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2018年1月 9日 (火)

2017年12月24日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の続き、国民文庫版では第1分冊201頁、A「商品の変態」の項目の20パラグラフ「商品流通は、ただ形態的にだけでなく、実質的に・・・」、岩波文庫版第1分冊198頁、a「商品の変態」の項目21パラグラフ「商品流通は、形式だけでなく、本質的にも・・・」からこの項目の最後まで行いました。(次回からは、b「貨幣の流通」国民文庫版204頁、岩波文庫版202頁、に入ります。)

 

学習会の内容および議論の紹介

主な報告内容

 ここでは、商品流通――商品交換を貨幣が媒介する場合――と直接的な生産物交換――貨幣を媒介にしない商品と商品の直接の交換の場合――との違いについて説明されています。

 ここでの商品流通の例は、引き続きテキストに出てきたリンネル(亜麻布)と聖書の交換の例です。すなわちW(リンネル)―貨幣(G)―W(聖書)という形態です。

 これはリンネル織職が聖書を手に入れるために行った商品交換です。すなわちリンネル織職にとってリンネルと聖書の交換――確かに直接にリンネルと聖書を交換するのではなく、貨幣を媒介にしてですが、リンネル織職の交換の目的は、聖書なので―――は無条件的な行為です。しかし、これはリンネル織職にとって真実ですが、他方聖書の売り手にとっては、自分の聖書をリンネルと交換しようとは思いもしなかったことです。またこの交換が成立する為には、リンネルを貨幣で買う貨幣所有者が存在している必要がありますが、テキストの例では貨幣所有者は小麦農家であり、彼がこの課程でリンネルを買う貨幣は彼の小麦を売って得たものとなっています。そうするとリンネルは小麦と交換されたことになります。小麦農家にとっては彼の 小麦()―貨幣(G)―リンネル()という交換がなされたということなります。しかし、この交換はリンネル織職にとっては思いもおよばないことです。ただリンネル織職にとっては、自分のリンネルが自分の納得いく貨幣量で売れればいいわけで、それを誰が買おうが、その貨幣が何から生じたものか――小麦かあるいはそのほかの商品か―――は関係ないわけです

 この商品交換は、結果からいえばリンネル織職の立場からすれば、リンネルという商品が聖書に代わったわけですが、これはリンネルと聖書が直接に交換されたわけではありません。もしリンネル織職が聖書所有者に直接に私のリンネルとあなたの聖書と交換してほしいと取引を持ちかけたらこのこう交換は成立しないでしょう。

 ここではリンネル織職は、聖書がほしい。しかし聖書所有者は酒好きでウオッカがほしい。リンネルをほしいと思うのは実は小麦農家である。もし貨幣が登場しなければ、ここでは各々の欲望が一致しない限り交換は不可能ですが貨幣が登場し、小麦農家が自分の小麦を貨幣に変えることができれば、この交換は滞りなく成立します。

 このように貨幣が商品交換を媒介にすることで商品流通は、個人的な欲望による制約だけでなく、局地的制約をも取っ払い発展していくことになります。

 また商品流通は、商品の交換が実現されたとしてもそれ自体消えてなくなることはありません。直接的な生産物交換であれば交換が実現すればあとはそれぞれ消費されるのみです。すなわちそこで完結します。例えば、リンネルー貨幣―聖書という交換を見ても、これが成立する為には、小麦農家が誰かに小麦を売っていなければならないし、リンネル織職にとっての売りは、ここで貨幣所有者として登場する小麦農家にとっての買いであり彼にとっての交換、小麦―貨幣―リンネルというもう一つの交換と分かちがたく結びついています。また聖書の所有者にとって彼の目的の為の交換である聖書―貨幣―ウオッカという交換とも分かちがたく結びついています。

 このように商品が交換されてそれを使用価値として必要としている人の手にわたっても、商品流通自体は消失することはありません。

 ここで商品と貨幣の流通には特徴的な違いがあります。商品自体は、それを使用価値として必要としている人の手に渡れば、流通から脱落し消費されます。しかし、貨幣は違います。流通手段としての貨幣は、いつまでも流通にとどまり続けます。それは商品交換を媒介するごとに持ち手を変えていきながらそれ自体は流通にとどまるものです。

 例えば先の例では貨幣は最初は小麦農家のものであり、それがリンネル織職の手に渡り、次には聖書所有者の手に渡りました。このように貨幣は持ち手を変えながらどんどんと移っていきます。「流通は絶えず貨幣を発汗している。」(岩波版199) というゆえんです。

 

 またここでは最後に、商品の交換過程が商品流通という形態をとることによって生じる"恐慌の可能性“についてマルクスは言及しています。

 このa「商品の変態」のところの前半でマルクスも言うとおり一面では、ある商品の売りは、反対の立場からみれば買いでもあり、そういう意味では売りと買いは直接に一致しているということになります。ここから売りは買いであり、売りと買い、つまり供給と需要は直接に一致するというバカげた考えが生じます。テキストの注七三に登場するJ・Bセーもそうした単純な考えから恐慌を否定しました。

 しかし、貨幣が商品交換を媒介にすることにより売りと買いが非対称となる可能性が生じます。

例えば、リンネル―貨幣―聖書という交換をとってみても、リンネル織職がリンネルを売って貨幣をえたとしても、それをすぐに聖書に変える必要はないということです。なぜなら貨幣を所有していれば、それはいつでも、どこでも、どんな商品とでも交換できるからです。

 リンネル織職が自分の商品リンネルを売ったからといって、それでえた貨幣全部を使ってしまわなければならない理由はないからです。倹約化の彼はできるだけ貨幣を節約して手元に残そうとするかもしれません。あるいは最終的には彼がリンネルを売って得た全部の貨幣を使うにしても、それはいまではなくもっとあとからかもしれません。そうすると、売りと買いは直接的には一致しなくなります。

 

 商品流通は、直接的な生産物交換に存在するような時間的、場所的、個人的な制限を打ち破りますが、それは流通そのものが自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるとい生産物交換に存在する直接の一致を、売りと買いという相対立した契機に分裂させることによってだとマルクスはいいます。

 これはリンネルと聖書の例で考えると、直接的な生産物交換の場合は、リンネル―聖書という生産物交換はこれは直接に一致しているというとになります。なぜならこの場合リンネルだけ交換が成立して、他方の聖書は交換が成立しなかったということはありえません。この場合、リンネルの交換の成立は、同時に聖書の交換の成立であり、かくして有用な生産物が必要とするものの手に渡ったということになります。

 しかし、商品流通の場合は違います。商品流通の場合は、いったん貨幣に転化しなければなりません。つまり リンネルー貨幣―聖書 という変態がなされるわけですが、これはこれまで見てきたように リンネルが貨幣に転化する リンネルー貨幣

(W-G)という前半の過程と 後半の 貨幣―聖書(G-W)の過程に分けられます。ここでの目的がリンネルを聖書に交換することだと考えれば、リンネルー貨幣と貨幣―聖書が一致することが考えられますが、しかしマルクスも言うように商品を交換してえた貨幣はすぐに商品に変えないといけないわけではありません。ここに売りと買いの不一致(売りと買いの対立)が生じる可能性があります。

 こうして商品流通は生産物交換の直接的同一性を売りと買いの対立に分裂させますが、他方でこの過程を分裂させることによりその時間的、場所的、個人的な制約をも破るのだということなのでしょう。確かに貨幣が媒介し、商品交換が売りと買いに分裂することで、一度商品交換が休止点をえることになり、時間的連続や場所的、個人的な制約も取り払うことができます。例えばリンネル織職があるマーケットで優良な買い手を見つけ、そこで高い値で売れたとしても、そのマーケットで自分の欲しいものが見つからなければ、彼は自分ほしいものがあるどこか別のマーケットへ自由に行くことができます。

 このように商品の流通形態の中に存在する売りと買いという対立は、恐慌の可能性を含んでいるとマルクスはいいます。ですがこれはかなり抽象的な可能性にすぎず、これが現実性へ転化するためにはより多くのより具体的な契機が必要だということでしょう。

 こうして商品流通を媒介するものとして、貨幣は流通手段という機能を持つことになります。

 

主な質問・意見

○まずテキストで「商品交換が、人間労働の物質代謝を発展させる」というようなことがいわれているが、どういうことか?との質問がありました。

――これについては、報告者からは「一般に生物は、自然との間で必要な栄養物を自分の体内に取り込みそれを消化吸収しエネルギ-などを得て、残りの老廃物等を排泄するなどして生命活動を行っている。この有様を物質代謝とよんでいるが、人間も生物である以上何らかの形で物質代謝を行わざるを得ない。しかし、その仕方が他の動物と違い独特であり、人間の場合労働を媒介にし、自然を人間にとつて有用な形に意識的に加工するということがある。これが人間労働が物質代謝を媒介にしているということの内容だと思う。

 商品交換の発展は、分業を発展させることにより人間社会の生産力を発展させているが、これはいわば人間が自然界から労働を媒介にして得ることができる範囲を拡大することになっていると思う。このような内容が「商品交換が、人間労働の物質代謝を発展させる」ということの意味ではないでしょうか。」との説明がありました。

 

○続いて「流通は、絶えず貨幣を発刊する」とはどういう意味かとの質問がありました。

――報告者からは「報告にもありますように、商品と違い、貨幣は商品交換を媒介しながら流通にとどまり続けます。少なくとも流通手段としての貨幣はずっと流通にとどまり続けます。発汗とするというイメージがわかりにくい感じがしますが、貨幣は一つの商品交換が終わると次の場所へと次々移っていきます。その様が汗をかく様に見えるということかもしれません。」との回答がありました。

 

○最後に参加者の方から「直接的生産物交換から商品流通になると恐慌の可能性が生じてくるということがいわれているが、それは結局、商品交換が売りと買いに分けられることにより、買いのない一方的な売りが生じて不均衡が生じるということでよいのか?」との質問がありました。

――これについては「基本的にそういう理解でいいと思う。テキストにも『しかし、何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。』(岩波文庫200)とあるのでそうだと思う。」と報告者も答え了承されました。

2017年12月15日 (金)

2017年11月26日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の後半部分から、国民文庫版では第1分冊187頁、A「商品の変態」の項目の14パラグラフ「G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。・・・」、岩波文庫版第1分冊195頁、a「商品の変態」の項目15パラグラフ「G-W商品の第二、または終局的変態、すなわち、買い。・・・」から国民文庫版第1分冊200頁の最後、19パラグラフ「・・・この過程は商品流通として現れる。」、岩波文庫版198頁、20パラグラフ「・・・総過程は商品流通として現れる。」までを学習しました。

 

学習会の内容および議論の紹介

主な報告内容

 第2節「流通手段」では、商品流通を媒介するものとしての貨幣の機能=流通手段としての貨幣が問題となります。この第2節の最初A「商品の変態」の項目では、商品流通の目的は、有用な生産物の相互の交換であり、その意味で社会的物資代謝であることが示されています。商品の流通は、簡単にW-G-Wの流通式に表現されますが、ここでのGはそれ自体は目的ではなく、ただ最初のWの変化した形態、Wが転化して貨幣の形態をとったものに過ぎません。しかも、この貨幣形態も一時的なものに過ぎず、すなわち“瞬過”的な形態にすぎず、それはすぐに貨幣の形態を脱ぎ捨てて目的の商品へと転化しなければならないというものです。

 流通手段としての貨幣は、あくまでも有用物を相互に交換し、それを必要とするもののもとへと行き渡らせる、そうした物質代謝としての商品交換の媒介手段でしかないということです。それが物質代謝であるというのは、個々の生産者達がそうした商品交換により必要なものを手にしれなければ生活は成り立たないということ以上に商品生産社会そのものが成り立ちえないということでしょう。

 前回までは、この商品流通の前半過程すなわちW-G-Wの前半のW-Gを見てきました。今日は後半過程G-Wを見ていき、それから再度全体のW-G-Wを見ていきます。

 

 後半のG-Wは、貨幣が再度商品へと転化する過程です。これによりこの商品流通は完結します。なぜならそれは目的とする商品へと変わるからです。ここでの商品流通を、最初のWをリンネルとし、それが貨幣を媒介に転化する後ろの商品を聖書とすると、W(リンネル)-G-W(聖書)となります。この流通の目的は、後半の聖書が目的です。リンネル織職が自分が所有しているリンネル商品を売ることにより手に入れた貨幣で、今度は彼が手に入れたいと望んだ商品、すなわち聖書を手に入れる過程ということになります。リンネル織職としては、この最後に聖書を手に入れることこそこの交換の目的でした。ですから前半で自らの商品リンネルを貨幣に変えることは、彼にとって最終的に聖書を手に入れる為の媒介的な手段でしかありません。ですからリンネル織職にとってもこの後半の交換で聖書を手に入れることが目的であり、そうすることによってはじめて彼の商品交換も完結します。

 しかし、この過程はリンネル織職にとっては、目的の商品を手に入れる為の買いの過程、すなわちリンネル商品の流通の後半の過程ですが、他方、聖書の所有者の立場からみれば、それは反対の過程すなわち売りであり、それは彼が目的とする商品流通の過程の前半過程――彼はこの交換によりリンネル織職から貨幣を手に入れ、それでもって彼自身が欲する商品に交換するから――でもあります。すなわちある商品の後半の変態G-Wは同時にもう一つの別の商品の前半の変態過程でもあるのです。

 

 次に再度一つの商品の流通(変態過程)の全体を振り返ってみます。W-G-W、ここでは先の例と同様リンネルー貨幣―聖書として考えます。

 この商品の変態過程を見るとそれは4つの極と3人の登場人物によりなり立っています。

 3人の登場人物とは、まずはこの商品交換の主人公であるリンネル織職です。この変態、取引過程は彼の過程であり、ここでの目的は彼自身が欲する聖書を入手するためのものです。

 2人目はこのリンネル商品を買う人つまり貨幣所有者です。彼はリンネルを欲しており、この過程が始まる前に既に貨幣を所持していることが前提になります。

 3人目は、聖書の所有者です。彼は、リンネル織職が自分のリンネルを売ることにより手に入れた貨幣と交換に自分の聖書を譲渡、売り渡します。

 では4つの極とは、どういうことでしょう。

まずは前半のW-G、これはリンネル織職にとって自分が持っている商品リンネルを売り渡す過程です。これが第1の極です。しかしこれはリンネル織職からみた立場ですが、これを買う貨幣所有者の立場からみれば自分のもっている貨幣でもってリンネルを買う過程でもあります。すなわち彼からすればG-W、貨幣―リンネルということです。これが第1の極と対になっている第2の極です。

 それからリンネル織職がリンネル販売により手に入れた貨幣により聖書を買う過程、G-W。これが第3の極です。しかし、これは聖書の売り手からみれば、自分の聖書を貨幣との交換で譲渡する過程でもあり、すなわち聖書―貨幣、W-Gの過程でもあります。これが第4の極ということです。

 ここで先にも見たように最初の変態が成立するためには、ここでリンネルの買い手が貨幣所有者として登場しなければなりません。ここで貨幣所有者として登場するものは、この過程の始まる前にどこかで何らかの手段で貨幣を手に入れていなければなりません。彼も恐らく自分の所有していた商品を売って貨幣を手に入れたと想定できます。ここでは小麦を作る農家が自分の小麦を売って得た貨幣だとします。この小麦農家の商品変態過程として考えるとW(小麦)-G(貨幣)―W(リンネル)ということになります。先のW(リンネル)-G(貨幣)は、この小麦農家の商品変態過程のG(貨幣)-W(リンネル)、すなわち後半過程ということになります。

 またリンネル織職の商品変態の後半過程G(貨幣)-W(聖書)も聖書の所有者からみればW(聖書)-G(貨幣)であります。ここで聖書の持ち手がウイスキーを欲していれば、彼は手に入れた貨幣でウイスキーを買うでしょう。つまり聖書の持ち手からすればW(聖書)―G(貨幣)-W(ウイスキー)の過程の前半のW(聖書)―G(貨幣)ということになります。

 このようにある商品の変態は別の商品の変態と絡みあっています。商品の流通過程とは、このように無数の商品の変態過程が相互に絡みあい、しかも相互に前提しあう関係にあり、分かちがたく結びついているものであり、これらの総過程として表れるものです。

 

 この第2節のA項目「商品の変態」いわゆる商品変態論の意義はどういったことにあるのでしょうか?レポーターは長らく疑問に思ってきましたが、最近になって次のように思うようになりました。

 第3節以降の貨幣の諸機能の問題を論じるに際して、やはり流通手段としての貨幣はあくまでも流通を媒介するだけで、この過程の中では一時的な存在にすぎず、それは目的の商品に転化する前段の姿でしかないこと。これに対して第3節から展開されている貨幣の独自の機能、例えば蓄蔵貨幣とかいうものの理解に必要不可欠であるということ。この場合、貨幣は流通から脱落することになりますが、本来流通手段としての貨幣はそれ自体流通にとどまり続けるものです。(他方、普通の商品は、一つの交換が終わると消費され、流通から脱落します。)それは諸品流通の場足、貨幣の取得はあくまでも一時的にすぎず、それはその貨幣が再度目的の商品に転化するためにのみ取得されるにすぎないからです。

 ですが蓄蔵貨幣の場合は違います。この場合は貨幣そのものを貯めることが目的ですからです。こうした貨幣の機能は、流通手段としての貨幣の機能とは異なる独自なものです。こうした貨幣の理解にも流通手段としての貨幣の機能の理解、それが商品の変態を媒介するものであり、ここでの貨幣は商品自体の転化した形態にすぎず、しかもそれはあくまでも一時的“瞬過”的なものにすぎないことを理解することは極めて肝要だったのではないでしょうか。

 例えば、この項目で取り上げる貨幣、すなわちW-G-WのGは、ただの流通手段としての貨幣にすぎず、これが決して資本になることはあり得ません。ところが同じ貨幣でもあとででてくる資本の一般定式G-W-G(G´)の場合のGは流通手段ではなく、資本としての貨幣となります。これ以上の説明はここでは割愛しますが、このような流通手段としての貨幣についてしっかりした理解がなければ、これ以降の貨幣の理解は覚束ないのではないでしょうか。

 

主な質問・意見

○テキストの「貨幣は、すべての価格を逆読みする」(岩波文庫版195)とあるが、どういうことか?

――報告者の説明

 「貨幣以外のあらゆる商品は、貨幣により価値が表現され、かつその大きさ(価値量)が表現されます。貨幣が金であればこれは、金○○グラムとか金の重量で表される形です。つまり図Aのような形です。

 

 図A:商品の価値表現(価格形態)

 

αエレのリンネル   =  

 

βクオーターの小麦  = 

 

γツェントナーの鉄  =     ○○グラムの金(または△△ポンド・スターリング)

 

δポンドの茶     =

 

etc         =

 

これは貨幣商品以外のすべての商品が統一的に貨幣商品である金により価値が表現されています。こうした貨幣による価値の大きさの表現(価格形態)が成立すると、諸商品は相互にその価値の大きさが比較可能となります。

 

 

 

 しかし、貨幣の方はどうかというと、当然貨幣は価格をもたない――○○グラムの金=○○グラムの金というのは意味を持たない――わけです。では貨幣の価値はどのように表現されうるかといえば、それをあえて示そうとすれば、商品の価値表現の場合は、図Aの式を左辺から右辺と読みますが、これを逆に読む、つまり右辺から左辺へと読むわけです。すると○○グラムの金という貨幣商品の価値が、それと等価の様々な商品によって表現されています。○○グラムの金=αエレのリンネルまたはβクオーターの小麦またはγツェントナーの鉄またはδポンドの茶、etc。」

 

 

 

○テキストの中で「貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現れ・・・」(岩波版197)とあるがここでの堅い価値結晶とは何を意味しているのか?

 

――報告者の説明

 

 「堅い価値結晶とは、本来は価値という社会的な実体のもの―だから本来はモノとして把握されうるものではないはずですが―が、我々が感覚的につかみうるような具体的な物質的な形態=貨幣形態として現れるということだと思う。だからW-G-WのGは最初の商品W自身の価値としての姿が具体的に貨幣という形であらわれたものだということだと思う。ここでの商品がリンネルだとするとリンネルをいくら透かして見てもその価値としての姿は明らかになりません。しかし、それは交換により貨幣に転化することでその価値そのものが表現されることになるのです。貨幣に転化すれば、この商品世界では貨幣は最も妥当な価値の姿として認められるわけです。ですから商品は、貨幣に転化しなければならない必然性があるのです。」

 

 

 

○最後に報告者よりテキストの「これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるほかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。」(岩波版198)という箇所は何を言っているのかわからないと疑問が出されました。

 

 これについては、こうだという意見が出ずに次回の課題ということになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

     

2017年11月12日学習会の報告

第一章「商品」の第三節「価値形態または交換価値」のA「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の二「相対的価値形態」の a「相対的価値形態の内実」の第10段落と第11段落を学習しました。

 先ず第10段落の「商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上着と交わるようになるや否や、自身で、申し述べることがわかる。…人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することを言うために、亜麻布は、上着が亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているというふうに言うのである。…」(岩波文庫版97頁)、「要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、…」(国民文庫版101頁)

 

  ここでは先ず、「商品価値の分析が以前に告げたような一切のこと」とは何を指しているのかを振り返りました。商品には二つの要素、使用価値と交換価値、価値がありますが、使用価値とはいかなる社会的形態であろうと、人間が生活していくにあたって必要不可欠な物質の有用性、質のことです。他方、交換価値、価値とはその有用物の交換される割合、比率の問題です。そして、物の有用性はどれだけの労働が費やされているかといった事とはまったく別の事です。

 

そして、商品生産社会においては、使用価値は常に使用価値だけにとどまらず、同時に交換価値の素材的な担い手となります。使用価値が質を問題にされるのに対して、交換価値は第一に量的なもの、量的な関係として現われます。ある使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として現われます。時と所によって、たえず変化する関係として現われます。このことは、何か偶然的なもの、相対的なものであって、商品に内在的な固有の交換価値といったものは無いかに考えられますが、そうではないことを見ていきます。

 

一定の商品、一クオーターの小麦は、他の商品ときわめて雑多な割合で交換されます。すなわち、小麦は唯一の交換価値ではなくて、多様な交換価値をもっています。相互におきかえることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であると言えます。このことは、同一商品の交換価値は、一つの同一物を言い表しているということ。交換価値は、交換価値とは区別される内在物の表現方式、現象形態であるということです。例えば、一クオーターの小麦=aツェントネルの鉄と言うような方程式は、何を意味するのか? 二つの異なった物が等しいと置かれるのは、異なった二つの物のうちに同一の大いさのものが、共通のものがあるということです。二つの物は一つの第三のものに等しい。この第三のものは、それ自身は、前の二つの物のいずれでもない。両者の各々は、交換価値であるかぎり、この第三のものに制約しうるものでなければなりません。

 

では、この内在物とは何か? それは商品体の使用価値、有用性を捨象した後に残るもの、交換価値であり、交換価値においては商品を生産する具体的な労働形態も捨象されます。従って、残るのは単なる抽象的な人間労働の生産物であるということだけです。共通なる一般的な人間労働の生産物に制約されて初めて、両者が等しいとされるのです。異なった使用価値を交換するのですが、交換価値=価値としては同質・同量が交換されるのです。そして、この二つの商品の交換は商品A=商品Bの価値関係においては、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となります。商品Bの肉体は商品Aの価値を映し出す鏡となるのです。商品Aは、商品Bを価値体(人間労働の対価物)として認め、商品Bと関係することによって商品Aは、使用価値Bを、商品A自身の価値表現の材料とします。そうすることで商品Aの価値は、商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値形態を得ることができるのです。

次回は相対的価値形態の量を規定するものについてです。

 

                             

2017年11月 5日 (日)

2017年10月22日学習会の報告

今回は、テキストのこれまでの続き第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のA「商品の変態」の後半部分から、国民文庫版では第1分冊187頁、A「商品の変態」の項目の14パラグラフ「G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。・・・」、岩波文庫版第1分冊195頁、a「商品の変態」の項目15パラグラフ「G-W商品の第二、または終局的変態、すなわち、買い。・・・」からを学習する予定でしたが、前回までの復習に時間がかかり、また参加者からの質問でかなり議論になりましたのでテキストには入りませんでした。というわけで今回はこれまでの復習の報告と議論の紹介をさせてもらいます。

 

学習会の内容および議論の紹介

1節「価値の尺度」についての復習

これまで貨幣については、第1章の第3節「価値形態論」の中や第2章の「交換過程論」の中で論じられてきました。前者では、貨幣生成についていかにして商品の中から貨幣は生まれるのかということが明らかにされ、交換価値論では商品に内在する矛盾が交換過程の場面で現実のものとして表れる中で、この矛盾を媒介するものとしての貨幣登場の必然性が明らかにされました。

これらの叙述を受け第3章では貨幣の様々な機能について展開されています。

とりわけ第1節「価値の尺度」では、貨幣の最も本質的で重要な機能、第1の機能として価値尺度機能について述べられています。

 価値尺度機能とは、貨幣以外の諸商品の価値を示し、かつその価値の大きさを価格として表現する機能のことです。これが貨幣の一番の本質的な機能です。貨幣には価値尺度機能以外にも流通手段としての機能や支払い手段としての機能などがありますが、第1の機能はこの価値尺度機能です。

 ところで我々が一番なじみのある価値表現は、価格(〇〇ポンド、△△円)でしょう。しかし、価格とは一体何でしょうか?

 これまで見てきたように貨幣が成立すると、商品世界の他のすべての商品は、この貨幣商品により価値が表現されます。どんな商品も貨幣と等置されることにより、それがどんな種類の具体的労働であるかに関わらず、人間労働一般、すなわち社会的労働の産物として示され、かつその価値の大きさも貨幣商品である金の重量により表現されるようになります。

 この商品の価値の、貨幣商品である金の量による表現がまさに価格(形態)ということなのです。ですからこれは x量のA商品=mgの金 とか y量のB商品=ngの金 等の価値の表現の形です。これを金の一定量を基準としてそれにポンドとか円とかの貨幣名を与えると さきほどの価値表現は x量のA商品=αポンド

とか y量のB商品=β円 という形になります。事実、戦前の日本でも1円とは金0.75gの価値をあらわすものでした。

 こうして貨幣以外のすべての商品は貨幣によりその価値がしめされ、その価値の大きさも貨幣量により計られて表現され、価格がつきます。こうなると諸商品は相互の価値の大きさの比較も容易になります。

 このように貨幣の価値尺度機能とは、諸商品を価値として示し、かつその価値の大きさを価格として表現し、相互に比較可能なものとします。

 

2節「流通手段」 A「商品の変態」 前半部分の復習

2節では、流通手段としての貨幣がとりあげられています。すなわち商品流通を媒介するものとしての貨幣です。商品流通はW-G-Wすなわちある商品が貨幣へと転化し、それが再度商品へと転化する形をとります。これを資本論では「商品の変態」と呼んでいます。各々の商品生産者にとって商品交換の目的は、彼が生産した使用価値-―彼自身にとっては非使用価値――を譲渡し、交換することにより他人が生産した使用価値――彼自身にとっての使用価値――を手に入れることが目的です。また社会的にみても商品生産は、直接に社会的な生産ではなくただ互いの私的労働を相互に価値として交換しあうことのみを通じて社会的生産として成り立ちうるものです。そうした点からすれば商品流通は社会的物質代謝として考えられます。この点からすると商品流通は生産物の交換が目的でありすなわちW-W、商品と商品の交換が目的です。

ここでの貨幣Gはこの商品の変態にとっては目的ではなく、商品の貨幣への変態は一時的なものですし、あくまでこの貨幣Gは最初の商品自身の価値としての姿――価値姿態、貨幣姿態――にすぎません。

しかし、この前半の変態W-G、商品の貨幣への変態は、容易なものではありません。先ほども述べたとおりここでの目的は貨幣ではなく最初のWがそれとは異なる使用価値のWに転換されることです。しかし、商品は直接に目的とする他の商品に代わることはできません。商品は一度貨幣に転化しなければなりません。商品は貨幣へと転化することではじめて社会的なものであることが示されるのです。ですから「商品は、貨幣を恋い慕う」のです。商品は貨幣へと転化しなければなりません。そうしなければその商品とその商品を生産するのに費やされた労働の社会的性格が認められません。また当然ですが目的の商品(W-G-Wの後ろの方の商品)へと変わることもできません。(これと比較して後半のG-Wは、それほど困難ではないといえるでしょう。なぜなら貨幣は、社会的労働の最も妥当な形態としてこの商品世界では認められた形態であり、それゆえどんな商品とでも直接に交換可能な形態だからです。)

この前半の変態はW-Gですが、それは貨幣所有者の側から見れば逆の変態G-Wでもあります。ここで最初の商品をリンネルとするとこの変態はリンネルー貨幣ということになりますがこれはリンネル所有者からみた場合で、これを貨幣所有者の側からみれば自分の貨幣を手放し、それを商品リンネルに変えることになります。

 

〇質問・意見等

 今回は、これまでの復習のみとなり、それに関する質問はありませんでした。しかし、参加者の方からこれまで疑問だったことが寄せられましたのでそれに対するレポーターの説明と併せて紹介します。

 

◎議論となったのは、価値と価格の関係で現代の資本主義において、労働価値節で現実の商品の価格を説明できるのか、ということでした。

以下では、参加者の質問発言をAとし、レポーターの発言をBとし主なやり取りを紹介します。

A;「自動車や鉄鋼などの資本が自動車や鉄などの商品を作る場合、その価格は、生産手段等の費用に労働者の賃金をプラスしたものに、その上に利益(利潤)をプラスしたものになるのではないか?こうして成立する価格は、生産に必要な総労働量によって規定される価値の大きさにマッチしないのではないか?」

B;「現代の個々の商品の価格は、直接に価値とは一致しません。これは資本論第3巻でそれぞれの商品の価格は、直接価値量によって規定されるのではなく、生産価格によって規定されると述べています。しかし、この生産価格の形成も、労働による価値の規定からちゃんと説明されています――というより労働価値論からのみ合理的に説明しうるものですが。厳密ではないかもしれませんが、資本主義的商品の価格は、直接に価値によって規定されていないが、究極的には価値論(労働価値説)から説明できるし、またこれのみが正しい説明だといえるのではないでしょうか。それに資本論の第1巻、特に冒頭の数章では、商品の価値を規定するものとしてやはりシンプルに労働価値説から説明されていますが、これはここでの商品が単純な商品、つまり剰余価値、利潤等を捨象された商品だからです。もちろん我々が見るのは剰余価値、利潤が含まれた商品ですが、それらをちゃんと理解するためには、まずは商品一般、(論理的な意味での)単純な商品が何によって規定されたものか、どんな基本的な生産関係が背景にあるものかをまず知ることなしには、それよりずっと発展した関係を含む現実の商品のことをちゃんと理解するのは困難だからです。ですからまずはここでは商品の価格と価値は一致したものとして考えた方がよいと思います。」

A;「しかし、労働者の労働といっても、高度な技能労働と単純な労働とは随分違うし賃金も実際異なると思うが、そうした違いから考えると、労働そのものから単純に説明しがたいのではないか?」

B;「賃金と労働者が実際に働く労働とは違います。賃金はあくまでも資本家が買う労働者の労働力商品としての価格です。労働力商品の価格は、基本的には労働者の労働力の再生産にかかる費用で衣食住等の諸費用です。この価格と実際労働者が資本の下でどれだけ働くかは直接に関係ありません。資本家の立場からすれば、賃金として支払う部分に相当する労働量より、実際に働かせて生みだす価値量の方を少しでも多くしようと考えるでしょう。この差額がいわゆる剰余価値です。これが資本家の利益の源泉です。また複雑労働と単純労働では確かに価値の大きさが異なります。第1章の第2節で述べているようにこれは複雑労働も単純労働に還元されますので労働価値説には矛盾しません。」

A;「そうすると資本家の利潤取得は、不正な取得ということになるのではないか?ごまかして不正を働いている資本もあるが、そうでない資本もあると思うが、そうした場合利潤はどこから来るのか?」

B;「(生産的な)資本の剰余価値の取得は不正とかではないです。むしろ正常な関係というべきでしょう。資本家が労働者に払う賃金は、市場で決まる労働力商品の価格通り払います。そういう意味では対価――この対価は決して、彼が実際に資本家に提供する労働の対価ではありません!――を支払うのです。これはこの社会では資本を所有するものと、労働力(のみ)を所有するものとの、商品所有者同士の関係としては対等な契約関係にすぎません(もちろん形式上ですが!)。ですが資本家が買うのは労働者の労働力の使用権であり、他方労働者が資本家に売るのは彼が提供する労働そのものではなく、ただ彼の労働力そのものにすぎません。もし労働者が、彼が提供する労働そのものを売ることができたら搾取は不可能であるかもしれません。ですが彼が売り渡したものは労働力であって、その使用権を資本家にあたえたわけです。ですからどれくらい働かせるかは資本家の裁量です。ここで賃金、労働力の価値に相当する労働時間と同等あるいはそれ以下しか働かせない資本家というものは普通ありえません。仮に存在しても激しい資本同士の競争戦から彼は手持ちの資本もすぐに枯渇させ、没落する以外ないでしょう。」

A;「賃金は労働に応じて支払われているのではないか?例えば、時間に応じて支払われたりする」

B;「時間給とかですか。労働時間に比例した形で支払われるというのと。実際に支出した労働時間に、つまり労働量に応じて支払うというのは全く別なことです。賃金形態の一つの時間給というのは、実際に支出した労働に応じて支払われているわけではありません。それは時給900円だとすると、ここにすでに剰余労働分が存在するのです。これは別に資本家の不正とかいう問題ではありません。時間に比例して支払われるということと実際に支出した労働(量)に応じて支払われるということは全く別なことです。」

A;「剰余価値を生みだすのは、生産的資本のみだとの説明があったが、それだと生産的部門以外の資本の利潤はどうなるのか?」

B;「資本論第1巻では、資本としては基本的に生産的な資本を前提にして述べています。第1巻のタイトルが資本の生産過程とあるのはそういうことだと思います。現実には生産的資本以外にも、流通を担う流通資本とか、貨幣を取り扱い貸し出す金融的な資本もあります。しかしそうしたより発展した資本を理解するためには一番の基礎的資本である生産的資本を理解することが何より肝要だからです。実は、生産資本以外の資本は、生産資本からすべて派生したものなのです。資本とは、自己増殖を続ける価値――平たくいえば何らかの形で投資して利潤(もうけ)をえてそれをどんどん増やすことを目的とした企業活動――とも言えますが、では価値とは何かといえば人間労働が生産物に対象化したものであり、それは生産活動以外に源泉はありません。つまり資本も人間の生産活動が源泉なのです。回り道をしましたが、生産的部門以外の資本の利潤や様々な儲け(利子等)も生産的資本が生み出す剰余価値が源泉であり、資本家的分業関係の中で、その剰余価値の中から分配されているものにすぎません。ですから銀行の利子も金融業自体から機能的に生み出されるものではなく、源泉は生産的資本が生み出す剰余価値の一部であるにすぎません。」

2017年10月8日学習会の報告

貨幣の謎とは? あらゆる商品の価値が貨幣である金の重量で統一的に表現されるようになるとはどういうことなのか? 普段、当たり前に思っていること。疑問に思うことなどが無いことの解明に取りかかります。しかし、貨幣生成の謎解きと言っても、すぐに貨幣が出てくるわけではありません。しばらくは、単なる商品、ここでは上着が貨幣の代りに登場します。やがて、一定の道のりを辿って上着は貨幣として登場します。あせらずに貨幣の登場を探っていきたいと思います。

○第三節 「価値形態および交換価値」の

A「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」

X量の商品A=Y量の商品B またはX量の商品AはY量の商品Bに値する。

(20エレのリンネル・亜麻布=1着の上着 または20エレのリンネルは1着の上着に値する。)

1.「価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態」

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有な困難がある。

価値形態すべての秘密が、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。とはスリリングな予告であるとともに、これからの分析の困難さを示唆しています。

ここでは、二つの異なった商品AとB、またはリンネル・亜麻布と上着には其々に異なった役割があると言われています。ではその役割とは何でしょう? それは、リンネル商品がリンネル自身の価値を自らでは表わすことができないので、他の商品、ここでは上着でもって表わされています。すなわち、上着はリンネルの価値表現の材料として役立っているのです。第一の商品リンネルは自分自身の価値を表わします。ゆえに能動的です。第二の商品上着は自分自身の価値は表わさずに、リンネルの価値を表わす為の材料となっているという点で受動的です。

リンネルは自分の価値を表現するには、自分自身で表現することができないので、他の商品でリンネルの価値を表現しなければなりません。他の商品との関係でしか自分自身の価値を表現できないということで相対的価値形態と言われます。一方の上着は自分自身の価値を表現するのではなく、他の商品の価値表現の材料として役立っているということで等価形態と言われます。

「相対的価値形態と等価形態とは、……同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。」すなわち、リンネルの価値はリンネルで表現することはできません。リンネルの価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されます。他方、等価の役割を引き受けている他の商品は、同時に相対的価値形態にあるということはできません。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を提供しているだけなのです。

そして、20エレのリンネル=1着の上着の表現は、上着1着=20エレのリンネルという逆の関係をも含んでいます。しかし、その場合、上着の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければなりません。そうすると、リンネルは上着に代わって等価となります。すなわち、同一の商品は同一の価値表現においては、同時には両形態に現われることはできず、二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうことになります。このように、二つの商品、右辺と左辺の商品にはそれぞれの役割があるということを確認したうえで、実際の役割を具体的に見ていきます。

2.「相対的価値形態」

 a.「相対的価値形態の内実」

 一つの商品の単純なる価値表現が、どのように二つの商品の価値関係にかくされているかということを見つけ出すためには、価値関係を、まずは量的側面から全く独立して考える必要があります。えてして人は、価値関係の中に、二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見てしまい、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較されるものになるということを忘れています。同一単位に、同じ分母になって初めて通約できる大いさとなるのです。

20エレノリンネル=1着の上着 =20着の上着 =X着の上着 すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値するか、少ない上着に値するか、といったいろいろの割合にあるということは、つねに、リンネルと上着とが価値の大いさとして同じ単位の表現であり、同じ性質の物であるということです。すなわち、リンネル=上着は、方程式の基礎です。

そして、二つの質的に等しいとされた商品には、1.で見たようにそれぞれに異なった役割があります。それは、リンネルの価値のみが表現されるということであり、リンネルの等価としての、あるいはリンネルと交換され得るものとしての上着に、関係させられることによってです。この両者の関係において、上着は価値の存在形態、すなわち、価値物と成されます。このように価値物と成されて、初めて、上着はリンネルと同一物なのです。このようにした後、リンネル自身の価値が前面に押し出され、独立の表現を得るのです。それは、ただ価値としてのみリンネルは、等価物としての上着に関係するからです。

 リンネル  上着  リンネル=上着(価値物)

  ・リンネルは価値物としての上着と関係することによってリンネルの価値が表現されます。

・上着はリンネルと関係することによって価値の存在形態、価値物、リンネルと同一物であるとなされます。

 

 これまで見てきたように、価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物である、というにとどまるなら、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象に制約しますが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態

 

を与えることはありません。しかし、一商品の他商品に対する関係においては、違ってきます。ここでは、その価値性格は、それ自身の他の商品に対する関係によって現われてきます。

 

 例えば、上着が価値物としてリンネルに等しいと置かれることによって、上着にひそんでいる労働は、リンネルにひそんでいる労働に等しいとされます。上着を縫う具体的な裁縫労働は、リンネルを織る具体的な機織り労働と同じ労働、共通な人間労働という性格に、制約されます。そうして、リンネルを織る機織り労働が抽象的に人間的な労働であるといわれます。ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類の違った商品にひそんでいる異種の労働を、実際にそれらに共通するものに、人間労働一般に制約して、価値形成労働の特殊性格を現出させます。

 

 しかし、リンネルの価値を形成する労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分ではないのです。

 

流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのですが、価値ではありません。それは凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となります。

 

リンネルとの価値関係において、価値である上着はリンネルと質的に等しいものとして、すなわち、同一性質のものとみなされます。上着はここでは、価値の現われる物として、その自然形態で、価値を表示している物となされています。しかし、上着は一片のリンネルと同じように、価値を表現するものではありません。このことは、上着がリンネルに対する関係においてはその外部におけるよりも多くの意味をもっているということです。

 

 上着の生産では、具体的な裁縫労働の形態で人間労働力が支出されました。人間労働が堆積されている上着は、価値の保持者です。しかし、こういった上着の属性は、上着そのものから見えるものではありません。そして、リンネルとの価値関係においては、上着はこの側面からのみ、すなわち、体現された価値、価値体としてのみ取り上げられています。上着はリンネルに対して、価値がリンネルのために上着の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのです。

 

 上着がリンネルの等価をなす価値関係においては、上着形態は、価値形態とされます。リンネル商品の価値は、上着商品の肉体で表現されます。すなわち、一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのです。使用価値としては、リンネルは上着とは感覚的に違ったものです。しかし、価値としては、それは「上着に等しいもの」であって、したがって、上着に見えるのです。このようにして、リンネルは、その自然形態とは違った価値形態を得るのです。その価値たることが、上着との同一性に現われるのです。

 

 

2017年10月 4日 (水)

2017年9月24日学習会の報告

今回は、前回学習した「価値と価格」の問題について、レポーターより再度の説明と訂正がなされ、その点についての議論がありました。そのあと再度テキストに戻る為、これまでの箇所の復習(主に第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度]について)を行い、そのあと今回の箇所第2節「流通手段」の続き(国民文庫版第1分冊第2節の第13パラグラフ「これまでのところでは、・・・」<196頁>から同文庫第14パラグラフの終わりまで「・・・、他方では買われうる商品を代表するのである。」<198頁>まで、岩波文庫版では第1分冊第2節の第14パラグラフ「我々はこれまで人間の経済関係を、・・・」<193頁>から第15パラグラフの終わりまで「・・・」他方で買いうべき商品を代表する。」<195頁>までを行いました。

以下は、当日の学習会の報告です。

 

前回報告「価値と価格」についての報告箇所

 最初に前回の「価値と価格」の学習に関して再度簡単な説明がレポーターよりなされ、訂正箇所の説明がありました。

 「価値と価格」の説明については前回の報告で紹介していますのでここでは訂正部分についての報告を紹介します。

 

 前回の報告で価値と価格の乖離の可能性についてのところで、貨幣価値と商品価値の変化と価格の関係を説明しましたが、これは価値と価格の乖離の問題とは直接に関係ないということだと思いますのでここでの説明としては不適切であったと思います。

 それは商品価格の変動がある場合、それがもっぱら商品価値の変動によるものであろうと、あるいはもっぱら貨幣の側の価値変動によるものであろうと、あるいはこの両者の変動の複合的な結果だとしても、これらの結果としての価格変動はそれ自体価値と価格の乖離ではないし、この両者の変化自体は乖離の要因ではないということです。ここでは乖離はないし、むしろ価値と価格は一致していると思います。

 この問題は、現代の社会において全般的に価格が上昇していく場合、それが果たして商品の価値自体の変化に伴うものか、それとも通貨価値の下落にともなうものなのか、つまりインフレの問題なのかということと関連します。

 むしろ価値と価格の乖離ということの根源は、価格という形態が成立すると、本来労働生産物でないもの、すなわち価値をもたないものまでも、売りと買いの関係で価格というものが形成されるというようなことではないかと思います。マルクスは価値と価格のかい離の可能性は、その形態(=価格形態)にあるといっています。

 また労働生産物である本来の商品でも、価格というレベルでは、売りと買いの競争関係(需給関係)によりしばしば、価値から乖離した価格がつく可能性があるのはみなさんご存じのとおりだと思います。

 商品の価値を規定するのは、質的にはそこに共通に人間労働が支出されているということだろうし、その量、大きさの問題はその継続時間、すなわち社会的平均的労働時間だということですが、そうしたものとりわけその大きさの表現として現実に表れる価格は、直接にはその価値量から乖離しうるものだということだと思います。

商品価格は、同じ商品でも需給関係やその他諸々の要因により刻々と変化しうるものですし、時に急激に上昇することも急激に下落することもあります。個々別々の商品の、その時々の価格を見るだけなら、商品の価値を根底において規定するものは何もないように見えます。しかし、商品の価格を根底において規定するもの、究極において規定するものは、労働による価値の規定なのではないでしょうか?

 

質問・意見等

・ここでは、関連して価値の大きさ、価値量を規定するものが社会的労働時間だというが、高度な技能労働と単純労働とでは大きさが異なるのではないか、こうしたことなる労働を同じものとして同一の価値とすることはできないのではないか?との質問が出されました。

レポーターや幾人かの参加者より「複雑労働と単純労働の違いはあるが、しかし複雑労働も単純労働の何倍分とかという形で単純労働に還元できる。すなわち同等な人間労働ということで質的にも同等、量的にも同等なものとして現実に還元されうるのだと思う。」という意見が出されました。

・またマルクスの価値論が現代にも通用するのか?マルクスの価値規定から説明できない商品の価格も現代にはあるのではないか?例えば、原油価格などかなり高い価格になっているがどう説明するのか?との質問・意見も出されました。

これについてはレポーターより「現代では、実際の価値量よりかなり高い価格がついている商品も沢山ある。原油価格などもその典型例だが、そうした価値から乖離した価格がどのように形成されるかについても資本論第3巻ではマルクスは説明していると思う。基本的には原油価格は、地代論から説明されている。すなわち土地を独占(=私的所有)していることから発生する地代が生産物の価格に転化されることから生じるものです。土地所有者が最終的に地代として受け取ることができる利益分が生産物の価格の一部分として転化されることから生じるものです。ここではこれ以上の説明は割愛しますがこのように価値から乖離した価格の形成も価値論から説明できるし、それが唯一の正しい方法だと思う。」との説明がありました。

 

テキストこれまでの復習(主に第3章第1節「価値の尺度」について)

次にテキストの学習に戻る前に、再度これまでのところ主に第3章第1節の簡単な復習を兼ねての説明がレポーターよりなされました。

 

現在テキストでやっている箇所は第3章「貨幣または商品流通」の第2節「流通手段」のところですが、その前の第1節では「価値の尺度」ということでした。

この第3章では、貨幣の様々な機能について述べられています。貨幣の機能の中で一番の機能、最も根源的なな機能として価値尺度機能があげられます。

貨幣は、もともとは商品であり、商品の中から生まれてきたといえます。商品は、使用価値であるとともに価値でもあります。結局、商品は、相互に価値を持ったものとして関わり合うことが不可避です。もしそうすることができないとしたら相互に交換されることは不可能でしょう。

つまり全ての商品が、共通な価値物であることが示され、かつその価値の大きさの違いがそれぞれ示されるということが不可欠なわけです。全ての商品が共通な価値として、かつその各々の量的な大きさの違いが分かりやすく具体的に示されることが必要なのです。そうすることによりはじめて諸商品は相互に価値を持ったものとして互いに関わり合うことができます。

こうした諸商品を価値として表し、かつその大きさを貨幣である金の量により表現するものが、貨幣の第一の機能なのです。

ところで20エレのリンネル=1着の上着 というのも価値表現ですがこうした形態での価値表現にとどまるなら、諸商品が価値として相互に比較されるのは困難でしょう。なぜならこうした形態なら他にも1クオーターの小麦=aツェントナーの鉄 というものもありえますが、これではリンネルの価値表現は、上着によってなされていますが他方小麦は、また別の商品鉄によってなされているわけで、それではリンネルと鉄の交換関係はどうなるのかといことになります。これら諸商品が価値物として相互に関わりあうためには、それぞれがただ一つの共通の等価物で表される必要があります。他の全ての商品の共通な等価物として(一般的等価物として)の地位につき尚かつその地位を社会的に独占したのが貨幣商品としての金です。

 こうなれば全ての商品は、その価値の大きさを貨幣商品である金の量で表すことが可能となります。つまり各々の商品は、価値量としては、各々違った量の金により現されることになります。こうすればすべての商品がその価値の大きさを共通に金量で表現できるわけで、容易にその価値の大きさが比較可能となります。

 こうした商品の価値性格を示し、かつその価値の大きさをはかり表現するもとしての貨幣の機能こそ貨幣の最も本質的な機能だといえます。

 

国民文庫版1314パラグラフ(岩波文庫版14,15パラグラフ)についての報告。

ここでは、商品流通を媒介するものとして貨幣の機能、流通手段機能が問題になっていますが、その前提として貨幣(金)がすでに流通に入り、かかるものとして機能している必要があります。

金はもともとは他の商品と同様に一般的な労働生産物として存在していました。それが貨幣となるためにはどこかで商品市場に入る必要があります。それは金の生産源にあるとマルクスはいいます。金の生産源から直接的生産物としての金は、同じ価値を持った別の労働生産物と交換に商品市場に入り、この瞬間から金は貨幣として機能するようになります。

ここでマルクスは、貨幣を糞尿にたとえています。それは商品の変態を媒介する機能としての貨幣について考えれば、商品から貨幣への変態は、その商品に支出された具体的有用な労働は、貨幣に代わることで無差別な人間労働に転化するのであり、こうした全くの無差別で一様なものであるということをいわんとしたものではないでしょうか?

個々の商品は、むしろ具体的な有用性こそ問題になるのだと思います。リンネル、上着、小麦、鉄それぞれ異なる有用性が形成する異なる使用価値こそが問題なのではないでしょうか?しかし、そうした商品も他の諸商品と交換されなければなりませんが、そのためにはそれぞれの商品は貨幣へと転化する必要があります。貨幣になるとはこれらの有用労働が、無差別一様な人間労働に転化するということだと思います。具体的で有用的なものが抽象的で無差別一様な人間労働の“固まり”になるこうしたことを、貨幣を糞尿にたとえていったものではないでしょうか?

また次の14(岩波版15)パラグラフでは、いままで商品の変態についての前半(W-G)を見てきましたが、ここからその後半過程(G-W)すなわち買いの過程を見ていきます。この過程は前半過程つまり商品の貨幣への転化を受け、今度は貨幣が商品へと再転化することによりW-G-Wという商品の変態過程を完成させるものです。

 

質問・意見等

・ここでは、マルクスが貨幣を糞尿に例えた意味について議論になりました。

マルクスは、貨幣を糞尿に例えることで、貨幣こそが富であり、万能であるという人々の観念を批判して使ったのではないか?貨幣は価値があるように見えるが糞尿は全くか価値がない。貨幣を糞尿に例えることにより貨幣は価値があるという観念へのアイロニーになっているのではないかとの意見が出されました。

これにつては、レポーターより「確かに物神性批判ということは第1章第4節で展開されている。しかし、ここで貨幣を糞尿に例えたのは、商品の変態を媒介するものとしての貨幣については、それが具体的な商品の有用性、有用労働ということから貨幣に転化することは内容的に無差別な人間労働に転換されるということであり、そうなってしまえばそれがどこから来たものか、だれが作ったものかなんて一切関係ないし区別も全くないということのたとえのように思う。」と答えました。この糞尿の例えの意味については、これ以上の意見は出ませんでした。

2017年9月10日の学習会の報告

8月に続いて新参加者が来られましたので、第一章「商品」の第一節と第二節の振り返りをしました。その後に第三節「価値形態または交換価値」の前文に入りました。第一節の「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)」と第二節は「商品に表わされた労働の二重性」は8月13日の学習会の報告に詳しく説明されていますので、そちらを参考にして頂きたいと思います。第三節の「価値形態または交換価値」の前文は読み合わせをしました。  

  

○第三節 「価値形態および交換価値」

この第三節では、貨幣生成の必然性が述べられています。マルクスは、貨幣においては、あらゆる商品の価値が貨幣である金の重量で統一的に表現されているが、それこそが貨幣の謎であるといっています。これは金以外の商品の価値が、金という特定の商品の使用価値によって表現されているということです。しかし、なぜこのように金によって、しかも価値の反対物であるその使用価値によって価値が表現されうるのか?いかにして金の使用価値が諸商品の価値として一般的に妥当するものになることができるのか?この点を解明することで貨幣の謎が解けると言うのです。次回から貨幣の謎解きに挑戦です。

2017年9月11日 (月)

2017年8月27日学習会報告

今回は、テキストには入らずに前回課題となった「価値と価格」の問題についての学習を行いました。主に第1章商品論を中心に振り返りながらテーマの価値と価格の問題について報告者より報告がなされ、参加者の方から様々な質問意見等が出され、議論になりました。

以下は、当日の学習会の報告です。

 

学習会の内容

 最初に報告者より、価値とは何かということで報告がありました。「価値とは、商品の交換価値として表れるものであり、様々な商品が相互に相等しいものとして交換されるのは、共通の本質がそれぞれの商品の中に存在しているからであり、この共通の本質が価値だといえます。さらに価値とは何かと分析するとこの共通なものは何かということになり、それは商品は全て人間労働の産物であり、共通のものとしてあるのはそれらの生産に抽象的人間労働が支出されていることだということになります。この抽象的人間労働が価値の実体であるということです。」との説明がありました。

 これに対して「価値の実体は抽象的人間労働だというが、では価値とは何であるのか?」という質問が出されました。報告者は「価値とは何かは?簡単には言えないが、商品の価値という形で表れる労働の特殊な性格が関係していると思う。商品を生産する労働もある意味で社会的な労働だが、商品生産以外、例えば共同的な関係の場合は最初から直接に社会的だが、商品生産の場合は違うと思う。価値とは何かの理解には、この商品生産の歴史的な特有の労働の性格(私的な労働として存在しながら、それが事後的に社会的なものとして認められなければならないということ?)があるのでは?」と何とか説明しましたが、なかなか参加者の方の納得の得られるものとはなりませんでした。これについては今後の課題として残りました。

 次に、価値の実体は人間労働であるが、では価値の大きさは社会的平均的労働時間により決まるという説明がなされましたが、ここでは「社会的平均とは、結果的に決まるということか?」との質問があり、これについては「結果的かどうかは分からないが、市場を通して競争も働いてというとならそういうことか?」と報告者が答えたことに対して議論になりました。結論的には「価値の大きさを規定するものとしては、競争を持ち出すのは誤りだろう。競争は価値の問題ではなくむしろ価格(形成)の問題であり、価値のレベルではおかしい。価値の大きさ関連するのは競争等ではなく、その社会の生産力(がどのくらいの水準か)という問題だろう。」ということでまとまりました。

 

 次に価格の問題に入り、「価格とは、商品の価値表現のあり方の一つで、私たちが知っているように商品の価値は、結局のところ価格という形で表現されます。先ほど価値の実体が、人間労働であり、その大きさはその商品の生産に必要な社会的労働時間によって決まるといいましたが、では商品の価値の大きさが労働時間で表されることができるかといえば、それはできないと思います。なぜかはテキストでは第1章の4節に展開されていることでここでは割愛しますが、とにかく商品は価値をもっており、全ての商品はそれが価値物であり、またその価値の大きさを表現する必要があるのです。でないと他の商品と相互に交換されることは不可能でしょう。共通に価値を持ったものであることが示されるとともにその価値の大きさを表現しなければなりません。

結局、ある商品の価値は、それと交換される、つまりそれと等価の商品により表現されざるをえない、それ以外にはないのだと思います。ですから商品の価値表現は、一定量のある商品の価値は、それと交換されるもう一つの別の商品の数量(上着なら1着分とか2着分とか、米なら1㎏相当、2㎏と相当とか)によってなされざるをえないのでしょう。しかし、個別の商品を等価物とする価値表現には一般性も社会的妥当性もありません。そこである特定の商品のみが等価物として機能し、その地位を独占するようになるのですが、それが貨幣であり、貨幣は本来は、金でした。すなわち全ての商品が貨幣である金の違った量――何キロ分か、何ポンド分か―によって表現されるようになります。この金量を一定の基準を定め、それに貨幣名(1ポンドとか1円とか)をつけると金量で表現された様々な商品の価値は、〇〇ポンドとか〇〇円という形になります。これが価格というものです。」との報告がなされました。

ここでは「価格は相対的なものにすぎないと報告者は説明したが、具体的にはどういうことか?」との質問があり「商品の価値表現自体が、ある商品の価値は、それと交換される他の商品によって表現される以外にないわけです。仮にある商品がそれと交換される上着によって表現される場合を考えても1着の上着が果たしてどれぐらいの価値量があるかは、上着の生産力や生産の諸条件が変化すれば変わるものです。上着1着がどこでもいつの時代でも同じ価値であるということはありえません。もちろんこれは金でも同じです。金も上着や他の商品と同様、労働生産物であり、それは生産条件が変化すれば変わるものです。従って同じ金量は、いつも同じ価値の大きさだということはありえません。それゆえ商品の価値表現は相対的といえると思います。」と説明がありました。

 

最後に、価値と価格の乖離の問題を扱いました。

 

報告者より「商品の価値の大きさとその価値表現としての価格の変化(騰落)の関係は単純ではありません。それは商品の価値が仮に変わらない場合でも、貨幣である金そのものの価値が変化するなら当然にも価格は変化します。また価格の上昇という現象があってもそれが商品自体の価値の高騰によるものか、それとも貨幣である金の価値自体の低落によるものか分かりません。価格が下落する場合もそれが商品の価値自体が下がったためか、それとも貨幣価値が上昇した為かは、それだけでは判別がつきません。このように価値と価格の関係は中はっきりとはつかみにくいものです。」との報告がありました。

これについては「インフレの問題に関連することか?」との質問があり「インフレとは、貨幣の側の問題、貨幣価値の減価により生じる物価上昇なのでつながると思います。」との返答がありました。

 

※これについては、報告者自身あとで考えるとここで説明した問題は、価値と価格の乖離の問題としての説明としては誤りだと気付いたので訂正させてもらいます。ここでの説明は、価値と価格の乖離とは直接には関係なく、むしろ価格というものが価値表現として考えても極めて相対的であり、限界があるものだということだと思います。ですからこれは、この最後の項目ではなく、2番目の報告のところに入れる内容でした。貨幣の価値自体が変化してそれに伴い価格が変化してもそれだけでは価値と価格が乖離したとはいえませんし、またその原因とも言えません。従ってここで訂正させてもらいます。

 

次に価値と価格の乖離の要因の一つとして「需給関係が変化し、需要に対して供給が過剰になったり、逆に供給に対して需要が拡大していく場合は、この場合、価値から乖離した価格が形成されます。」と報告者より説明がありました。

 

ここでは他にはあまり意見は出されませんでした。

 

また最後に、再度、抽象的人間労働に関連して「価値を形成するのは抽象的人間労働との説明があったが、この抽象的人間労働には流通を担うような労働も含まれるのか?なぜならいまでは資本主義の初期と違い生産的労働以外にも大量の労働者が従事している。これらの労働者の労働は価値を生まないのか?」という疑問だされました。これについては他の参加者から「ここでの労働とは、あくまで生産的労働であるし、そう考えるべき。」との意見が出され、報告者も賛同しました。

 しかし、「仮に価値を形成するものは生産的労働であるとしても、現代では大量の労働者が現にそうした労働に従事している。それをどう評価するかは、現代の課題ではないか?」との意見が再度出され、それについては「客観的に生産的労働であるかどうかの問題とそれが意義あるかないかどうかの問題は別だと思う。不生産的部門、商業労働あるいは金融部門での労働等、いずれも資本主義的分業として必然であり、資本主義の枠内の限界内であるが、これらの分業が発展することは大きな意義がある。こうした部門やそれらに従事する労働者の労働をどう評価しどう位置付けるかは大きな問題だと思うが、しかしそうしたことを正しく位置づける為にも生産的労働はどの部分なのかというちゃんとした評価は必要ではないか?」また他の参加者からも「物質的な生産を行う労働は、人間社会の永遠の自然必然性であるともマルクスはいっている。そういう意味でここでの人間労働は、生産的な労働なのではないか?」と発言があり概ねまとまったと思います。

2017年8月13日学習会報告

「資本論入門講座」は、新参加者が来られましたので、第一章「商品」の第1節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)と第2節「商品に表わされた労働の二重性」を復習しました。その後、第3節「価値形態または交換価値」の第1段落「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄、亜麻布、小麦等々として、生まれてくる。…」~第4段落「…したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいしてもっとも単純な価値表現を与えている。」(岩波文庫版第1分冊88頁~90頁)、「商品は、使用価値または商品の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。…」~「…それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。」(国民文庫版第1分冊92頁~94頁)を学習しました。

 学習会の内容

原始共同体や未来の共産主義社会のように、社会全体の成員を念頭においての計画的生産、分配、消費が組織されてない階級社会においては、社会全体でどれだけの消費が必要で、その為には何をどれだけ生産すれば良いのか、人員をどのように配置すれば良いのかなどが計画的に考えられず、個々の資本家が利潤獲得のために生産をおこなっています。無政府的な生産は、需要と供給の不均衡、競争で常に過剰生産といった事を引きお越し、時には恐慌になったりもします。商品生産では社会全体においてどれだけ必要とされるかは、社会全体としての計画生産ではないのですから、商品として交換されて(売れて)初めて社会的に必要な生産物であった事が実証されます。資本主義社会で価値があるとかないとか言われますが、それは抽象的な人間労働が対象化された労働生産物であり、社会的な有用物であることが交換を通じて確認されるということではないかと思います。そういう意味では、価値というのは社会的なものであり、社会の生産物のほとんどが商品として現われる資本主義的生産様式=商品社会に特有のものと言えます。

 そして、商品を作る人間労働にも二つの要素があります。一つは使用価値を生産する有用労働であり、これはいかなる社会であっても人間の生活と切り離せない必要な労働です。一方の価値を生産する労働は、有用労働が対象化されていることはもとより、他人が使用するための生産物を生産する労働であるということです。それは、社会の成員の誰かが使用するものであり、商品交換(売れること)によって初めて社会的な労働であることが実証されます。

 

現実の商品交換は貨幣(通貨)で商品を購入していますので、商品と商品の交換が想像しにくいのですが、まずは貨幣を一般的な商品に置き換えて考察していきます。ここでは具体的な有用労働の側面は捨象され、同一の人間労働、抽象的な人間労働一般に還元された上で、各々の商品を生産するのに要した労働、具体的には労働時間によって比較されます。たとえば、生産者どうしが異なった生産物を交換するにあたっては、生産物を生産する具体的な労働形態は捨象されて、単に人間労働がどれだけ対象化されているか、その比率でもって交換されるのです。「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」というのは、商品交換にとって必要なことなのです。

 さて、第3節の「価値形態または交換価値」では、無計画的で無政府的な生産、私的にしか生産されない労働生産物が実際にどのようにして、社会的な生産物、商品として貨幣で売り買いされるようになるのか、その形態を検証していきます。第1節、第2節では商品の交換価値、交換比率から商品の価値の実体である人間労働を探りえました。第3節では価値の現象形態である、二つの商品の価値関係を考察します。ここでの目的は貨幣の謎を解くということです。「諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである―すなわち貨幣形態である。ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態様から、そのきらきらとした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消えうせる。」と言われているように、貨幣の謎を解くと言う課題に次回から入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年8月16日 (水)

2017年7月23日学習会の報告

「資本論通常講座」は、第三章「貨幣または商品流通」の第二節「流通手段」の「a商品の変態」の第9段落「W-Gすなわち、商品の第一の変態または売り。…」~第13段落「言葉を変えていうと、売りは買いである。W-Gは同時にG-Wである。(66)注釈」(岩波文庫版第1分冊188頁~193頁)、第9段落「W-G、商品の第一変態または売り。…」~第12段落「言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである。六六注釈」(国民文庫版第1分冊191頁~195頁)を学習しました。

 

※第二節は岩波文庫版第11段落と国民文庫版第10段落とは同じ内容です。なぜかと言いますと、岩波文庫版の第10段落と第11段落に分かれている箇所が、国民文庫版では第10段落として一つの段落になっているからです。したがって、この箇所から第二節最後までは両文庫は段落がずれています。

 

学習会の内容

 

 これまで見てきたように商品の流通過程は、商品―貨幣―商品 W-G-W という商品の形態変化を伴って行われます。この運動を結果からみれば、W-Wでそれは素材的な面(社会的有用物の転換)からみれば、社会的労働の物質代謝であります。

 この商品の形態変化をここではまず前半のW-Gをとってその変化の性格や内容を見ていきます。

 W-G第1の変態または売り。これは素材的な面だけを見るならただある商品が金に変わっただけに見えます。ですがマルクスは、この第1の変態を商品の命がけの飛躍と呼んでいます。このW-Gの内容は、はじめに商品の形態で存在していた価値が、貨幣形態、すなわち金体に変化するということです。貨幣、金体も本来商品であったはずですが、ここでは金がすでに普通の商品とは異なる貨幣として存在しているのですから、ここでの変化は、普通の商品からそれとは質的に異なり相対立する貨幣、金体へと転換されたということを意味します。

 ではこの商品の貨幣への転嫁が、命がけの飛躍であるとはどういうことでしょうか?

「商品は貨幣を恋いしたう」(国民文庫版194頁)とは、商品が貨幣に転化しなければならない必然性がありながらも、商品の貨幣への転化は容易な過程ではないということの例えだと思います。

 我々の知っている社会では、分業は労働生産物を商品に転化させ、そうして労働生産物の貨幣への転化を必然にしますが、他方でこの分業がこの労働生産物(商品)の貨幣への転化が成功するかどうかを偶然にしてしまいます。

 ある生産者の個々の生産物が確かに有用物であったとしても、それは他の生産者らが同じ商品を市場に供給して、この生産者が彼の生産物を市場に出す際には、既に社会的必要量を上回って過剰をとなるかもしれません。そうなれば彼の商品は売れずに、貨幣への転化は失敗することになり、彼の労働は社会的有用労働とはなりえません。この社会では、社会的欲望の総量にたいしてどの有用物がどれぐらい生産されるかは、個々の私的生産者達の無政府的な生産の結果でしかないのであり、社会的欲望(必要)に対して均衡的な生産(供給)がなされるかどうかは偶然でしかありません。

 また仮にある生産者の生産物が社会的有用物として認められ貨幣に変わることができるとします。しかし今度は、どのぐらいの貨幣に変わるのかということが問題となります。

 例えば、リンネル生産者が彼の20エレのリンネルを市場に出すとします。この20エレのリンネルを織る社会的労働(時間)に相当する貨幣での価値表現(=労働の貨幣名)が2ポンドスターリングとします。

 このリンネル生産者が20エレのリンネルを織るのに、実際には社会的労働時間より多くかかったとします。仮に1.5倍の労働時間が必要だったとすれば、彼の個別的労働時間からみれば2ポンドではなく3ポンドということになりますが、しかし市場では2ポンドとしてしか通用しません。1ポンド分は過剰ということですが、リンネル生産者が自分のリンネルを貨幣に変えるためには、この分は泣く泣く我慢せざるをえません。

 また仮に彼のリンネル生産に要する時間がちょうど社会的労働時間と同じだった場合、この場合彼のリンネルも2ポンドスターリングでちょうどその商品に対象化された社会的労働量に等しいということになります。

 しかしこの場合でも、彼の知らないうちにリンネル織物業の生産条件が激変――例えば新しい機械の導入などの技術革新があり、それが急速に浸透していくような場合――すれば、彼の20エレのリンネルの価格、2ポンドは高すぎる、それは過大ということになります。そうすればリンネル生産者は、彼の支出した労働時間からすれば低すぎる価格でも売ってしまうか、それとも売るのを諦めるか苦渋の選択を強いられるかもしれません。

 このように分業は、確かに労働生産物を商品に転化させ、かつその商品を貨幣に転化するのを必然にしますが、他方で、商品から貨幣への転化の過程を命がけの飛躍――なぜならこの転化がなされなければ、その商品は無意味なものとなるし、それに支出された生産者の労働も無意味とならざるをえません。これは確かに商品にとっては痛くもないかもしれませんが、商品生産者にとっては極めて痛いはずです。――の過程にするのです。

 このように各々の生産物に含まれる労働が社会的なものとして実証されるかどうかは、我々が考察する分業社会では、偶然的な事情によります。仮に社会的労働として認められてもそれは個々の生産者が実際に支出された労働量より過小に評価されることもありそれらの要因が商品を貨幣に転化することの困難にもなります。

しかし、ここでは、商品の変態について、その過程を純粋に考察するために、同一種類の商品片であれば、同一の労働量(時間)が含まれているものと仮定します。例えば、20エレのリンネルであれば、どの生産者のも同じ社会的労働時間が支出されたものとして仮定します。仮にその労働量の貨幣名が2ポンドスターリングであれば、どの20エレのリンネル片もやはり2ポンドスターリングということになります。このように仮定するのは、ここでの課題が、商品の変態について、商品が貨幣に転化し、次のその転化した貨幣が再度商品に転化するということ、すなわちW-G-Wという商品の変態、形態転換と循環ということがいかなる意味と内容をもつかをしっかりとつかむためです。この課題のためには商品の変態について、その正常な過程――つまり商品は売れて貨幣に転化するのであり、売れないかもしれないということはここでは想定に入れないのです――を前提してまず考察する必要があります。以降は、基本的に商品の変態が正常に滞りなく進むことを前提にして考察していきます。

 商品の変態についての前半部分、すなわち商品の貨幣への転化、すなわち売りは、同時に反対の極での貨幣の商品への転化の過程でもあります。

 例えば、20エレのリンネル商品が売りにより貨幣に転化する過程は、同じ取引を貨幣所有者の立場からみれば、それは彼の2ポンドスターリングを20エレのリンネル商品に転化することであるからです。

 一つの同じ過程が二面的な過程であり、商品所有者の側からは売りであり、貨幣所有者の側からは買いであるのです。この面からいえば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wでもあります。(だからといって売りも買いも同じだとはいえません。同じ過程が、売りと買いということで対になっており、その面では同一性があるが、他方で重要な質的な違いもあるということ、特に商品が貨幣へと転化する際には、命がけの飛躍と呼ばれた独特の困難があることを踏まえておいた方がよいように思います。)

 

議論になった箇所および質問や意見

○報告者より「国民文庫版12パラグラフ、岩波文庫版13パラグラフの終わりで、商品の価格の実現は、貨幣の観念的にのみ存在する使用価値の実現でもあるというようなことが書かれているが、これは、貨幣は現実には、交換価値として存在しているにすぎないが、価格の実現は、商品が貨幣に変わり、貨幣の方は商品に変わることであるので、現実に貨幣が使用価値に変わることをさしているととらえてよいのだろうか?」との疑問が出されました。これに対しては、特に違った意見はなく、恐らくそういうことなのではないかということになりました。

○また参加者から「マルクスの時代には、労働時間によって価値が決まっていたかもしれないが、現代では労働力の価値で商品の価値も決まっているのではないか?実際に企業は、必要な生産手段等を買い、それにプラスして労働者を雇い彼らに賃金を払い、それが商品の価格の形成につながっているので、結局のところ、労働力の価値の大きさにより商品の価値も決まるのではないか?」との意見が出されました。

これに対して他の参加者より「商品の価値の大きさは労働量により決まるとマルクスはいっているのではないか?商品価格ということでは、資本家が労働者へ支払う賃金の大きさが関係してくるかもしれない。価値と価格ということは別なのではないか?価値と価格の問題を混同しているように思う。一度、価値と価格の問題を学習会の中で整理して報告してもらった方がいいと思うがいかがか?」との意見と要望が出されました。

報告者としては「今すぐに価値と価格について説明できないが、確かに重要な問題でありかつ、いま学習いしているところとも大きく関係しているように思えます。次回に、価値とは何か、価格とは何かについて再度、整理して報告したいと思います。」ということで次回の課題とさせていただきました。

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