な規定での「生産的労働」とは、人間と自然との代謝と関連した意味での物質的な富を生産する社会的な労働である”という説明がされたが、この問題についてはこれ以上深められた議論は行われませんでした。

 現在では、物質的な富を生み出す労働を軽視し、お金が得られればセックス産業なども含めてどんなものであろうと、それが「働いていること」なのだという考えが蔓延しており、「農業社会から産業革命による工業化社会へ、さらに現代の情報化・サービス産業社会(脱工業化社会)へと産業の高度化が進んでいる」と喧伝されています。しかし、こうしたサービス産業の肥大化(経済のサービス化)は、農業を含めた製造業での労働生産性上昇は社会に必要な物資的な富を以前と比べて少ない人数で生産できるようになった成果であるにしても、それは寄生人口を膨大な数に増やすという現代資本主義の寄生化と頽廃の現れであり、その理論的反映でもあります。これに関連して参加者からは、その典型的な事例である昨年12月に成立した「カジノ解禁法」に対して激しい批判がされました。

 また、「最近の情報通信技術(IT)や人工知能(AI)による生産の効率化についてはどのように捉えるのか」という質問が出され、これに対しては報告者を含め他の参加者からも次のような説明がありました。「最近の技術革新はより一層労働生産性を向上させるだろうが、問題はそれが資本主義生産に利用されることにある。利潤獲得を目的としているこの社会では、労働者のためになる労働時間の短縮や労働の軽減・省力化にはつながらないで、労働強化や失業問題を引き起こすようになるだろう。経済学者のケインズは“生産のオートメ化によって20世紀末には週5時間労働になるだろう”と予言したが現実にはそのようにならなかったことがその証左である。19世紀初頭にイギリスでラッダイツ運動という機械の導入によって雇用を奪われた労働者たちの“機械打ちこわし”があった。やはり、機械や技術そのものとその資本主義的な利用を区別するべきであると思う。」

 

この他にもいろいろ多岐にわたった議論が行われました。例えば、エンゲルスの『猿が人間になるにあたっての労働の役割』のなかで、「労働は人間生活全体の第一の基本条件であって、しかもある意味では、労働が人間そのものをつくり出した、と言わなければならないくらいそうなのである」と述べており、現在の労働は虐げられ疎外された搾取労働であって、人間そのものをつくり出してきた本来の労働ではない、と報告者から話があり、参加者みんなで意見を出し合いました。

 

次回の2月12日の2回目の「資本論入門講座」は、“マルクスはなぜ『資本論』を商品の分析から始めたのか?”というテーマで行います。

2017年1月 1日 (日)

12月25日学習会の報告

今回は、再び『資本論』に戻り、第二章交換過程の第一パラグラフ~第7パラグラフ(国民文庫版『資本論』第一分冊p155p160、岩波文庫版『資本論』第一分冊p152p157)までの振り返りを行いました。ここは以前の学習会でもやった部分でしたが、再度復習として学習しました。以下は学習会の報告内容です。

 

第二章交換過程第一パラグラフ~第七パラグラフ(復習)

 商品が商品として互いに関わり合うためには、商品所有者の存在が必要となります。ここ第二章では商品所有者の登場が必要となってきますが、ここでの彼らの関係は互いに私的所有者として相互に認め合う関係、経済的諸関係としての関係になります。しかし、ここで考察の対象となる商品所有者の関係は、あくまでもそれが経済的諸関係の担い手としてのみであり、ただ彼らが商品の代表者として存在する限りのことです。

 商品は、まずもって商品所有者にとっては非使用価値であり、従ってそれは、それを使用価値として必要とする他人の手に渡らなければなりません。故に商品は全面的に持ち手を交換される必要があります。

 しかし、この持ち手の交換は、商品交換によってなされなければなりません。つまり商品は、使用価値として――それを必要とする他人の手にわたることにより社会的使用価値として――実現されなければならないのですが、その前に価値としても実現されなければなりません。

 他方で、商品は、価値としても実現されなければなりませんが、その前に使用価値として実現されなければならないのです。なぜなら、それが有用であるかぎりで、その商品に支出された労働も数に入るにすぎないからです。ところがこの有用性についても、それはただ商品交換が実現してそれが他人の為の有用物であることが示されてはじめて証明されうるものなのです。

 このように見てくると商品は価値として実現されることと、使用価値として実現されることは相互に前提しあうということになります。

 またどの商品所有者も、自分の欲望を満足させる使用価値をもつ商品とでなければ交換しようとしません。これはこの限りでは、彼の個人的欲望を満たすものであり、商品交換はただ個人的過程にすぎません。しかし、他方で彼は自分の気にいった同じ価値の商品であれば、自分の商品が相手にとって使用価値をもつかどうかに関わらず、すなわちどの商品とでも交換しようとします。この面からみれば、交換は一般的社会的過程だといえます。しかし、同じ過程が、すべての商品所有者にとって個人的でありながら同時に一般的社会的であるということはありえないことです。

 このことをさらに詳しく見ると、どの商品所有者も自分の商品はすべて一般的等価物とみなして、そうしたものとして通用させようとします。それは裏を返せば他人の商品は、一般的等価物としては認めず、ただ自分の商品の特殊的等価物としてのみ通用さえようとするということです。

 しかし、これは全ての商品所有者が同じことをしようとするのだから、結局、どの商品も一般的等価物たりえないということになります。

 どの商品も一般的等価物たりえないということは、諸商品は互いに共通な価値表現をもちえず、お互いに価値として等置され、相互に価値として比較されることも不可能とならざるをえません。こうなると諸商品は、お互いに商品として相対することもできず、ただ生産物同士として、あるいはただの使用価値同士として相対するだけとなってしまいます。すなわち商品交換は行き詰まらざるをえないということになります。

 ではこの商品交換の行き詰まりは、どのように解決されるのか?

 それは、ある特定の商品を、商品世界から排除することにより、この商品を一般的等価物とすることによってです。特定商品を排除し、これを一般的等価物とすることにより、他のすべての諸商品はこの一般的等価物により価値を表現することができます。それと同時に諸商品はお互いに価値をもったものとして相互に関わることができる、すなわち商品として相互に関わることができるようになるのです。このように一般的等価物の成立により、それによって商品交換が媒介されることにより問題が解決されるのです。

 この排除された商品が、一般的等価物であるということが、この商品の独自な社会的機能となっていきますとそれは貨幣となります。

 貨幣の生成は、異なる種類の労働生産物がお互いに等値され、実際に商品に転化される交換過程においては必然的なことだといえます。

 また商品交換の発展は、商品本生に眠っている使用価値と価値との対立を展開させ、最終的に商品と貨幣へと商品の二重化に到達するまでとどまらないということです。

 

今回出された主な質問・意見等

 ・「テキストの中で『人々の経済的扮装は・・・』(国民文庫版p155)とあるがここで経済的扮装とか経済的仮装(岩波版)の意味はどういうことか?」との質問が出されました。これに対しては「商品生産では、商品生産者相互の関係が、商品と商品の関係として、すなわちモノとモノの関係として現れる商品生産の倒錯的な関係を表しているのだろう」との意見が出され概ね了承されました。

・「商品の交換過程が個人的な欲望を満足させる限りでは個人的だが、他方で自分の商品を同じ価値の気に入った商品とならば、彼の商品が相手にとって使用価値であるかどうかに関わらず、どれとでも実現しようとすることが社会的だということがいま一つ分からない。」との疑問が出されました。これについては「その商品の使用価値が何であるかに関わりなく、価値として他の諸商品と交換して実現しようとすることは、その商品に支出された労働の人間労働のとしての同等性、社会的性格を示すことであり、その意味ではこうした交換は一般的であり社会的であるといえるのではないか?」という意見が出され了解されました。

・「商品と貨幣とに商品が二重化されるということはどういうことか?」との質問が出され、これに対しては報告者から次のような説明がありました。「もともと貨幣とは、商品の一種にすぎない。商品の価値表現の問題を考えると結局、商品は商品によって表現――ある商品の価値は、それと等しいと置かれるもう一つの別の商品によって価値が表現される――するよりほかはない。これが価値表現の発展としては、個別的価値形態から展開された価値形態へ、さらに一般的価値形態へと発展していく、そして最後は貨幣形態にたどり着く。すなわち(一般)商品と貨幣(商品)とへ二重化することになるということだろう。」

2016年12月25日 (日)

12月11日学習会の報告

今回は、久留間鮫造著「価値形態論と交換過程論」(岩波書店)の22ページの「これはひっきょう、商品所有者がいずれも・・・」の段落から23ページの最後まで「・・・これが交換過程論の固有のテーマをなすのである」までを輪読し学習しました。

 

以下は、学習内容の要約です。

 

前回までの振り返り(一部)

今回は、前回までの簡単な振り返りを行いました。ここではそのすべてを紹介することは割愛させていただきます。

ここで参加者より「商品の使用価値としての実現と価値としての実現の違いがわかりにくいので説明してほしい」との要望が出ましたので、ここではその点について紹介させてもらいます。

 

 商品の交換過程においてあらわれる矛盾は、商品の使用価値としての実現と価値としての実現の間の矛盾といえます。

 まず商品の使用価値としての実現とは、商品が所有者の手を離れて誰かその商品を使用価値として必要としている人に交換を通して譲渡されることです。なぜならある商品の所有者にとっては、その商品は使用価値ではなく、ただそれを必要としている、その使用価値を欲している他人にとってのみそうであるからです。商品にとっての使用価値は、他人の為の使用価値、社会的使用価値でなければならないからです。

 他方、交換過程において、商品の価値としての実現ということは、ある商品が交換されて任意の商品に変わることを意味します。これは、ある商品が価値としては、どんな商品とでも直接に交換可能なものであるということが示され、証明されなければならないということです。

これを商品所有者の欲望を考慮して考えてみましょう。たとえば、リンネル商品所有者が自分のリンネルを、今自分が欲している上着と交換しようとします。この場合、リンネルとの交換は他のどんな商品でもなく上着でなければなりません。この場合では、リンネルが直接に上着と交換可能である必要があります。それこそがここでのリンネル所有者の交換の目的を果たすことです。しかし、これは上着所有者の欲望がどうであるかということとは無関係な話です。ですが実歳には、上着所有者も自分の商品との交換は、自分が手に入れたいと思う任意の使用価値に対してのみ交換に応じようとするでしょう。もし上着所有者の方もリンネルをほしいと思わなければ、この交換は成立しえません。結局、商品リンネルが価値として実現される為には、この場合上着との交換がなりたなければならないのですが、それはリンネルが上着所有者にとって必要物であること、彼の欲望にあった使用価値であることが前提になります。

商品リンネルが使用価値として実現するということは、交換を通じてリンネルを使用価値として欲している人の手に譲渡されることです。ここでは小麦所有者がリンネルを欲しているとすると、小麦所有者の手にわたることがまさに使用価値として実現されることですが、いまここではリンネル所有者は小麦ではなく上着を欲しています。小麦との交換は、確かに使用価値として実現されることですが、これはリンネル商品が価値として実現されること矛盾します。なぜならリンネル所有者が手に入れたいものは小麦ではなく上着だからです。

 このように見てくると商品の使用価値としての実現と価値としての実現の間には矛盾があります。こうした矛盾はやはり何らかの手段でもって媒介される必要があります。この矛盾を媒介するものこそまさに貨幣なのです。

 

22ページ「これはひっきょう、商品所有者がいずれも・・・」の段落

 商品所有者たちはみな、自分の商品を自分の気に入った商品と直ちに交換しようとします。商品交換の直接の目的は、自分の商品との交換により自分の気に入った、自分が必要としている使用価値を手に入れることです。ですから商品所有者は、自分の商品が諸々の使用価値の商品と直接に交換可能のものとして通用させようとするでしょう。こうした直接に任意の諸商品と交換可能なものは一般的等価物ということになります。このように商品所有者は各々が自分の商品を一般的等価物として通用さえようとすることになります。ですがどの商品所有者もそうしようとすることには大きな矛盾が生じざるをえません。商品所有者が各々こぞって自分の商品を一般的等価物として通用させようとすれば、結局どの商品も一般的等価物たりえないことになります。かくして諸商品は価値として相互に関係をもつこともできなくなってしまい、商品交換は行き詰まらざるをえません。

 ではどのような打開策があるのか?それはある特定の商品を、一般的等価物たらしめることによります。これは商品世界の社会的行動によるものです。つまりある一つの商品を、この商品世界の他のすべての商品の共通な価値表現手段とする為に、この商品を排除することによるのです。この排除された商品は一般的等価物となり、それが独自の社会的機能となると、それは貨幣となります。

 

23ページ「価値形態論と交換過程論との差異と関連は・・・」の段落にについて

 価値形態論と交換過程論の関係はいかなるものでしょうか?

 価値形態論では、貨幣や一般的等価物の形成が、商品の価値表現の問題から如何にして形成されるかということを明らかにしています。

 他方、交換過程論では商品の交換過程に生じる様々な矛盾や困難から、この矛盾を媒介し交換過程の問題を解決するものが必要なことが示されます。ではこの矛盾を媒介し問題を解決するものは何かといえば、それはすでに価値形態論でその成立が示されている一般的等価物である。この一般的等価物が登場してはじめて商品交換における矛盾は媒介されて、諸商品が相互に価値として関係をもつことができるようになり、商品交換における問題は解決されます。

 また交換過程論では、この一般的等価物を生みだすのは、まさに商品世界の共同行為にほかならないのですが、こうした共同行為を必然たらしめるものはこれまで見てきた無媒介な形では交換過程を行き詰らせるこの過程の諸矛盾であり、その媒介の必要であるということも明瞭に示しています。

 

 

また直接今回の学習個所との関連はないものの次のような質問も出されましたので紹介しておきます。

◎「資本論では『商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる。』(大月書店国民文庫「資本論」第一分冊P161)とあるがそれは余剰生産物が商品となるということか?」との質問がありました。これに対しては「この個所では、歴史的なこととして最初の方の商品は共同体の余剰生産物が商品となったという事実を述べていると思う。だが基本的に資本論での分析の対象の商品は、分業が発展した社会において、はじめから商品として生産されるような商品が対象であると思う。」という主旨の意見が複数の方から出され概ね了承されました。

 

 また今回の学習会では全体を通してとして次のような意見も参加者から出されました。

「いま学習しているところは、結局のところ、資本主義では私的な労働が、商品交換を行うことによって社会的な労働であるということがはじめて実証される。だがそれとは違い社会主義社会では、労働そのものがはじめから社会的なものとして計画的に行われる。だから労働生産物が商品となって現れる必要もないし、貨幣も必要ない。」

 

2016年12月 4日 (日)

11月27日の学習会の報告

今回は、久留間鮫造著「価値形態論と交換過程論」(岩波書店)の19ページの冒頭の「だから、商品生産が一般化するためには、・・・」の段落から22ページの「資本論」からの引用箇所「・・・対立しあうにすぎない。(九二頁。)」までを輪読し学習しました。

 

以下は、学習内容の要約です。

 

19ページ「だから、商品生産が一般化するためには、・・・」の段落について

 商品の交換過程で現れる矛盾――使用価値としての実現と価値としての実現の間の矛盾――は、貨幣が成立することによって媒介され、かくして交換過程に生じる困難は解消されます。

商品生産が一般的なものとなる為には、このような貨幣による媒介が不可欠です。なぜなら直接的な商品と商品との交換では、商品所有者の欲望が一致しない限りうまく成立しえないからです。

例えば、リンネル所有者が自分のリンネルを聖書と交換したいと思っても、それは聖書の所有者の方でも、やはりリンネルと交換したいと思っていなければ交換は成立しません。

この場合、リンネル商品の使用価値としての実現は、交換によってそれを必要としている人の手にわたることです。テキストの例では、小麦の所有者がリンネルを欲しているので、リンネルが小麦との交換で、それを使用価値とする小麦所有者の手にわたることこそが、リンネル商品の使用価値としての実現ということになります。

しかし、リンネル所有者が欲するものはあくまでも聖書であって小麦ではありません。

他方、リンネル商品の価値としての実現は、リンネル商品が交換により任意の商品に変わることです。リンネル所有者が欲するのは聖書ですから、この場合ではリンネルが聖書と交換されということです。聖書以外の小麦や酒やその他の商品ではなく、聖書との交換が成り立つことによってはじめて、この場合、リンネル商品が価値として実現されたといい得るのです。

ここで仮にリンネルと聖書の交換が成立したとします。しかし、聖書の所有者から見るとこの交換は自分の欲するモノとの交換ではありません。聖書の所有者からみれば、自分の聖書が価値としては、任意の商品と交換可能である必要があります。つまり自分が希望する商品と直接に交換可能であるということであり、テキストの設定では酒との交換ということになります。

自分の商品をいきなり価値として実現しようとするというとは、直接に任意の商品と、自分が欲する特定の商品と交換させようとするということになります。すべての商品所有者が、自分の商品をいきなり価値として通用させようとすることになりますが、それは極めて困難なこととなります。

そこで、貨幣がこうした矛盾を媒介することにより交換過程における問題を解決することになります。貨幣が成立すれば、商品はいきなり価値として実現される必要がなくなります。それはまずその商品を必要とする人に貨幣との交換で譲渡(=使用価値としての譲渡)され、そのあと交換によって手に入れられた貨幣により、任意の商品、自分が欲する商品を手に入れればいいわけです。

 

 ◎出された質問等について

・「商品の使用価値と価値の矛盾とは、どういうことなのか?」という質問について。これについては「第一章では、商品の二つの要因として使用価値と価値が説明されています。使用価値と価値の矛盾とか、対立とかいわれますが、あらためて考える--特にこの第一章のレベルで抽象的に考えると――と説明が難しい。ただここでの問題では交換過程における矛盾ということなので、概ね次のようなことになるかと思います。それは商品が他人の為の使用価値としてそれを必要とする人の手に渡らなければならないということと――使用価値としての実現――と、他方で価値としては、相手がその商品を必要としているかどうかに関わらず任意の商品との交換が可能でなければならない――価値としての実現――ということが、相矛盾するということだと思う。」との返答がありました。

 

・「価値としての実現と価値の実現はどう違うのか?」という質問について。「久留間氏の説明では、価値の実現は、商品が売れて貨幣に変わることであり、他方商品の価値としての実現は、貨幣が登場する前の段階でいかにして商品がその価値としての性格を証明するかというようなことではないでしょうか。これはもちろん商品交換の中で実現されるべきものですが、すべての商品がそうですが、価値としては、それは他のどんな商品とでも直接に交換可能なものであるはずです。なぜなら価値としては、諸商品は全く同等--人間労働の産物として――であり無差別なものであるからです。この人間労働の産物として、その同等性から考えれば、どんな商品とも交換可能であり、従って現実の商品交換を考えれば、価値として実現するということは、各々の諸品所有者の立場からすれば、自分の商品を自分が欲する特定の商品と直接に交換することではないでしょうか。しかし、貨幣を媒介にしない場合には、このことはなかなか困難なことです。」と報告者より説明がなされました。

 

・また直接この個所についてではありませんが、資本論第二章の冒頭の段落での脚注38でのプルードンの引用について永遠の正義云々という彼の主張を引用している意味は?との質問もありました。これに対しては報告者より「恐らく、プルードンは商品生産における現実の関係を法的関係の結果として転倒させて考えているのだろう。それに対してマルクスは現実の商品生産の関係があって、それに対応して商品生産社会における法的な諸関係が成立しているということを批判としていっているのではないか?」と説明がありました。

 

20ページ「交換過程は、使用価値および価値の直接的統一としての商品の矛盾が、・・・」の段落について

 商品の使用価値と価値の矛盾が考察され、この矛盾を媒介するものとしての貨幣の必然性が明らかにされているのは、第一章第三節の価値形態論ではなく、第二章交換過程論においてです。

 価値形態論と交換過程論の違いは、前者が価値表現のメカニズムとして、商品の価値表現の発展の中から、いかにして一般的等価物が成立し、貨幣になっていくかということを課題としているのであり、他方、後者は商品の矛盾を媒介するものとしての一般的等価物=貨幣が、何によって必要とされ、また現実に形成されるのかということを明らかにすることを課題としたものだということです。このように価値形態論と交換過程論では明らかに課題が異なります。

 

21ページ「だがこのことは、価値形態論と・・・」の段落にについて

 では、価値形態論と交換過程論はどのような関係にあるのでしょうか?これまで見てきたように交換過程で生じる商品の使用価値としての実現と価値としての実現の間の矛盾は、これを媒介するモノの必要性を示しています。

 では、何によって、この矛盾が媒介されうるのか、ということが問題になってきますが、それは既に、交換過程論に入る前に第一章の価値形態論で明らかにされていることであり、それはすなわち一般的等価物や貨幣の形成によるのだということができるのです。

 すなわち交換過程論に入る前に、資本論では、価値形態論において、商品の価値関係、価値表現の発展の中で、ある特定の商品が、商品世界の価値表現から排除されることにより、一般的に価値として通用するものとして、すなわち一般的等価物または貨幣へとなっていくことが明らかにされています。そしてこの後に続く第二章交換過程では、直接的な商品と商品の交換――例えば、リンネルと上着、小麦と鍬等々のように貨幣を媒介にしない商品交換――を想定するなら、商品所有者相互の欲望に制約されて商品交換はままならなくなり、この矛盾を媒介するモノの必要性を示しています。労働生産物が一般的に商品として生産される商品生産社会――資本主義社会の前提としての商品生産社会――が成立するためには、この矛盾はどうしても媒介されなければなりません。

 しかし、この交換を媒介するものは、どんなものであってもかまわないということにはなりません。例えば、俗にいわれていることで貨幣とは、単に商品の流通を媒介するものであり、それは単なる流通手段であるという見解がそうでしょう。商品交換を、その矛盾を媒介するものは、第一章、とりわけその第三節価値形態論でみたように、それ自身も商品であり、したがって価値をもったものでなければなりません。しかも、それが商品世界の中でそれ自身が価値そのものとして妥当なものとして認められたもの――すなわち一般的等価物――である必要があるのです。ですから便宜的に流通を媒介するものとして何か適当なものを貨幣の代わりにおくことはできないのです。もしこの流通を媒介するものとしてそれ自身価値も持たないもの、当然に価値として妥当なものと認められないものをもってきたとしても、それは商品の使用価値と価値の間の矛盾を決して媒介しえないでしょう。

 価値形態論と交換過程論はこのような内容的な関連があるといえるのではないでしょうか。

 

 ◎出された質問等について

・「一般的等価物と貨幣は同じだといえるのか?」という質問について。これについては報告者より「直接には同じではありません。しかしマルクスも言っているように一般的等価物と貨幣との違いは、ただ後者が歴史的な過程の中で特定商品である金がその地位につき、その地位を独占してしまったということ。だから金がこの地位を社会的に独占して以降は、貨幣=金ということだということです。それゆえ貨幣とは、内容的にいえば一般的等価物そのものだといえます。ここでの議論では、商品交換の矛盾を媒介するものとして一般的等価物が成立し登場する必要性、必然性があるということだと思います。」とありました。

2016年11月21日 (月)

11月13日の学習会の報告

今回は、久留間鮫造著「価値形態論と交換過程論」(岩波書店)の18ページの中ほどの段落「この矛盾は、商品生産者が本来的にもつ諸要求のあいだの衝突という形でもあらわれる。・・・」を輪読し学習しました。

 

以下は、学習内容の要約です。

 

18ページの中ほどの段落「この矛盾は、商品生産者が本来的にもつ諸要求のあいだの衝突という形でもあらわれる。・・・」について

 

 商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現の間の矛盾とは、商品所有者の相互の要求の矛盾という形でも現れます。

 商品所有者は誰もが自分自身の商品を価値として実現しようとします。つまり、相手商品がどんな商品であれ、同じ価値をもつ商品とならば交換しようとします。しかし、この同じ商品所有者が、他方では、自分の商品と交換により手に入れようとするのは、自分が欲する使用価値をもつ商品とであり、使用価値はどんなものであってもいいというわけにはいきません。

これは、自分の商品は価値として妥当させようとする行為ですが、他方で他人の商品、相手商品は、価値としてではなく、ただ使用価値としてのみ通用させるということでもあります。

 

これを資本論の亜麻布所有者と上着所有者の間の関係として見てみましょう。

亜麻布所有者は、自分の亜麻布商品を価値として実現しようとしますが、それは他のどんな商品であれ同じ価値をもつ商品とであれば交換しようとします。しかし、他方で亜麻布所有者は、どの商品と交換しようとするかといえば、どんな使用価値の商品でもいいということにはならないでしょう。やはり自分がほしい、希望する特定の使用価値の商品ということになります。ここでは亜麻布所有者のほしいものは上着だとします。

この場合、上着商品が価値として妥当なものであり、かつ価値量も等しいということであれば、亜麻布所有者は、上着と交換しようと欲するでしょう。

しかし、これで交換は成立するでしょうか?ここでこの交換が成立するためには、上着所有者の立場からも、亜麻布が価値として妥当なものであり、かつ上着と同等の価値をもっているということと、上着所有者にとっても亜麻布が彼の欲する使用価値でなければなりません。

このように相互に欲望が一致すると言うことは、交換においては偶然的なことでしかないでしょう。相互の欲望が一致する限りでしか交換が成立しないとすると、商品が価値として実現されることは困難なことになります。かくして交換過程は行き詰らざるをえません。

我々が考察している社会は、社会の労働生産物が一般的に商品として生産され流通する社会です。もしこれが大半は自給自足的な経済で、ごく一部の生産物のみが商品として流通する社会であれば、相互の欲望が一致する限りでも商品交換の実現ということでも何とかなるかもしれません。しかし、一般的な商品生産ということになれば、商品の使用価値の実現と商品と価値の実現の矛盾を媒介する貨幣のようなものがなければ成り立ちえないでしょう。

 

 

今回出された主な質問・意見について

・「商品は、生産者のもとにある時点で商品なのか?それとも流通に出された時から商品なのか?」という質問がありました。

 これに対しては、「現代の資本主義社会では、生産者もはじめから商品として市場に出すことを前提しているので、生産の時点から商品だということでよいのではないか」という意見が出され、おおむね了承されました。

 

・「商品の価値としての実現ということと単なる価値の実現はどう違うのか?」という質問が出され、これに対しては「久留間氏の説明では、価値の実現とは、商品が売れて貨幣に変わること。貨幣、すなわち社会的な妥当な価値の形態になることだといっている。他方、商品の価値としての実現は、貨幣が成立していない段階で、どうやって商品がその価値としての社会的性格を証明するかということではないか?貨幣が成立していれば、売れて貨幣に変われば、商品は価値として実現されたことになる。これは明瞭なことだと思う。しかし、貨幣、あるいは一般的等価物が成立していない段階では、ある商品の価値が実現されるということは簡単ではないように思う。ある商品が価値であるということは、どんな商品とも交換可能であり、任意の商品に変わりうるということだと思う。これを商品所有者の立場からすれば、自分の商品を自分がほしい任意の他商品と交換できるということであり、そうした交換が実現されることが商品の価値としての実現ということではないだろうか。」と報告者から説明がありました。

 

・「分業の発展と貨幣の生成は関係があるのか?分業と貨幣の生成は関係があるように思うが。」という意見が出されました。

 これに対しては「分業の発展と貨幣の成立は関係があるといえばいえなくもないが、分業から貨幣の精鋭は説明できないのではないか?いくら分業が発展していいてもそれだけでは商品も生まれないし、貨幣はもちろん生まれないだろう。例えば、社会主義では分業も発展しているがそこでは商品も貨幣もないだろう。やはり貨幣の生成は、分業の発展の下に、さらにその分業が私的生産・私的労働のもとにあるという場合ではないか。」というような主旨の意見が報告者や参加者らからありました。

 

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