2018年7月16日 (月)

2018年6月24日学習会の報告

第三章「貨幣または商品流通」の第三節「貨幣」のa「貨幣退蔵」第4段落「商品生産がもっと発達するとともに、…」~第8段落の最後まで(岩波文庫第1分冊229頁~235頁)と、b「支払い手段」第1段落「これまで考察した商品流通の直接の形態においては、…」~第2段落の最後まで(岩波文庫第1分冊235頁~237頁)を学習しました。 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第三節「貨幣」a「退蔵貨幣」の第4パラグラフ「商品生産がもっと発達するとともに、・・・」(岩波文庫第1分冊229頁、国民文庫第1分冊231頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)からこのa「退蔵貨幣」の終わりまでと次の「支払い手段」の冒頭から第2パラグラフ「・・・敵対関係を反映しているにすぎない。」(岩波文庫第1分冊227頁、国民文庫第1分冊229頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

a「退蔵貨幣」の続き

 商品生産の発展は、必然的に生産者らに自分の商品を売ることなしに、自分が必要とする商品を買う必要が生じてきます。それは農家が自分の生産物の収穫期が来る前に、追加的に必要となる堆肥やあるいは破損した農機具の買い替えの必要が生じる場合などです。仮にあらかじめ生産を始める前にある程度必要な堆肥や農機具をそろえていたとしても、突発的に追加的堆肥が必要となる場合や農機具などが不足するという事態も考えられます。そうした生産上の必要から生産者の手元に貨幣が蓄えられるようになります。生産を継続しさらに拡張していくためには大なり小なりこうした生産者の手元に蓄えられた貨幣(ある種の準備金)が必要となります。しかし、こうした貨幣を手元に蓄えるためには、一方で買うことなしに売っておく必要があります。先の農家の例では、前年度に生産した農作物を売ってえた貨幣で、彼自身が消費するための消費財の購入と次年度の生産のための農機具や肥料等々のための資材を買わなければなりません。しかし、そこで彼は彼が収穫でえた貨幣全部を使ってしまうのではなく、一部は次年度以降の準備金として手元に残しておくようになります。

 退蔵貨幣(国民文庫訳では蓄蔵貨幣)の一部は、こうした生産に必要な各種の準備金の形態で形成されてきます。

 他方、貨幣はそれ自体「すべての商品の一般的等価形態」であり、それがあればどんな商品でも買うことができます。しかし、それはどんな商品でも買うことができる(質的に見れば無制限)のですが、ただ量的にみればおのずと限界があります。例えば、少額の貨幣では仮に安価なモノでも沢山は買えないし、高価なモノはほとんど買えません(量的には限界がある)。ここから人はより多くの貨幣を求めるようになります。こうしたことからより多くの貨幣を蓄えようという衝動が生じて来ます。この場合の貨幣退蔵者が多くの貨幣をため込むことができるのは、自分の消費欲を抑制し、節約と勤勉に励むことによってであるとマルクスは言います。つまり彼は生産に励み多く売って少なく買うことによります。これにより彼はより多くの貨幣を退蔵貨幣として手元に蓄えることになります。これがもう一つの退蔵貨幣の形成につながります。

 流通手段として機能する貨幣との関係では、退蔵貨幣は次のような重要な役割を果たします。

 流通手段として機能する貨幣の量は、これまで見てきたように流通する商品の価格総額により基本的に決まります(厳密には貨幣の流通速度も関係してきますが)。つまり経済が好況で商品取引が活発になり実現される価格総額が増えるなら、流通する貨幣量も増大し、逆に経済が停滞して取引も減少して実現される価格総額も小さくなれば流通に必要な貨幣量は減少します。しかしこうした流通手段として機能する貨幣の量はどうやって調整されるのかが問題となります。これは流通に過剰な貨幣は、流通の外に出ていき退蔵貨幣として蓄積されていき他方流通で貨幣が不足すれば退蔵貨幣としてあったものの中から必要な分が鋳貨(流通手段)として出ていきます。すなわち社会の中で退蔵された貨幣が、一種の貯蔵プールのような役割を果たします。これにより流通する貨幣は、特別な事態がない限り、不足することも溢れることもありません。

 

◎b「支払い手段」

 このbでは、支払い手段としての貨幣がとりあげられます。では、支払い手段としての貨幣とはどんなものでしょうか?

 商品流通が発展する中で、商品の譲渡とその譲渡された商品の価格の実現が時間的に分離されてくる事情が発生してきます。この場合、商品の売り手は、債務者となり、他方、買い手は債務者となります。この場合、貨幣での支払いは、支払いの約束の期日が来たら支払うという形になります。これが支払い手段としての貨幣ということになります。ですから支払い手段としての貨幣は、売り手と買い手、債権者と債務者という信用関係を表現するものです。

 次回からこの支払い手段としての貨幣について詳しく見ていきます。

主な質問・意見等

「ここでの退蔵貨幣というのは、要するに拝金主義者や金儲け主義者みたいな人間がどんどんと儲けて蓄えたものということなのか?」という質問がありましたが「そういう致富衝動により貨幣が蓄えられるということもあるが、一方で商品生産の発展の中から、生産者の中に、自分の商品を売ることなしにも、必要なモノをいつでも買うことができるようにしておきたいという欲求が必然的に生まれてくるということもあると思います。」とレポーターより説明がありました。

○「岩波文庫版234頁『あるときは、鋳貨は貨幣として引きつけられ、あるときは、鋳貨は貨幣として追い出されなければならない。』とあるがここでの鋳貨とは、価値標章ということか?またここの一文は何を言っているのか?」という質問がありました。これについては報告者より「ここでの鋳貨というのは、たぶん流通手段としての貨幣形態ということだと思う。価値標章ということではないと思う。流通から脱落した退蔵貨幣は、すべてが金貨や銀貨のような形態(鋳貨形態)である必要はないし、一部は鋳つぶされて金塊や銀塊のような形態にされることが多かったと思う。他方、一部は確かに退蔵されても鋳貨の形態のままであったと思う。流通過程で貨幣が不足すると退蔵貨幣の貯水池からまず先に出ていくのは金貨や銀貨の形態にある鋳貨であると思う。これが鋳貨は貨幣として引きつけられるということで、他方流通に過剰な貨幣(鋳貨)は、流通から追い出されるが、それは別の形態の貨幣、退蔵貨幣として蓄積されるということをいっているのだと思う。」と説明がありました。

2018年6月10日学習会の報告

第一章「商品」の第二節「商品に表わされた労働の二重性」第1段落「最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。…」~第8段落「上着、亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、…」(岩波文庫第1分冊78頁~82頁)までを学習しました。

さて、マルクスは「労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表を持たないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのである…」と述べています。

商品を生産する労働の二面的なもののうち、交換価値に表わされる労働には、使用価値の生産の労働のように、個別的で具体的な内容=徴表は必要がありません。なぜなら、商品の使用価値は個別的なものですが、交換価値として必要なものは、両者に共通なものをどれだけといった、質ではなくもっぱら量が問題になるからです。その共通なものは人間労働ですが、交換価値では交換される商品にこの共通の人間労働がどれだけ対象化されているかということが問題になります。交換における交換比率では、個別の商品の使用価値は捨象され、交換される商品にどれだけの労働が対象化されているのかということだけが問題になり、その点で交換が行われるのです。ここでは、交換の計算単位としての労働時間でもって比較され、それが交換価値として表わされます。

上衣と亜麻布とが質的に違った使用価値があるように、上着と亜麻布を生産する裁縫と機織りの労働も全く違った質の労働です。このことは、多くの商品の使用価値が異なると同様に、その商品を生産するそれぞれの労働も全く異なっており、商品の使用価値と同様に生産する労働も存在するということです。それは、商品の使用価値が様々な種類―属、種、科、亜種、変種等々と分かれるように、それらをつくる労働も同様に分かれます。これらが、すなわち社会的分業と言われます。マルクスは「この分業は商品生産の存立条件である」しかし「商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。」と言っています。

商品生産にとって社会的分業は不可欠であり、もし、社会的分業がなければ機械制大工業のもとでの大量生産や商品生産の発展はありません。一方、社会的分業は商品生産でなくとも可能です。たとえば、古代インドの共同体や未来の社会主義・共産主義社会においては、商品生産で無くとも、労働生産物は分業としておこなわれます。商品として相対するのは、計画的ではない、独立的で無政府的な生産である私的労働の生産物だけなのです。

次に、使用価値とこれを生産する労働の関係について、マルクスは次のように述べています。「上着、亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらゆる要素が現存するようになったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。」

ここでは、人間の要求が自然にあるがままのものから、自然には無い様々な物に移っていくにしたがって、それらの素材的富は、自然を作り替えるだけではなく、まったく自然とは異なるようなものを生み出すような生産活動が行われなければならなくなった。使用価値をつくる有用労働は、社会形態からは独立した、人間の存立条件であって、人間の生活を媒介するために永久的に必要なものなのです。

商品体(具体的な商品そのもの)は、自然素材と労働の二つの要素の結合物です。商品体から有用労働をすべて引き去ってしまえば、残るのは、つねに人間の労働が加えられていない、自然にある物質だけとなります。ということは、人間が加える労働は自然にある物質に合わせて行うしかなく、それは、ただ自然の形態を変更することしかできないのです。そして、この労働においても、たえず自然力に支えられています。故に、労働は、生産される使用価値の、唯一の源泉だとは言えません。労働と自然的素材の結合によってこそ、新たな使用価値が生まれるのです。

2018年6月12日 (火)

2018年5月27日学習会の報告

 

 今回は、前回の続き、第三章「貨幣または商品流通」第二節「流通手段」のC「鋳貨 価値標章」の後半部分、このC項目の第6パラグラフ「一ポンド、五ポンド等々というように、・・・」(岩波文庫第1分冊223頁、国民文庫第1分冊225頁、訳文は岩波文庫のもの。以下も『資本論』からの引用について断りなきは岩波からの訳とします。)から、同項目の最後までと次の第三節「貨幣」の冒頭から第3パラグラフ「・・・あらかじめオーストラリアの金と換えられていたものである。」(岩波文庫229頁、国民文庫231頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

 

C「鋳貨 価値標章」の後半部分 

 前回では、鋳貨が流通するなかで磨滅してその実質的な金属純分が減っていっても、もともとの金属純分に相当するものとして通用するということを見てきました。例えば、銀1ポンドという鋳貨が、もとはちゃんと銀1ポンド分の含有量があったとしても、それが流通し磨滅していくうちに銀1ポンドより少なくなります。ところがその目減りした銀1ポンド鋳貨は、以前と同様に目減りする前の実質的な銀1ポンドに相当するものとして通用することが生じます。こうなると目減りした銀1ポンド鋳貨は、その名目上の銀純分と実質的な銀純分が乖離することになります。これは、目減りした鋳貨が、その名目上の金属純分に相当するものとして、価値標章になっているということです。鋳貨では、価値標章といってもまだそれはある程度価値を持ったものでありますが、これが紙幣になると全く無価値な紙券が金や銀などの代用物として流通し、通用することになります。この紙幣の場合でも、国家による強制通用力があれば、それが実際にはただの紙切れで無価値であっても、それが象徴する金や銀などの貨幣の代わりにそれと同等なものとして通用するようになります。つまり鋳貨であれ、紙幣であれ価値標章としては、どちらもそれが代表している金量(銀量)と同等のものとして通用します。

 これが前回までの部分ですが、では価値標章として流通する紙幣の流通法則は、どのようになるのでしょうか?

以前、流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、基本的に流通に必要とされる金量により規定されるということを学習しました。

 紙幣の場合にも、この法則が基本的に当てはまります。つまり金であれば実際に流通するであろう量に紙幣も制約されるということです。ですから「紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示されている金(ばあいによっては銀)が、現実に流通しなければならぬ量に限定されるべきである」(岩波文庫223頁、国民文庫225頁)ということになります。

 しかし、金が実現されるべき商品価格総額等により流通量が決まっており、それを超えることがないのはこの必要量を超えた部分は、流通から引き揚げられ退蔵貨幣(蓄蔵貨幣)として機能することができるからです。

 しかし、紙幣の場合はどうでしょうか?紙幣の場合も、それが金を代表する限り、例えば経済が好況で以前よりたくさんの商品が取り引きされるような場合、つまり流通が吸収しうる金量が増大すれば、それに応じて紙幣の流通量も増えます。しかし、今度は経済状況が不況に陥り取引が停滞し、実現されるべき価格総額も縮小すると紙幣が過剰ということになります。しかし紙幣は、金のように流通から退場し別の機能(退蔵貨幣のような)を果たすことはできません。つまり過剰になった紙幣も流通にとどまり続けることになります。この場合も当然紙幣はあくまでも金の代理物であり、その限りで流通しうるわけですから、以前と同じだけの紙幣(量)が、今度は収縮した金量を表す、つまり代表することになるのです。

 結局、紙幣もそれが貨幣の代理物として通用する限り、金であれば流通するであろう量によって制約を受けるわけであり、仮に何らかの事情でこの流通必要金量を超えることがあっても、それは金(銀)であれば流通するはずのものを代表するにすぎないということです。

 例えば、流通に必要な銀量が10000ポンドだとし、それを代表する10000ポンドの紙幣が発行されていたとします。しかし、これが不況により経済が収縮し流通に必要な銀量が8000ポンドに下がったとすると、いまでは10000ポンドの紙幣が銀8000ポンドを代表していることになります。つまり以前では紙幣1ポンドは、正に銀1ポンドを代表(象徴)するものでしたが、いまでは紙幣1ポンドは、銀0.8ポンドを代表するものになってしまうということです。

 しかし、どうして金の代わりに単なる無価値な標章が流通しうるのでしょうか?こうしたことが可能なのは、それらがもっぱら流通手段としてのみ機能する場合であり、そうした場合は、このような単なる無価値な標章、つまり紙幣でも可能なのだとマルクスは言います。

 それは流通手段としてのみならば、貨幣はただ商品の変態――ある商品が交換により別の商品へと変わること、W-G―W――を媒介するだけであり、確かにそれはいったん貨幣に代わらなければならないのですが、ここでは貨幣は目的ではなく、あくまでも媒介手段にすぎず、しかもそれは一瞬にしてすぎるものです。だからそれは金でなくても、その代理物、単なる標章でも役割を果たすことができるのです。

 

第三節 「貨幣」

 この第三節では、これまで見てきた単なる価値尺度のとしての貨幣や単なる流通手段としての貨幣とは異なるいわゆる貨幣としての貨幣の機能、現物の金や銀のように本来的な貨幣でないと果たせない機能について展開されます。

 単なる価値尺度としては、貨幣は現実の肉体を持った貨幣である必要はありませんでした。それは単に計算貨幣として観念的な存在でも事足ります。またただ流通手段としてだけなら、貨幣は無価値な標章でも、機能することができます。

 しかし、この第三節での貨幣の働きでは、現物の金のように現実に肉体を持った貨幣でなければならないし、またそれは単なる標章では、役に立つことができません。それは現物の金のように、ちゃんとした価値のあるものでなければなりません。

 

A 貨幣退蔵

 これは、蓄蔵貨幣とも言います。第二節で見てきた流通手段としての貨幣は、次々と商品の変態を媒介するだけであり、この場合に貨幣は、次々と持ち手を変えていきつつ、それ自体は流通にとどまり続けます。しかし退蔵貨幣は、流通から引き揚げられた貨幣であり、それはその所有者の手元で蓄えられる貨幣といえます。この手の貨幣形態が形成されるのは、商品生産の発展の中から生産者らにいつでも必要な商品を買い得る状態にしておきたいという欲求が生じ強まることなどが背景にあります。例えば、農家なら作物が収穫できるようになる前に、鋤や鍬などの道具が急に壊れて、買い替えが必要となるかも知れません。その場合、そうした突発的な需要が生じた場合、もし手元に貨幣の蓄えがなければ、農作業に支障が出ざるをえません。生産を安定的に継続していくためには、ある程度支払い準備金のようなものも不可欠となってきます。退蔵貨幣は、このような商品生産の発展の中から、必然的に生じてきます。

 しかしこの形態の貨幣は、自給自足的な共同体の下で発生した剰余生産物がその形をとったものが始まりです。

 

主な質問・意見等

・貨幣の機能、価値尺度機能と流通手段機能と第三節で扱われるような貨幣の機能のちがいにて説明してほしいとの要望が出ました。これについては、レポーターより「すべての商品は、価値の大きさが表現されなければなりませんが、それは貨幣によって、その量により大きさが表現されます、つまりⅩ量のA商品=金(貨幣)M㎏。あるいはY量のB商品=金(貨幣)N㎏等(この貨幣である金の量による価値量の表現は価格形態です。金の一定量を基準にしてそれに貨幣名をつけると○○ポンドとか○○円とか我々に知る価格の姿になります。)。こうしてあらゆる商品が金の量により価値がはかられ示されます。つまり諸商品は貨幣によりその価値と価値の大きさが共通に表現されることになります。これにより初めて諸商品は相互に価値量において相互に比較可能となります。こうした貨幣の機能が価値尺度機能です。これは諸商品に価格を付与する貨幣の働きといってもいいと思います。これに対して流通手段の機能は、ただ諸商品の交換を媒介するのみです。この機能の貨幣の特徴は、商品の変態を媒介しながら、それ自体は流通にとどまり続けるということです。もし商品の変態が中断され、貨幣が流通から引き上げられれば、それはこの第三節の貨幣としての貨幣の機能の一種、退蔵貨幣となります。他にもこの種のものとしては支払い手段としての機能や、世界的な貿易などで必要となる世界貨幣などの機能があります。この三番目の機能では、いずれにおいても現実に肉体を持ち、価値もちゃんと持った本来の貨幣、つまり金(や銀)である必要があります。価値尺度では、現物の金(や銀)は必要なく、ただ観念的なものでこと足りました。流通手段としては、それは紙幣などの、無価値な標章でも機能しました。しかし、この第三の機能では、金や銀のようにちゃんと価値を持ったものであり、それは観念的のものではなく現物の貨幣が必要となるのです。」と説明がありました。

2018年5月13日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第13段落「商品の交換関係そのものにおいては、…」~第一節の最後、第18段落「物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。…」(岩波文庫第1分冊73頁~78頁)までを学習しました。

 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われました。実際に労働生産物の使用価値から抽象すれば、労働生産物の価値が得られます。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、その価値なのです。この価値を考察するに際しては、価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値から切り離して考察されます。

 一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているからです。それでは、財貨の価値の大いさはどうして測定されるのでしょうか?それは、その中に含まれている「価値形成実体」である労働の定量によってです。そして、労働の量自身は、その継続時間によって測られます。労働時間には、時、日等のような一定の時間部分としてその尺度標準があります。

 価値の実体をなす労働は、等一の人間労働です。従って、怠惰や不熟練といった個々人の労働は考慮されません。社会の全労働力として、同一人間労働力の支出としてみなされます。無数の個人的労働は、社会的平均労働力として作用します。一商品の生産においても、ただ平均的に必要な、社会的に必要な労働時間が用いられます。個々人の労働は、他のものと同一の人間労働力なのです。社会的に必要な労働時間とは、現にある社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもってなんらかの使用価値を造りだすために必要とされる労働時間です。

 

 ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかなりません。同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっています。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間に対する比に等しいのです。「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない」

  ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変です。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化します。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さいのです。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きいのです。従って、ある商品の価値の大いさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化します。

わたしたちは、いまや価値の実体を知りました。それは労働です。わたしたちは価値の大いさの尺度を知りました。それは労働時間です。

 物は、価値でなくして使用価値であるばあいがあります。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介されないばあい(空気、処女地、自然の草地、野生の樹木等々)です。

 物によっては、有用でありまた人間労働の生産物であって、商品でない場合があります。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくりますが、商品はつくりません。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち社会的使用価値を生産しなければなりません。そして、ただ他の人々に対して生産されたということだけで、商品とはなりません。商品となるためには、年貢や税のために生産された労働生産物ではなく、生産物が、使用価値として役立つ他の人に対して、交換によって移譲されるのでなければなりません。

 どんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできません。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにははいらず、したがってまた、なんらの価値も形成しないのです。

2018年5月 6日 (日)

2018年4月22日学習会の報告

本日は、常連メンバーに加えて、新しい参加者の方2名が参加され、合計9名での久々に盛況な学習会となりました。

 新規の方の参加があった為、今回は、はじめに資本論でもっとも基礎的な冒頭の商品論と価値論を簡単に振り返り、そのあと今回予定していたテキストの前回からの続きの部分、第三章「貨幣または商品流通」第二節「流通手段」のc「鋳貨 価値標章」の冒頭(岩波文庫第218頁、国民文庫21頁)からこのc「鋳貨 価値標章」の第5パラグラフ、「・・・信用貨幣は、貨幣の支払い手段としての機能に、その自然発生的の根源を持っているのである。」(訳文は岩波のもの、岩波文庫222頁、国民文庫224頁)までを学習しました。

 以下は、当日の学習会の内容です。

 

 

商品論と価値論の振り返り 

 「資本論」は、冒頭の第1章が商品から始まります。「資本論」は、ご存じのとおり資本主義的な経済体制がどんなものであるかを体系的に曝露した書物です。ではなぜそうした資本論の冒頭は、資本からではなく「商品」から始まるのでしょうか?

 歴史上のどんな社会においても人間社会の根底は、人間自身が自然に働きかけ、自然を人間の生存や活動に役立つように作り変えていくこと、つまり労働により自然から有用物を得るという物質的な生産活動を基礎としているということです。確かに人はパンのみで生きているわけではありませんが、基本的に衣食住などの物質的な生産活動内には、どんな社会も成り立ちえません。言い方を変えれば、こうした労働による生産活動がどのような形でなされ、またそうして生産された物質的富がどのような形で分配されるかということ、端的にいえばその社会の生産様式がどのようなものであるかがその社会の基礎であるということです。マルクスによると資本主義的な生産様式の一番の基礎は、人間が生産した社会的富(=労働生産物)が一般的に商品という形をとるということにあると言っています。すなわち、商品とは何かということを明らかにすること、その背景にはどのような生産関係があるのかを解明することが、資本主義の一番土台にある関係を理解することにつながるからです。

 また資本とは、例えば、おカネを持っていてそれを何かに投資するとおカネが増えて帰ってきます。そうした場合、そのおカネは資本といえますが、この場合資本価値が増殖するとも言います。マルクスも「資本」とは「永遠の自己増殖的な価値である」という言い方もしています。どうやら「資本」とは何か?その一番の本質を考えるには価値とは何かを明らかにする必要がありそうです。

 実は、この価値とはまさに、労働生産物を他ならぬ商品にする要素なのです(単なる労働生産物は商品ではありません。)。ですから資本とは何かを明らかにするためには、まずもって商品を分析して、その価値とは何かを明らかにする必要があります。ですから資本論は、まず商品論から始められなければならないのです。

 次に価値論です。

マルクスは商品の分析で、商品は使用価値と交換価値の二つの要素からなっているといいます。使用価値については、そのものの有用性です。他方、交換価値とはある商品が他の商品と交換される割合、これが交換価値です。例えば、x㎏の小麦がy㎏のコーヒーと交換される場合、x㎏の小麦 の交換価値は y㎏のコーヒーということになります。これを等式で表すと x㎏の小麦 = y㎏のコーヒー。しかし、小麦はコーヒーとしか交換されないのでは、商品としては不十分です。当然、小麦は他の商品とも交換されます。お茶や亜麻布などとも。x㎏の小麦 = z㎏のお茶、または x㎏の小麦 = mエレの亜麻布(エレは長さの単位)。

とすると同じ x㎏の小麦 の交換価値が y㎏のコーヒーやz㎏のお茶、あるいはmエレの亜麻布などと様々に表されることになります。これは等式で表せば、x㎏の小麦 = y㎏のコーヒーまたはz㎏のお茶またはmエレの亜麻布となり、これら3つの物が表しているのは、すべてx㎏の小麦の交換価値であり、それはある共通のものがそれぞれ具体的な形をとって表れたものということになります。この共通するもの(その内実)が価値というものであると。では価値とは何か。価値とは、x㎏の小麦 = y㎏のコーヒーの等式にもあるようにこの両辺のものを相等しいものとして置くものであり、それは使用価値の側面は相異なるわけであるから、この要素はこの共通なもの(価値として現れるもの)には一切関係ない。だから商品から使用価値の側面を捨象(=取り除いて考えること)すると、残るものは、両者が人間労働の産物以外ではないということになります。ここから商品の価値という形で現れてくるものの実体は、抽象的人間労働であると。これがマルクスの価値の論証です。抽象的人間労働とは、実は商品の使用価値を形成するものも人間の労働なのですが、それは例えば、小麦を作るためには農家の小麦を作る労働が必要とか亜麻布を作るためには布を織る労働が必要とか、それぞれの労働の具体的側面、具体的有用労働としての側面が問題になります。他方、価値としては、そうした有用な形態は問題にならず、むしろ同等な人間労働としての側面、小麦を作ろうが、布を織ろうがそこには、共通して人間労働力の支出があるということのみが問題となるということです。

価値の実体は、抽象的人間労働ですが、ではその大きさはといえば、その商品を生産するのに必要な社会的平均的労働時間であり、その長さが価値の大きさを決めます。

 

c 鋳貨 価値標章

鋳貨とは、金や銀などが鋳造された形態での貨幣だといえます。ヨーロッパなどで流通していた金貨や銀貨、あるいはい日本の江戸時代などで流通していた小判などがそれにあたります。

もともと鋳貨は、金の代理として作られ流通するようになったものです。もともとは金が鋳造されるなどして、その名目的な価値の大きさと実質的な価値の大きさは一致していました。例えば、イギリスの1ポンドスターリング銀貨は,1ポンドの銀含有量を保障するものでした。しかし、鋳貨は当然流通するうちに徐々に磨滅していきます。すなわち1ポンドスターリング銀貨の実質銀含有量は、1ポンドより少なくなっていきます。これは流通するうちにどんどん減っていきますから長く流通するうちに、元の銀1ポンドからのかい離は大きくなっていきます。しかし、法定通貨としては相変わらず、銀1ポンドの価値があるものとして流通します。

このように鋳貨は、もともとの金属含有量、あるいはその鋳貨が名目的に象徴している金属含有量より少なくなっても流通します。本来は、その名目的な金属含有量を保障していなければならないはずですが、鋳貨は名目上保障している含有量を下回っても、名目上の含有量を持つものとして流通し通用してしまいます。すなわち、これは鋳貨が、本来貨幣としては金や銀がそれだけの金属含有量を保障するものでなければならないはずの物が、単に鋳貨としては、名目的に表しているだけのもの、すなわち象徴になっているということです。これが価値標章ということです。これは、鋳貨が、その表向きの、名目上の価値をただ象徴しているということです。例えば、1ポンドの銀の代理である、1ポンドスターリング銀貨は、貨幣としてはやはり実質的にも銀1ポンドを保障していなければならないはずです。ですが単なる流通手段としては、法定貨として国家権力が背景にあればそれは名目上の価値があるものとして流通することができます。ですから価値標章というのは、それが単なる流通手段として機能する場合であり、もしこれが流通の外に出るとたちまち機能しなくなります。例えば、次の第三節の「貨幣」で扱われる貨幣の機能は全く担えません。第三節での貨幣は、本来的な姿の貨幣、鋳貨から金(地金)形態や銀(地金)形態として存在することになります。なぜなら、ここでは本来的に価値のある物でなければならないからです。

ではなぜ単なる流通手段としては、こうし価値標章でも機能するのでしょうか。それはもちろん国家による強制通用力を背景にしているということがありますが、その根底には流通手段として様々な商品の交換を次々に媒介するものとしては、その交換価値としての姿は、ほんの一瞬一瞬のこと(「ただ瞬過的な事柄」(岩波226頁)だからです。それにこの場合の貨幣は次々に持ち手を変えていき決してひとところにとどまっていません。ですからこの場合、商品の価値を表現する必要があるとしても、それは一瞬であり、ここでの貨幣の目的は、ある商品がまた別の商品へと交換により変わること、ただそれを媒介することが目的だとすれば、価値としては象徴的なものでもかまわないのです。

 ここまで見てきた鋳貨の価値標章の機能から、紙幣の流通も出てきます。鋳貨として単なる標章が流通するとすれば、より無価値な紙幣でもかまわないことになります。鋳貨の場合は、価値標章としての象徴としての性格は、まだ潜在的です。なぜなら金属鋳貨であれば、確かに価値標章として名目的な価値の大きさから乖離しているとしてもまだいくらかは価値があります。しかし、紙幣ともなるとそれが名目的に謳う金属含有量相当の価値とはほとんど無縁の、ほとんど無価値なものになってしまっています。そいう意味で貨幣標章として、純粋に象徴的な性格は紙幣の場合明瞭に現れているといえます。

 

おもな質問や意見

◎参加者より「価値の大きさは、労働時間により決まるというが、ダイヤモンドなど労働時間ばかりでなく、希少性もその価値の大きさに関与するのではないか?」との質問があり報告者より「基本的に、労働時間により決まる。ダイヤモンドはどこでも採掘できないし、ダイヤモンド鉱山があってもそれを掘り出すのは、相当深く掘りださないととれないとか、それが希少性にも関わるといえばそうだが、しかしそれでも希少性で価値が高まるというとではなく、それを採掘するのに大変な困難があり、結果としてそれを最終的に生案するには多くの労働時間がかかるからであり、ダイヤモンドの高い価値はやはりその生産に必要な労働時間が膨大だということであり、やはり労働時間に規定されていると思う。」と回答がありました。

 

◎「資本論で書かれていることは、当時のイギリスの状態のことで、ここから現代に問題を考えることはできないのではないか?例えば、減殺の通貨の問題は、資本論に書かれてあることから説明がつかないと思う。」との意見が出されましたがこれに対して別の参加者から「マルクスは、原理的なことを言っている。当時も現代も資本主義は本質的に変わってはいないと思う。だから現代の資本主義の問題について考える場合も、マルクスの理論から学ぶ必要がある。」との反論があり、報告者からも「基本的に同感であり、資本論そのものを持って現代の分析とすることはできないが、資本論で明らかにされている基本的な理論を土台に据えないではどんなン現代資本主義の分析も不可能だと思う。例えば、現代の通貨の問題もいまやっているところの理解なしには、ちゃんとした説明はできないと思う。」と意見がありました。

 

◎「銀行券と(政府)紙幣との違いが分からないので説明してほしい。」との質問がありました。これについては報告者より「銀行券は、本来は信用貨幣であり、債権・債務関係から生じる支払い証書が貨幣の代理として流通するようになったものから生じている。そもそも流通する根拠が債権・債務関係などの経済的信用関係に根拠があるので、単に権力により強制通用力が与えられえた紙幣とは根拠が全く違い、流通法則も全く違う。前者はほぼ貨幣流通の法則--流通に必要な金量の増大収縮に応じて、その流通量が決まる――に従うが、後者紙幣は流通に必要な金量には制約を受けない、すなわち流通に投じられた紙幣は全て流通してしまう。これがインフレなどにつながってしまうのだと思う。もっとも現代の日銀券などは、信用貨幣といえるかどうかわからない。かなり紙幣に近い側面もあるのではないか。」との説明がありました。

2018年4月8日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第5段落「交換価値は、まず第一に量的な関係として、…」~第12段落「われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。…」(岩波文庫第1分冊70頁~73頁)を学習しました。3月までは商品の使用価値について学習ましたが、4月からは商品の二要素のひとつである価値の学習に入りました。そこで使用価値と価値の違いについての確認をしました。

まず、商品の二つの要素一つである「使用価値」は、富の社会的形態(原始共産制、封建制、資本主義制、共産主義制)がどのようなものであろうと、人間が生活していくための有用物として不可欠なものです。そして、資本主義社会では「使用価値」は同時に「交換価値」の素材的な担い手となっています。「使用価値」は人間が生活していくうえに必要な衣食住にいかに適合しているかが問題となりますが、他方の「交換価値」は、商品と商品を交換するにあたっての比率であり、どれだけの分量かが問題となります。つまり「使用価値」が異なる質のものであり、商品の質を問題にするのに対して、「交換価値」はただ量を異にするだけであり、「使用価値」と言ったものはまったく含まれていないのです。そこで、商品が交換される分量が「交換価値」であるとしても、二つの異なった商品が等しいとして交換されることには疑問があります。一体、二つの商品の何が等しいのかという疑問です。もちろん、二つの商品は異なった「使用価値」ですから、「使用価値」が等しいわけがありません。そもそも等しい「使用価値」は交換の対象とはなりません。そこで、「使用価値」が考慮の外に置かれるのであれば、残るのは交換価値ということになります。『商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。』すなわち商品の二要素のうち、残ったものはというと「交換価値」です。すなわち「使用価値」が異なる質であれば、「交換価値」は一つ一つの商品の異なる量であるということです。そして、二つの商品が等しいもの「=」として置かれる場合は、「交換価値」が同じ量であるということです。

さて、その同じ量とされるものの内容とはなにか? 商品と商品が等しい「=」として交換される「交換価値」とは、一体なにが等しいのかを見ていきます。マルクスは次のように述べています。『いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。…われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。…労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用な性質は消失する。したがって、これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に制約される。』そして、あれこれの具体的ではない、無差別な人間労働によって生産された労働生産物には、ただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。

前回の学習会で質問が出ていた「価値がある、無いとはなにをもっていうのか」についてですが、労働生産物=商品には人間労働が累積されています。この社会的な人間労働がどれだけ累積されているかということが商品価値がある、無いということに帰着するのではないかと思います。ですから、交換価値の大いさは社会的な人間労働の大いさであるとともに価値の大いさであると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

2018年4月 6日 (金)

2018年3月18日学習会の報告

この日は、学習会は中止にし、今後の「通常講座」の具体的な内容について話し合いましたので、その内容とその後の決定についてお知らせします。

「これからの「通常講座」の開催についてですが、当初、報告者・檀上の仕事の都合で、3月でもって終了するということを提案させていただき、一度は2月25日の「通常講座」で参加者の方の了承も得て、そのようにする予定でした。しかしその後、再検討しまして報告者自身も第3章「貨幣または商品流通」の途中で終わるのは内容的にも中途半端であり、やはり資本論の第1巻の理論的中核としてある第1篇「商品と貨幣」はせめて終わりたいとの思いもあり、第1篇終了まで、つまり第3章の最後(第3章第3節「貨幣」のc「世界貨幣」)までは実施することとしました(この点については、前回の『資本論を読む会』便り・第53号で報告した通りです)。

ですが、これまでと全く同じやり方では何ら変わることが無いので、どのような形にするかを検討しました。3月18日の「通常講座」で「通常講座」を毎月ではなく、隔月で行うという提案をしましたが、参加者の方から「レジュメが無くとも良いのでこれまでと同様に毎月の講座としてやって欲しい」との強い要望が出されまして、これまでどおりに毎月第4週におこなうということにしました。そこで、「通常講座」の具体的な内容を考えてみました。

「通常講座の今後の内容について。報告者はこれまでのようなテキストの段落に対応した詳細なレジュメはつくらず、その代わりとして毎回、テキストの学習範囲の要点について、簡潔にまとめたレジュメを提出します。やり方としては、最初に報告者より学習範囲の要点を簡単に報告し、そのあとはこれまで通り輪番でテキストを参加者の方に読んでもらいます。そして読んでもらった後、その段落の簡単な説明(疑問点や感想でも結構です)をしてもらいます。そのあと討議を全体で行う形にしたいと思います。また各項目(たとえば第3章第3節ではa「貨幣退蔵」b「支払い手段」c「世界貨幣」と3項目あるのでそれぞれ)が終了した際には、復習を兼ねて最後にまとめという形で簡単なレジュメを用意し、報告者より説明するという形でしっかりとポイントはつかめるようにしていきたいと思います。以上のような形で、今後の「通常講座」をやっていきたいと思いますのでご了承いただきたいと思います。この新しいやり方は、2018年5月からとさせていただき、4月については従来通りのやり方で行います。尚、この度、私の都合で「通常講座」の開催について、二転三転しましたことをお詫びいたします。」

2018年3月11日学習会の報告

第一章「商品」の第一節「商品の二要素 使用価値と価値」(価値実体、価値の大いさ)第1段落~第4段落。

今回から「資本論」テキストに入りました。冒頭でマルクスは「われわれの研究は商品の分析をもって始まる」と言っています。しかし「資本論」と言う表題であるのに、まずは資本を分析せずにどうして商品から分析しているのか? という疑問が起こります。われわれが生活する社会における労働生産物はほとんどが商品として現われます。衣食住のほとんどを自らが作り出すのではなく、他人の労働生産物で賄っています。この社会では、多くの成員の労働なくしては個人の成員の生活は不可能になっています。商品として現われている、他人が作った労働生産物は自らの労働で得た賃金と交換して生活しています。

自給自足と異なり、他人の労働生産物である商品を自分の労働で得た賃金と交換するというのは、賃金を介在しているものの、生活に必要な商品を自らの労働と交換しているということです。これは、分業が発達して、巨大な商品群がますます社会の隅々にまで行き渡り、商品を手に入れることなくしては一日たりとも生活が成り立たない社会に在るということです。こういった社会の労働生産物は、自らのための労働生産物を自らが生産するのではなく、他人のための商品、全体の一部を生産する、分割した生産、分業が主流となります。資本主義的生産は競争に拍車をかけ、機械をはじめとする生産力のたゆまぬ発展を推し進めます。機械を始めとする生産時間の短縮は、携わる労働者の労働時間の短縮に直接繋がらず、機械に繋がれた労働者と多数の産業予備軍・失業者を生み出します。

マルクスが商品の分析から始めているのは、資本主義社会ではすべての労働生産物は商品として現われているゆえに、商品の分析をもって始めると言っています。では、資本とはどういう関係があるのかです。そもそも、資本とは何かです。一般的には、土地、工場、機械・原料、(お金、商品)と言われますが、これらの物はこれ自体ではただの土地であり、工場であり、機械・原料等々でしかありません。これらが資本となるにはこれらから労働生産物を生み出す労働力が必要です。この労働力を駆使して労働生産物を生み出し、販売することで、資本は資本となり得るのです。資本である土地や工場や機械・原料や労働力もすべて商品として現われています。故に、資本を分析する前に、まずもって商品を分析しているのです。

 

・テキストの第1章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」に入りました。今回は「使用価値」について学びましたが、「使用価値」そのものではこれと言った意見・疑問は出ませんでした。しかし、「使用価値」は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的な内容を持っているということ。そして、「使用価値は」同時に、次回から学習する「交換価値」の素材的な担い手であるということを確認したいと思います。

 ・次回の学習課題である「交換価値」「価値」がある・なしは何をもっていうのかと言った疑問も出されましたが次回からの学習会で検討したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

2018年3月 8日 (木)

2018年2月25日の学習会の報告

今回は、テキストの第1巻第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のb「貨幣の流通」の第8パラグラフ「したがって、この前提のもとでは、流通手段の量は・・・」(岩波文庫第1分冊208頁、国民文庫版第1分冊210頁、訳文は岩波版のもの)からb項目の最後(岩波文庫218頁、国民文庫220頁)までを学習しました。

 以下は当日の学習内容の報告です。

 

主な報告内容

 このb項目「貨幣の流通」の中盤から後半は、一国内においてどれだけの流通手段(貨幣)が必要となるかということが問題になっています。

 前回みたように流通手段として機能する貨幣の量は、基本的に実現されるべき諸商品の価格総額によって規定

されます。つまり貨幣の価値があらかじめ決まっていれば、市場で流通するすべての商品価格の総計により決まるということです。これは、例えば、商品価格の上昇やあるいは価格の上昇がなくとも流通する商品量が増大するなどして、流通する諸商品の価格総額が大きくなればそれだけ流通手段の量は増えるということです。

 しかし、流通手段として機能する貨幣の量は単純に価格総額だけで決まるでしょうか?実は、これには諸商品の価格総額とともにある一定期間において同じ貨幣が何回商品流通を媒介するかということ、すなわち貨幣の流通速度が関係してきます。

 通常、商品流通は、一つ一つの商品交換が各々独立しているのではなく複数の商品交換が相互に絡み合う形になっています。例えば、小麦農家が自分の小麦を売り、そこでえた貨幣で亜麻布を買う場合。すなわちW-G-W(小麦―貨幣―亜麻布)という商品変態の場合。この場合、まず小麦の買い手としての貨幣所有者が必要で、この貨幣所有者からみれば、G―W(貨幣―小麦)という変態になります。他方で小麦農家が最終的に買った亜麻布についてみれば、その売り手である亜麻布織職の商品変態が先の小麦農家の商品変態と絡み合うことになります。それは資本論の例では、亜麻布―貨幣―聖書ということで、織職は自分の商品を売った貨幣で聖書を買うということです。さらに織職に聖書を販売した、聖書販売者は、ウイスキーが欲しいということで自分が織職に売った貨幣でウイスキーを買います。聖書―貨幣―ウイスキーという変態になります。この一連の絡み合う諸変態を見るとここでそれぞれの変態を媒介する貨幣は、同一の貨幣以外ではありません。ここで貨幣の動きをみると最初貨幣所有者の懐にあった貨幣が小麦農家の手に渡り、次には亜麻布織職の手に渡り、その次には聖書販売者の手に渡ります。そして最後にはウイスキーを販売した酒造家の手元に入ることになります。これらの貨幣は同一の貨幣(片)であり、それぞれの変態で異なる貨幣(片)が機能したわけではありません。ここでの各々の商品価格が2ポンドだとすると実現されるべき価格総額は8ポンドですが、同一の2ポンド片が何度も購買手段として機能したわけですので、ここでの総流通に要した貨幣(流通手段)は、2ポンドにすぎません。

 これと違い、相互に絡み合わない独立した商品取引の場合。先の例と同じく、小麦と亜麻布と聖書とウイスキーが同じくそれぞれ2ポンドで販売される場合を考えます。これは例えば小麦農家は、小麦を収穫し市場に売りに出す場合に、仮にその売った貨幣の全てをあとから彼が必要とする資材と交換するにせよ、たちまちは手にいれた貨幣をすぐに使わない場合もありうるでしょう。そうした場合を想定します。同じく亜麻布織職、聖書販売者、酒造家もたちまちは自分の商品を一方的に売ると想定します。この場合、絡み合う場合と同様、実現されるべき商品の価格の総和は、やはり同じく8ポンドです。先ほどと違うのは、それぞれの販売で機能する貨幣が、絡み合う場合は、2ポンドで済みましたが、今度は取引ごとに2ポンドずつ必要ということになり、この場合流通に必要な貨幣は8ポンドということになります。

 つまり流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、実際に市場に流通する諸商品の価格総額貨幣の流通速度、すなわち一定期間の間に同名の貨幣片が何回流通するかその回数で割った数に等しい――先の絡み合う商品変態での例をもとにすると、ここではこの一連の取引に要する時間が丸1日とします。するとこの1日間のここで登場する2ポンド片は4回変態を媒介するわけで、1日当たりの当該の2ポンド片の流通速度は4(回)ということであり、実現されるべき価格総額8ポンドをこの2ポンド片の流通回数4で割れば、その商は2(ポンド/1日)となり、実際に流通に必要な2ポンドと一致します――ということになります。これが一国の国内等で流通手段として機能する貨幣量を規定する法則です。

 ところで市場に流通する諸商品の価格総額は、個々の商品の価格とそれらの流通量により決まります。商品の価格と流通量、そして貨幣の流通速度はそれぞれ異なった要素であり、それぞれがそれぞれに変化しうるものです。とするとこの3つの要素の関係はどのようなものでしょうか。

 例えば、商品価格は変わらない場合を考えてみましょう。この場合、流通する商品量が増大するか、貨幣の流通速度が落ちれば、流通手段量は増えます。他方、この場合で流通手段量が減るケースは、商品量自体が減るか、あるいは貨幣の流通速度が速くなるというケースでしょう。

 次に商品価格が上昇する場合を考えると、価格上昇と同じ割合で商品量が減少するケースや価格上昇と同じや速さで貨幣の流通速度が上がれば、価格上昇分が相殺され、流通手段量は価格上昇にも関わらず変わりません。

 また価格が下落する場合も、必ずしもそれに応じて流通手段量が減るわけではありません。例えば、価格下落の度合いに反比例する形で商品量が増大するか、価格下落度合いと同じ割合で貨幣の流通速度も落ちれば価格下落と相殺され流通手段量が変わらないこともあります。

また価格の下落にもかかわらず流通手段量が逆に増えることもあります。それは価格下落度合いよりも商品量の増大の度合いが大きいケースや価格下落度合いよりも貨幣の流通速度の低下が激しいケースです。

 このように価格の騰落だけで流通手段の量が判断できるわけではありません。

 一国の経済において、必要な流通手段量は、諸商品の価格総額と貨幣の流通速度により決まるという法則を理解するためには、以下のことの理解が肝要です。

 まず価格総額が規定的ということは、流通で実現されなければならない個々の商品の価格は、流通に入る前に与えられている――商品は、価格を持たなければ、通常流通することはありないということは現実の流通を見れば自明なことだろう――ということ。

 また貨幣の方も、やはりそれ自身の価値は、流通に入る前に与えられているということ。だからこそ、各々の商品の価値――当然に、商品の価値は流通に入る前に与えられている!――は、この与えられている価値の貨幣との等置により、その価値(の大きさ)がはかられ、貨幣との数量的関係――○○の商品の××量=金△△グラム等々――で表現され、価格を持つのです。

 確かに商品も貨幣も、それ自体の価値は、変動しうるものですが、しかし、それは流通に入った後ではなく、流通に入る前のことなのです。

 ですから流通する貨幣の数量によって、商品の価格が決まったり、あるいは流通する貨幣量自体が一国内にある金や銀などの貨幣材料により決まるなどという考えは幻想にすぎません。

 一国の経済においても景気の浮き沈みがあり、商品流通量の増減や価格自体の騰落など実現されるべき価格総額もある程度変化します。そうした増減等により流通手段の過剰や過小は生じないのかと疑問に思うでしょう。しかし、貨幣が金や銀などの本来的な貨幣であれば、流通が吸収しうる量は、価格総額の大きさ(と貨幣の流通速度により)決まっているのです。では過剰な貨幣はどこへ行き、過小な場合はどこから引き出されるのでしょうか。これは、この後の第3節貨幣で出てくる退蔵貨幣(蓄蔵貨幣ともいう)という形で流通の外にプールされます。というわけで実際に流通する貨幣量は、価格総額によってきまっているのです。

 

主な意見や質問等

◎「絡み合わない場合の商品変態の説明のところで、その場合、小麦―貨幣、亜麻布―貨幣等々という説明で一方的な売りのみと説明があったが、しかし小麦農家もいずれ次年度の小麦生産のために、肥料とか農機具とかを小麦を売って得た貨幣で買うはず。その場合どうなのか?」という質問があり、報告者から「仮に小麦農家が自分の小麦を売ってえた貨幣で、次の小麦生産のための生産手段等の購入に充てるとしても、それは時間的にはすぐではなく、例えば一ヶ月後だとしたら、たちまちは、その貨幣は彼の手元にあるわけです。それは一時的にではあれ流通から引き揚げられて、次の生産のための準備金等として蓄えられるものです。そこでの貨幣は、流通手段としては、小休止の状態ではないでしょうか。それに流通速度の問題は、時間的な長さを決めてその期案内で何回変態を媒介するのかということが問題になります。テキストの例では、1日間という期間なので、小麦農家が自分の小麦を売って得て、一旦流通から引き揚げた貨幣を再び流通に投じるとしても、それは1ヶ月後にすぎず、この貨幣は1日の間には流通手段としてはたった1回しか機能しません。」との説明がありました。

 

◎「ここで説明された流通手段量は、価格総額により規定されるということが、現代の通貨の問題を考える上での土台となると考えていいのか?」との質問もあり、これについては報告者より「たぶんそうだと思う。現代の通貨の問題を説明してほしいといわれると報告者の力量を超えているのであまり言えない。しかし、基本的には本来的な貨幣である金であれば、その流通法則はどのようなものかを理解してなければ現代の通貨の問題も正しく考えられないのだと思う。現代の通貨、円やドルなどは金による価値の裏付けがほとんどない。ほとんどというよりは皆無という方が正しいか?だからその“価値”も極めて不安定――ドルと円の関係でも交換レートが一日でかなりの乱高下がある――になっている。また中央銀行が通貨政策で“過剰”な通貨を押し込むこともできるし、またそれがインフレにつながれば確かに価格は上昇することになる。こうなるとあたかも貨幣の流通量が価格を決めるかのように見えるが、そうではないと思う。流通に必要な貨幣(金量)は決まっている。だから紙幣に近い貨幣の代理物(?)である現代の通貨は、過剰に押し込まれた分必然的に減価、“価値”の目減りが生じざるをえないのだと思う。」と説明がありました。

 

 

報告;檀上

2018年2月11日学習会の報告

1月に続いて、現在学習しているテキストを離れて、「資本論」を読む意義を学習しました。今回はレジュメ1頁の『マルクス経済学の研究対象が「貨幣という“モノ”の関係をとおしてあらわれる人々の社会的な生産や労働における人と人との関係である」とはどういうことなのか…例えば、働いてみかんを作り商品として売ってお金(貨幣)を手に入れそのお金で諸々の生活物資を得るが、その物資も他の多くの人々の労働の生産物であるわけで、貨幣という“モノ”の関係をとおしているけれども、そこには私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている…。』について。

このレジュメで、みかん農家の生産者は、自ら労働して生産したみかんを売ってお金を得て、生活物資を購入しているが、これらの生活物資も多くの人々の労働の生産物である。ここでは、貨幣という“モノ”の関係が媒介されているが、私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。と言われています。とりわけ、最後の「…貨幣という“モノ”の関係が媒介されているが、私たち人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。」このことをどのように考えるのかに議論が集中しました。尚、このレジュメでは、生活物資を得るための貨幣は、自らが生産したみかん商品を売って得ていますが、賃金労働者の場合は、資本家に自らの労働力商品を売って得る賃金です。

 生活物資が自給自足ではなく、多くの人々の労働生産物によって賄われている。➔ ② 生活物資は物々交換ではなく、貨幣で購入する。➔ ③ こういった行為に、人間の社会的な生産や労働における人と人との関係が現れている。

とりわけ、③をどのように理解するかで、意見交換が行われました。

まずは、資本主義社会での生産と労働にはどのような特徴があるのかについてです。

モノを生産するために必要な生産手段 ―機械や道具、原材料、工場建物―を占有する資本家と労働力商品を資本家に売ることにより、資本家の下でモノを生産する労働に携わり、賃金を得て生活物資を購入する労働者の二大階級の存在が、資本主義的生産様式の生産と労働の特徴であるといえます。

出された意見では、「人と人との関係が希薄である」「金を出せば、何でも手に入れられるがはたしてそれが良いのか」「資本家は、人を人とも思っていないような対応がある」などがありました。

このような資本家の対応は、資本にとって従順で“優秀”な労働者は、労働力商品として購入するが、そうでない労働力商品は必要が無い。代りの労働力商品は労働市場にはいくらでも溢れているのだから。と言ったことでしかありません。ですから、資本主義経済社会における生産と労働の更なる特徴は、資本家が生産手段を占有しているとともに労働力商品の代り(失業者)があるということです。そして、資本家階級による様々なイデオロギー支配― 政治的、法律的、宗教的、芸術的、哲学的 ―といったことも経済的生産様式と不可分にあります。この点は次回で学習したいと思います。

報告;伊藤

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